「どことなくのどかであるばかりか、地形からして大和(奈良県)の飛鳥そっくりなので、私は 勝手にこの辺一帯を「武蔵飛鳥」と名づけ、それを友人たちにも吹聴している。」
「水田少く陸田多し、村の南の山間より涌出する小流を水田に沃げり、仍て旱損ありと云」
「慶安二年(1649)釈迦堂領三石の御朱印を賜う」
「村の入り口にはよく高い柱(里程標と混同しないこと)が立っており、半分人間半分悪魔の顔 を粗く彫ったそのてっぺんには、日本の神道を思い出させるわらしべをたらしたなわが 渡してある。」
「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前(薩摩半島西端)に真来通りて、朝日の直さす国、 夕日の日照る国なり。かれ、此地はいと吉き地」
「百済王(くだらのこにきし)らは朕の外戚である。ゆえにいまその中から一、二人を選んで、 位階を進め授ける。」
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると 『続日本紀』に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。」
「儀式を行う際にわらなわや神道の御幣に似た紙を使うことから見て、神道とムダンのお祓いには どこか類似点があり、もしかしたら起源が同じなのかもしれない。」
「朝鮮人は体格ががっしり しており、日本人の二倍食べるが、遅鈍なため秀吉との戦で負けることが多かった。」
「最初の旅行で受けた印象は、これほど興味をそそらない国はないというものであった」
「朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えて いた。ところが沿海州でその考えを大いに修正しなければならなくなった。みずからを裕福な 農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から勤勉で品行方正だとすばらしい 評価をうけている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。 彼らは大半が飢饉から逃げ出してきた飢えた人々だった。そういった彼らの裕福さや品行の よさは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間 となりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる。」
「わたしが朝鮮に対して最初にいだいた嫌悪の気持ちは、ほとんど愛情に近い関心へと 変わってしまった。また今回ほど親密でやさしい友人たちとめぐり合った旅はなく、今回ほど 友人たちに対して名残おしさを覚えた旅もなかった。」
「五輪にして墓石の四面に、佛像を刻したれど、石面分明ならず云々」
「推古天皇の時代に、泊瀬川から流れてきた壺に赤ん坊が入っていた。その子は、 大人の口を借りて、 自分が秦の始皇帝の生まれ変わりなので朝廷に報告するように言った。その子が、聖徳太子 に仕えた秦河勝である。 秦河勝の三人の息子の一人は武士となり大和長谷川党を起こした。 一人は四天王寺の楽人となって 雅楽を伝え、そして猿楽を伝えた直系子孫が我々円満井座の金春太夫 である。 秦河勝が聖徳太子に命ぜられて舞った猿楽の技が翁の最初であるので、 能の翁とは、秦河勝であり、 あらゆる日本の神仏であり、宿神である。」
「屍体を城外に埋め、また神国の例によって霊廟を御殿の後山にたてた」
「北の山に玄武、東の川に青龍、南の池に朱雀、西の道に白虎が棲む」
「従五位下の高麗の若光に王(こにきし)の姓(かばね)を賜った。」
「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七ヶ国にいる高麗人千七百九十五人を 武蔵国に移住させ、初めて高麗郡を置いた。」