平成17年10月14日 武蔵野

練馬

 寝坊してカーテンを開けると、正にお出かけ日和の秋晴れの空が広がっている。 昨日の天気予報ではぐずつくと言っていたのでゆっくりしていたのだが、人工衛星を使 っても 秋の空を見極めるのは女心と同様に難しいようだ。

 急いで朝食をとり、ばたばたと荷物を揃え、自転車のタイヤに空気を入れてから出発した。 外はカラッとした空気に、抜けるような青い空の典型的な秋晴れで、自転車で風を切って 進むにはピッタリの日だ。 自宅から練馬駅の手前を抜け、目白通りを下る。五十日ではないせいか、 それほど交通量は多く ない。時々、排気ガスに混じってキンモクセイの甘い香りが鼻をくすぐる。 これから40km程、約3時間の道のりを自転車で走るには、水分と糖分を補給し続けなければ ならないので、途中見つけたコンビニでポカリスウェット、ミニあんぱんにミニクリームパン を買った。

新座

 道は途中で関越道とぶつかった。その横に並行する緩やかな起伏のある道を走っていると、 住宅地の間に畑や昔のままの雑木林が点在しているのがわかる。 大泉から高架となった高速を外れ、大きく下って中沢川、黒目川を越えて再び登ると 新座市に入る。 小さな丘陵が続くこの地形は、武蔵野段丘といい、 ここらあたりは多摩川と荒川にはさまれた 武蔵野台地の荒川寄り、丁度北東端に当たる。その荒川周辺は、温暖で海水位が高かった縄文時代には 海が広がっていたことが分かっている。さっき下った低地は、その海に注ぎ込むかつての 川だった所で、現在は細々と流れている黒目川やその先にある柳瀬川も、かつての海、 現在の荒川に注ぎ込んでいた多摩川の旧流路だったと見られている。

 このようなゆるやかな起伏の地形が続いているこのあたりは、人が住みやすかったのでは ないかと思うが、富士火山灰が降り積もった関東ローム層の土地は、水はけが良すぎて 少なくとも 稲作には向いていなかったようだ。稲作を重視しなかった縄文時代までの遺跡も、 海や川沿いの丘周辺にのみ集中して展開していることから、水の無い武蔵野の内陸は、 必ずしも住みやすいとは言えなかったのだろう。

 大和朝廷が関東に覇権を広げた後も、 武蔵野の開発には手こずったようで、結局、当時最先端の技術を持った朝鮮渡来人を開発の為 入植させる事が多かったことが『日本書紀』を始めとする記録に残っている。ちなみに ここ新座(にいざ)から東武東上線沿いに連なる 志木(しき) 白子(しらこ)という 地名は、かつて入植した新羅(しらぎ)人を中心とする渡来人が この周辺を開発したことから ついたものだという。このことは、『日本書紀』持統天皇元年(690)四月十日の
「自ら 帰化してきた新羅の僧尼と百姓男女22人に、武蔵国の土地食糧を与え、生活できるように させた。」
 という記述や、『続日本紀』天平五年(733)六月二日の項、
「武蔵国埼玉郡の新羅人徳師ら男女53人に金姓を与えた。」
 さらに天平宝字二年(758)八月二十四日の項、
「帰化した新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を、武蔵国の未開発地に移住 させた。ここに初めて新羅郡を設置した。」
 という記述を根拠としている。この新羅郡は、 後に志羅木(しらき)志木(しき)志羅木(しらき)白木(しらき)白子(しらこ)あるいは 新羅(にいら)新倉(にいくら)新座(にいくら)新座(にいざ) と転化し、現在の新座周辺の 地名として残ったのだそうだ。実際に地図を広げてみれば、新座市には現在でも 新倉という地名が残っていることがわかる。

 今でもここには金子 姓が多く、地主は皆渡来人の子孫だという。それに昭和に入って宅地開発される前は、 周辺に古墳も多く残っていたそうだ。ちなみに現在私が住んでいる練馬の豊玉周辺には 白井(しらい)姓がやたらと多い。そもそも地名に と 付いている練馬は、日本に馬を持ち込んだ朝鮮渡来人とかかわっていることは多いに 考えられる。今、丁度渡った黒目川の新座側、練馬との境には馬場 という地名が残って いる。天宝七年(1836)に出版された『江戸名所図会』では、この黒目川を 黒馬川 と呼んでいる。さらに、現在の和光市白子あたりから黒目川をはさんで、 柳瀬川まで続く起伏のある武蔵野段丘は、古来立野(たての)の駒と呼ばれた 名馬の産地として有名で、天暦五年(951)の 『後撰集』を始めとする多くの勅撰和歌集にも詠まれた牧野だったことが述べられている。 この立野という地名は、 現在では東久留米市を流れる黒目川の支流、立野川にのみその名を残しているが、 藪のような草原が広がり、不毛の地と思われていた かつての武蔵野を、渡来人達が逆に馬の放牧の適地として利用したことは想像に難くない。 恐らく我が家の近所、練馬に多い白井さん達は、 立野で馬の放牧を生業としていた新羅系渡来人の子孫達なのだろう。

野火止用水

 黒目川を渡って路地を方向感覚だけで進んでいくと、産業道路 なる広い道に出た。 そのまま その道をまっすぐ行って、関越道を越える手前を左に曲がると、堀のような細い川とぶつかる。その手前に、 野火止(のびどめ)用水史跡と書かれた石碑がたっていた。 用水に沿って続く雑木林の細い遊歩道に説明板が見えたので、 自転車を停め、休憩も兼ねて見に行った。走っていると風であまり暑さは感じないのだが、 自転車を降りると、汗がどっと噴出してくる。 説明板の写真を撮っていると、散歩をしていた人の良さそうなおじさんが、 声を掛けてきた。

「これ、太田道灌が造ったんでしょ。荒川まで続いてるんだよね。」

「へえ、そうなんですか。」

 用水の歴史は良く知らなかったので感心して返事をすると、おじさんは得意げに

「昔はもっと広かったみたいね。荒川の方まで行くと、水路ももっと広くなって、 鯉もみんなもっと大きいよ。」

「へえ、水路の大きさで魚の成長度合いも決るんですね。」

 と、感心してポカリを飲みながらあらためて説明板を見ると、 この用水は、承応四年(1655)に川越城主だった松平伊豆守信綱によって武蔵野開発の一端として、 野火止台地開発のため造られた、と記されている。どうやら用水を造ったのは、 太田道灌ではなさそうだ。 そう突っ込んでみようかと思ったが、人の良さそうなおじさんを わざわざへこます事も無いか、と思い直してやめた。

 用水は玉川上水から水を引き、おじさんの言う荒川ではなく、新河岸川まで 全長25kmあるという。説明の下に図が付けられ、現在地が矢印で示されており、 近くに平林寺があることがわかる。

 この平林寺は、もともと埼玉県の岩槻にあったものを、 松平信綱が野火止用水開削を期に 菩提寺としてここに移した禅寺だ。境内には武蔵野の森がそのまま残り、国の 天然記念物に指定されている。また、この寺の池にある中島には、 弘法大師お手製の弁財天が祀られている そうだから、もともと水に関わる古い信仰があったのかもしれない。 あるいは、中世にこの地を支配した豊島氏が造った密教系寺院があったのだろうか。 弘法大師お手製と言われる弁財天は、現在の北区王子の手前、石神井川沿いの金剛寺裏、 かつて弁天滝のあった祠にも祀られていたという。現在はその滝や祠、弁天像のいずれも 失われているが、平安から戦国までこの石神井川流域を支配した豊島氏は、 平安後期に勃興した新興武士団、 武蔵七党秩父氏に連なる系譜を持ち、 熊野権現や、真言宗といった紀州ゆかりの宗教を尊崇したことで知られており、 石神井川流域を遡るように 領地を拡大している。そう考えると、池のあるここに、金剛寺同様、蛇を使いとする水神、 空海と縁の深い弁財天を祀る真言宗の寺院を建立 していたとしてもおかしくはない。しかし、豊島氏縁の神社や寺院は、 豊島氏が文明九年(1477)に太田道灌に滅ぼされると、 例外なく荒廃している。もしかしたら平林寺は、以前ここにあったそうした豊島氏縁の寺院 跡地を利用して建てられたのかもしれない。

 ところで、野火止用水を開削し、ここに平林寺を移した老中松平信綱は、 玉川上水開削総奉行として 働いた人物だが、その功績により、自領内に玉川上水からの分水を許されたのだという。 この野火止用水は、わずか40日の突貫工事で完成したそうだから、もしかしたら彼は、 玉川上水開削工事中に このルートの目処をつけていたのかもしれない。

 その後、川越藩は用水周辺に計画的に 農民を入植させ、 藩を上げての新田開発を成功させている。新田開発というからこの用水は、 てっきり農業用水かと思ったのだが、周辺農民の飲料水、生活用水として 利用されたのだそうだ。つまり、この野火止周辺は農業以前に、 生きる水にも事欠く不毛の地だったということなのだろう。実際にこの地を開拓した 農民達は、枯れない 用水を造った松平伊豆守信綱に感謝し、伊豆殿堀とこの用水を呼んでいたのだという。

 しかし、新田開発とはいうが、これが 農民の生活用の水だとしたら、ここで 栽培されていたのは、水を大量に使う稲ではなく、 火山灰質の土に適し、水をそれほど必要としないサツマイモのような畑作物だったの ではないだろうか。もっとも、サツマイモは寛延四年(1751)に所沢の吉田家で栽培されたのが 武蔵野では最初とされているので、野火止用水が開削された頃に周辺で栽培されたのは、 サツマイモ同様、関東ローム層に適し、大量の水を必要としない牛蒡や大根だったの かもしれない。

 と、思って江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』を引くと、果たして 新座群総説土産の項に、
「大根、牛房、蕪根、芋 四種最も多く味美なり、その餘 諸菜をも耕して江戸へ運ぶ」
 とあるから、やはり土地に合ったものを効率よく作っていた 事が分かる。そもそも、武蔵の語源は、朝鮮語で芋の種という意味の モシシではないかという説がある。『新編武蔵風土記稿』の記事は、 この地を切り開いた朝鮮系渡来人たちが、芋の栽培に適したこの地を 芋の種と呼んだとしてもおかしくはないことを示している。もちろん、当初は 芋といえばサトイモのことだったのだろうが、江戸後期にはサツマイモが特産物の一つとなり、 今でも川越名物となっている。そのサツマイモは、焼き芋の味が栗(九里)のように ホクホクしているので、 八里半という洒落た名前で江戸っ子に人気となり、さらに 九里(栗)より(四里)うまい十三(9+4)里の キャッチコピーで川越の名産品として不動の地位を築いたのだそうだ。

 そのサツマイモを始めとする川越産の農作物の 流通を支えたのが、野火止用水もつながる新河岸川だ。 信綱は、川越を流れる新河岸川の水運を、江戸への 重要な 物資輸送路として初めて活用したことでも知られる。当時急激に人口が増えた江戸で必要とされた 大量の農産物や炭、そして材木を川越から送り込み、帰りは都市から出たし尿や生ゴミ、 つまり肥料を持ち帰って 農地で活用するという、理想的な循環システムを作り出している。この江戸を支えた周辺農地の 活用法は、都市の汚物を資源として利用し、極めて衛生的であるため、 幕末に日本を訪れた多くの外国人が、自国の都市の不衛生さと比較しながら、 驚きを持って賞賛している。野火止用水は、巨大都市江戸とその近郊に広がった この循環システムの一端を担う輸送ルートとしても活用されていたと考えると、そのスケールの 大きさに驚かされる。

 用水に名を残す野火止という地名の由来はいくつかあるが、もっとも有名なのが平安時代の『伊勢物語』 第十二段、通称「武蔵野」として知られる話だ。これは、ある男が人の娘を奪って武蔵野を 駆け落ちした 時に、追手が迫った為、娘を草むらに隠して逃げた。追手が男をあぶりだすため火をつけようと したところ、草むらから娘が、
武蔵野は けふはな焼きそ若草の つまもこもれり我もこもれり  (今日だけは野に火を放つのはおやめください。若草のような夫も私も身を 潜めているのですから)
 と詠って野焼きを止めさせ、二人とも捕まってしまった、というロマンティックな話だ。 平林寺には『伊勢物語』の作者とされる(実際は複数の人物によると考えられている)在原業平 にちなんだ業平塚という塚まである。

 また、文明一九年(1487)頃に聖護院門跡、同興准后(どうこうじゅんこう)が記した 『回国雑記』には、「けふはなやきそ」と詠んで野火が消えたため、この塚を 野火止の塚と呼んだとあり、この野火止の塚が、 現在の業平塚に当たると思われる。

 しかし、平林寺境内にはこの業平塚以外にも 九十九塚 と呼ばれる塚群が 存在している。『江戸名所図会』では上記二例の名称由来譚を引用した上で、 実際はこの付近で 焼畑農業をしていた頃の名残であり、野火の延焼を防ぐ目的で塚が造られたので、 野火止の名が付いたのではないかと述べている。

 現在の日本ではほとんど見られなくなってしまった焼畑農業は、縄文後期には行われていた といわれ、第二次世界大戦後まで日本でも各地で見られた耕作方法だ。 現に『江戸名所図会』では 当時秩父や信州で実際に焼畑生産された蕎麦が、焼き苅り蕎麦という名で 呼ばれていた、と書かれている。平安後期まで富士火山灰が 降り注ぎ、原野が広がっていた痩せ地の武蔵野を開拓する時に、野焼きを行うのは 最も効率が良い方法だと いえる。ましてや、そこを牧草地として渡来人が開発したのなら、牧草となるイネ科、マメ科 の植物を育てる為、定期的に火入れをしていたことは十分考えられる。恐らく 野火止の地名は、『江戸名所図会』のいうように、古い時代に焼畑を行っていた頃の 呼び名が、そのまま現代まで残っているのだろう。

 現在の野火止用水は、戦後生活用水を流され、悪臭漂うどぶ川となった為、一時水を 止めていたものを、新座市が史跡として部分的に整備したのだという。明治三十四年(1901)に 出された国木田独歩の『武蔵野』に、
「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景を以て絶類の美を 鳴らして居たように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。」
 とあるが、周囲を見渡すと、 高速道路や 倉庫、住宅などの人工物が並び、かつての萱原や牧野の面影を感じる事はできない。 ただ復元された用水横の散歩道を覆う木立にのみ、明治の文人が愛した武蔵野 の片鱗を感じ取る事ができる。

 私に話かけてきた人の良さそうなおじさんは、散歩を続けるべく挨拶をして去っていった。 私も先を急がねばならないので、汗が引かないまま再び自転車にまたがった。

城山神社

 野火止用水から関越道に沿った細い道を行くと、左手のコンクリートの建物に にいざ温泉と看板がかかっている。武蔵野段丘でも最も標高の高いところに位置し、 水に苦労したこの丘の上に何故温泉?関越道建設中に 掘り当てたのか?などと思ったが、元はただの健康ランドだった ものを、オーナーが一発奮起して敷地を掘ったところ、地下1,500mの温泉を 掘り当てたのだと言う。アクセスが悪いのと、料金が少し高い(平日1,650円、休日1,950円) のでそれほど知られていないが、泉質は結構良いのだそうだ。しかし、ここで温泉になぞ 浸かってしまうと、目的地の高麗までたどり着けない。残念だがアンパンをかじりながら横を 通り過ぎた。

 そこから先の志木街道を渡り、細い道をしばらく真っ直ぐ行く。そのまま古そうな団地を 通り過ぎると 高速沿いの細い道は終わった。そこを左に曲がり、さらに団地向かいの斜面を下ると 柳瀬川通りという道に出て、柳瀬川の近くに来た事が分かる。柳瀬川通りの先、 上宮稲荷神社のある交差点を右折してしばらく行くと、団地と大きな体育館の間を抜けて 橋に出た。昭和に入って武蔵野に急速に広がった人口の水需要に対応する為に 昭和九年(1934)に造られた人造湖、 狭山湖こと山口貯水池を水源とする柳瀬川は、黒目川に比べるとさすがに 水量が多く、河川敷も広い。周りには、その広い河川敷を利用して、公園や運動場が並んでいる のが見えた。

 橋を渡った右手に森が見える。真っ直ぐ行く道もあったが、森の 横を通る急坂を上ってみた。森は坂道を鬱蒼と覆っており、なんだか気味が悪いなあ、 などと 思っていたら、その坂沿いの森に”血の出る松”という石碑が立っていてぞっとした。 坂道を上りきると、城山神社の石碑があり、境内がかつて城だったころの見取り図が 書いてあった。この森は現在滝の城址公園として整備されており、神社はかつての本丸跡に 建っているのだそうだ。この城は、大永元年(1521)山内上杉氏の家臣、大石定重が要害の この地に造ったといわれ、かつては場内に滝が流れていた為、滝の城 と呼ばれていたそうだ。 城といっても兵が常駐するのではなく、対岸の清戸番所に詰めていた兵が戦の時に籠った いわゆる詰城だったという。後にこの城は北条氏のものとなり、天正十八年(1590)に 北条氏の小田原攻めを 行った豊臣秀吉の配下、浅野長政によってあっという間に攻め落とされてしまった、と 『新編武蔵風土記稿』には書かれている。

 その戦で浅野長政が多くの城兵を撃ち殺したので、ここに生えていた松を傷付けると、 幹から血のような赤い樹液が出てくるようになった、というのがさっきの 血の出る松 だ。 その松は枯死して既にないが、 同じ場所に松を植えようとしても、根付かずに枯れてしまうのだという。

 境内の見取り図を 見ると、本丸跡の上に「7世紀の横穴墓群が発見されたところ」と書いてある。 これは、滝乃城横穴墓と呼ばれる九基の横穴墓群で、人骨の他に金輪、ガラス玉、須恵器 などの副葬品が発見され、7世紀中頃のものと推定されている。こういった横穴 墓群は、同じ柳瀬川沿いや、その先の新河岸川沿いにも見られるが、いずれも規模が小さい。 近いところでは荒川の支流、市ノ川沿いの吉見百穴(ひゃくあな) という237基の大規模な ものが有名だ。これらは、いずれも渡来系の人々が、 川や湖周辺の斜面を利用して築いたことが分かっている。この吉見百穴周辺の比企地域には、 縄文時代から江戸時代まで続く大規模な遺跡が数多く発見されている。 こういった遺跡の規模の違いからも、内陸の武蔵野に比べると、古入間湾 と呼ばれる海だった縄文時代から 荒川周辺の水辺の方が生活しやすかったことがわかる。

 神社や横穴墓群を見に行こうかとも思ったが、さっきの血の出る松 といい、森の雰囲気 といい、なんだか死霊の匂いがぷんぷんするようで、気味が悪くて止めた。そのまま 細い道を行くと、旧道っぽい通りにぶつかったので左へ曲がり、所沢を目指した。

所沢

 旧道っぽいなと思いながら、狭い二車線の道を走っていると、どうやら本当に旧道のようで、 2車線とはいえ道幅が狭い上に結構交通量が多い。 時々歩道を走らなければ車に轢かれてしまいそうだったが、その歩道がまた 狭くて段差だらけで、いかにも
「この道は江戸時代に人専用に造ったので狭いんざんすよ、悪しからず。」
 といった雰囲気を漂わせている。そのまま真っ直ぐ走っていると、ファルマン 通りなる交差点に出る。そこはいわゆる谷になっており、 所沢 の沢とはこういった地形の場所をいうのかと思った。『江戸名所図会』では、
「所沢(あるいは野老沢(ところざわ)に作る)」
 と異字を当てている。野老(ところ)とはヤマイモの仲間のことで、 食用にはならないが、ヒゲ根が長いところから長寿のシンボルとされ、干したものが 縁起物として正月飾りに使われる。地名由来譚としては、かつて在原業平が訪れた時、 ここを流れる東川沿いに生えている野老を見て
「ここは、野老の沢か。」
 と言ったから、といわれている。この話はこじつけっぽいが、アイヌ語の ト・オロ・ベツ (沼を持つ川)が語源ではないかと言う説もある。サワ という言葉が そもそもアイヌ語 あるいは縄文語を語源とすると言われていることを考えると、アイヌ語語源説も 説得力がある気がする。その他に川が蛇行する様を蛇に見立てたとぐろ沢 説や、 同様の地形をふところ沢と呼んだという説もあるそうなので、 どれが正解なのかはわからない。 しかし、現在はカーリングの町として有名な 北海道の常呂(ところ)はアイヌ語を語源とするという話や、 沢という名が付くものの、周辺は 上水道が整備されるまで 水に随分苦労したため、水汲みの重労働から「所沢には嫁やるな」と言われていた 、などという話を聞くと、住みにくい内陸の武蔵野に 追いやられた縄文系の人々が付けた名前なのかもしれない、とも思えてくる。

 その交差点を渡ってサワを右に下ると、今までの旧道とは打って変わってピカピカに 舗装された 道が出現する。左手の所沢駅側には、高層マンションを建てるタワークレーンがにょきにょき 並び、再開発真っ盛りといったところだった。しかし、通りの反対側には昔ながらの町屋や 蔵、 看板建築の小さな商店がまだ残っており、かつての街道の面影を感じさせてくれる。この 通りは、いわばかつての所沢銀座で、江戸と秩父を結ぶ 秩父街道 の中継地点として 賑わったのだそうだ。『江戸名所図会』には、
「三八の日、市ありて賑はえり。」
 とあり、街道の中継地点、宿場町が、その後商業地になった事が分かる。この所沢銀座に並ぶ 古い商店は、所沢飛白と呼ばれる綿織物を中心に農産物や様々な日用品を扱っていた商家が 今に残っているものなのだそうで、痛んでいる建物も多いが道の反対側に 生える高層マンションなぞよりもよっぽど趣がある。近年、所沢は東京のベッドタウンとして 開発されているので、マンション建設も当然なのだろうが、せっかく古い町並みが 残っているのだから、バランス良く開発してほしいものだ。

金山町交差点

 通り沿いの高層マンションの下にあるコンビニでスポーツドリンクを買い、 銀座 通りを 行くと、金山町交差点に出る。金山 とあるからここにも古代に渡来系の人々が入植して いたのか、と思ったが、近くに建つ金山神社の縁起には、 天文十五年(1546)に川越の戦いで 上杉氏に敗れた斎藤氏が野老沢に移り住み、奈良から金山権現を勧請した、とあるからそれほど 古くは無いのかもしれない。ところが、金山町交差点の近く、東川沿いに弘法大師ゆかりの 三ツ井戸がある。現在は三つの内の一つしか残っていないそうだが、その伝説は、 旅僧(弘法大師)が 機を織る娘に水を請うたところ、遠くに水を汲みに行く姿を見て、井戸を掘る三箇所を 教えて去って行った、というものだ。さらに、この井戸の近く、これも東川沿いにある 新光寺は行基(668〜749)作の本尊を持つという真言宗の寺だ。 この寺は旧鎌倉街道沿いにあり、 秩父街道と交差している場所と近いことからも、交通の要所にあった古い寺である ことがわかる。

 この新光寺 創建には、源頼朝が関わっていたと伝えられている。狭山丘陵から入間、 そして所沢近郊は、平安後期以降勃興し、頼朝の鎌倉幕府成立に寄与した新興武士団 武蔵七党の一つ、村山党が支配 していたとされる。その村山党の有力氏族に 金子氏がいる。金子氏は、 元々入間市金子の白髭神社に一族の墓があり、白髭神社とは 新羅系あるいは高句麗系渡来人の祖先を祀ったものだといわれる。このことや、『続日本紀』にある、 新羅系渡来人に姓を与えた、という記述などからも、金子氏が渡来系 氏族であることが分かる。金子氏が本拠としたのは、 白髭神社のある入間市金子周辺だが、その入間川沿いの地は元加治 と呼ばれ、入間川を 挟んだ地域は、これも武蔵七党の一つ、高句麗系渡来人の子孫と思われる 丹党加治氏 が支配し、少なくとも室町時代には この近辺の鉱物資源を利用した武具工房が数多くあったことがわかっている。それらの工房が 平和な江戸時代以降も第二次世界大戦後まで 仏像や鋳物などを造り続けていた事が示すように、かなり豊富な資源があったことがわかる。 その地域を支配していた加治氏は、その名からも 元は鍛冶すなわち金属加工技術を もった渡来系氏族だったと考えることができる。

 全国各地に残る 弘法大師伝説は、水と共に鉱物資源の存在も 示唆していることが多い。同様に、金属神を祀る金山神社も、 かつて鉱山だったところに多い。三ツ井戸金山神社の存在は、 実際にこの金山町周辺に 鉱物資源があった可能性を物語っているの かもしれない。実は、東川の水源となる狭山丘陵や、多摩丘陵、そして、 その奥に連なる加治、高麗丘陵や 秩父は、関東ローム層でも最も古い多摩Tローム層と呼ばれる 火山灰質の土で覆われている。この多摩Tローム層には磁鉄鉱が多く含まれており、 この土が川に流されると、重い鉄が砂鉄として川岸にたまる事がある。つまり狭山を水源 とする東川沿いで良質の砂鉄が採れた可能性がある。実際、加治丘陵では、今でも良質の砂鉄が 出るのだという。 また、三ツ井戸の伝説にある機織は、 大陸から持ち込まれた技術であり、ここに渡来系の人々がいたことを 象徴している。そして、この伝説は時代的にも武蔵七党が 勃興した時期に重なっている。とすれば、この金山町は、渡来系の金属加工技術を持つ金子氏あるいは 加治氏が、 その技術力を駆使して勢力を伸ばした根拠地の一つだったのかもしれない。あるいは、 鎌倉幕府滅亡と共に没落した両氏が、最後にたどり着き、かつての栄光をしのんだ 土地だったのだろうか。

小手指ヶ原

 金山町交差点は、五叉路なので向かうべき方向に行くには、横断歩道を二つ渡らなければ ならない。あんぱんにも飽きていたのでクリームパンをかじりながら信号待ちをしていると、 向かいのおばさんが「変な人がいる」という顔をしてこちらを見ている。実際私は 自分でも常識的な変人なのではないか、と薄々感づいてはいるが、最近暗い犯罪が増えた お陰で街の人やおまわりさんの視線がきつい、と感じる事が多くなった。例えばラーメン屋を 探して自転車でうろうろしていると、おまわりさんに職質され、野良猫と会話していると、 近所の人にじろじろと見られ、下手をすれば怒鳴られる、という具合だ。嫌な時代になった。 だが、そんなことは、まあ、いい。

 交通量の多い交差点から右の一段細い道に入り、西武線の高架をくぐり、これも古そうな さびれた商店街の横を通り過ぎる。そのまま道なりに緩やかな坂を上っていくと、 広い道とぶつかる。そこを右に曲がり、広い歩道を飛ばして走った。 国道463号線は、出来てからそれほど時間がたっていないのだろうか、と思わせるくらい舗装が しっかりしていて道幅も広く、走りやすい。恐らくこの先に航空自衛隊の入間基地が あるせいだろう。もしかすると滑走路としても使えるように考えられているのかもしれない。 道沿いには自動車販売店や外食チェーン店が あるものの、高い建物も見当たらず、空が広くて 走っていて気持ちが良い。走っていると小手指ヶ原の交差点を通り過ぎた。 小手指といえば、西武池袋線の車庫があり、池袋発の電車はこの駅が終点になっているものが 多い。個人的には、小学生のころ大笑いしながら読んでいた いしいひさいちの漫画、 『がんばれ!!タブチくん!!』でタブチがたこ焼きをやけ食いする場所として 強烈に印象に残っているが、小手指名物がたこ焼きだとはついぞ聞かない。

 たこ焼きはともかく、小手指ヶ原と言えば、古戦場として知られる。元弘三年(1333)鎌倉幕府 打倒を目指す新田義貞が、ここで金沢貞将・桜田貞国らの幕府軍と戦い、幕府軍は近くの 久米川に退却。陣を立て直すが、結局破れ、鎌倉まで攻め込んだ新田軍により、 鎌倉幕府は滅亡している。

 先にある誓詞橋交差点は、新田義貞が鎌倉幕府打倒を誓った場所といわれ、 所沢の新光寺にも、戦勝祈願して小手指ヶ原の戦いに向かった義貞が、帰路 満願成就を感謝して鞍を寄進した、という話が伝わっている。その新田義貞の鞍にちなんだのか、 新光寺の祭りは馬の祭りとして有名だったのだそうで、 かつては近郊の馬達が飾り付けられ、 鈴を鳴らしながらお堂の周りを練り歩き、馬の健康と交通安全を祈願したのだそうだ。これは 交通の要所として古くから馬が置かれた所沢駅、そして、馬の放牧地だった 武蔵野を象徴する 祭りだったのだろう。しかし、馬が生活から遠のいてしまった現在は、残念ながら 祭りで馬の姿を見ることは出来ない。

狭山

 誓詞橋の先から急な上り坂が始まる。息を切らしながらペダルを踏んでいると、 坂の途中に小さな牛舎があったりして、かつて牧野だったころの武蔵野の片鱗を 感じさせてくれる。坂を上りきった交差点に西狭山ヶ丘1という表示があり、 丘に上ったのだという実感が湧く。狭山とは、小さな山が連なっているから付いた 名だというが、むしろ地下を走る立川断層の活動で丘の間に出来た 池の姿が、大坂で7世紀前半に造られた日本最古のダム式ため池狭山池に 似ているところから付けられた のではないか、という気がする。大坂の狭山池には以前、安藤忠雄の建築を巡る旅 をした時に狭山池博物館にも行ったので、古代の国家事業として川をせき止めて 建設され、行基や重源といった高僧により 改修を繰り返した歴史や、治水ダムとして使われている現在の様子を知った。 恐らく、古代の武蔵野でこの池を見た中央 の役人は、まるでダイダラボッチが造ったような天然ダムが水をせき止めている様子に、大坂の 巨大な人造池の姿を重ねたに違いない。

 しかし、天然のダムだった 埼玉の狭山池は、 江戸時代に池をせき止めていた地盤を人為的に破壊しており、『江戸名所図会』には、
「狭山の池と称するものは、狭山の麓にありて、一所をさすにあらず。いまみるところも三所 ばかりありて、土人、いづれをも狭山が池と称せり。」
 とあり、江戸時代には本来池のあった場所には存在せず、小さな池がその麓に数箇所あった だけだったことがわかる。現在我々が知る大きな 山口貯水池こと狭山湖の姿は、東京の水がめとして昭和九年に 人工的にダムを造り、多摩川の水を引き込んで成立したものだ。規模の違いは あるのかもしれないが、恐らく現在の狭山湖は、かつての 狭山の池 の姿に近いのではないかと思われる。

 自転車で走っていると、ここの地形は山というより丘といったほうがふさわしい気がする と思ったのだが、地名の由来 が池にあったのだとすればそれも理解できる。実際に 狭山丘陵と呼ばれるここは、現在では茶の名産地、そして宮崎駿の映画 「となりのトトロ」 の舞台となったトトロの森のある場所として知られている。 残念ながらトトロの森 はここから西の狭山湖周辺にあるのでそれらしい雰囲気を 感じる事は出来ないが、時折現れる茶畑に狭山を走っているのだ、と実感した。

入間川

 丘の上を走る道は、ますます空が広くなり、丘陵地帯の地形が見渡せて面白い。 ここから先は、武蔵野でも古い時代に形成された場所なので、その分今まで 走って来た場所より台地の侵食が進んでいる。人工物に覆い尽くされているので分かりにくいが、 所々川によってえぐられた低地がある。線路や街の多くは、 その低地に沿って造られており、新しいマンション群は、それらを見下すような高台に 建てられていることがわかる。

 狭山丘陵から加治丘陵に向かう途中、下り坂が 始まる小谷田交差点に、ふれあい橋という 大きな歩道橋があり、 自転車も通れるようになっている。上ってみると、四方が見渡せ、 歩道橋というより展望台と言っても良いくらいだ。景色が良いので休憩も兼ねて、 写真を撮った。もう午後2時を過ぎているので、 空気がよどみ、晴れている割に見通しはきかなかったが、先にはかすかに奥武蔵の山並みが 見渡せる。よく見れば、秩父の名峰武甲山のシルエットまで幻のように浮かんでいた。

 ふれあい橋から急坂をすべるように下りると、霞川を渡った ところで圏央道とぶつかる。その圏央道に沿う 入間川に向かう道もかなりの急坂で、 さらにスピードを上げて道を下る。丁度この左手の丘が加治丘陵で、 武蔵七党金子氏が本拠としたあたりになる。ちなみに現在、武蔵野音大のあるこの丘に は金子坂と呼ばれる古い道があり、その周辺には8世紀から9世紀に 須恵器や瓦を焼いていた 大規模な登り窯跡群がある。これは、北武蔵三大古窯跡群の一つ、 東金子窯跡群として知られる。この須恵器を成形する ろくろや、 瓦を焼く登り窯(正式には、現在陶芸で使われる登り窯と区別するために 穴窯と呼ばれている)は、『日本書紀』の記述から、 5世紀に百済系渡来人により、その技術が初めて日本に持ち込まれたとされている。 日本に仏教を伝え、多くの新技術や知識をもたらした百済人は、大和朝廷と つながりが深く、朝廷のある関西を中心に活動しており、現在の我々にもその影響が残っている。 例えば、日本では漢字の音読に呉音を用いる。 とは、 中国南部、長江下流域にあった国のことで、百済はこの周辺地域と交流が 深かったため、文化的影響を大きく受けている。 当然、漢字発音には、呉音が用いられ、それが百済人と共に 日本に輸入されて定着し、現在まで用いられている。 一方、同様の技術を持った高句麗や 新羅の渡来人達は、まるで百済人から隔離するように荒れた辺境、特に関東に移されたことが、 『日本書紀』や『続日本紀』の記述に見える。恐らく金子坂で穴窯を使い、 須恵器や 瓦を焼いていた人々は、当時の最先端技術を持っていたそのような高句麗、新羅系渡来人や、 その子孫達だったのだろう。

 この窯で焼かれた瓦は、『続日本後紀』(869)の承和十二年(845)の項に、
「武蔵国が言う。去る承和二年(835)に神火(落雷)により焼け落ちた国分寺七重塔一基を、 前男衾郡大領、外従八位上の壬生吉志福正というものが、朝廷の為に再建したいと 申し出たのでこれを許可した。」
 という記述があり、この時の武蔵国分寺七重塔再建に使われたことがわかっている。

 七重塔を焼いた神火(落雷)は、避雷針が無かった時代には当然のように塔や寺院などの 大建築にしばしば被害があったことが記録に残っているが、神護景雲三年(769)の太政官府には 入間郡での記録が残っている。それは、
「神護景雲三年、入間郡の国家の正倉四軒で火災があり、備蓄米10,513石が焼けた。百姓十人 が重病で、二人が頓死した。」
 というものだ。原因を占うと、出雲伊波比神が最近幣帛(へいはく)が滞っていることに 怒り、雷神に火を放たせた、と出たという。

 この話に出てくる入間郡がいつ成立 したのかは残念ながら知らないが、大伴家持(718頃〜785)が編纂したと言われる『万葉集』 巻第十四に、
入間道(いりまじ)の於保屋が原(おおやはがはら)のいはゐつら  引かばぬるぬる我にな絶えそね
 の歌が現れ、『続日本紀』神護景雲二年(768) 七月十一日の項には、
「武蔵国入間郡の人で、正六位上・勲五等の物部直広成(もののべのあたいひろなり) ら六人に入間宿禰(いるまのすくね)の姓を賜った。」
 とあるから、少なくとも8世紀には存在していたことがわかる。 イルマという 音は、明らかに日本語ではないという気がするが、最近では韓流ドラマの 火付け役となった冬のソナタのサントラでピアノを弾いた韓国人ピアニスト イルマさんが有名で、ドラマと共に人気なのだそうだ。 ちなみに朝鮮語でイルマとは、 志を果たすという意味だそうだから、もしかしたらここ入間は、 渡来人達が武蔵野を開拓するという志を果たす為に付けた名前なのかもしれない。 少なくとも道の右手にある高倉は、この先の 高麗に入植した 高句麗系渡来人達が開拓したことで知られている。彼らは霊亀二年(716)に 入間郡 の一部を分けて高麗郡を創設した後に高倉に住み着いた、 とされているから、入間郡建郡は、それ以前の7世紀まで遡る事ができるのでは ないかと思われる。

 地名由来譚としては、この他に入間が名栗川と霞川の 入間(いりあい=合流)地点にあたることから付いた、という 地形由来説や、昔、太陽が二つ出て地上の草木が枯れ果ててしまった為、ある武士が太陽の一つ を射たところ、化けていた三本足の烏が落ちてきたので、その土地を 射留魔(いるま) の里と呼ぶようになったという伝説がある。地形由来説はなるほどという気がするが、 射留魔(いるま)説に登場する三本足の烏は、『古事記』で神武東征の道案内をした と書かれる紀州熊野の神の使い、 八咫烏(やたがらす)であり、古代中国では太陽の黒点を象徴する鳥とされる。 その中国では、 後漢(25〜220)時代に王逸が書いた『楚辞章句』の中で、 淮南王劉安(B.C.179〜123)が編纂した『淮南子』の次の伝説を引用している。
「堯(げい)が天を仰いで 天にある十の日を射るよう命じたところ、 九日に命中した。九日のなかにいた九羽の烏〔九烏〕はみな死んで、その羽翼を落とした」
 残念ながら現在残っている『淮南子』にこの話は載っていないが、 明らかに射留魔(いるま)説と酷似している。『淮南子』は、 8世紀の奈良時代に日本に伝わったといわれているが、もしこの 地名由来譚が『淮南子』の話をモデルとしていたのならば、 7世紀には既に存在していたと思われる入間郡建郡以降に作られた話ということ になり、矛盾が生じる。恐らくこの射留魔説 は、日の昇る方角の東国にあるイルマの音に『淮南子』や『古事記』に登場する 太陽の使い八咫烏(やたがらす)の話をこじつけて成立したもの と見てよいだろう。

 ところで、入間宿禰の姓を賜った広成の元の姓、 物部と言えば、用明二年(587)に 蘇我氏と本邦初の宗教戦争をして敗れた物部氏を連想する。しかし、 物部 直広成の祖は、聖徳太子の舎人で舒明五年(633)に武蔵国造となった 物部直兄麻呂(もののべのあたいえまろ)といわれ ている。兄麻呂が蘇我方の聖徳太子の舎人だったということは、同じ一族の物部守屋とは 直接的な血縁がなかったか、あるいは戦争以前に物部方に内部分裂があったことを物語る。 それとも6世紀に大和朝廷が朝鮮半島に度々軍を派遣した時、物部氏の名も数多く登場しており、 その時に生まれた朝鮮人との混血の子孫が 日本に来ていたのだろうか。そう考えると、『聖徳太子伝暦』にある、 兄麻呂が聖徳太子に仕え、仏教を奉じ、渡来人の多い武蔵野に派遣 された、ということが理解できる気がする。いずれにしろ、 代々武人として朝廷に仕えていた物部氏の兄麻呂は、 武蔵国大宮に赴任し、東北の蝦夷に備える前線指揮官としての役割も担っていたのではないか と思われる。 実際に兄麻呂が赴任した4年後、舒明七年(637)に
「蝦夷が反乱を起こし、大仁上毛君形名(だいにんかみつけのきみかたな)を将軍として 派遣したが破れ、妻に叱責されて軍を立て直し、ようやく平定した。」
 という記述が『日本書紀』にある。この時に物部直兄麻呂も共に戦ったのかどうかは 分からないが、少なくとも後衛として何らかの役割は担っていたのではないかと思われる。 入間の物部氏は、その兄麻呂の傍流子孫が大宮から移り、代々勢力 を蓄えてきたようだ。 入間宿禰の姓を与えられた広成は、やはり物部の家系であることを物語るように、 天平宝字八年(764)の 藤原仲麻呂の乱鎮圧で功を奏し、陸奥の蝦夷征討軍で征東副使となるなど 武人として活躍し、その後造東大寺次官となっている。そういった中央での華々しい活動を 反映するかのように、ここからは少し離れるが、川越の北、 現在の坂戸市から鶴ヶ島市にかけて、入間物部氏の本拠地 入間郡衙(ぐんが) 跡ではないかとされる勝呂(すぐろ)廃寺若葉台遺跡など、 同時代の大規模な寺院跡や都市遺跡が発掘されている。入間郡衙候補地は他にも 幾つかあるため、実際のところ若葉台遺跡が本当に物部氏の建設した都市 なのかどうかはわからないが、少なくとも さっき通り過ぎた小手指ヶ原の近くには、 物部氏の氏神を祀った物部天神社があり、 小手指ヶ原古戦場にある 白旗塚からは石器や土器などが出土する為、物部氏の古墳なのではないかと いわれている。もしかしたら金子坂の窯跡も、最初は物部氏が中央で培った豊富な財力を元に 寺院や都市を建設するため、当時の最新技術を持った渡来人達を集めて造ったもの なのかもしれない。

仏子

 道は入間川に向かってさらに傾斜を増し、自転車もすべるようにスピードを増して下っていく。 行きは楽で気持ち良いけれど、こんな坂帰りは上れるのかな、と少し心配になったが、 周囲の景色 を見る余裕も無いほどスピードが出ている為、とりあえず転倒しないように気をつけて あっという間に入間川にかかる新豊水橋を渡りきった。

 川を渡ると、道は平坦になり、仏子(ぶし)と書かれた霊園を通り過ぎる。この 仏子という地名も日本語ではない気がするが、由来はよく分からない。 『新編武蔵風土記稿』で引くと、”佛子(ブツシ)村” として出てくるが、村名の由来は 書いていない。しかし、村を草創した4人の宅地内に立つ石碑の内、唯一判読できる宮内家のもの に「建長二年」あるいは「建長五年」の文字が見られる、とあることから、少なくとも 鎌倉時代には人が住んでいたことは間違いないようだ。これは、この一帯を支配した 金子氏加治氏など武蔵七党 と呼ばれる武士団が 鎌倉幕府成立に寄与し、勢力を伸ばした時期と重なる。但し、ここは土地が痩せており、 江戸時代でも
「水田少く陸田(ヒエやアワなどいわゆる雑穀を産する田のこと)多し、土性は石交じりの眞土 なり、土産には甲州丸霜丸など云る柿あり」
 と書かれるほど農業には適さない土地だったようなので、開発が進まなかったのも理解できる。 ただ、最後に書かれている柿の品種に甲州丸霜丸とあるが、 霜丸というのは、韓国の慶尚南道を原産とする柿のことだ。慶尚南道は朝鮮半島 南東部分、釜山と隣接し、古代新羅の首都慶州のあったところ。古代 中国では日本と 共にと呼ばれ、そして朝鮮三国時代(B.C.57〜668)には 『日本書紀』に伽耶あるいは 任那の名で現れ、朝鮮半島が新羅によって統一されるまで常に大和朝廷と つながりが深かった場所だ。さらに柿は日本原産の果物と言われており(中国原産説もある)、 朝鮮南部で独自の品種が生み出されていたということも、それだけ日本とつながりが 深かったことを示唆している。もっともカキの語源は、 朝鮮語のカム ではないか、とも言われることから、実は朝鮮半島から日本にもたらされたのかもしれない。 いずれにしろ、古代において密接なつながりを持っていた朝鮮半島南部生まれの柿が、 江戸時代の仏子の名産品とされていることは、やはりここにも古代に 任那や新羅から来た渡来系氏族がいたことを思わせる。

 この『新編武蔵風土記稿』佛子村の記述で面白いのは、 入間川沿いの崖から蛇糞石(じゃくそいし)と呼ばれる 化石が出る、と書かれているくだりだ。言い伝えによると、
「この辺に往古大蛇潜蔵して、人民を悩せしを、牛澤某なるもの撃殺せしとかや、又ここを 距ること三丁許、東の方に牛澤と云所あり、某が住せし地にや、蛇骨近き年まで出しといふ」
 とあり、江戸時代から化石が出る場所として知られていたことがわかる。この硬い杭のような 蛇糞石は、現在でも入間川崖沿いの泥地層に見られる。 これは、干潟に住むアナジャコが彫った巣穴の 化石だ。巣穴の堆積物が、微生物によって菱鉄鋼に変わり、 化石として残ったのだそうだ。 蛇骨が出たという牛澤はさっき通り過ぎた 入間川の対岸あたりのことだが、その牛沢には 牛沢貝層と呼ばれる 崖がある。ここからはその名の通り、蛎など多くの貝化石が発掘されている。アナジャコや 蛎の存在は、ここが海だったことを示しているが、 昭和十一年(1936)には 2m余りのゾウの牙も発見されている。もしかしたら『新編武蔵風土記稿』のいう 蛇骨はゾウの化石だったのかもしれない。また、丁度今通っている 笹井 では100万年前の化石林が発見されており、そこからアケボノゾウ の化石も 発掘されている。さらに、少し上流の野田ではゾウの足跡化石も発見されており、 入間川沿いの一帯が、化石の宝庫であることがわかる。この アケボノゾウは、 250万年前〜60万年前に日本の本州から九州にかけて生息した肩高2m未満の小型のゾウで、 体格の割りに牙が長いことで知られる。

 ちなみに、大正十二年(1923)に日本で初めて動物の足跡化石を発見したのは、当時岩手県 花巻農業学校の教員だった宮沢賢治とその生徒達だ。 当時の調査では、鮮新世(520万〜164万年前)のシカの足跡化石だ と判定されている。 賢治は『銀河鉄道の夜』で、白鳥の停車場で下りたジョバンニとカムパネルラが プリオシン海岸の化石発掘現場を見に行く場面を描いている。 このプリオシン とは、鮮新世のことで、 自身が化石を発見した北上川西岸の イギリス海岸をモデルにしていることがわかる。 『銀河鉄道の夜』では 発掘現場で地層の年代測定をしている大学士とジョバンニが話す情景が描かれているが、

「標本にするんですか。」

 と問いかけるジョバンニは、まさにその現場にいた賢治の姿そのものなのだろう。

 その後、花巻市では平成十二年(2000)の博物館建設中に、 敷地から仏子で見つかったものと同様の アケボノゾウの足跡化石が見つかっている。 それをきっかけに改めて地層年代測定を 行ったところ、花巻の地層は賢治の聞いた鮮新世ではなく、 前期更新世 (164万〜73万年前)のものであることが分かったのだそうだ。 しかし、ジョバンニとカムパネルラが行ったプリオシン海岸が 実はプライストシン(更新世)海岸だったとしても、

「農学校につとめて居りました四ヶ年は、わたくしにとりまして実に愉快な明るいもので ありましたから、それはそれでよいのです。」

 と、賢治は微笑みながら云うに違いない。
飯能

 道は途中で隣の圏央道とも別れて飯能方面に向かう。 丘の間を抜けるような広くて新しい道は、ゴルフ場から右に折れ、 周囲が開けてきたその先が工事中で 通行止めになっていた。迂回路を示す表示板にしたがって、左に曲がると 飯能 市街に入る。市街といっても駅前の繁華街からは外れており、市役所や裁判所などの 公共建築物が多い場所だ。この飯能という地名は、 朝鮮語のハンナラ (大きな村) を語源としていると言われ、今日の目的地、 高麗周辺に入植した高句麗系渡来人達が、最初に 開拓した地域として知られる。これは、『続日本紀』霊亀二年(716)五月十六日の項にある、
「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七ヶ国にいる高麗人1795人を武蔵国に移住させ、 初めて高麗郡をおいた。」
 という記述を根拠としている。 実際に さっき右折した道の正面にあったゴルフ場の向こう、芦苅場堂の根遺跡からは『続日本紀』の記述を裏付けるかのように、 常陸産の須恵器が発見され、その隣、平松張摩久保遺跡からは、奈良、平安時代の掘立柱建物郡跡が発見されている。 遺跡に見られる建物の並び方や、 土器に残された文字などから、それらが通常の集落ではないことが分かっており、高度な 技術や文化を持った渡来人が入植したことを示しているとされる。但し、 武蔵野に集められた各地の高句麗人達をまとめたといわれる 高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)が住んだ 高麗郡の中心地は、飯能からさらに奥に行った高麗だった といわれる。しかし、高麗は、 秩父に連なる奥武蔵の山々と飯能の背後にそびえる天覧山 に挟まれた高麗川沿いの狭く細長い谷にあり、ここに最初から1795人がまとまって 住んだとは考えにくい。 飯能で発見された常陸製 須恵器の存在は、高麗とは別の場所に最初から 常陸の高麗人が住んだ 大きな村(ハンナラ)があったことを示唆している。武蔵野を開拓した七つの 高麗人集団は、それぞれの地域集団ごとに百人単位の小さな集落を造って生活したのでは ないだろうか。

 もっとも、飯能の地名由来譚は、朝鮮語起源説の他にもいくつかある。 例えば、武蔵七党の一つ 丹党判乃氏がここを支配したからとか、土地が痩せていた為年貢が 半減 されたことから半納と呼ばれるようになった、などの説だが、そもそも 半乃氏は、武蔵七党系図によれば、 秩父氏高麗氏半乃氏とつながっている。武蔵武士団の名乗る姓が、支配地域の地名 そのものであることが多いことを考えれば、半乃飯能の由来と いうよりも、飯能半乃 の由来だと見るほうが自然だと思われる。

 また、年貢半納説は、『新編武蔵風土記稿』を見ると、
「水田は陸田に比すれば三分の一なり」
 あるいは、
「正保の頃は御料所にて高室喜三郎支配せり、 (中略)其後寛永四年黒田豊前守尚邦が領地となり今も替らず」
 とある。御料所とは天領 とも呼ばれた江戸幕府直轄領のことで、 年貢が軽く、一般農地より格が高いとされていた。そのため、天領の農民は、 私領の農民に対して優越感を持っていたそうだ。しかし、 この天領の分布を見ると、主要都市、街道周辺に集中しており、政治的な意味が 大きいことがわかる。それ以外の御料所は、山間部 など米作に不向きで、それこそ年貢を半減してもらわなければやっていけなそうな土地が指定されている。 恐らく飯能は、江戸時代に新田開発された当初は、年貢を取りようにも取れない 御料所だったのが、 ある程度安定した収穫を得られるようになったため、後に私領 とされたのだろう。

 また、同書の飯能村の項には、
「今の如く飯能と稱(しょう)するものは、いつの頃よりの唱なりや詳ならず」
 とある。このことは、飯能という地名が江戸時代に 御料所となる 以前から使われていたことを示唆して おり、半納という地名由来譚は、武蔵野新田を開拓した農民達 が、年貢の低い天領に住む自分達を誇り、地名にこじつけて洒落た と考えることができる。

 飯能村は収穫が安定して私領に降格されているが、その周辺は引き続き 御両所とされたところが多かった、と『新編武蔵風土記稿』には書かれており、 農業には適していない土地だったことがわかる。しかし、同書には
「こゝは川越城下より秩父へ通ふ道なり、又一條は南の方八王子邊より秩父へ通ふの道なり」
 とあり、日光街道にも近いため、多くの人々が行きかう 交通の要所となったようだ。そのため飯能では、毎月六と十の日に市が 開かれるようになった。最初は近郊農家が作る縄や炭薪を売り、次第に 青梅縞・絹太織・米穀などの高級品も扱う商業地として栄えている。

加治神社

 飯能市役所の先から八高線の線路を渡り、その線路沿いを走る。途中、丘と丘の間に高架を 渡す工事が行われていたが、この為に国道299号線から飯能市街を迂回することになったのだと わかった。線路沿いを離れ、先の交差点から旧道っぽい道を左に曲がると、すぐに 加治神社と書かれた看板を通り過ぎた。この 加治神社は、飯能一帯を 中世から戦国まで支配した武蔵七党の一つ丹党加治氏 の氏神社で、社伝には慶長元年(1596)武蔵七党中山勘解由丹治家範の家臣本橋備後新左衛門が 勧請したとあるそうだが、江戸後期の『新編武蔵風土記稿』中山村の項に この神社の名は見当たらない。武蔵七党系図を見ると、 中山氏加治氏の傍流ではあるが、そもそもなぜ中山氏 の家臣が 加治氏の 氏神社である加治神社を造らなければならないのかが不可解だ。 『新編武蔵風土記稿』を見ると、むしろ明治に加治神社 に合祀されたという 丹生(にう)社や、それと共に「元慶年中(877-885)」に創建されたとされる、 近くのこれも同じく中山氏の菩提寺で真言宗豊山派の 智観寺の記述が 目に付く。 丹生とは水銀のことで、古代の金属精製に 必要とされ、、防腐剤、不老長寿の妙薬としても知られていた。また、紀州高野山には 地主神として丹生都姫命が祀られ、紀伊半島北部を 中心に金属加工技術を持った氏族が祀ったといわれる丹生神社 が今に残っている。 真言宗開祖の空海は、高野山で鉱山開発をしていたのではないかともいわれ、 若い頃紀州の丹生神社で修業していたことがわかっている。また、 全国にある丹生神社は、真言宗、修験道 、あるいは丹生神社を祀った鉱山技術系氏族の影響が強いことが知られている。つまり、ここに あった丹生社の存在は、ここでも古代に何らかの金属加工事業をしていた名残と 見ることができる。地名、神社名に残る加治鍛冶を想起させ、 和銅元年(708)に秩父で和銅が発見されてから、明らかに渡来人による武蔵野開発が 国家事業として強力に推し進められたことを考えると、高麗郡 でも同様の開発をしていた可能性は大いにある。丁度この加治神社の 裏山、高麗峠の向こうには、 高麗郡の中心地だったとされる高麗がある。 この高麗 には高麗郡開発のリーダー、高麗王若光が住んでいたといわれている。 若光は、 武蔵野入植以前に、相模の大磯を開発した人物なので、恐らく高麗に 移り住んだのは、若光を中心とする相模の渡来人集団だったのだろう。その大磯の背後には 丹沢、大山がそびえており、山名に丹がつくことで分かるように、やはり鉱山として開発されて いたようだ。実際に丹沢では、黄銅鉱・黄鉄鉱・石英が産出されることがわかっている。石英は 縄文人に通貨として使用され、大山山頂から縄文土器が発掘されたり、山麓で縄文遺跡が発見 されている ことから、大磯周辺は若光の一行が開発するかなり前から既に人が住んでいたことが わかる。そこに銅や鉄の加工技術を持つ高句麗系渡来人達が、 若光をリーダーとして入植し、土着民達が住んでいなかった土地を切り開き、丹沢の 鉱山開発をしたのだろう。恐らく武蔵野の高麗郡創設は、 この若光の鉱山開発の実績を 重視して行われ、加治神社に合祀された丹生社 の存在は、 そういった彼らの開発の痕跡を語るものなのではないだろうか。

 ところで加治神社創建譚に登場する中山家範 は、秀吉の小田原攻め の時、小田原北条氏の家臣として、八王子城で自害しているが、その二人の息子は名家好きの 家康に拾われ出世している。特に次男の信吉は、後に水戸徳川家の附家老として二代目藩主、 水戸黄門こと光圀選出に強い影響を与えた人物だったとして名を知られている。 この智観寺を、中山氏の菩提寺として復興したのも信吉だったようで、 加治神社には、信吉の息子、信正が丹生神社 に献納したという 石燈篭が残されているという。


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