平成17年10月14日 高麗
高麗

 細い道は、再び広い国道299号線に合流した。右手にゴルフ場の入り口、左手に飯能の背後に そびえる天覧山多頭主(とうのす)山 にはさまれた広い道の脇には コスモスの花やススキの穂が風に揺れ、 秋の風情を醸し出している。山に挟まれたこの道は、丁度高麗 の入り口に当たる。 腕時計を見ると、予定より20分程早い。40kmを2時間40分で走ったのなら、平均時速15kmだ。 軽くて変速機の付いているロードバイクなら20km/h平均くらいで走るそうだが、私の自転車は、 無印良品で買った変速機無しのいわゆる ママチャリなので、これでアップダウンや信号のある道を15km/hで走ったのなら結構速いと見て 良いだろう。途中、休憩も入れたので、実際にはもう少し速いはずだ。そう考えると、 自分の脚力もまだ捨てたものではない、と少し嬉しくなった。

 私が この地を初めて知ったのは、昨年の春に妻と共に飯能天覧山 から高麗に抜ける奥武蔵自然遊歩道 というハイキング道を歩いた時の ことだ。この時は別に高麗という地名に関心があったわけではなく、 練馬からアクセスしやすく、山道に慣れていない妻でも歩きやすい手軽なハイキングコース として丁度良いと思ってたまたま 選んだだけだった。その道中も歴史的なことなぞ全く感じずに、 山道沿いに咲く里山の小さな植物達に気を取られ、

「あっ、チゴユリだ。」
「あっ、リンドウだ。」

 と花を見つけては10mおきに道端に座り込んでいた始末だったので、

「私達しゃがんでばかりいるよねぇ。」

 などと妻に半分あきれられながらのんびり歩いていたのだが、 山に挟まれ、蛇行する高麗川に縫われるように広がる高麗の集落に出たところ で何故かこの地を気に入ってしまった。 自分でも理由はよく分からないが、ここが 渡来人により開拓された古い歴史があるということはなんとなく知っていたから、 山あいに広がるおだやかな里の風景に、そんな歴史を重ねて何か感じるものがあった のかもしれない。金達寿(キム・タルス:1919〜1997)は、『日本の中の朝鮮文化』で、
「どことなくのどかであるばかりか、地形からして大和(奈良県)の飛鳥そっくりなので、私は 勝手にこの辺一帯を「武蔵飛鳥」と名づけ、それを友人たちにも吹聴している。」
 と書いている。金は、自分が朝鮮人であることに強いアイデンティティーを持っていたから、 朝鮮人差別が強かった時代でも高麗の名を掲げ続け、先祖が渡来人であることを 堂々と語っていたこの地の人々に対する誇りや感慨を持っていたのだろう。しかし、 私のような朝鮮にも奈良にも縁のない人間が、似たようなことを感じるということは、 やはりこの地形や、渡来人の歴史のある里の風景が、独特の魅力を醸し出している ということなのだろう。

台滝不動尊

 道は左手の天覧山から下る道と合流し、右手にゴルフ場の入り口を示す看板が 立つ場所から、両側を山に挟まれるような狭い上りになった。歩道もないような二車線の道だが、 トラックなどの大型車両が結構通るので、時折見かけるハイカーや、私のような自転車 は、後ろから来る車に気をつけていないとちょっと危ない。道は葬祭場を境に下りになり、しばらく すると道の両側になにやら赤い幟が連なっているのが見えた。道路右側の山裾には休憩所の ような二階建ての建物の傍らに小さな入母屋造り銅葺の祠があり、 左右正面に台滝不動尊と書かれた提灯が下がっている。

 その祠から横断歩道を 渡った一段低いところに駐車場があったので、そこに自転車を停めた。 駐車場端には鐘楼や石塔があり、そこから 向かいの小さな滝と不動明王を拝めるようになっている。滝は道路のすぐ脇に造られており、 石彫りの不動明王も新しそうだった。ここは、江戸末期に 台山大沢堀を堀り、円福寺 庭にあった不動明王像を移したのが最初で、 明治33年に現在の場所に移ったのだという。恐らく台山大沢堀というのが道路脇 の滝のある池のことだと思われるが、全体に新しそうなので、もしかしたら最初は この道路のある場所に滝があったのかもしれない。また、円福寺とは、 『新編武蔵風土記稿』 の臺(だい)村に載る円福寺のことだと思われる。 明治33年に この場所に移されたというのは、恐らくその時に道路建設か明治の廃仏の余波か何かで 廃寺にされたため、現在の場所に移されたということなのだろう。

 『新編武蔵風土記稿』には円福寺の本尊が不動明王である他に 滝の記述はないが、
「水田少く陸田多し、村の南の山間より涌出する小流を水田に沃げり、仍て旱損ありと云」
 とある。恐らく村を潤していた水源に滝や貯水池を造り、不動明王を祀ったのが 今日まで残り、滝不動尊となったのだろう。

 滝の見える祈祷所からは、奥にいけるように小さな橋が架かっており、 その先に造成したばかり といった感じに土がむき出しになった小山があった。その手前には新しそうな羅漢像や 弘法大師像が立ち、「羅漢奉納の寄付のお願い」と書かれた看板や、昭和49年に地元の有志が ここに桜や梅を寄進したことを示す石碑が立てられていた。

 小山には道が付いていたので、荷物を持って登ってみた。土がむき出し とはいえ所々苔や秋の草花が顔をのぞかせ、コミカルな七福神の石像が並んでおり、休憩ポイント としては丁度良い。小山に上がると、道路側を望む端に鐘楼が架かり、 と 呼ばれる地形を見ることが出来る。そのむこうには高麗峠を背にした場所が切り開かれ、奥に これも新しそうな大日如来の石像が、幟と吹流しに囲まれてむき出しのままポツンと座っていた。 その大日如来の手前の桜並木に あった切り株に腰を降ろし、アンパンをかじりながら休憩した。時折吹く風が心地よい。 ここはもしかしたら、円福寺の境内跡なのかもしれないが、 どちらかといえば春のお花見用に造ったのではないかと思うくらいに のどかな雰囲気が漂っている。

 もう傾いてきた秋の日差しを浴びながら、そのまましばらく休憩して小山を降りた。 上にいるときは誰も登ってこなかったが、降りる途中で一眼レフを持った大学生らしき 青年と挨拶を交わした。話はしなかったが、きっと彼もこの高麗人の里に興味を持って 歩いているのだろう。そんな感じがした。それとも彼のルーツも朝鮮半島にあるの だろうか。駐車場に車が一台止まっていたので、さっきの彼は車でここに来た事がわかった。 私はトイレで用を足し、自転車にまたがって相変わらずトラックやダンプカーの多い 車道に戻った。

高麗石器時代住居跡

 狭い道をさらに下っていくと、右手に蕎麦屋や民家が現れ始めた。左手の斜面奥には西武線の 駅が見える。右手に広がる高麗に行ってもよかったのだが、そのまま くねる坂を下る。地図では途中の左手丘の上に石器時代遺跡があるはずだが、勢いよく下って いったため、入り口の表示を見逃してしまった。高麗川手前の交差点でその事に気づき、 再び坂を上って小さな表示を見つけた。表示板の脇に自転車を止め、栗林の小道を少し 上ると、柵に囲われた開けた場所に出た。

 ここは農家の敷地内のようで、周りの畑には大根やサトイモ、夕顔に秋の草花が植えられ、 木には柿がたわわに 実っている。柵の中は楕円形に一段低くなっており、 手前に日高町高麗石器時代住居跡と書かれた木製の説明板とハングルで書かれた イラスト入りの新しそうな説明板が並んで立てられていた。説明板を読むと、これは 異なる時期に建てられた縄文中期の竪穴式住居が二棟分重なって発掘された遺跡だと書いてある。 現在の我々は石器時代というと、縄文時代の前の 旧石器時代の ことと勘違いしてしまうが、発掘されたのが 昭和四年で、埼玉県で発見された初めての竪穴式住居遺跡だったというから、 その当時は縄文時代という呼称が、まだ一般化していなかったのだろう。

 芝に覆われた遺跡は、石で囲われた炉や柱跡がはっきりわかり、建物の規模が想像できる。 住居内からは、縄文式土器や耳飾、磨製石斧や石皿、くぼみ石、石鏃、石錐など生活の様子を 彷彿とさせる 物が多数出土したそうだ。きっと高麗川にちかく、向こうに見える 日和田山を はじめとする奥武蔵の山々に囲まれた高台のこの場所は、狩猟採集を生業としていた縄文人には 生活しやすかったのではないかと思われる。しかし、この地に 高麗郡が建設される8世紀以前の遺跡は、この住居跡以外に発見されていないよう なので、我々が想像 するより生活は厳しかったのかもしれない。ここは丁度『新編武蔵風土記稿』に書かれた 臺(だい)村の端部にあたる。同書にも書かれているように、高台で水の便が悪かった この場所では、稲作が普及した弥生時代以降の生活は確かに難しかったのかもしれない。 縄文時代のここでの生活がどのようなものだったかは 想像するしかないが、栗や柿が実る畑に囲まれ、アキアカネの飛び交う遺跡は 、秋の陽だまりの中でのんびりした風情を醸し出していた。

高麗川

 高麗石器時代住居跡から再び狭い車道に戻り、高麗川を越えたところで 右折した。 日和田山高麗川に挟まれた細いこの道は、 カワセミ街道という名が付いている。この高麗川 流域にカワセミが生息することから付いた名だそうだが、さっき通った 高麗峠天覧山の間を縫う国道299号線が開通するまでは 秩父街道の メインルートとして使われていたようだ。とはいえ 現在も川越方面から秩父、長野へ抜ける道として使われており、それなりに交通量があった。

 高麗川沿いの細い道は、日和田山と高麗峠に挟まれているにもかかわらず、 傾いてきた秋の日差し がまぶしい。腕時計の方位計を見ると、川は丁度土地の間を縫うように 西から東に流れていることがわかる。 そのため、北に奥武蔵の山塊を背負い、南に高麗峠の丘陵を望んでいるにもかかわらず、 この狭い谷合いの土地は意外と 日当たりが良く、天気さえ良ければ一日中日差しが途切れることはないだろう。 高麗川の水利が あり、日照も確保できるならば、農耕に適した土地なのではないかと思うが、 道のすぐ脇の畑は、すでに日和田山の山裾となっており、川向こうの土地は すぐに高麗峠の斜面が始まっている。東に向かって川沿いの平地は増えてはいくが、 傾斜の多いこの土地は明らかに米作には不向きだ。しかし、この先にある 巾着田 という場所は、渡来人達が米作の為に高麗川の流れをΩ形に大きく 変えて造ったものだといわれており、閑地開拓に対応できる 高度な土木技術を持った渡来人でないと、 生活そのものが成り立たない土地であったことが 想像できる。

 高度な土木技術といってもショベルカーの無かった時代には 実は大変なことで、まず掘削 するための道具がいる。それには当然鉄が使われ、工事に際して消耗するから修理あるいは 新たに製造する為の工房が必要だ。その工房には原料としての鉄がなければならないから、 近くで多量の砂鉄を産する場所を確保するか、どこかから輸送しなければならない。さらに 鋳鉄には水と火が必要であるから、水源と大量の燃料、つまり木材が必要になる。 それらの資材確保と輸送 に必要な労働力を考えると、工事以前にかなり大掛かりな組織が必要であることがわかる。 恐らく、高麗人1795人をまとめあげるカリスマとして集団を率いた 高麗王若光 はそういった複雑な組織を取り仕切る事が出来る有能な人物だったため、この開拓に成功し、 今にその名が伝えられているのだろう。逆に言えば、若光が いなければいかに高度な技術を持った高句麗人達もこの閑地開拓を 成し遂げられなかったのかもしれない。とはいえ、その巾着田とても 大した広さの土地ではないため、 高麗郡建郡の為移住した高句麗系渡来人達は、 最初から高麗だけでは なく、飯能など周辺に分散してゆるやかな共同体を作っていたのだろう。

 川沿いの細い道を下っていくと、巾着田手前の交差点に出た。川では何事かの土木工事を しており、車道の横に歩行者の為の鉄骨仮設通路が川をまたいでいる。そのまま 巾着田 をぐるっと回ってみようかとも思ったが、時間で閉まってしまいそうな寺社や博物館を先に 回ることにした。横断歩道を渡り、小さな商店の右の細い坂を少し登ると、 高麗郷民俗資料館がある。薄汚れたこの白い建物は、かつての公民館だったもの だそうで、 くたびれた建物の印象になるほどと納得したりする。しかし、入り口の扉は閉まっており、よく見ると 土日以外は休みだと書いてある。仕方が無いので道を戻り、巾着田向かいの少し高い所 にある長寿寺に行ってみた。

長寿寺

 寺に続く石段を昇ると、方形造りの小さなお堂がある。その手前に 「関係者以外立ち入り禁止」 とマジックで書かれた色あせた木札が立っていたが、別段柵に囲われているわけでもないし、 境内に入ってみた。入ってみたといっても、境内にはこれといって何があるわけでもなく、 立ち入り禁止の立て札の横に、顔の削れた石のお地蔵さんが二体並んでいるだけだった。

 『新編武蔵風土記稿』によると、この寺は高麗王若王の廟がある 聖天院の末寺で、釈迦を本尊 とするとあるが、
「慶安二年(1649)釈迦堂領三石の御朱印を賜う」
 とあるから、江戸時代以前からあったとしても、 里の歴史に比べれば、それほど古くはなさそうだ。あるいは、 寺の並びに立派なお屋敷が あるので、村の有力者が巾着田を見下ろす自宅の敷地をこの寺の為に寄進したのかもしれない。

 ふと境内のお地蔵さんを見ると、頭にアカトンボがとまっている。その写真を撮っていると、 昇ってきた階段途中の民家の庭から犬が顔を出し、ワンワン吠え出した。そのうち 何事かと家から飼い主が出てきて、

「こら、やめなさい。」

 などと言っているが、勇敢な犬は鼓舞されているとでも思ったのか、さらに エスカレートして吠えまくり、そのむきになっている様子がかわいい。石段を下りる時、 犬に向かって口笛を吹いてみると、 一瞬黙って首をかしげた後さらに猛烈に吠え始めた。飼い主は犬の紐をひっぱりながら、 なんだか申し訳なさそうな顔をしてこちらを見ていた。

如意輪堂

 再び自転車にまたがり、交差点から山裾の道を行く。この道は、日和田山の登山口に向かう まで上りだが、その後ゆるやかな長い下りが始まる。以前この道を歩いた時には、こういった 道の勾配を感じる事はなかったが、自転車の面白いところは、このような地形や道の勾配を 敏感に体感できるところにある。道沿いの畑の間には民家が点在しており、時折江戸時代 の庚申さんがあったり、ログハウス風の喫茶店や山野草を扱う園芸店があったりして、お散歩 コースとしてはなかなか良い感じだ。

 途中の道沿いに、向拝付き宝形造りの小さなお堂が横向きに 建っている。横には、「高麗坂東観音霊場 第三十一番 岩本山 如意輪堂」と日高市観光協会 によって立てられた看板があった。高麗坂東観音霊場というのも耳にしないのでよくわからない が、寺名の如意輪堂や建物にある火頭窓、それに屋根の卍印から 如意輪観音を祀った 禅宗のお堂なのだろうということがわかる。このお堂は、『新編武蔵風土記稿』にその名が ないことから新しいのではないかと思われるが、脇に並ぶお地蔵さんには享和四年(1804)と 彫られたものもあるから、少なくとも江戸後期には存在していたのだろう。 磨り減ったこの石のお地蔵さん達には、赤い頭巾がかぶせられ、今でも地元の人達に大事に されていることがよくわかる。

聖天院

 時折歩いているハイカーを追い越し、後ろから飛ばしてくる大型車にヒヤヒヤしながら カワセミ街道をさらに下っていくと、道の勾配がゆるやかになり、刈り取られた田んぼの 向こうに、山を背負った聖天院が見えた。山の斜面を利用して門と背後の本堂が ずれた位置に建てられている のは、昨年行った吉野の金峯山寺の伽藍を彷彿とさせる。

将軍標

 田んぼの間に真っ直ぐ伸びる道を 門に向かって歩くと、道をはさんだ両側にトーテムポールのような石造りの柱が立っている。 その頂部には 笑っているのか怒っているのかわからない男女のいかつい顔が彫られてこちらを にらみ、男性側には「天下大将軍」女性側には「地下女将軍」という文字が彫られている。

 1894年から’97年にかけて李朝末期の朝鮮を旅したイザベラ・バードは、 『朝鮮紀行』のなかで、
「村の入り口にはよく高い柱(里程標と混同しないこと)が立っており、半分人間半分悪魔の顔 を粗く彫ったそのてっぺんには、日本の神道を思い出させるわらしべをたらしたなわが 渡してある。」
 と、描写している。ここにあるものには、バードが見た注連縄のようなものは 付いていないが、恐らく同じものだろう。これは将軍標 と呼ばれる朝鮮の魔除け なのだそうで、今でもかの地では百年前と変わらず村の 入口に立っている姿を見ることが出来るのだそうだ。

雷門

 聖天院の門の手前には池があり、そこにハングルと日本語で 寺の由来が書いてある。それによると、 高麗郡建郡に当たった高麗王若光の菩提寺として、侍念僧の 勝楽(しょうらく)が天平勝宝三年(751)に建立し、その後 若光の三男聖雲と孫の引仁が 若光の守護仏聖歓喜天を本尊としたので 高麗山聖天院勝楽寺という 名になったのだという。

 聖歓喜天とは、象頭人身、男女和合像で表わされるヒンドゥー教の 軍神ガネーシャのことで、インドで密教に取り入れられ、空海が 真言密教と共に平安時代の日本に 持ち帰ったとされる。しかし、後に密教の亜流雑密と呼ばれることになる 修験道の祖、 役行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)の存在は、 『続日本紀』の文武天皇三年(699) の項に、渡来系と思われる弟子の 韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の名と 共に述べられている 事から、すでにこのような密教仏は渡来系の人々によって日本に入ってきていたのかもしれない。 少なくとも各地の神社には密教以前、縄文時代の古い信仰の痕跡と見られる 性器崇拝の伝統が今でも残っており、 聖歓喜天ならずとも似たような形のものはすでに 日本に存在していたのかもしれない。

 もちろん、朝鮮半島のなかでもより直接的に中国の影響を受けていた高句麗出身の若光が 密教仏を持っていた可能性はある。しかし、中国に密教が伝えられたのは716年であり、 若光が来日 したのは666年だといわれている。そもそも高句麗自体が667年に唐、新羅連合軍によって 滅ぼされていることを考えると 、若光が高句麗時代に密教仏を手に入れていたとは思えない。 ただ、この聖天院は、最初法相宗の寺院だった のを南北朝時代の貞和年間(1345〜1349)に真言宗に改め、天正八年(1580)に本尊を不動明王としたというから、 聖歓喜天は、真言宗に改められた後に持ち込まれたものなのかもしれない。 というのも、法相宗は奈良時代に南都六宗(なんとりくしゅう)と呼ばれた官製仏教の一宗派で、 平安時代に空海が輸入した新興宗派である真言宗を激しく攻撃している。 一方、空海も『弁顕蜜二経論』などの著作で南都六宗を、密教より劣る 顕教と呼んで 非難しており、法相宗の寺院に対立する宗派の仏像が本尊として置かれていたとは考えにくい。

 では、実はこの寺の創建はもっと後で、最初から真言宗だったのだろうか。それについては この聖天院からさらに西奥に行ったところに8世紀中頃から11世紀の 寺院遺跡、高岡廃寺高岡瓦窯跡が発掘されている。 高岡瓦窯跡 で焼かれた瓦には高麗の銘が入り、武蔵国分寺建立に際して使われたことが 分かっている。恐らく同じ瓦が使われたであろう高岡廃寺は、 現在の聖天院の前身だったのではないかといわれており、 丁度奈良時代から平安時代にかけての遺跡だ。つまり、 真言密教が存在しない時期に創建されていたことから、創建当初は奈良時代に隆盛を誇った 法相宗の寺院だった可能性が高いことがわかる。

 寺院が創建された奈良時代には、高麗郡出身の 高麗(後に高倉と改姓)福信(709〜789)が、平城京を共に造った 聖武天皇(701〜756)から 長岡、平安遷都を行い密教を信奉した桓武天皇(737〜806) まで五代の天皇に 仕えて活躍し、武蔵守にもなっている。恐らく聖天院は、 高麗福信の ような奈良時代に中央で活躍した 高麗郡出身者の影響が強く働き、創建当初は奈良南都六宗の法相宗の寺院となったのだろう。

 ところで、聖天院とは別に、 高麗王若光を神として祀る高麗神社は、 若光直系の高麗氏が 代々宮司を務める古い神社だが、平安末から鎌倉時代初期の 二十三代宮司、純秀(〜1199)の代から五十六代目までの間、修験道を信仰している。 修験道は、真言、天台両密教の影響 を大きく受けており、その仏像仏具も共通するものが多い。そう考えると、 聖天院の本尊とされていた聖歓喜天は、 高麗王若光が 高句麗から持ってきたというよりも、貞和の宗派変更に際してか、あるいはそれ以前に 高麗純秀が修験の道に入った後、密教仏を手に入れた高麗神社 からもたらされた と考えるのが自然だと思われる。

 正面の唐破風付三間一戸の楼門は、天保三年(1833)から6年かけて造られたという 立派なもので、門末五十三箇寺を擁し、院主の格式は諸侯に準ずるといわれた往時を 想像する事が出来る。正面の唐破風の下には高麗山 の扁額がかかり、戸には 雷門と大きく書かれた赤提灯が下がっている。その両脇には 阿吽の仁王ならぬ異形の風神、雷神が立ち、その天井には雲が渦巻き、龍や鳳凰が飛んでいる 様子が描かれている。今では随分色あせてしまっているが、創建当初にこの門をくぐった人は、 きっと竜巻にでも巻き上げられて天空に放り出されたような気がしたに違いない。

高麗王廟

 門をくぐると正面には急な石段が続き、その先に塀に囲まれた小さな門がある。そこから先 は拝観料が必要だが、平成12年にできたという総檜造りの立派な本堂や、その奥の 在日韓民族無縁仏慰霊塔は昨年行ったこともあり、時間が無いので今回は省略した。

 昨年ここに来た時は、丁度巾着田のヒガンバナが満開な上に、 高麗神社の礼大祭が重なる晴天の日曜日だったので、 この小さな渡来人の里は、中高年の夫婦連れを中心とした観光客で大賑わいだった。しかし、 その日聖天院の中門で、拝観が有料である事を知った初老の男性が、

「金なんか取りやがって、こんな朝鮮の寺なんぞ二度と来るか。」

 と、私の目の前で受付の女性に毒づいたことに驚かされた。確かにかつての本尊 聖歓喜天や弘法大師作の胎内仏が入っているという現在の本尊、不動明王を 見る事は できないので、なぜ拝観料を払わなければならないのかと疑問に思う人もいることだろう。 しかし、この男性のように「こんな朝鮮の寺」という差別感情から、心無いいたずらや 誹謗中傷をする人もいるというから、有料拝観は本堂や慰霊塔の悪戯予防だけでなく、 本当にこの寺に詣でたい人が安心して拝観するための有効な手段だといえる。

 高麗王若光高麗福信らが活躍した平安初期 までの日本では、朝鮮人差別どころか天皇家をはじめとする国の中枢を朝鮮半島からやってきた人々が 造ったことが、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』に書かれている。例えば、『古事記』の 天孫降臨の場面で、
「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前(薩摩半島西端)に真来通りて、朝日の直さす国、 夕日の日照る国なり。かれ、此地はいと吉き地」
 とニニギノミコトが言っている。このことはニニギノミコトが象徴する天皇家に連なる 支配者層が、朝鮮半島から九州に上陸したことを示唆している。もちろんこれは単なる 神話とみることもできるし、『日本書紀』編纂時にすでに第十六代応神天皇より前の天皇の 実在は確認できていなかった、といわれることから後の創作と解釈することもできる。

 ところが、記紀にはその応神天皇の母親、神宮皇后が、身重の体に石を巻きつけて 産気を抑え、朝鮮半島で三韓征伐をしてから九州で応神を生んだという現実にはありえない 誕生譚の後、親子で瀬戸内を東進し、 紀伊半島から北上して 大和を征服したという話が書かれている。この話は朝鮮半島から九州に上陸したと見られる ニニギノミコトやその子孫、 人皇第一代とされる神武天皇の東征譚と酷似しており、記紀編纂時すでに 伝説上の人物だった神武の一族に、当時実在が確認されていた最初の天皇である応神の話を アレンジ して挿入したのではないかといわれている。もちろん、応神天皇誕生譚も伝説の域を出ないもの ではあるが、天皇誕生と朝鮮半島との深いかかわりを示唆している。

 応神天皇の生母、神宮皇后の実在は確認できないとはいえ、朝鮮半島から大和への東征ルート にあたる対馬から瀬戸内海の各地には 彼女にまつわる民間伝承が数多く残されており、その存在を完全に否定することはできない。 また、記紀に記される三韓征伐の話は、 新羅征討を唯一成功させた最初の女帝、推古天皇以降の女帝達をモデルに 創作されたのではないかといわれており、恐らく その通りなのだろうが、応神天皇の生母が朝鮮半島からやってきた人だという 伝承は、記紀編纂時以前にすでに存在していたため、 実在の女帝をモデルとした 三韓征伐譚が派生したものと思われる。

 実際、三韓征伐時に 軍港があったとされ、海の向こうに朝鮮半島が見える対馬には、朝鮮のお姫様が流れてきて、 娶った家が栄えるという伝説が残っている。もしかしたら、これが神宮皇后伝説の 初期段階を示すものであるのかもしれない。そうでなくとも対馬は、古代から朝鮮半島と 密度の濃い交流があるため、渡ってきた人々の中に伝説に対応するような人物がいたことは 十分考えられる。もし、応神が対馬に渡ってきた人の子として生まれたのだとしたら、 『古事記』でニニギノミコトが言う「此地は韓国に向ひ・・・」 という台詞は、応神天皇をモデルとしたニニギが父祖の地を想って発した言葉として 理解できる。

 具体的事実としての天皇家と朝鮮半島との血のつながりは、 『続日本紀』延暦九年(790)二月二十七日の項で桓武天皇が述べた言葉が載っている。
「百済王(くだらのこにきし)らは朕の外戚である。ゆえにいまその中から一、二人を選んで、 位階を進め授ける。」
 これは桓武天皇の生母、高野新傘(たかののにいがさ)が百済の 武寧王(在位501〜523)の血を引く 和(やまと)氏の出身であり、桓武自身も百済王氏の側室や臣を積極的に置いていることによる。 この百済王氏は、そのルーツを現在の中国東北地方 を支配した扶余(B.C.1〜494)の開祖 都慕(つも)王にあるとしており、 中国風の壮大な統一国家建設を目論んだ桓武が大陸の血に憧れ、 積極的に渡来系の人材を取り入れようと意識していたことが窺える。

 ちなみに天皇家に朝鮮の血が流れていることを天皇自身が語った この『続日本紀』の記述は、平成の天皇も2001年12月23日の68歳の誕生日の際、
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると 『続日本紀』に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。」
 と引用している。この勇気ある発言は、日本でも話題になったが、 韓国ではそれ以上に大変な反響を呼び起こし、植民地支配の象徴だった 天皇像が友好的なものに大きく転換したのだそうだ。一方日本では江戸時代の国学の影響を 延々と引きずった歴史教育の影響から、日本の皇室が根拠もなく万世一系で純血だと 勘違いしている人は いまだに多いが、古代の文献を見る限り、一系どころか明らかな血統の断絶も起こっており、 そもそも皇室の守護神として朝鮮の神である 韓神(からかみ)園神が今でも宮中に祀られていることは、 皇室が朝鮮に少なからぬ関係を持っていたことを示しているといえよう。

 明治以降現在に至るまでの日本で激しい朝鮮人差別があったにもかかわらず、 日本の皇室が朝鮮の神を祀り続けているという事実は、少なくとも古代の宮中に 朝鮮に対する差別意識が無かったことを物語るばかりか、日本の古神道が朝鮮のシャーマニズム 、鬼神信仰に起源を持っていると見ることもできる。法学者、歴史学者の 滝川政次郎(1897〜1992)は、戦前に朝鮮の村で、巫女の老女が三種の神器を 使って 神おろしをするのを見て驚いたと言っている。また、イザベラ・バードは、儒教社会となった 後の朝鮮でも民間の鬼神信仰が根強く生きている様を描写した後、
「儀式を行う際にわらなわや神道の御幣に似た紙を使うことから見て、神道とムダンのお祓いには どこか類似点があり、もしかしたら起源が同じなのかもしれない。」
 と鋭い分析をしている。私自身は、日本民藝館で見た李氏朝鮮時代の 十長生図 に日本の三輪山そっくりな山が描かれているのを見て驚いたことがある。 それは不老長寿の理想郷を 描いた定型的なもので、恐らくそのデザインは中国に起源をもっている。しかし、こういった 図像の存在は、 朝鮮人も三輪山のような神南備形の山に信仰のよりどころを求めるという共通項を示しており、 また、日本も朝鮮も 儒教や仏教が流入する前は、シャーマンが部族国家形成に大きな影響力を持っていた ことがわかっている。実際に、 山そのものを御神体とする最も古い信仰の形を持つ日本の三輪山の姿 と不老長寿を願う朝鮮の図像の一致を見ると、バードが言うように鬼神信仰と神道の起源は 同じだったのではないか、と考えるほうが自然な気がする。

 もちろん、神道の起源は推測の域を出るものではないが、例えば神道を保護した 物部氏は、祖先のニギハヤヒノミコトが天孫降臨 した、という天皇家とは別系統の天孫降臨神話を もっていることから、かなり古い時代に朝鮮半島 から渡ってきた一族と考えられる。つまり、古神道は、物部氏のような かなり古い時代に朝鮮半島 から渡ってきた氏族が日本に持ち込んだ可能性が高いことがわかる。ちなみに、神道派 の物部氏を滅ぼした蘇我氏は、新しい大陸の宗教、仏教を日本に持ち込んだ 新しい渡来系氏族であり、その蘇我氏と対立した聖徳太子の政治改革を支えていたのが、さらに 新しい時代に渡来した秦氏だ。このように、古代において重層的に 日本という国家を造りあげていったのが朝鮮半島に由来する人々 であったにもかかわらず、何故日本で韓国、朝鮮人差別がおこったのだろうか。

 その最初の兆候は 『大宝律令(大宝元年:701)』の 『公式令』で新羅を蕃国とした記述や、 『日本書紀(養老四年:720)』で朝鮮半島に対する軍事行為を征伐 とした表現に既にあらわれている。 国家という概念を持った部族の いなかった弥生時代の日本にやってきて朝廷を立てた人々は、 朝鮮半島が高句麗、百済、新羅に別れて争った朝鮮三国時代に半島南部を足ががかりに 度々軍事介入するようになったが、百済完全消滅のきっかけとなった 白村江(はくすきのえ)の戦い(663)で唐、新羅連合軍に大敗し、668年に 何もできないまま高句麗滅亡を見た後、その対朝鮮政策を大きく転換させる。 恐らくそれ以前は、 多くの東アジア人が入り乱れていた日本には、朝鮮に対する違和感はなく、司馬遼太郎が 言うように、「少し大声を出せば言葉も通じる」といった程度の違いと認識でしかなかった と思われるが、白村江の大敗北とその後の朝鮮半島の新羅統一で初めて外国に対する恐怖を 感じ、 中国をモデルに急速に中央集権化する必要が生じたため、必然的に外国との比較意識も 生まれてきたようだ。 具体的には、高句麗、百済を滅亡させ、半島を統一した新羅の存在は、当時の日本にとっては 新たな脅威の出現と見られ、大和朝廷を 支えた大量の亡命百済人達には憎き敵と思われたことが、 そのまま日本の対朝鮮感覚となっていった。また、 中国風律令国家形成は小中華思想ともいえる 自尊心を生み、やがて日本は中国の衛星国である朝鮮より立場が上だという 考え方があらわれ、それが『大宝律令』の新羅蔑視や『日本書紀』の三韓征伐譚にもつながっていく。

 その後編纂された『続日本紀』には新羅 や高句麗の後継国渤海の使節の礼儀が なっとらんとか、潮や風に流されてはるばる到着した使節に対して入港する港が違うなどと 上段に構えた物言いをする姿が描かれており、8世紀以降の日本政府が朝鮮に対して 優越感を持っていたことが窺える。

 そういった対外的な優越感は、鎖国化した平安時代にもあったようだが、差別といった感覚 はないように思われる。例えば、 平安時代の『大鏡』には、寛仁三年(1019)に中国東北地方の国 刀伊(とい)が九州に来寇し、 対馬や壱岐の島民を捕虜とした時、新羅(実際は高麗)国王顕宗が軍を派遣して彼らを奪い返し、 無事帰国させたので、礼として黄金三百両を与えた、という話が載っている。 高麗(こうらい)朝(918〜1392)は、936年以来度々使者を日本に送っているにも かかわらず、国名を間違えてしまう国際感覚の無さというか、呑気さには笑ってしまうが、 宮廷で権謀策術を競っていた貴族達に してみれば、朝鮮の国名が高麗だろうと新羅だろうと、 そんなことはどうでも良かったに違いない。実際、1080年に高麗第十一代国王 文宗(1046〜1083)が病気のため、医師の派遣を日本に要請したところ、失敗 したら日本の面子が潰れるという理由で派遣を拒否したというから、差別以前に朝鮮 そのものを重視していなかったことが窺える。

 現実主義的な武士の世となった鎌倉時代以降は、元寇で主力軍となった高麗が 日本を攻撃して対馬や壱岐の島民達を虐殺、拉致しているが、足利義満の時代に関係回復し、 積極的な通商が始まっている。 その後、豊臣秀吉による文禄、慶長の役(1592〜1598) では、抵抗する朝鮮民衆のゲリラ戦に手を焼いた日本軍が人だけではなく犬猫や牛までも皆殺し にするような虐殺を行い、多くの朝鮮人が奴隷として海外に売られたり日本に拉致されて いる。ところが、その中でも特に陶工を はじめとする技術者達は、日本で手厚く保護され、 日本を代表する文化、茶の湯の成立に大きな影響を及ぼしている。また定着はしなかったが、 グーテンベルクをさかのぼる200年前に世界で初めて朝鮮で開発された金属活字印刷技術も、 この時日本にもたらされたといわれている。朝鮮人の日本嫌いの基礎を作ったともいえるこの 文禄、慶長の役だが、徳川家康の時代には早くも国交を回復し、江戸時代を通じて 恐らく両国の歴史上もっとも良好な関係を築いている。

 それらを見ていると、古代から江戸時代までは、国の優劣を言う事はあっても 、日本人が朝鮮人そのものを差別するという風潮は必ずしも一般的ではなかったようだ。むしろ、 平安後期の武士、 新羅三郎義光(寛徳二年:1045〜大治二年:1127)や、江戸時代から現代まで十一代 続く歌舞伎の名跡市川高麗蔵という名前の存在は、 新羅高麗という言葉が、一般に優美さや強さ、鮮やかな色彩感といったような イメージを伴っていたことがわかる。

 また、中国を中心とした世界像が一般的だった時代には、朝鮮側も日本を蕃国視する 記述が多いことから見ると、 日本と朝鮮は所詮どんぐりの背比べをしていたに過ぎなかったようだ。しかし、明治維新以降 東アジアの中で いち早く西洋に中心軸を移した日本は、 脱亜入欧に見られるようなアジア地域を卑下する視点と、その反動といえる 皇国思想のような極端なナショナリズムを生み出した。例えば、 幕末にヨーロッパ 諸国の侵入に対する防衛ラインとして蝦夷、朝鮮、琉球を見ることに始まった政策が、 ロシア南下の緊急性と上の思想と連動して、次第に征韓論となっていき、 明治以降の半島植民地化により、資源および労働力、兵力供給源として朝鮮を見るように なり、その視点がそのまま差別に直結していく。

 その征韓論のさきがけとなった林子平(1738〜1793)は、 『三国通覧図説』(1785)で
「朝鮮人は体格ががっしり しており、日本人の二倍食べるが、遅鈍なため秀吉との戦で負けることが多かった。」
 と書いている。この言葉を朝鮮人蔑視と見る向きもいるが、一概にそうとは言い切れない面 がある。というのは、日本の植民地支配前後に朝鮮を旅したイザベラ・バードも全く同じ事を 書いており、
「最初の旅行で受けた印象は、これほど興味をそそらない国はないというものであった」
 と朝鮮人の愚鈍さを嘆いている。ところが、北部のロシア領を訪れた時に、
「朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えて いた。ところが沿海州でその考えを大いに修正しなければならなくなった。みずからを裕福な 農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から勤勉で品行方正だとすばらしい 評価をうけている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。 彼らは大半が飢饉から逃げ出してきた飢えた人々だった。そういった彼らの裕福さや品行の よさは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間 となりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる。」
 と、その印象が大きく変わったことを書いている。そして、3年間の旅を終えた最後には、
「わたしが朝鮮に対して最初にいだいた嫌悪の気持ちは、ほとんど愛情に近い関心へと 変わってしまった。また今回ほど親密でやさしい友人たちとめぐり合った旅はなく、今回ほど 友人たちに対して名残おしさを覚えた旅もなかった。」
 と記している。彼女の分析からは、林子平の朝鮮人評は当時の真実ではあるが、その原因 は彼らの人種的、民族的特性にあるのではなく、李氏朝鮮を500年支え、 腐敗した両班(ヤンパン:高級官僚)政治にあることがわかる。

 また、バードは朝鮮を占領した日本を、宗主国である清から開放し、 近代化を押しすすめる解放者として見ている。実際に、 彼女は朝鮮半島各地で乱暴狼藉を働く清軍と違い、 規律正しく、物資を徴用する際は必ず金を払う日本軍の姿を目撃しており、その時点では あくまでロシア南下政策に対抗する手段として日本が朝鮮半島に進出し、 欧米列強に対抗するパートナーとして朝鮮に変革を促していたことが窺える。

 ところが、日清・日露戦争の勝利後、日本人は大きな勘違い をするようになる。特に大韓帝国となった朝鮮を日韓併合条約(1910)で 完全に植民地としてからは、一般日本人が朝鮮人、中国人に対して明らかな差別感情を もつようになり、第二次大戦中の日本人の愚行につながっていく。そして、それらに対して 明確な反省も無いまま今に尾を引き、平気で三国人発言をするような政治家を 生み出している。

 最近では、第二次世界大戦時に日本人がしてきた行為を 自虐史観として否定する人々が台頭しているが、根拠もなく感情的な言動 を繰り返す彼らの歴史認識は、同じ敗戦国のドイツの姿勢と比べると甘ったれているとしか思えない。 私がフランスに留学していた 時にいたストラスブールは、ライン川をはさんだドイツとの国境の街だった。中世にはアルザス 公国という独立国として、現在のフランス、ドイツ、スイスにまたがる小国を形成していた時期 もあり、アルザス語というドイツ語系の地方言語も存在する。しかし、フランスとドイツが 成立して以降は、両国に取ったり取られたりした歴史を持っており、現在の市民の間には フランスへの帰属意識が高く、ドイツ人の悪口しかいわない。ちなみに普仏戦争(1870〜71)に敗れた フランスがドイツに割譲したのがこのアルザス・ロレーヌ地方で、そのため、 母語をフランス語からドイツ語へ変えることを余儀なくされる市民の姿を描いた アルフォンス・ドーデ の小説、「最後の授業」の舞台となったのが、ここアルザスだ。そのアルザスの中心都市、 ストラスブールはドイツとの国境の街だけあって、テレビに写るチャンネルもドイツ語放送の 方が多い。そのドイツの各テレビ局が、一月ほど第二次世界大戦の戦争番組を朝から晩 までひたすら流していることがあった。丁度終戦記念日に当たる月だったと思うが、 ホロコーストを始めとするドイツ人の行為をドキュメンタリータッチで 延々と放送しているのだ。ドイツを旅してみればわかることだが、今でも第二次大戦中に連合軍 の爆撃で破壊された教会の廃墟をよく見かける。つまり、ドイツ人にもこのように かなりの被害があったにもかかわらず、そういった真摯な姿勢で先の大戦の反省を、 具体的かつ真剣にしているのだ。よく日本では、ドイツは何でもヒットラーのせいにすれば よいから 楽だ、などと言う政治家がいるが、それらの番組は明らかにヒットラーも含めたドイツ人 自身が何をやったのかを取り上げており、ホロコーストの否定が法律で犯罪 とされている厳しさを見ていると、「自虐史観」を言う 日本の政治家や、日本人が戦争中 何をされたかしか報道しないマスコミの体質的な甘さに気づかされる。

 もっとも、市民レベルでは、地道ながら戦争中の日本人の行為を正面から見すえようと 活動している人々もいる。例えば、長野の松代大本営地下壕の保存に 携わっているのは、近隣の一般市民だ。これは、 その地下壕建設工事の際、徴用された朝鮮人労働者達の過酷な労働を 目撃していた地元の人々が声を上げて行政を動かし、保存、公開が実現している。この地下壕 は、戦争末期に国が天皇を擁する大本営を松代に移転し、連合軍との本土決戦に備えることを 目的につくられたもので、朝鮮人を主体とする労働者は、12時間労働や、現場での危険な 発破作業、食事もろくに与えられず、逃亡者はリンチされて動けなくされた上、食事を与えずに 餓死させるという過酷な環境での労働を強制されたという。同様の日本人のシベリア抑留者の 過酷な体験は、 日本政府が東京、新宿のビルに施設を造り、広報活動をしているが、それ以上に過酷だったの ではないかと思われる松代を始めとする日本各地 の朝鮮人強制労働については実態を把握しようとする動きすらとらない。

 戦後もコンパクトカメラのことをバカチョンカメラと 呼んでいたことが示すように、 日本人の朝鮮人差別意識はなくなっているとはいえないが、少なくとも韓国に限って言えば、 2002年の日韓ワールドカップ開催から明らかに日本人の 韓国に対するイメージは変わった。ファイティング・スピリット溢れる 情熱的な選手達とクールなオランダ人監督の采配で好成績を残した韓国に対して、多くの日本人 が応援したことは記憶に新しい。私自身も対イタリア戦の闘志溢れるプレー と大胆な采配による勝利は、大会ベストゲームだったのでは ないかと思うくらい衝撃的だったし、三位決定戦のトルコ戦後、崩れるようにグラウンド に倒れた韓国選手を助け起こすトルコ選手の映像は、非常に美しいものとして脳裏に 焼きついている。恐らく同様の感覚は多くの日本人が共有したものではないかと思うが、 それが漠然とした 差別感覚から共に戦った同志のような好感に変わったのではないだろうか。そういった感覚 の変化が、その後の韓流ブームにつながっているように思う。

 わたしにとっての韓国・朝鮮のイメージとは、中学時代の同級生、李君である。当時わたしは 山口県徳山市にいた。ひょろっと背が高く、色白でやさしげな顔をした彼は、 今思えば朝鮮美人風な風貌だったのかもしれない。所属していたハンドボール部で 正ゴールキーパーをしていた彼は、兄貴がいたためちょっとませており、 丁度ロック・ミュージックに目覚めた補欠の私と音楽やオーディオの話で意気が合った。 井筒和幸の映画『パッチギ!』では1960年代の京都を舞台に、朝鮮高校の生徒達が 『仁義無き戦い』さながらの喧嘩に 明け暮れる姿を描きつつ、その背後にある日本人の韓国・朝鮮人差別を浮き上がらせているが、 その中で在日朝鮮人のヒロインが、京都は今まで住んだ大坂や下関、徳山よりましだ、と言う 台詞が出てくる。 私が通っていた徳山の中学校で、明らかな朝鮮名を名乗っていたのは李君しか記憶にないが、 今考えてみれば逆に朝鮮人 差別が激しいため、日本名を名乗っている人が多かったということだったのかもしれない。 実際、李君はしょっちゅう

「チョーセン!」

 とからかわれていた。しかし、基本的に心根がやさしく、かといってそれに乗じていじめられるほど 弱くも愚かでもなかった彼は、ちょっと困ったような顔をしながらふわふわとかわしていた ような記憶がある。彼とは私が千葉に引越してから疎遠になったが、私の中の 韓国・朝鮮人に対する親しみのようなものは彼によって作られた気がする。

 その後、在日の人はともかく韓国人と直接コミュニケーションをとる機会はなかったが、 留学中に 学食で韓国人に声をかけられたことがあった。年配の彼は技術者で、ここの大学に 研究にきているのだと言った。彼は私を同胞だと思って声をかけたようだったが、日本人だと わかっても態度を変えることなく同席していた妻と小さな息子を紹介し、 親しげに話かけてくれた。私は別に寂しかったわけではなかったが、 まだフランスに着いたばかりで右も左 もわからない状態だったので、彼の温かい態度が非常に嬉しかったことを覚えている。

 また、別の留学生の体験談だが、パリで大家とのトラブルに困った時、 日本人はさっさと逃げてしまい、結局最後までいろいろ助けてくれたのは 韓国人だった、という話を聞いたりもした。先年、東京の新大久保駅で、線路に転落した人を 助けるために自らの命を失った韓国人留学生の例を見ても、 「親密でやさしい友人たち」とイザベラ・バードが言うように、私は基本的に彼らは 非常にハートフルであると思う。それには、 感情移入が激しすぎて制御できなくなりやすい、というような弊害もなくはないが、 それを知ったとしても やはり私はよき友人として、隣国の人々になんとなく親しみを感じている。

 境内の階段手前から右に行くと、小さな祠がある。その正面には狛犬ならぬ狛羊が 置いてあって、可愛らしい。狛犬は、古代オリエントで獅子を王の象徴としたこと を起源に持ち、中国で皇帝の守護獣 とされたものが朝鮮半島経由で日本に入り、平安後期に形を変えて定着したのだとされる。 狛犬すなわち高麗犬 という名がその来歴を示しているが、現在の朝鮮半島には新羅王の古墳以外に 狛犬を 見る事はできないのだという。恐らく、李氏朝鮮以降祖先を祀るのに儒礼を用いるようになった ため、古い形式の狛犬は破壊され、一般的ではなくなってしまったのだろう。 しかし、この高麗王廟の正面に羊の像が置かれていることが示すように、 朝鮮半島では王の守護獣として獅子ではなく羊を置く習慣はあるのだという。 このことは、 彼らのルーツが伝説と同様、ツングース系の遊牧民にあることを象徴しているように思える。

 開いている金属製の門から正面の廟に行くと、中に白っぽい石塔がたたずんでいる。 これが高麗王若光の墓といわれる高麗王廟 だが、この石塔には何かで 削られたような無数の引っかき傷のようなものが見える。近づいてよく見ると、どうもこれは もともと五重塔だったものが、庇が破壊されて現在の姿になっているようだ。 江戸後期の『新編武蔵風土記稿』を見ると、「聖天院」の高麗王塔 として図入りで 説明が載っている。
「五輪にして墓石の四面に、佛像を刻したれど、石面分明ならず云々」
 とある。同書の図を見ると、現在削り落とされている部分にはそれぞれちいさな庇があって、 五重塔の形をしているのが見て取れる。しかし、 1970年に出版された『日本の中の朝鮮文化』には現在と同じ姿の塔の写真 が載っているから、恐らく明治以降一般化した 朝鮮差別思想を持った日本人に よってこのようなことが行われたのだろう。

 この廟を囲って建つ小屋の扉には、将軍標が描かれた ユニークな絵馬がいくつもかけられている。学業成就を願うものが多い。 中には韓国から訪れる人もいるのだろうか、それとも在日の人によるものだろうか、 ハングルで書かれた物もけっこうあった。人の絵馬を覗き見るのは我ながら あまり良い趣味ではないが、 北朝鮮の拉致問題が平和裏に解決し、日朝両国が仲良くなれる日がくることを願う絵馬が 目に入った。字体から 女性であることがわかる。恐らく彼女は在日朝鮮人なのだろう。穏やかで優しい言葉の裏に 二つの国に挟まれて苦しんでいる様子が何となく伝わってくる気がする。

 北朝鮮の日本人拉致は許すべからざる犯罪だが、その事実を無視し続け、愛人親子連れの 金正日の馬鹿息子 が成田で偽造パスポート所持で逮捕された時も、温情処置で釈放するような 間抜けな日本政府と外務省の腰抜け役人が、解決をより困難にした面は否定できない。 ちなみに拉致被害の多い新潟県内では、 北朝鮮の悪口を言うと、諜報員に拉致されるといううわさは以前から市民レベルで 一般化していたという。古代の文献でも朝鮮半島北部の高句麗や渤海の使節が、敦賀や能登、 新潟、あるいは秋田に漂着した、という記述が多いことを考えると、 北朝鮮の工作員が日本海を渡って日本に密入国するのは簡単なことなのだろう。にもかかわらず、 北朝鮮政府がその存在を否定するから拉致の事実はないとしてきた日本政府と 外務省の態度は、 事なかれ主義の官僚政治を象徴しているように思える。こういった官僚政治は、清の宦官政治や 李氏朝鮮を腐らせた両班政治と同様の腐敗構造を有しており、次第に官僚主義化していった とはいえ、各藩が独立して地方自治を行っていた江戸時代の 武家政治のほうが、システム的には現在の日本の政治より健全だったのではないかとすら 思えてくる。

 子供達が拾ったのだろうか、それともハイキング客が供えたのだろうか、 賽銭箱手前の小さな祭壇にはどんぐりや栗の実にくるみなど、秋の山で拾った木の実が 置かれている。 ふと見ると、片手を失ったお腹の大きなメスカマキリが、まるでこの廟を守っているかの ように鋭い目でこちらを見ていた。

 廟から右奥に行くと、山の傾斜を利用した美しい庭園がある。その斜面に石の多重塔 が立っているが、高麗王廟に置かれる石塔もかつてはこのような姿だったのだろうか。

高麗神社

 時計を見ると、もう4時半にならんとしているところだったので、急いで聖天院 を出た。自転車にまたがり、さっきの道をそのまま下っていくと、左手に 高麗神社の鳥居が現れてくる。昨年は、聖天院 の門を出たすぐ横からのんびりした細い道を通って 高麗神社に行ったのだが、今回は時間もないので その道は通らなかった。

 鳥居の手前には「下馬」と書かれた石が置いてあるので自転車を停め、鳥居をくぐった。参道 右手の広い駐車場は平日ということもありガラガラだったが、神主さんがなにやら忙しそうに している。見ていると、停まっている車にお払いを始めた。以前、テレビでこうした光景を 目にしたことはあったが、実際に見るのは初めてだ。かしこまった車の持ち主と、金属の塊に すぎない車に 対して威厳ありげなふるまいをしている神主を見ているとなんだかおかしい。 その駐車場にはまるで赤塚富士夫の漫画にでも出てきそうなコミカルな顔をした 将軍標 が立っていた。見ると、足元にはまだビニールがかけてある。どうやら新しいものの ようだ。以前ここにあったものは、木製で腐食したため石で造り直したのだという。

参拝諸名士芳名額

 石畳の参道を少し歩くと、先にもう一つ鳥居があって、 高麗神社と書かれた少し変わったデザインの扁額がかかっている。その 左手に、参拝者名が書かれた木札がズラッとかけられている。 そこには日本の植民地支配当時の朝鮮総督から軍関係者、政治家、検察、 公安、自衛隊関係者、修験道の聖護院門跡、神社宮司、韓国大使、韓国の文化人、学者、 建築家、作家、陶芸家、漫画家から アナウンサー、果てはお笑い芸人まで錚々たる顔ぶれが並んでいるのに驚かされる。例えば 鳩山一郎は、この 神社に参拝した後に首相になったことから、政界では出世明神 として知られるようになったのだそうで、数々の政治家の名をそこに見ることができる。 他の名を見ると、明治の文豪 幸田露伴、 『死者の書』で古代を取り上げた折口信夫、 『高麗神社の祭りの笛』というエッセーを残した 坂口安吾や、沿線の石神井公園に住み、坂口と共に訪れた 壇一雄、同じく無頼派太宰治やその師、 佐藤和夫、そして佐藤と同じく和歌山県新宮出身で自らのルーツが 朝鮮にあることを書いている中上健次、同様に在日朝鮮人の 柳美里、古代史を中心に 日本の中の朝鮮文化を探った金達寿、高麗神社社殿や鳥居の扁額を デザインし、歌舞伎座や築地本願寺などアジアと西洋の建築的融合を目指した 伊藤忠太、漫画 『陰陽師』の作者岡野玲子と手塚治の長男、 映像作家の手塚真夫妻、その『陰陽師』に主人公の親友として登場する 琵琶と笛の名手源博雅も曲を残している雅楽の演奏家、 芝祐靖等々知っている名前を挙げるだけでも枚挙に暇が無い。

 ところで雅楽家の芝祐靖氏は玲楽舎 という演奏集団を主催して後進を育てているが、メンバーの笙奏者に妻の高校時代の 同級生がおり、以前一緒に演奏したことがある。私は個人的に芝氏は知らないが、 高麗氏の血を引く氏は、高麗神社の 宮司と懇意だと見えて、毎年秋の祭りでは玲楽舎の若い楽人達が 境内の神楽殿で舞楽を奏すという粋なことをしている。雅楽は、 遣唐使と三国時代の朝鮮経由で日本に入ってきた古代中国の宮廷音楽を母胎に、 日本各地の先住民の音楽を加えたもの だが、中国では完全に失われ、朝鮮では一度衰退した後、改めて中国から輸入し直したため、 日本に最も原型に近い形が残っている。中国の宮廷音楽がそのルーツとはいえ、 当時の唐は シルクロードを通じて世界各地と国際的な交流をしていたため、雅楽で使用する楽器や仮面、 衣装、音楽の様式には 当時の世界中の文化のエッセンスが詰まっている。中でも楽人達が直接日本にやってきた 朝鮮半島の雅楽は、古代の文献にも高麗楽百済楽新羅楽と 分類され、それぞれ専門の奏者がいたことが書かれている。その後の日本でも戦乱の時代に 多くの 楽譜や奏法が失われているため、現在の雅楽では単に高麗楽として まとめられてしまって いるが、それでもかつての色彩感やきらびやかさのようなものは感じ取る事ができる。

 木札には、雅楽家だけでなく、筝や踊りなど芸能関係者の名も多く見られるが、日本を代表 する芸能の一つの創始者、世阿弥の娘婿、 金春禅竹は、『明宿集』に面白い事を書いている。
「推古天皇の時代に、泊瀬川から流れてきた壺に赤ん坊が入っていた。その子は、 大人の口を借りて、 自分が秦の始皇帝の生まれ変わりなので朝廷に報告するように言った。その子が、聖徳太子 に仕えた秦河勝である。 秦河勝の三人の息子の一人は武士となり大和長谷川党を起こした。 一人は四天王寺の楽人となって 雅楽を伝え、そして猿楽を伝えた直系子孫が我々円満井座の金春太夫 である。 秦河勝が聖徳太子に命ぜられて舞った猿楽の技がの最初であるので、 とは、秦河勝であり、 あらゆる日本の神仏であり、宿神である。」
 ここで秦の始皇帝の生まれ変わりとされる秦氏は、現在では地方で殖産興業に 携わった朝鮮系渡来人だということが分かっている。つまり、最も日本的な芸能と思われがち なは、朝鮮系渡来人の子孫達によって 現在まで脈々と受け継がれているのだ。また、と同体とされる 宿神(シュクジン)とは、縄文人が祀っていた神のことで、よく男根状の石 と胞衣、という形で水辺や湧水地の丘に祀られることが知られる。こういった神や、 あるいはシュクジンとよく似た 音の地名は、縄文人の世界が遅くまで残っていた東日本から東北を中心に、今でも日本全国に 見られる。例えば、壇一雄も住んでいた西武池袋線沿線の 石神井(シャクジイ)公園には、 丘に囲まれた湧水池があり、そこから石神井川が発している。実際に、池周辺には旧石器時代から 中世にかけての遺跡、池淵遺跡が発掘されており、縄文時代中期の竪穴式住居跡が 16軒確認されている。また、近くの石神井神社の御神体は、井戸を掘った 際に出てきた石剣、つまり石神(シャクジン)とされ、それが石神井の地名由来だと『江戸名所図会』にある。これは、 まさに縄文人が祀ったシュクジンそのものであることがわかるが、このような 形態の神を祀るのは、日本の縄文人だけにとどまらず、ヨーロッパのケルト民族までユーラシア 大陸全域に広く分布していることがわかっている。つまり、朝鮮系渡来人によって 始められた猿楽すなわち、が 体現しているものは、 ユーラシアの古い記憶だということができる。我々現代人は、ともすれば古代人より 優れていると勘違いする事が多いが、 国家というものに縛られてあおられる偏狭、偏執的ナショナリズムが広まる現代と比較すると、 このようなスケールの大きい古代の広がりに学ぶものは多いのではないかという気がする。

 木札の中には萩焼坂倉新兵衛薩摩焼沈壽官など陶芸家の名前も多い。 両者とも日本を代表する 焼物の陶芸家だが、いずれも文禄、慶長の役で各大名に拉致された朝鮮人陶工の血を 引いている。 萩焼季勺光、季敬兄弟、 薩摩焼は22姓男女40人ほどの陶工集団を祖とする。他にも 有田焼唐津焼など、 拉致された朝鮮人陶工達によって始められた焼物は数多い。日本は 世界最古の土器、縄文式土器を出土していることから、焼き物発祥の地と 言えると思うが、東京の根津美術館で古代中国 時代(B.C.1600頃〜1046)の青銅器の模様に縄文土器との感覚の類似性を感じた事がある。 このことは、 根津美術館のある青山にアトリエを構えていた縄文の美の発見者、 岡本太郎も同様のことを言っている。ちなみに岡本の父、漫画家の岡本一平は、高麗神社に 関する絵入りのエッセー漫文を残している。縄文人が殷と交流があったか どうかは定かではないが、少なくとも初期の縄文式土器と似た形式の土器は、 中国の東北地方で出土しており、なんらかの交流があった可能性はある。また、 稲作の伝播と共に生まれた弥生式土器には、大陸の影響があるのではないかと 考えられており、さらに後に出現する須恵器は、朝鮮半島から 工人と共に日本に輸入されたことがわかっている。そう考えると、土器を発明した縄文人達 が海を渡って技術を輸出し、大陸で発達した後、再び日本に 戻ってくるというような技術の循環が、長いスパンをかけて東アジア地域で おきていたといえるのではないだろうか。そして、その東アジア地域の循環の環は、 海のシルクロード を通じてイスラム帝国、そしてヨーロッパにもたらされ、世界規模の大きな循環の環となって いく。例えば、イスラム地域で開発された コバルト染付け技法(中国開発説もある)が景徳鎮で花開き、五彩に発展していく。 その五彩、和絵具、洋絵具を用いて作られた九谷焼は、 ヨーロッパに輸出されて人気を博している、という具合だ。

 ヨーロッパで人気を博した日本の焼物といえば、江戸初期の柿右衛門 が有名だが、その柿右衛門を生んだ有田/伊万里焼の祖は、やはり 文禄、慶長の役で日本に連れてこられた李参平を中心とする陶工集団だったことが 知られている。文禄、慶長の役は、朝鮮では 一時的に技術者不足に陥ったほど大量に陶工が拉致され、日本においては彼らの技術が新しい 産業を生み出したことから、別名焼き物戦争とも呼ばれる。 当時の日本には白磁製作技術がなかったため、拉致された陶工達は各藩の重要な産業を担う人材 として 保護されている。ところが、陶工達が朝鮮語を使い、朝鮮名を名乗り続けて 白薩摩 ブランドを確立し、藩が伝統を保護した薩摩焼とは対照的に、 萩焼の陶工達は日本名に改名し、楽焼のスタイルを 取り入れ、民窯も現れるなど、藩から離れてかなり柔軟な試みを している。楽焼は、もともと日用雑器として作られた 朝鮮陶磁の奔放な美に衝撃を受けた千利休が、同様のものを 日本で作り出すことを目的に楽長次郎と試行錯誤しながら 生み出したものだ。つまり、楽焼とは、言わば朝鮮陶磁のコピーもどきから 出発し、それに独特の日本的洗練が 加わった茶道具、芸術品としての焼物なのだが、 朝鮮陶磁の伝統を持つ萩焼の陶工達が、朝鮮陶磁を目指した 楽焼を学ぶというのも皮肉を感じて面白い。

 ところで、朝鮮人陶工達によって日本を代表する焼物を造り出した萩と薩摩は、いずれも 明治維新において中心的な役割を果たしている。萩の毛利家は関が原の戦いで豊臣方の総大将 を務め、薩摩の島津家は、その戦いで甚大な被害を出しながら退却している。両家は、 名家好きの家康に存続を許されたとはいえ、いずれも江戸幕府へのうらみが強く、 萩藩では打倒徳川の秘密会議が毎正月に開かれていたのだというから、そういった風が維新の 原動力となった面もあるのだろう。その維新の戦いには薩摩藩の陶工達も参加したことが記録に 残っている。その中でも 朴氏は維新後東郷と改名して新政府で活躍している。ところが、朴氏と違って維新後も朝鮮名を 名乗っていた陶工達は、一般に広まった朝鮮人差別のため苦しめられる ことが多かったそうだ。高麗神社参拝の札のある十五代沈壽官氏の先代、 十四代沈壽官氏は、 中学入学時に朝鮮名であることに因縁をつけられ、血みどろになり、 気を失うまで殴りつけられて以来、映画『パッチギ』さながらの喧嘩に 明け暮れる学生時代を送ったという。

 沈壽官氏の話は、現在の日朝間にも横たわる拉致の問題が後の世代まで 影響を及ぼすことに考えさせられるものがあるが、多くの朝鮮人が惨殺され、鼻をそがれ、 奴隷として拉致された文禄、慶長の役では、 逆に朝鮮に亡命したり投降した日本人が、日本式鉄砲の製法と射撃法を教え、朝鮮軍人として 戦ったことも知られている。この戦争は、当時世界一の 命中率を誇った日本の火縄銃と戦国で鍛え上げられた武士を擁する日本が白兵戦において 圧倒的に強く、 大砲や鉄の装甲を持つ亀甲船を持ち、明の援軍もあったにもかかわらず、 最初から最後まで両班が権力争いをしていた朝鮮政府は、悲劇の英雄 李舜臣が指揮した海戦以外で大した戦果をあげることはできず、 結局日本軍が朝鮮民衆のゲリラ戦で疲弊し、寒さと飢餓で自滅するのを待つことしか できなかった。その後、朝鮮では引き続き駐留する明軍を撤退させるのに手を焼き、 さらに1600年以降数次に渡る 北方異民族の進入のため、再び戦わねばならない事態が起きている。このとき活躍したのが、 武に優れた 亡命日本人で、彼らの中にはその功績の為官職を与えられている者もいる。 韓国の慶尚北道には、 その時の亡命日本人沙也加が朝鮮人金忠善となって造った 友鹿洞という村が残っている。その子孫達は差別されることもなく、 今でも穏やかに暮らしているのだという。

手水舎

 二つ目の鳥居をくぐり、左手にある手水鉢で手を洗い、口をすすぐ。ふと上を見ると、 蛙股の下に、

奉納 龍頭 極真会館長 大山倍達

 と書かれた木札が貼ってある。龍頭とはこの 手水鉢に水を注いでいる龍をかたどった蛇口のことだが、格闘技に疎い私でも知っている 空手家の名があることに少し驚いた。大山倍達といえば 梶原一騎/つのだじろうの漫画、『空手バカ一代』の モデルとなり、直接打撃の 空手、極真会館の創設者として知られる。現在では極真 といえば単なる空手の一流派としてだけでなく、人気格闘技K−1に 有力選手 を送り込む組織として有名だが、私が10代の頃は漫画『北斗の拳』の影響と 極真空手の 直接打撃がこんがらがって極真伝説の ようなものが男子の間で話題になることがあった。例えば高校時代、私の隣に座っていた 妄想型格闘技ファンは、

極真てスゲーんだゼ。だってさ、素手で突きやって相手の 心臓握りつぶして殺しちまうんだゼ。」

 などと言いながら、恍惚とした表情で突きの真似事をして見せてくれたものであった。いくら なんでもこれは『北斗の拳』の読みすぎから生まれた伝説なのだろうが、 大山倍達という人物を調べると、果たして数々の伝説が溢れるように 出てくる。例えば、アメリカでプロボクサー、プロレスラー相手に一年間武者修行して 無敗とか、ビール瓶の首から上だけを手刀で切り落としてゴッドハンド と呼ばれた とか、牛と戦って47頭を倒し、その内4頭は即死だった等々。殺された牛にしてみればたまった ものではないと思うが、この人物がこういった伝説を生み出すカリスマ的な強さを持つ 格闘家だったのは間違いないようだ。

 ところで、大山倍達のプロフィールを 見ると、多くは1923年東京市杉並区出身としているが、実際は日本占領下の朝鮮の 全羅北道 金堤郡(現:金堤市) 龍池面 臥龍里で、崔承玄と金芙蓉との間の6男 1女の 第4子として生まれたのだという。本名は崔永宜(チェ・ヨンウィ)といい、 日本政府の 同化政策で名乗った日本姓が大山だったようだ。 名の倍達とは、朝鮮建国譚の檀君神話に登場する 国の名で、朝鮮民族の祖先が造ったとされる。その建国譚とは、 天神桓因の子、桓雄が太白山 に降りて倍達国を中心とする桓国を建て、 人間の女性に生まれ変わった熊との間に壇君王倹 をもうけた。壇君王倹は平壌で 朝鮮という名の国を起こした、という神話だ。

 この神話は単なる神話であって歴史的事実でないとされるが、戦前の日本が神武天皇 を実在の人物として国威発揚に利用していたように、現在の北朝鮮でも壇君 は実在の人物とされ、 1993年にはその骨が発見されたと発表している。韓国でも1961年まで 壇君紀元という独自の年号を用いていたことが示すように、 祖国統一を目指す朝鮮半島の両国にとって、この伝説上の人物がナショナリズムを鼓舞する 象徴となっていることがわかる。

 この壇君神話は、もともと平壌周辺に民話として伝わっていたものが、 13世紀の元の侵略に抵抗した高麗民衆の民族意識の高まりと共に 朝鮮全土に広まり、同時代の僧一然(1206〜1289)が『三国遺事』の 巻頭に取り上げたのが初出で、それに後世尾ひれ端ひれが付いて成立したのだという。 このエピソードが物語るように、この神話は現在でも 朝鮮民衆の愛国心を煽る要素が多分にあるようで、それを北朝鮮は民衆のコントロールに 今でも利用しているのだ。 戦中は日本で特攻隊の訓練を受け、戦後は米ソに引き裂かれた同胞が殺しあう姿を 目にしなければならなかった崔永宜が、自らの日本名に 倍達とつけたのは、祖国や日本に生きる同胞に自らの出自を示し、 分裂して争う祖国の統一を願って、朝鮮建国神話から引用したのだろう。

 ちなみに、空手家の名前の由来となった倍達国は、 シベリア南部、モンゴル国境付近のバイカル湖周辺にあったとされる。 確かにバイタツという音はバイカルを彷彿とさせるが、 さらに興味深いのは、縄文人のDNA解析結果と バイカル湖周辺に住むブリヤード族のDNA解析結果を 比較したところ、その90%が一致したというデータがあることだ。つまり、壇君神話 のいう倍達国から朝鮮半島に本当に人が移動し、さらに その後彼らが日本列島に移り住んだ可能性は あるのだ。壇君神話は神話に過ぎないとはいえ、やはりその奥に 朝鮮人のルーツに関する何かしらの真実を含んでいるのかもしれない。

 その手水鉢の向かいに立派なクスノキがある。そばにある説明板には樹高20m、幹周4m、 「日高の古木、名木を訪ねて」選定とある。太い幹はすぐ二つに別れ、 うねるように伸びるその先からさらに別れる枝には蒼い葉が大きく広がっている。その先の 参道沿いには、これも皇族や政治家を中心とした植樹や、記念碑、それに詩碑などが並び、 この神社が霊験あらたかなことを物語っている。

 中には李王垠方子妃が植樹した杉が並んでいる。 李垠(り ぎん/イ ウン:1897〜1970) は、朝鮮王朝の血を引く人物だ。彼は、 日本の政治的圧力で成立した大韓帝国の皇太子となり、実質的人質 として日本に留学 するが、1907年の日韓併合により大韓帝国が消滅し、 日本の準皇族扱いを受けることになる。 1920年には日本の皇族、 梨本宮方子(まさこ)女王と結婚し、日本軍属のまま終戦を迎えている。 戦後は臣籍降下 され、韓国人扱いとなったものの韓国側に帰国を拒否されたため、在日韓国人として 東京赤坂の邸宅、現在の赤坂プリンスホテル別館で、望郷の想いを抱き続けていたようだ。 結局帰国は、1963年の日韓国交正常化で実現したものの、その時に は脳血栓と脳軟化症で既に意識は無く、そのまま7年後に亡くなっている。

 一方、政略結婚で大韓帝国皇太子の妻となった方子は、 夫を理解し、支えた人物だったようだ。その結婚は、 ”日鮮の架け橋””日鮮融和の礎”というスローガンの基、 日本の朝鮮支配を正当化するという多分に政治的な もので、結婚2年後に生まれた息子が生後8ヶ月で毒殺されるという不幸も起きている。 その後の様々な流転にもめげず、 彼女は夫の祖国に移り住んだ後、夫の雅号を冠した 精神薄弱児施設明輝園を設立し、韓国障害児の母として多くの韓国人の 尊敬を集め、”日韓の架け橋”となる活動を 展開している。彼女が1989年に亡くなった時の葬儀は、韓国では準国葬として 取り扱われ、韓国首相、日本の三笠宮夫妻も出席し、 朝鮮王朝王宮から夫の眠る王家の墓までの道のりを 古式にのっとった1000人の従者に囲まれた葬列が進んだのだそうだ。

 参道にはその三笠宮や、 靖国参拝で日韓の政治的断絶を生み出した小泉純一郎の祖父、 小泉又次郎の献木も並んでおり、日韓の愛憎渦巻く歴史を感じさせる。

温知学校跡

 参道沿いの献木の間に、温知学校跡と書かれた説明板が立っている。 高麗神社宮司は、江戸時代に自宅をいわゆる寺子屋として 子供達の教育に当たっていたのだそうだが、明治の学制交付後は、当地の教育委員として 活動し、自らの神社敷地内に学校を建てたのだという。現在の宮司も祭りの際に公開講座を 設けるなど、やはり地元の名士的な人物のようだが、高麗の人々の為に行動するというのは、 あるいはこの地を開いた高麗王若光の血が代々の宮司を動かしている のかもしれない。

水天宮

 植樹の左奥に山に入る細い道が見える。いかにも、入らないでね、といった感じに 「マムシに注意」なぞと書いてあるので登ってみた。細い山道は山腹を くねり、あっけないほどすぐに開けたところに出た。手前にコンクリート製の鳥居があり、 その奥には小さな祠が見える。最初はここが聖天院の前身といわれる 高岡廃寺のあった場所なのかと思ったが、それはさらに山奥にあるようだ。 これは水天宮というらしい。しかし、高麗神社の例大祭で 舞われる獅子舞は、この水天宮に宮参りをするのだそうだから、 実質的に高麗神社 の奥宮的存在なのだろう。坂口安吾は『高麗神社の祭りの笛』 の中で、その獅子舞の予行演習を見たときのことを書いているが、その中で 高麗氏に伝わる系図の存在を指摘し、引用している。
「屍体を城外に埋め、また神国の例によって霊廟を御殿の後山にたてた」
 系図は前半部分が意図的に引き裂かれており、 誰の”屍体”か明らかにできないようになっているそうだが、 文脈からしてそれは高麗王若光 のもので、水天宮のあるここが”霊廟”の造られた”御殿の後山”に当たる のは確かなようだ。少なくとも地勢から見て、若光がこの地を選んで住んだことは十分 考えられる。 若光が最初に上陸し、開発したとされる神奈川の大磯は、北に丹沢・大山がそびえ、 東に相模川が流れ、南に 相模湾が広がり、西に東海道が伸びている。これは、
「北の山に玄武、東の川に青龍、南の池に朱雀、西の道に白虎が棲む」
 とする陰陽道の四神相応に完璧に対応した地勢になっている。一方、 高麗の郷を見ると、北に日和田山、東に高麗川、南に巾着田、西に相州上州往還道および 川越秩父往還道となっている。南に人工的に巾着田という水田を造ってまで理論に 対応していることを見れば、大磯ほど完璧な配置とはいえないまでも やはり四神相応を意識して選んだ場所だといえる。さらに大磯で若光が 住んでいたといわれる場所には、現在高来神社があるが、そこは丁度 開発エリアの東端、相模川近くの小山の麓にあたる。高麗神社のある場所も丁度高麗川の東端、 奥武蔵の山並みが始まる丘の麓にある。 このことから、四神相応という当時最先端の 都市開発理論を知っていた高句麗系渡来人、高麗王若光がこの場所を選び、 住んだとするのは間違いないだろう。ちなみに同時代、 和銅元年(708)の平城遷都は地勢が四神相応に 合致することを動機としており、宝亀元年(770)には 高麗郡出身の高麗福信が造宮郷となり、平城京整備にたずさわったことが 『続日本紀』に書かれている。 高麗福信は若光の一族ではないといわれるが、少なくとも高麗の郷で 最先端の都市開発を体験していたことは役立ったに違いない。、

 ところで、高麗家に代々伝わる系図は、中世に焼失した後、一族により再編されたもの だという。破り取られた最初の部分は、明治18年に内閣修史局に差し出した際、都合の悪い 、つまり朝鮮出身の一族であることが書かれている部分があったため、 後世の子孫によって引き裂かれたのではないか、と坂口安吾 は推理している。

 故郷を失くし、異国の地のこの丘に骨を埋めた若光は、どんな思いで日本と朝鮮半島の歴史を 見つめているのだろうか。小さな祠にお参りして細い山道を下りた。

高麗神社社殿

 参道にもどり、その先の石段を上がると、塀に囲われた高麗神社拝殿と本殿がある。入り口の 唐破風下にかかる扁額には高麗神社の高と麗の間に小さく句の字が挿入 されており、 高句麗神社と読めるようになっている。これは、ここに高麗明神として 祀られる 高麗王若王が、高麗(918〜1392)の人ではなく、 高句麗(B.C.37頃〜668)の人 であることを示すため、明治になって造られたものだという。そもそも『新編武蔵風土記稿』 をみると、単に高麗郡新堀村の”大宮社”と書かれていることから、 高麗神社という名称自体が明治以降のものであることがわかる。その当時、 高麗高句麗を混同する人が多かった為、 扁額に小さな句の字を入れたのだろう。

 正面の唐破風をくぐり、拝殿でお参りした。この拝殿と唐破風付きの塀は、 伊藤忠太の デザインによるものだ。一見、クラッシックな神社社殿のスタイルに見えるが、要所要所に 見られる独特の装飾が、伊藤忠太らしいエキゾチックなアクセントを 加えている。

 奥の本殿に祀られる高麗王若光は、 『日本書紀』天智天皇五年(666)冬十月二十六日の項に あらわれる高句麗使節の一人、二位玄武若光のことだといわれる。 使節の目的は書かれていないが、唐・新羅の圧力で存亡の危機にあった高句麗に対する 援軍を求めての使節であったことは間違いないだろう。しかし、大和朝廷は その3年前、百済滅亡のきっかけとなった 白村江の戦い大敗北のショックから、大陸の軍事力に対する恐怖心を 募らせ、 朝鮮半島から完全撤退して日本国内固めに政策を一変させており、 援軍を発することなく668年の 高句麗滅亡を傍観する立場を取っている。この時代の日本の政策転換は、大陸の植民地化政策 に失敗し、敗戦後軍事力を放棄した20世紀の日本の姿と似ている。 結局、日本滞在中に祖国滅亡を知った若光は、 そのまま日本に亡命し、亡命高句麗人 達をまとめて相模の大磯周辺を開発し、そのリーダーとして活動したようだ。

 若光の次の記録は、『続日本紀』大宝三年(703)四月四日に見られる。
「従五位下の高麗の若光に王(こにきし)の姓(かばね)を賜った。」
王(こにきし)とは、渡来系王族あるいは首長クラスの人物に対して大和朝廷から与えられる 称号のことで、朝廷からその地位を認められたことを示す。つまり、彼の大磯開発が朝廷に とっても有意義であったことをあらわしており、それが『続日本紀』霊亀二年(716)五月十六日の 項の
「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七ヶ国にいる高麗人千七百九十五人を 武蔵国に移住させ、初めて高麗郡を置いた。」
 という武蔵開発の記述につながる。ここに若光の記述はないが、彼がこの事業の 開発リーダーに任命されたことは、高麗をはじめとする周辺地域に伝わる話や、同時代の遺跡等 からまず 間違いない。若光は、現在でもこの高麗神社に神として祀られ、 晩年はあごに白髭を伸ばしていたから 白髭明神ともあがめられたと伝えられる。 その白髭明神 を祀る白髭神社は高麗にもあるが、日本全国に数多くの 白髭神社があることも 知られている。現在は、白髭新羅の ことではないかとされているので、高麗にある白髭神社の存在は、この 高句麗人の郷に新羅人も住んでいた事を示唆している。つまり、亡命高句麗人の郷に祖国高句麗 を滅ぼした新羅人をも受け入れていたのかもしれない。もちろん、ここで新羅人という場合は、 朝鮮半島を統一した統一新羅のかつて高句麗だった地域にいた人々のことかもしれないが、 高麗の白髭神社の存在は、差別することなく多くの人を受け入れ、 慕われた若光の度量の大きさを示しているような気がする。

 高麗氏系図には、この地に移り住んだこれら渡来系の人々が 名乗った日本名が記されている。 高麗、高麗井(駒井)、井上、新、神田、丘登(岡登、岡上)、本所、和田、吉川、大野、加藤、 福泉、小谷野、阿部、金子、中山、武藤、芝木、新井がそれにあたる。以前、職場の同僚で 小谷野(こやの)という名の人がおり、変わった名前だねと訊いたところ、 確か埼玉のここらあたりに 住んでいると言っていたから、彼は渡来人の直系子孫なのだろう。また、系図に名は 載っていないが、これも以前の同僚に小茂鳥(こもどり)さんという 女性がいて、彼女の親族は 川越から秩父にかけて住んでいると言っていた。恐らく、その地域と名前からして、 彼女も渡来系氏族の子孫なのだろう。一見、遠い存在に思える渡来人達は、意外と 近いところにいたりするのだ。もちろん、現在の彼らは渡来人でも在日でもなく、 完全に日本人なのだが、その名からはるか古代に遡る大きな歴史の流れを感じることが できる。

 社殿から右に行くと、社務所がある。その脇に束になった稲穂が干してあり、説明板に 平成元年に伊勢神宮の御神田で発見されたイセヒカリという新種の稲だ、と書いてある。 ここにある稲は、埼玉の若手神職グループが、日高市内の田んぼに植えたものの一部なのだ そうで、きっと明日の祭りに奉納するのだろう。社務所の前にはお守りや パンフレットなど様々なグッズが並んでいる。さすがは出世明神という感じだが、浮ついた ようなものがないところが信頼できそうでもあり、また少しつまらないところでもある。昨年 来た時にはなかった新しいカラフルなパンフレットがあったので、 それを買おうと中に声を掛けた。

「すみません。」

 少し奥では眼鏡をかけた若い神職が、なにか紐のようなものを結っている。彼はこちらをちらと 見てから、

「はい。ちょっと待って下さい。」

 と言って、そのまま紐を結い続けた。きっと明日の祭りで使う飾りか何かなのだろう。 作業が一段落したところで、こちらに出てきた。そして、私がパンフレットを買うと、 またその飾り のようなものの所に行って再び紐を結い始めた。私はそのまま社務所の階段を降りて、 さらに奥に ある高麗家住宅に向かった。

高麗家住宅

 神社向こうの山裾には大きな枝垂れ桜が生えており、その脇に茅葺屋根の 高麗家住宅がある。 きっと春には絵の様な風景になるのだろう。この住宅は高麗神社神職が代々住んでいた もので、17世紀後半の建築と見られている。関東地方ではその時代に遡れる民家建築は貴重 で、かつ室町時代にまで遡れるような古い様式を良く残しているため、 国の重要文化財に指定されている。

 住宅前面には広場のようなスペースが広がっており、地域のリーダーとして慕われた高麗家に なにかと人々が集まっていた様を想像させる。ここで寺子屋を開いていた頃は、きっと子供達 が毎日転げまわって遊んで 賑やかだったことだろう。正面から住宅を見ると、建物左側壁に獅子窓 と呼ばれる木の格子が連続し、右側が土壁となっている。黒ずんだ木部と対照的に白っぽい 土壁が、大きな茅葺屋根でまとめられている様はなかなか美しい。木部と土壁の比率は7:3 くらいだろうか。

 開けられている窓から中を覘くと、 この壁の材質の違いが そのまま住居内部の機能に対応していることがわかる。 木部が居住スペース、土壁部分が土間となっているのだ。 一般的に現在古民家として残っているのは農家の住居が多く、 多くの農器具や農産物の加工品、それに馬などの家畜も置いていたから土間スペースはかなり 広いことが多い。しかし、この高麗家住宅では、作業場でもある 土間スペースが小さい。恐らく居住者が神職だったため、 そういったスペースは必要なかったということなのだろう。一方、居住スペースは、表座敷と 神職の主室であるオクの壁も小壁も含めて全て 板張りになっており、全く土や紙を使っていないのは珍しい。これも居住者が神職だったため、 瓦や土壁など土に関わるものを避ける神社建築の影響があるのではないか といわれている。

 ところで、土間は当然地面と同じレベルに床があるが、この居住スペースは柱に支えられて 地面から浮いたレベルに床がある。この土間と高床について民俗学者の 宮本常一(1907〜1981)は面白い考察をしている。彼の調査では、 明治になるまで東北、 北陸地方では土間生活をしていた住居が大半であり、ここ武蔵野でも農家は基本的に 土間にムシロを敷く生活だったのが、招客 の必要性から次第に床がふえていったということがわかっている。 一方、高床式の住居は トアルコトラジャのコーヒーパッケージで有名なインドネシアの舟形住居に代表されるように 東南アジアに多く、日本では西に広く分布していることがわかっている。 その技術は、船形住居に表されるように、もともと船での 海上生活をモデルに穀物倉庫として造られたとみられている。 しかし、地面との接触を穢れとして嫌うようになった支配者層が、 生活の場とするようになり、宮廷のある関西を中心に定着したと見られている。 それが被支配者層にも普及し始め、本来 の生活の場であった土間と、高床式の倉庫あるいは客間スペース を屋根でつなぐようになり、土間と高床が並存する 住宅ができたのではないかと述べている。

 そう考えると、この高麗家住宅は、 大陸からやってきた高床式の高麗の人々が、ここで土間式の縄文系の人々と出会って 成立したように見えてくる。古代の文献には大和朝廷が進出した関東から東北では、被支配者 層となった縄文系の蝦夷が抑圧され、度々反乱が起きた記事が載っている。 縄文時代の住居跡が残るここ高麗では、どうだったのだろうか。 きっと若光が土着の人々とも仲良く やっていたに違いない。そんなことを思いながら、ぐるっと住宅の周りをまわって 神社境内に戻った。

 境内の参道横はちょっとした広場となっており、新しそうな神楽殿が見える。毎年9月の祭り では玲楽舎の若い楽人達がここで舞楽を舞う姿を見ることができる。昨年私が訪れた時は、丁度 蘭陵王を女性が舞っていたのだが、面を付けていないことに驚いた。この舞は、北斉蘭陵 郡の王、長恭が、自らの美貌に兵士が見とれて戦にならなかった為、恐ろしい面をつけて戦いに 勝利したことにちなんで舞われるものなので、面そのものが重要な意味を持つ。しかし、その時 配られていたパンフレットには、女性と子供が舞う時は面を省略することがあるので、 今回は使用しない、と書かれていた。恐らく、宮廷で入内を狙う女性や有力貴族の 子弟が舞う時は、舞そのものより舞う人物を天皇にアピールすることが 重要になり、面を省略するようになったのだろう。

 神楽殿の横を抜けると、さっき車のお祓いをしていた駐車場に出る。もう、車も神主も いない。その駐車場内には小さな屋台があり、人の良さそうな年寄りが店じまいをしていた。 店の屋根には”出世屋”と書かれている。ここの団子でも食べたらさしずめ立身出世間違いなしといった ところなのだろうが、店じまいの邪魔をする気も起きなかったので、そのまま自転車にまたがり 神社を後にした。

巾着田

 秋の日は短い。少しずつ暗くなってくる道を急いで戻り、 巾着田に行ってみた。巾着田とは、Ω型に蛇行する 高麗川に囲まれた土地が、丁度巾着袋のような形をしていることから付けられた名だ。 高麗若光が川の流れを今見るような形に蛇行させて、 傾斜地の多い高麗郷でも貴重な水田を拓いたといわれている。しかし、大きく弧を描くように 蛇行する川の向こう側は、岩盤がむき出しになった崖になっており、 本当に岩を砕きながら川の流れを変えたのだとしたらかなりの難工事だったと考えられる。

 巾着田に入る道の手前には「マンジュシャゲ終息しました」と 赤い字で書かれた看板が立っていた。開花が終わることを”終息”というのもなんだか変な 気はするが、字義的には正しいようだ。巾着田はその名の通り 本来水田で、実際今でも一部では稲作をしてはいるが、昭和40年代に荒れていたこの土地 を日高市がプール建設を目的に整備したところ、ヒガンバナことマンジュシャゲの群生が確認されたため、 それを増やして西武鉄道と共に観光開発の目玉としたのだそうだ。マンジュシャゲそのものは、 どこにでも生えている花なので珍しくもなんともないが、あまり期待せずに昨年訪れた時に、 川沿いの樹林下が一面鮮やかに赤く染まっている様子を見て驚いた。それもそのはず、 マンジュシャゲの群生地としては 日本一の規模なのだそうで、プールになぞされなくて良かったとつくづく思う。今年は開花が 遅れていると聞いていたので、もしかしたらまだ間に合うかもと思っていたのだが、”終息”して しまったようなので少し残念だった。

 とりあえず川に沿った土手上の道を行くと、 野菜などを植えた畑の先に色鮮やかなコスモス畑になっている一角があった。 コスモスの向こうにはちょっとわざとらしく建ててみましたといった風の水車小屋の屋根が 覘いているが、それはそれで郷愁を誘う美しい風景になっている。このコスモス畑の存在は 知らなかったが、これもマンジュシャゲに負けず劣らず見事なもので、若い女性二人がコスモス 畑の中で歓声をあげていた。

 コスモス畑を抜けてマンジュシャゲの群生地に行ってみると、やはり”終息”している。 それでもよく見るとポツポツとまだ赤い花をつけている株もあって、自分を待っていてくれた ようで嬉しい。マンジュシャゲとは、梵語で赤い花を意味する”曼珠沙”に華を足した名だが、 日本原産(中国由来説もあり)の植物であることから、この名は日本で付けられたものだという。 マンジュシャゲは、 花が実を結ぶことはなく、球根で繁殖する。その 球根は、リコリンというアルカロイド毒素を含んでいるが、水にさらせば 毒が流れて食用になるため、昔は飢饉にそなえて田んぼのあぜに植えられていたのだそうだ。 ところが、その開花時期から 彼岸花という名が付けられ、地下で増殖する有毒植物というイメージも 相まって、花そのものが死を内包しているような 印象がある。実際、各地に残る俗称には、”シビトバナ”、”ジゴクバナ”、”ユウレイバナ” など、死をイメージさせるものが多い。しかし、改めて花を見てみると、 まるで花火を思わせるような形や、 鮮やかな色もあって実際とても美しい。

 この花を見ると思い出すのは、小学生時代の転校生 のことだ。窃盗壁のある彼女の周囲からは 色々な物が無くなっていて、なんとなくクラス全体が彼女を疎んじているような 雰囲気があった。 あるとき、 彼女が赤い花を教壇の花瓶に生けていた。その時担任だったおばあちゃん先生は、 教室に入ってくるなり引きつった顔をして

「この花をここに置いたのは誰ですか。」

 と言った。転校生は嬉しそうに、

「先生、きれいな花が咲いていたからつんできたの。」

 と得意げに言った。その直後、

「あなた、この花は彼岸花といって死んだ人の花なの。今すぐ捨ててらっしゃい。」

 と先生は怒り出した。先生に気に入られると思っていた彼女は、見る見る顔面蒼白になり、

「だって、先生。だって、きれいな花が。」

 と言っていたが、結局その花は捨てられた。私はその時、花瓶に生けられていた蒼く細長い 首の先に開く、鮮やかな真紅の花を美しいと思ったから、 まるで自分が怒られたかのような 居心地の 悪さを感じたのをよく覚えている。彼女は1年ほどしてまた転校していき、その後は 知らない。

日和田山

 巾着の形をなぞって行くと、広がる田畑の向こうに日和田山が見える。 この山は標高305mの小さな山だが、奥武蔵の山塊の端部にあるため眺望が良く、地元の 幼稚園児達のお散歩登山に出会ったりする。日和田山は丁度 巾着田と対するようにそびえており、山腹に鳥居が見えることから、この高麗 郷の鎮守的な山であることがわかる。その山腹の神社のある 場所は、丁度岩肌が露出している箇所にあたる。そういった山や丘に岩塊が露出している 場所は、神が宿る特別な場所として縄文時代から祀られていることが多い。恐らく縄文時代の 遺跡があるここでもその時代から日和田山に対する信仰があったのだろう。

 ところで、日和田という地名は日本全国にあるが、 ”田”が付くにもかかわらず、そのほとんどは稲作に適さない山や峠にある。また、同様に 日和山も全国にある。この日和山は、ほとんどの場合、 港近くの小高い山を指し、 その頂に方位を示す石盤が置かれていることが多い。つまり、太陽や雲の動きを観測する 航海用気象観測所と されていたことが知られている。このような日和の付く地名の多さは、現在の ような気象観測システムを持たなかった時代には、 太陽や雲の動きを知ることがいかに重要だったのかを示している。 実際、聖(ひじり)日知りに通じ、やはり 農耕に関する気象観測に関わっていた人々のことだったのではないかといわれている。

 これらのことから、海の無い高麗にあるこの山も、恐らく農耕に関する気象観測所、 あるいは雨乞いなどの祈祷所的な 役割も担っていたものと思われる。 稲作の神は冬は 山にこもり、春に田に下りてくると言われているが、この山に祀られる神様も、 きっとそのようにして高麗の 人々の生活を何千年も見守ってきたのだろう。

 マンジュシャゲの群落が終わる地点には、あいあい橋という名の新しい橋が 架かっている。その先は、蛇行する高麗川を越えて飯能につながる山道に続いていく。 初めてここに来た時には、丁度逆からこの橋を渡って高麗に着いたのだが、山道を抜けて 日和田山を背景にしたこのΩ型の独特の地形を目にしたのは、とても印象的だった記憶がある。

 空から轟音が聞こえてきた。見上げると、自衛隊の輸送機が低空飛行している。入間基地に 帰るのだろう。暗くなってきた空にはすでに月が出ている。そのまま人影もまばらになった 巾着田を後にして車道に戻った。巾着田近くの 交差点には、まるで観光客が来るのを 見越しているかのように、煌々と明かりを付けたセブンイレブンが待ち構えている。 日が暮れると、 さすがに10月だけあって Tシャツと短パンではちょっと寒い。胃が疲れてきた感じはしていたが、 いい加減腹も減ったので、そこでパンとポカリを買い、横の細い道から駅 に向かう道をたどった。

水天の碑

 畑と住宅の間を縫う細い坂道を上っていくと、巾着田を 見下ろすような草むらに 水天と書かれた石碑があった。隣の説明板を読むと、天保年代(1830〜1844) に台村の人々が水害や旱魃といった天災や水難事故を鎮めるために建てたのだと書いてある。 やはり、極端に高麗川が蛇行する巾着田と その周辺は、川の氾濫による水害が多かったのだろう。 現在も巾着田で行われている土木工事は、もしかしたら水害対策なのかもしれない。 また、そこには西川材運搬の為の筏流しにも関係するとある。 西川材とは、日和田山をはじめとする 奥武蔵の山から切り出される木材の ことで、江戸開府と同時に始まった江戸の建設ラッシュのために、 高麗川から川越、新河岸川経由で大量の材木を筏にして供給していたのだそうだ。 この西川材という名は、江戸から見て西の川から運搬されてくるので 付いたのだという。現在でもこの地域 には林業を営む人が多く、西川材を地域ブランドとして立ち上げる試みも なされている。しかし、産業としての林業を成立させるのは、なかなか難しいようだ。むしろ、 高麗のような都市近郊の山あいの地は、東京から のアクセスのしやすさを利点として、都市部の人々が気軽に里山と触れ合える場とするのが 理想なのかもしれない。

台の高札場跡

 水天の碑から道なりに右に行くと、高麗駅に向かう車道に出る。 丁度その道の脇に、瓦屋根を付けた小さな祠のようなものがある。説明板には 台の高札場跡と書いてあり、良く見ると屋根の下に何事か 書かれた板が貼ってある。説明によると、江戸時代には、交差点には 幕府のお触れを書いた、このような高札場があったのだそうだ。今ここにあるものは、 復元されたもので、書かれているのはキリシタン 禁令に関するものだという。このような文書が張り出されていたということは、農村だった 高麗の人々の識字率が高かったということなのだろうか。もちろん文書の内容は、口コミでも 広まったことだろうが、江戸時代の日本人の識字率は世界一だったというし、高麗神社の 代々の宮司が教育熱心だったことを考えると、江戸時代の高麗の人々はこういった高札を きっと普通に読んでいたのだろう。

 暗くなった道は、ヘッドライトを付けていても路面が見えにくく、街灯のない場所では段差 で自転車がバウンドして何度か転びそうになった。帰りは行きと同じ道をたどるつもりだったが、 所沢を過ぎたあたりで道を間違えたらしく、途中から方向感覚だけで進まなければならなかった。 大泉のあたりだったろうか。住宅街の細い道を通っていると、突然小さな牛舎が現れて驚いた。 かつて立野の駒がいなないていた武蔵野の面影は、 こんなところにかすかに残っている。


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