「自ら 帰化してきた新羅の僧尼と百姓男女22人に、武蔵国の土地食糧を与え、生活できるように させた。」
「武蔵国埼玉郡の新羅人徳師ら男女53人に金姓を与えた。」
「帰化した新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を、武蔵国の未開発地に移住 させた。ここに初めて新羅郡を設置した。」
「大根、牛房、蕪根、芋 四種最も多く味美なり、その餘 諸菜をも耕して江戸へ運ぶ」
武蔵野は けふはな焼きそ若草の つまもこもれり我もこもれり (今日だけは野に火を放つのはおやめください。若草のような夫も私も身を 潜めているのですから)
「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景を以て絶類の美を 鳴らして居たように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。」
「この道は江戸時代に人専用に造ったので狭いんざんすよ、悪しからず。」
「所沢(あるいは野老沢(ところざわ)に作る)」
「ここは、野老の沢か。」
「三八の日、市ありて賑はえり。」
「狭山の池と称するものは、狭山の麓にありて、一所をさすにあらず。いまみるところも三所 ばかりありて、土人、いづれをも狭山が池と称せり。」
「武蔵国が言う。去る承和二年(835)に神火(落雷)により焼け落ちた国分寺七重塔一基を、 前男衾郡大領、外従八位上の壬生吉志福正というものが、朝廷の為に再建したいと 申し出たのでこれを許可した。」
「神護景雲三年、入間郡の国家の正倉四軒で火災があり、備蓄米10,513石が焼けた。百姓十人 が重病で、二人が頓死した。」
入間道(いりまじ)の於保屋が原(おおやはがはら)のいはゐつら 引かばぬるぬる我にな絶えそね
「武蔵国入間郡の人で、正六位上・勲五等の物部直広成(もののべのあたいひろなり) ら六人に入間宿禰(いるまのすくね)の姓を賜った。」
「堯(げい)が天を仰いで 天にある十の日を射るよう命じたところ、 九日に命中した。九日のなかにいた九羽の烏〔九烏〕はみな死んで、その羽翼を落とした」
「蝦夷が反乱を起こし、大仁上毛君形名(だいにんかみつけのきみかたな)を将軍として 派遣したが破れ、妻に叱責されて軍を立て直し、ようやく平定した。」
「水田少く陸田(ヒエやアワなどいわゆる雑穀を産する田のこと)多し、土性は石交じりの眞土 なり、土産には甲州丸霜丸など云る柿あり」
「この辺に往古大蛇潜蔵して、人民を悩せしを、牛澤某なるもの撃殺せしとかや、又ここを 距ること三丁許、東の方に牛澤と云所あり、某が住せし地にや、蛇骨近き年まで出しといふ」
「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七ヶ国にいる高麗人1795人を武蔵国に移住させ、 初めて高麗郡をおいた。」
「水田は陸田に比すれば三分の一なり」
「正保の頃は御料所にて高室喜三郎支配せり、 (中略)其後寛永四年黒田豊前守尚邦が領地となり今も替らず」
「今の如く飯能と稱(しょう)するものは、いつの頃よりの唱なりや詳ならず」
「こゝは川越城下より秩父へ通ふ道なり、又一條は南の方八王子邊より秩父へ通ふの道なり」