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9月13日(月) 吉野

 窓から明るい光が差し込んでいる。木々の緑に朝日が射して、見ているだけで気持ちが良い。 昨日ここに着いた時には気付かなかったが、この部屋は玄関から下がった位置にあるにもかかわらず、窓から見える庭はさらに下 にある。つまり、建物自体がかなりの急斜面に建てられているのだ。この玄関から斜面に沿って下に下に部屋を造っていくのは、 ”吉野建て”といって、この喜蔵院をはじめ吉野の宿坊や旅館など部屋数が必要な建物の多くがこの吉野独特の様式で建てられている。 喜蔵院のあるこの坂道には、他に竹林院や桜本坊など由緒ある 寺が並んでいる。ここは金峯神社のある奥千本への入り口にあたり、また大峯奥駆道の基点ともなっている為、この斜面にもかかわらず 修験者が利用する宿坊が古くから営まれていたようだ。

 その奥千本にはバスで行くつもりなので、朝の散歩がてら坂下のバス停に時間を調べに行った。外は良い天気で、すでに暑さすら 感じる。昨日石にぶつけた 膝は相変わらず熱を持って腫れており、びっこを引かなければ歩けないが、天気が良いというだけ昨日よりましだ。 坂を下りる途中、昨日ライトアップされていた塔が、向かいの山腹で朝日を受けているのが見えた。バス停で 時刻表をみると、バスは1時間に 1本あるかないかという運行で、しかも前のバスは行ったばかりのようだったから、とりあえず宿に戻り朝食を取る事にした。 朝食といっても宿で用意してくれているわけではないので、 テレビを見ながら最後の食材で自炊した。

勝手神社

 のんびり食事をした後、荷物をまとめて受付に預け、帽子にカメラ、それにガイドブックだけ持って宿を出た。門の脇に佇む 孔雀に挨拶してから坂を下り、バスにはまだ時間があったのでバス停裏の勝手神社に行ってみた。

 朝日の射す境内には狛犬とその奥に透き塀が見えるが、肝心の社が無い。塀手前に賽銭箱が置かれ、その横に「勝手神社再建 復興御寄付のお願い」と書かれた看板が立っていた。その看板によると、神社は昨年の放火と思われる火事で焼け落ちてしまい、 未だに再建の目途がたっていないのだという。

 この神社は金峯山、つまり金峯神社のある奥千本の入り口にあるため、別名”山口神社”とも呼ばれ、 天智天皇十年(671)に大海人皇子(おおあまのみこ:後の天武天皇)が吉野に 仏道修行の為こもり、クーデターを起こした際、ここで琴を奏でていると五色の雲がたなびき、後ろの山から天女が舞い降りてきて 吉祥を示した、という伝説を 持つ古い神社だ。その天女の舞が雅楽の”五節の舞”の元になったといわれ、天女が舞い降りた後ろの山は”袖振山”という名が 付けられている。天武が琴を奏で、天女が舞い降りたという雅な伝説から、この神社の祭神は芸能の神として知られているそうだが、 琴を奏でるというのは、死者と交信するシャーマニズムに起源を持っている。日本書紀には天武のことを「天文や占星の術を よくされた」と書いてある事からも、ここで行ったのは恐らくそういったシャーマニスティックな儀式であったのではないか と思われる。

 また、この神社は芸能の神といういわれからか、源頼朝の義経追討時、義経と別れた静御前が共の者に金品を奪われた上 捕縛され、この神社境内で舞を舞わされた後鎌倉へ送られた、という話も伝わっている。この悲劇のヒロインの話は、 後に大幅に脚色され 、「義経千本桜」として浄瑠璃、歌舞伎の人気演目となっている。この芝居の中では、狐の皮を張った”初音の鼓”を 渡され、義経と別れた静が、母狐の成れの果ての鼓の音に引かれる”源九朗狐”が化けた佐藤忠信に助けられ、 最後は義経と静は再会し、子狐は母の形見の鼓を貰う、という話になっている。判官贔屓もここに極まれりと言ったところだが、 人情に厚かった江戸の庶民には大受けだったようで、いまだに人気演目として知られている。

 浄瑠璃や歌舞伎の舞台は満開の桜を背景にして実に華やかなものだが、社を無くした境内には松の根元に立つ 小さな”舞塚”が静の舞をひっそりと伝えているのみだった。

吉水神社

 バスにはまだ時間があったし、勝手神社の祭神が移されているというので吉水神社へ行ってみることにした。 吉野山のメインルートから外れた道を下り、急な坂をまた上った先にその神社はあった。坂の途中には厳つい顔の狛犬が鎮座し、 その先の古い門には「南朝本拠四帝御所 吉水神社」と札が掛かっている。坂の頂上にあるこの神社は、確かに 周囲に視界が開け、四方が急斜面になっている為、南朝が立てこもった戦略拠点としては申し分無い場所と言える。もともとこの神社は、 金峯山寺の僧坊だったそうだが、 ここを拠点とした後醍醐が評価された明治になって、南朝ゆかりの神社になったのだという。説明板には、秀吉がここを本陣に 吉野の花見を行った、とも書かれている。興に乗った秀吉は、そのまま高野山まで諸将を連れてそぞろ歩き、前年に造った青巌寺で 自ら能を舞ったことが知られている。その時、一行に従っていた家康は、そこで蓮華院住職の宥雅と出会い、 後に高野山を実質支配するきっかけをつかんでいる。

 門をくぐると左手に築山があり、そこには「蛭子神社」と書かれた小さな祠があった。ここは、現在では後醍醐を祀る神社として 知られているが、まだ僧坊であった頃は案外このような素朴な現世利益を願う神を祀っていたのかもしれない。砂利を踏んで行った 正面には入母屋造銅葺の神社本殿がある。その一番右側が勝手神社の神々の避難所になっており、その手前に焼け焦げた狛犬達が 鎮座していて痛々しい。ここにも神社再建の寄付を促す説明板があった。そこに「焼失前の勝手神社」の写真もつけられている。 それを見ると、横長の 三間社流造桧皮葺で、その左右正面に破風を付けて正面性を強調している珍しい社殿だったようだ。昨年焼失したこの建物は、 安永五年(1776)江戸時代の再建になるものだそうだが、写真で見る限りでは古格を感じさせる美しい建物なので 焼失は残念だ。その並びには後醍醐と楠正成をそれぞれ祀った廟があり、色褪せてはいるがかつてはきらびやかに装飾されていた ことが窺われる。

 神社の横には入母屋造桧皮葺の書院がある。秀吉が花見の本陣にした時に改装したというだけあって、同様に秀吉が建てた 高野山の金剛峰寺を彷彿とさせる。ここは拝観料を払わなければならないのだが、ブザーで受付の人を 呼ぶシステムになっている。そのブザーを押して待ったのだが、なかなか人があらわれない。勝手に入ってしまおうかと思った矢先に、 社務所から宮司さんが走ってくるのが見えた。宮司さんが ブザーに呼ばれていちいち走ってくる、というのもなんだかのどかで可笑しい。

 拝観料を払って中に入ると、この建物が初期書院形式を示して貴重である事や、後醍醐の吉野宮だったこと、義経一行が身を隠した 場所であったことなどが書かれた説明板があった。「義経潜居の間」とされる部屋を見ると、確かに床の間に当たる部分は、間口が 広く、奥行きが浅いし、床部分前面は板でなく壁仕上げとなっている。これは明らかに”床の間”というより、 その前身とされる”押板” で、さらにその押板の隣にある違い棚も、上下の棚が分離しており、下の棚は押板側に付いている。これは現在定型となった 床構えからすれば間違った造作なのだが、逆にこの空間がそういった定型が成立する以前にできた事を示す良い証拠となっている。

 また、違い棚がある場所から手前にかけては、押板前面より一段高い付書院となっており、その付書院の延長線上にある 「弁慶思案の間」と名づけられた場所には火頭窓の付いた白壁が残っている。ここは義経がここに潜伏した時に弁慶が見張りを しながら逃避行の打開策を思案した場所だといわれている。この壁や窓、それに見張りをしたという言い伝えからは、この部屋が 当初はこの建物の最奥部分にあたり、現在見られるこの部屋より奥の部屋は、後に増設した空間である事を示唆している。

 実際、この部屋を囲む廊下の窓から先の部屋を見ると、清水寺のように急斜面に柱を組んだ”懸造”という手法で 建てられており、後醍醐が 「南朝皇居」としたとされる部屋は、秀吉によって改築された「桃山式書院」である事が分かっている。清水寺や 役行者が投げ入れたという伝承を持つ”三仏寺奥院”、通称”投入堂”など、 一般的にこういった空中に建築空間を造るのは当初から計画されたものではなく、増築された結果であることがわかっている。 この懸造の技法は平安初期には成立していた技術だといわれているので、後醍醐の時代に既にこの空間が存在していたのかもしれないが、 少なくとも役行者創建と伝える断崖絶壁に建つこの古い神社が、当初から現在と同規模の建築空間を有していたとは考えにくく、 改築の跡を見ても、必要に応じて次第に増築されていったのだという事がわかる。

 その「後醍醐天皇玉座」という部屋を見ると、玉座の背後は大小の床の間が並んだ珍しい造りで、そこには金箔に彩られた煌びやかな 文人画が描かれている。この障壁画は狩野永徳によるものだという。信長、秀吉に重用され、安土城、大阪城、 聚楽第などの障壁画を手がけた永徳の作品は、時代が時代だけに戦火で失われたものが多く、 このような形で残っているとすれば貴重だ。

 しかし、この秀吉の”桃山書院”改築が文禄三年(1594)の花見に合わせた工事だ としたら、高野山の青巌寺建設と同時にその前年、文禄二年に行われていた、と見るのが自然だと思われる。 この書院の外観を見た時にも 高野山の金剛峰寺に似ていると思ったのだが、この玉座の間も金剛峰寺内の金箔を張り巡らせた”上段の間”に似ている。秀吉は 吉野から高野山 へ行った後、大阪城で諸大名の論功行賞を行い、自らを絶対君主とする地盤を固めている。この吉水神社の改築と、 金剛峰寺の建設は、 この天皇が座る”玉座の間”と”上段の間”に自ら座ることで、諸大名に地位の絶対を示し、後の褒章に有無を言わせない為の 演出だったのではないだろうか。その空間演出に豪壮な画風の狩野永徳は最もふさわしい人物だと思うが、改築年を文禄二年と 考えると、その3年前に既に亡くなっていた永徳が障壁画製作に直接関わっていたとは考えにくい。しかし、この神社には他にも 秀吉が愛用したといわれる永徳筆という屏風が残っており、もしかしたらこれは本当に永徳の手になる障壁画なのかもしれない。 足元に柵があるため残念ながら近くで詳しく絵を見ることはできないが、 秀吉の権力誇示を狙ったこの豪華な障壁画は、永徳本人によるのかどうかは別にしても”狩野派”によるものである事は 間違いない。

 その玉座の間から順路に沿って表に回ると、庭から入る光の中に、この神社が有する数々の宝物が 展示されている。水戸光圀の書状など歴史的人物に関わる古文書から能面までその数や種類の豊富さに驚かされる 。その中に小さな胴鎧が一点あった。源義経着用の「色色威腹巻 (いろいろおどしはらまき)」 というものだったが、褪せたとはいえその色鮮やかなことにも驚いたが、それ以上に子供用かと思う小ささにはさらに驚いた。 今に伝わる義経像も大男の弁慶を従えた紅顔の美少年というものだが、昔の日本人の体格が小さかったとはいえ、このサイズは 現代の小学生でも高学年の子供は着用できないのではないかと思える程小さい。ふと司馬遼太郎の「義経」にこの小さな鎧を見た時の作家の 驚きが記されていた事を思い出したが、博識博見の作家でさえ、奇蹟ともいえる源平戦大勝利の立役者がほとんど小人のような 体格だったことを知って驚いたのも理解できる。

 個人的には義経の鎧よりさらに驚いたのが、蝉丸愛用の琵琶なるものが残っていたことだ。残念ながらその琵琶はボロボロ だったが、撥の当たる表面板の右側が削れており、明らかに実際に使用していた跡が窺える。”蝉丸”といえば、その変てこな名前と 百人一首に描かれる何だか情けない姿をした盲の坊主というイメージが強いが、琵琶奏者としては日本の芸能史に残るほどの名手 だったことが知られている。今昔物語集にも「源の朝臣、会坂の盲の許に行きたる語」という話に源博雅が秘曲「流泉」「啄木」を 聴く為に、三年間毎日蝉丸の住む会坂に通った話が描かれている。 この源博雅(918〜980)は、夢枕獏/岡野玲子の「陰陽師」で安陪清明の気の良い管弦好きの親友 として登場することで現代の女性ファンを獲得した人物だが、当時は「博雅の三位」と呼ばれ、当代髄一の管弦の名手として知られていた。 康保三年(966)には勅命により”新撰楽譜(博雅笛譜)” を編纂しているように、天皇からも名手として認められていたようだ。また、博雅は同じく今昔物語集に、鬼から琵琶の名器”玄象(げんじょう)”を取り返した話も描かれ、 ”管弦絵巻抄”という絵巻にも当時の名手達と共に楽譜を見ながら琵琶の調弦をする様子が描かれており、 琵琶を愛好した人物だったことをうかがわせる。

 今昔物語集にも登場する”玄象”のような銘を持つ琵琶が当時存在していた事からもわかるように、平安から中世にかけて この楽器は筝と共に 独奏楽器の花形として流行しており、独奏曲がかなりあったようだが、残念ながら現在はそのほとんどが失われている。この宮廷に おける琵琶の盛衰は、同じくメソポタミアを起源とし、シルクロードを西に伝わってヨーロッパに広まった同属のリュートにも 同様の現象がおきており、時代がずれているとはいえ面白い。ただ、日本独自の現象としては、 蝉丸をルーツとする ”盲目の芸能者”の伝統が生まれている。後に蝉丸は醍醐天皇の第四子だったという説が広まった為、その流れを汲む これらの芸能者達は江戸期までは、あまり社会的差別を受けることはなく、むしろ村々で歓迎されていた様子が文献などから うかがえる。しかし、 現在若者達の間で流行している津軽三味線の直接の祖、初代高橋竹山もこの盲目の芸能者の流れを汲む天才だが、 彼は盲であるがゆえの差別があった事を語っており、身分制度の無くなった明治以降、逆にこういった人々が 差別の対象になっていったことがわかる。

 蝉丸が醍醐天皇の子 だったという話は、恐らく秘曲を授けた源博雅が醍醐帝の孫だったという話が転じたものだと思われる。この神社に蝉丸ゆかりの琵琶 があるのも、醍醐帝の時代を理想とし、自ら後醍醐と名乗った天皇に醍醐帝の子が持っていたという琵琶を奉ずる為 持ち込まれたのだろう。

 建物から庭に出ると、晩夏の強い日差しが照り付けて暑い。野趣あふれる 元気な植物達が生い茂る庭には、秀吉が花見をした時の本陣跡や、静が義経との別れの舞を舞った場所を示す札が立てられている。

 その庭から書院を見ると、その屋根の不連続性から、この建物が数次に渡って増築されてきた痕跡を改めて感じ取ることができる。

 敷地端には木製の粗末な門が立っている。「北闕門(ほくけつもん)」といい、後醍醐がここから北の都を眺め、いつか 凱旋する夢を見た場所だという。病に倒れた後醍醐は死に際して、

「玉骨は、例え南山の苔に埋むるとも、魂魄は北闕の天を望まんと思う(骨は吉野に埋まっても魂は都の空を望み続けるだろう)」

 と、北朝を呪う菅原道真顔負けの強烈な言葉を残している。

 後醍醐が都を想ったその門からは、吉野の蒼い山並みが見えるばかりで、庭には満開のギボウシの花が風に揺れていた。

金峯山寺

 吉水神社を出て坂道を下り、再び吉野の参道に戻った。吉水神社でのんびり見学したため、とっくにバスの時間は 過ぎている。その次のバスまでまた小一時間程時間ができてしまったので、バス停とは逆方面の金峯山寺(きんぷせんじ)に行くことにした。 金峯山寺に向かう道沿いには昔ながらの町屋造りの店が並んでいる。月曜日ということもあるのか歩いている観光客もまばらで、 並ぶ店々が古風なこともあり、町全体に昔懐かしくほっとするような空気が漂っている。同じ山上の宗教都市という条件から どうしても高野山と比べてしまうが、明らかに高野山のほうが観光地化が進んでおり賑やかなのがわかる。個人的には吉野の 参道沿いに並ぶ、昔ながらの落ち着いた佇まいの方が好きだった。

導天稲荷社

 その参道を歩いていると、一段高い場所に巨大なお堂が見えてくる。その境内手前に朱塗りの小さな鳥居 と子供が彫ったような素朴な狛狐に守られたお稲荷さんがあった。鳥居には「導天稲荷社」と書かれた扁額が架かり、 横の説明板には、都落ちをする後醍醐を 吉野に導いた稲荷神を祀ったものだ、と書かれている。稲荷信仰はもともと土着の田の神、農業神だったものを 渡来系の秦氏が祀るようになり、さらに空海が東寺南門の守護神としたことから密教とつながりが出てくるようになる。 稲荷神の使いとされる狐は、鼠や鳥といった農作物を荒らす獣を捕食することから農業の守り神、稲荷神の使い と見られるようになり、人をもだます知恵のある動物でもあることからそれに密教の呪術的なイメージが重なり、 変幻自在に姿を変え、”狐憑き”のような災いを もたらす動物として恐れられるようになったようだ。この稲荷社も境内の南端に鎮座しており、 後醍醐がどうのというより以前に恐らく真言宗によって持ち込まれ、東寺と同様の南門守護神としてここに祀られていたのだと思われる。

四本桜

 境内は、巨大な本堂「蔵王堂」の前に4本の桜に囲われた広場があり、その周りに諸堂が並んでいる。この桜に囲まれた広場は 「四本桜(しほんざくら)」という。ここは、後醍醐と共に倒幕運動を起こして吉野にこもったその第2皇子、 大塔宮護良(もりよし)親王(1308〜1335)が蔵王堂を本陣とした時、 元弘三年(1333)3月3日幕府軍との戦闘に際して最後の酒宴を張った所と伝えられている。酒宴に際して護良は死を覚悟していた ようだが、村上義光、義孝親子を身代わりに して逃げ延び、征夷大将軍として建武の新政に加わっている。しかし、この人は父帝に似たのか感情の激しい人物だったようで、 足利尊氏はともかく、父帝とも反目し、皇位簒奪を目論んだとして捕らえられ幽閉された上に殺されている。 ちなみに十津川と天川に挟まれたところに大塔という村があるが、吉野から落ち延びた護良がここに身を隠したという話が”太平記”に書かれており、 これを由来として明治以降この宮の名を村名に冠したのだそうだ。

蔵王堂

 重層入母屋造桧皮葺の本堂、蔵王堂を見上げると、東大寺大仏殿に次ぐ木造建築で桧皮葺の建造物としては世界一 という大きさに驚く。山中の寺なので木材には事欠かなかった のだろうが、それにしてもよくこんなところにこの巨大な寺を建てたものだ。この蔵王堂は、他の修験の寺と同様役行者の創建に なるといわれているが、南朝の拠点とされていたこともあり、戦火などで幾度か焼失している。現在ある建物は 豊臣秀吉、秀頼が天正十九年(1591)に 再建したもので、この巨大さにもかかわらず優美な曲線を見せる二重の屋根や、色あせているとはいえ力強い組物、 どこか明るさを感じる蛙股の彫刻などに当時の豊臣政権の権力の強大さを改めて感じる。

 中に入ると、行者がそのまま土足で祈る事ができる外陣の向こうにさらに柱に囲まれた巨大な厨子があり、そこから 三体の巨大な蔵王権現がこちらをにらみつけている。厨子といっても内臓する三体の仏像が巨大な為、まるで寺の中に寺が 組み込まれているようだ。土間左手の受付で人の良さそうなおばちゃんに拝観券を切ってもらい、靴を脱いで内陣に入ると、 目の前に荒々しい表情の自然木がそのまま柱として使われているのが見える。この内陣の柱68本は、杉や松などの他に梨やつつじ といった吉野に生える様々な木材を 製材せずにそのまま使っており、人工の寺内部を豊かな植生を誇る吉野の森そのものとして見せる、いかにも山岳宗教の総本山らしい 演出がされている。

 内陣はぐるっと回りながら役行者像や聖徳太子像など寺ゆかりの宝物が見学できるようになっているが、ここに来た目的は日本 最大の 秘仏とされる本尊の蔵王権現を見ることだ。正面に出ると、目の前に青黒い巨大な怒れる仏像が三体現れる。この本尊は 以前写真やTVで見たことがあり、顔が大きいためどこか間抜けな印象を持っていたのだが、間近で見ると全く印象が違う。 逆にその怒れる顔の大きさに圧倒されてしまい、まるで蛇ににらまれた蛙のような気分にさせられてしまう。 中央の仏が7m23p、左が6m15、右が 5m92あるそうだ。それらの怒れる像の上には、それぞれの本地仏である、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩が掛けられて、この三体が 過去、現在、未来を救う仏達であることを示している。この三体の蔵王権現は、普段は秘仏の為見ることができないが、 世界遺産登録を記念してこの7月から1年間公開しているそうだ。これらの像は 本堂と同時期の製作だということだが、基本的に秘仏であるせいか痛みも少なく、色など良く残っている。

 この蔵王権現は、役行者が感得したとき岩を突き破って出現したとされ、像はその顕れた瞬間を 表現している。その姿は三鈷杵を持つ右手と右足を振り上げ、剣印を結ぶ左手を腰に当て、一顔三目の憤怒の形相で表されるが、 これは仏教には存在しない表現で修験道独自のものだ。しかし、三鈷杵や剣印、また憤怒の形相などからは、 明らかに密教の影響が窺える。この片足で地面を蹴っているような姿勢は、 まるで天を割った稲妻が地に突き刺さるかのような独特の躍動感をこの像にもたらしているが、逆に 片足で全体を支える彫刻を造らなければならない仏師にとっては技術的困難を伴うに違いない。そうでなくても この蔵王堂にそびえる三体は、この巨大な体を支える為の構造が必要だろうから、 この像の制作は彫刻というよりほとんど建築だったのではないかと思われる。堂内は暗いので、具体的にどうやってこの 巨大な彫刻を支えているのか見ることはできないが、それを実現した桃山時代の技術には驚かされる。

 この蔵王堂は、役行者が蔵王権現を感得した時桜でその像を彫り、それを祀る祠を建てたのが始まりだとされるが、行基 (668〜769)が、当初山上ヶ岳山頂にしかなかった堂では一般信徒が参拝できない為、この吉野山麓に移したという話も伝わっている。 だが実際には 修験道中興の祖”理源大師聖宝(832〜999)”が吉野を整備した際に山麓の寺院として建立したのが事実のようだ。しかし、この役行者 が桜材で蔵王権現を彫ったという話から、信仰の証として桜の木を吉野山に寄進する風習が生まれ、千本桜と 呼ばれるような桜の山になったのだという。

 蔵王権現の前で、若い僧が観光客相手にガイドをしていた。この寺の由来や役行者が蔵王権現を感得した話、 そして自然崇拝からおこり、神道、 道教、仏教などを包含する修験道のスケールの大きさが宗教として優れており、混迷する21世紀に必要とされている事を 分かりやすく丁寧かつ情熱的に話していた。聞いているとなかなか良い話で、なるほどと思うところも多かったが、唯一つ残念だった のが、9.11以降日に日に排他的になっていく世界を作り出した原因が、キリスト教やイスラム教などの ”一神教”にある、といわんばかりの論理を展開してしまうことだった。梅原猛なども自身の仏教に対する愛が強いばかりに 同様の押し付けがましい論理を展開するのが鼻に付くが、教団経営に走り葬式仏教と成り果てている日本仏教界や、 いまだに国家神道から抜けきれない時代錯誤の神道組織、多くの宗教を内包する許容量を持っているというくせに、 山上ヶ岳に女性を受け入れることすらできない修験道に他宗教批判をする権利はない のではないかと思う。それに批判の対象にされるのは宗教そのものではなく宗教組織であるべきだ。 そもそも宗教の本質なぞ基本的にはどれも大して変わらないくせに、 組織が大きくなるにつれ、欲にまみれ皆おかしくなっていく。9.11以降の世界を作ったのは”一神教”なのではなく、 ありとあらゆる宗教組織にも含まれる貪欲な人の欲望なのではないだろうか。

 役行者は次々に現れる美しい仏達に、
「そのようなやさしい姿では厳しい今の世界は救えない」
 と、言った為、それらの仏達は蔵王権現に姿を変えて現れたというが、この大魔神のような 怒れる姿は現代の我々にこそ必要なのではないかと思えてくる。しかし、 蔵王堂の三体は、あまりに巨体な為、蔵王堂はおろか、納められている厨子そのものからも出る事ができないのだそうで、少なくとも 向こうから我々を救いに来てくれる事はなさそうだ。

 靴を履いていると、受付のおばちゃんが、

「そこの果物好きなの持っていってください。」

 と、声を掛けてくれた。顔を上げると、脇の台には山盛りの果物がある。喉が渇いていたので梨を一つもらい、礼を言って蔵王堂 を出た。

仁王門

 蔵王堂の脇から裏に回ると右手に巨大な二重門がある。この大きさと方向からどう見てもこれが正門だが、本堂の正面からは裏側 にあたり、しかも本堂と門の中心位置がずれている。これはこの金峯山寺が山中のなかでもさらに一段高い丘の上に建てられている 為、門の正面に本堂を造る事ができず、あるいは逆に本堂に対して正面に門を建てられなかった為、このような中心軸がずれた伽藍配置 になってしまったのだろう。実際、門から参道に 下りる階段は短く急で、門のできる前は只の崖だったのではないかと思われた。

 この門は「仁王門」といい、その名の通り巨大な仁王像がある。これも本堂と同様、 東大寺に次ぎ日本で二番目の大きさだという。この延元三年(1338)に造られたという阿・吽の仁王像は、解体修理時に体内から法華経、 柿(こけら)経を記した木片が五千本見つかっており、その当時この寺が多くの信仰を集めていたことを示す証拠となっている。 門から石段を降りて写真を撮ろうと するが、門が大きくてなかなかフレームに入りきらない。参道を随分後ずさりして撮ったのだが、門と本堂がずれて建っているため、 屋根のシルエットが重なりなかなか格好良かった。

大日寺

 このまま山の入り口にあたる「銅(かね)の鳥居」まで行ってみようかとも思ったが、またバスを乗り過ごしてしまいそうなので、 参道を戻る事にした。じりじりと焼けるような日差しを背中に受けながら、蔵王堂でもらった梨の実をかじりつつ参道 を歩いた。

 勝手神社の脇にあるバス停で時計を見ると、まだ少し時間がある。神社の向かいにある店で早めの昼食を取ることも考えたが、 食事をするには中途半端だ。暇なので神社の境内に上がってみたり、その周囲をぐるぐる 回ってみたりした。ふと見ると、神社入り口横に「大日寺」と書かれた説明板がある。その寺は右手の坂の途中にあると書いてあり、 近そうなので行ってみた。

 狭く急な坂道を下り、坂の途中の民家の間を抜けた突き当たりに「真言宗 大日寺」と札の掛かった門があった。門をくぐると 砂利のすぐ向こうに宝形造の小さなお堂が見える。ここに置かれる仏像達は重要文化財に指定されているそうだが、建物の屋根を 見ると錆び止めの赤ペンキが塗られた波板が葺いてあり、あまり裕福な寺ではないことがわかる。

 左手の社務所で拝観料を払って隣のお堂に入った。狭い堂内には壁に寺の由来が描かれた絵が掛けられ、大日如来を 中心に金剛界を表す阿しゅく、宝生、無量、不空の五智如来と呼ばれる黄金の平安密教仏が立体曼荼羅風に置かれている。さすが 重要文化財に指定されているだけあって平安仏の特徴を良く示しており美しい。ふくよかな平安の仏達は、ともすれば 憮然とした表情に見えてしまうことも多々あるのだが、ここの仏像達は小さいためかそういった印象はなく、人間的な優美さを たたえており、台座や光背の精緻な彫刻も相俟って美しい。 平安時代の五智如来像は、恐らく東寺など数例しか残っていないと思われるが、吉野の山のこの小さな寺で それらの仏達が創る立体曼荼羅が見られるというのは、希少性も含めてここを訪れたことの幸運を思った。 堂内が狭いという事もあるのだろうが、 これらの仏達は見学者が間近に見ることができるように置いてあるため、仏像の細かい 表情まで良く見える。この展示方法は好感が持てたし、仏達を身近に感じることで吉野が密教化された平安の頃まで想像をふくらませる ことができた。

 この寺は、大海人皇子(天武天皇)ゆかりの地に「日雄角乗(ひのおのかくじょう)」が造った吉野最古の寺”日雄寺” が室町時代に焼失した後、寺名を改めて建てられたものだといわれている。役行者の弟子といわれる開祖の角乗は、 修験直系の僧のはずだが、現在この寺は正当密教の 本尊を持つ真言宗の寺となっている。これは、平安の頃まで勝手神社周辺の この場所が山の中心となっていた事を示唆している。ここに平安時代の金剛界五智如来が置かれているというのは、 密教僧である修験道中興の祖、聖宝が、既に 拓かれていたここを拠点に山内の整備をした名残とも考えられる。その聖宝が整備した金峯山寺が現在山内の中心となっていることを考えれば、 かつての中心であったと思われる大日寺のこの簡素すぎる佇まいはもったいない気がする。この寺は、蔵王堂前の四本桜で酒宴をはった 護良親王の身代わりとなって死んだ村上義光、義孝親子の菩提寺にもなっている。 現在の修験道は天台系の本山派が主流で、真言系の当山派はあまり力がないとは聞くが、 せめてこのような由緒ある寺の屋根だけでももう少しまともな造作ができるように援助できないのだろうかと思ってしまった。

奥千本

 バス停に戻ると丁度時間だったが、しばらく待っていてもバスは来ない。少し不安になってきたころにようやく小さな マイクロバスが現れた。道が混んでいるでもなく乗客も1人しかいないのに、どうして到着時間が10分以上遅れるのか 不思議だが、気の良さそうな運転手のおじさんは、そういった都会的な時間の観念には全く関心がなさそうで、実に マイペースに運転している。

 バスはすぐに濃い緑の森に呑み込まれ、蛇行する細い山道を登り始めた。乗客は竹林院前でもう一人若い男性が乗ってきた だけだった。そのまま20分程林道のような山道を揺られると、終点の「奥千本口」に着いた。この奥千本入口には古びた鳥居が建っており、 これが山上ヶ岳にいたる道のりに立つ四門の一つ「修行門」だ。この門は「愛染の修行門」とも呼ばれ、 この奥千本一帯が愛染と呼ばれていたことを示している。今でもこの周辺には愛染宿跡、愛染谷、愛染の分岐といった 地名が残っており、かつては密教の愛染明王信仰があった場所だったことをうかがわせる。

 鳥居をくぐった坂道の脇にはフウロソウの花が咲いている。その坂道を登った先に金峯(きんぷ)神社の拝殿が見えてくる。 その手前では神社社務所の工事をしており、その周りには丁度満開のコスモスの花が風にゆれていた。

義経隠塔

 神社の説明板には脇道から下りた所に「隠れ塔」という修行の為の建物があり、義経が吉野潜伏時に隠れた場所だと書いてあった。 細い坂道を下ると、木々の向こうに宝形造の小さなお堂が見える。白木造りで銅葺き屋根を持つ簡素な建物だが、わりと新しいようで 細かい部分は丁寧な仕事がしてあるのが見て取れる。初めて奥駆に挑む修行者は、この塔に閉じ込められ、暗闇の中
「吉野なる深山の奥の隠れ塔、本来空のすみかなりけり、オンアビラウンケンソワカ、南無神変大菩薩」
と、唱えながら回らされ、 突然鐘を鳴らされたりするのだそうだ。今でこそ、ここはこのような肝試しもどきの修行をする場所になっているが、この方三間 宝形造というのは高野山の三昧堂と同じ常行三昧堂の形式だ。その高野山の三昧堂に住んでいた西行は、一時この近くに 庵を結んでいたことが分かっている。つまり、この堂の形式や西行の存在は、かつて浄土信仰がここ吉野でも盛んだったことを 暗示している。 阿弥陀堂とも呼ばれるこの建築形式は、お堂の中心に阿弥陀如来を置き、念仏を唱えながらその周りを回る修行を行うためのものだ。 現在修験道で行われている真言を唱えながら堂内を回るという修行は、この浄土信仰の形式だけ今に伝わった結果なのだろう。 しかし、江戸時代、嘉永六年(1853)の「西国三十三所名所図絵」には、かつては五重塔で現在(江戸時代)は塔の下部のみ残っているため それに屋根をかぶせている、と書かれていることから、西行の頃は違う姿だったのかもしれない。

 このお堂の「隠れ塔」という名は、義経が頼朝の追跡隊にこの堂内に隠れていたところを包囲された際、 屋根を蹴破って脱出し、追っ手から逃れた、という伝説を由来とする。この話は伝説の域を出ないようだが、機動力を武器に 神出鬼没の奇襲を得意とした義経なら屋根を蹴破って脱出するという事を実際にやったような気がする。 突如屋根から出現した義経が、呆気に取られた包囲兵の間に飛び込み、混乱して崩れる雑兵の間をかいくぐってあっという間に 向こうの斜面に姿を消した、という図は容易に想像できる。

 義経はその後、京都周辺を彷徨い”勧進帳”さながらの山伏ネットワークを駆使して奥州平泉へ逃れ、藤原泰衡に攻められて自害した といわれているが、北海道のアイヌの間では彼らの縄文的な信仰の他に強い義経信仰があることが知られている。アイヌの伝承によると、 奥州から逃れてきた義経は、彼らに文字や製鉄などの技術を教え、共に平和に暮らした、と伝えられている。実際にアイヌの間では 鎌倉時代の兜につける鍬形(くわがた)を御神体とする信仰が受け継がれており、少なくとも新宮の徐福伝説と同様、平安から鎌倉の 頃に武士がなんらかの理由で蝦夷を訪れ、彼らと同化して進んだ技術をもたらしたのは確かなようだ。

金峯神社

 金峯神社の前に再び戻り、改めて説明板を読むと、この神社は”金精(こんしょう)明神”という名で金山彦命を祀っているのだという。 金山彦は古事記、日本書紀にイザナミが火の神軻遇突智(かぐつち)を生んだ時、嘔吐し、それが鉱山の神、金山彦になった、 と書かれている。金山彦を祀るこの神社は醍醐天皇の時代(885〜930)に編纂された「延喜式」に載る古社で、その祭神からここ吉野に 金の鉱脈があると古くから いわれている。「今昔物語集」や「宇治拾位物語」には、吉野で金が産出する話が載っており、実際に金鉱脈があったのかも しれないが、金山彦の神話は金というより製鉄を思わせ、実際に隣の東吉野村では鉄と銅が産出し、 ここからさらに奥に行った川上村にはその精製に必要な”丹生”つまり水銀が取れることが知られている。吉野に限らず 大和平野を囲む山々には古くから鉱物資源が産出することが知られており、それらの金属が大和で王権を打ち立てた勢力にとって 重要だったことを想像させる。

 ここに祀られる古い神の存在は、恐らく神話以前の時代にここで何かしらの金属が取れた事を示しているのだろうが、 平安時代には金属が 取れることよりも金のイメージのみが膨らみ、弥勒下生の黄金浄土として貴族達の「金の御嶽詣」の習慣を生んでいる。そう考えると さっき見た隠れ塔は、やはりこの黄金浄土で三昧行をする為に浄土信仰が広まった平安時代に建てられた常行三昧堂と見るのが 自然な気がする。

 説明板の先に続く石段の向こうには、春日造檜皮葺の立派な拝殿が見える。春日造の拝殿というのは初めて見たが、 その屋根の形状から最初はこれが本殿かと思わせる立派なものだ。その拝殿に行って見ると、立派な格天井の下は柱が立っているだけ の吹き抜けで、床はただの板張りだった。これは拝殿というよりほとんど神楽殿のようだったが、柵が置かれた 床の向こうにはさらに急な石段が続いている。その石段を登った先が本殿だが、立ち入り禁止になっており、 そこから見上げても本殿を拝むことはできない。仕方がないので本殿の建つ丘の麓の道に回ってみると、 流造の古そうな社殿をかろうじて見ることができた。

宝塔院跡

 金峯神社を見上げる山道をそのまま奥に歩いて行くと、杉の樹林下にホトトギスの花が咲いていた。しばらくすると、 休憩所のある広場のような場所に出て、「宝塔院跡」という説明板が立っていた。かつては周辺に宝塔院という寺院があり、 明治の廃仏毀釈で廃寺にされ、今はその堂宇がどこにあったのかすらはっきりしないと書いてある。

 江戸時代中期の「大和名所記」 には「 安禅寺 飯高山安禅寺寶塔院本尊は一丈の蔵王權現、又役行者(えんのぎょうじゃ)の遺像を安置せり。安禅院より 三町ばかり右に行きて奥の院 奥の院四方正面堂は聖觀音菩薩、不動明王、愛染明王、地蔵菩薩、其の脇に蔵王堂。」とあり、 「大和名所図会」にはその伽藍の様子が絵に描いてある。それを見ると、現在金峯山寺の蔵王堂外陣に置かれている4m程の巨大な 蔵王権現を祀る蔵王堂を中心に、多宝塔や諸堂が高野山のような伽藍配置で並んでいる様子を見ることができる。この境内にあった 多宝塔は、備前四十八ヶ寺や最上稲荷を創建したとされる”報恩大師(718〜795)”が観音呪を修した場所に建てたといわれている。 空海のデザインといわれる多宝塔がそれ以前の報恩大師の時代にここに建っていたとは考え難いが、少なくとも初期修験道に影響力の強かった 真言宗の寺院として、吉野を整備した聖宝以降ここに建てられた可能性はあるだろう。またこの塔は観音を祀っているにもかかわらず ”愛染宝塔”とも呼ばれるようになっている。これは安禅寺本尊の巨大な蔵王権現より四方堂にあった愛染明王に信仰が集まって いたことを物語っているのだろう。

 その四方堂に祀られていた仏のうち聖観音は男女の結合像として表され、不動明王、愛染明王は両部愛染明王として合体した 図像表現で表される事もある密教仏だ。聖観音や両部愛染明王は吉野を拠点とした南朝の後醍醐が修したという愛染明王法や、 彼が重用した僧”文観”の行う真言立川流の怪しげな呪術を想起させる。この寺のみならずこのあたり一体に”愛染” という地名が付けられているのは、 ここが吉野南朝時代に愛染明王法を中心とした強烈な加持、祈祷を行う場所となっていた事を示しているのではないだろうか。 明治に寺が廃された後、その伽藍 の場所さえはっきりしないほど破壊されたというのは、ここに邪教”真言立川流”の痕跡があり、それを寺側が秘するためとも 考えられる。

 休憩所のベンチにはこれから大峯に向かうと思われる若い登山客がのんびり昼寝していた。 現在ここは表示板と石碑がなければただの広場にしか見えず、寺があったのではないかとかすかに感じさせる平地は 杉林の道沿いにまばらに残っているのみで、伽藍が広がっていたかつての姿は想像するしかない。

苔清水

 宝塔院跡から峰をぐるっと迂回するように杉林の道を歩いていると、岩肌から湧き水が流れていた。そこにはその水を飲めるよう に木製の樋が渡してあり、くりっとした目の蛙の置物が頭でその水を受けている。喉が渇いていたので手で清水をすくって飲んで みた。昨日のお助け水でも思ったのだが、当然のことながら普段口にする水道水とは味が全く違う。 特に柔らかさというかふくよかさのような 舌触りの違いに驚かされ、改めて天然の浄化槽の力を意識せざるを得なかった。

 この清水は近くに庵を結んだ西行が、

「とくとくと落つる岩間の苔清水 汲みほすまでもなき住居かな」

 と、詠んだことから苔清水という名が付いたのだというが、この句は西行の作ではないのではないかという説もある。その真偽 はともかく、平安の昔からここに清水が流れていたのなら少なくとも西行はこの水を飲んだ事もあったに違いない。

 清水の傍には、

「露とくとくと試みに浮世すすがばや」

 と、彫られた芭蕉の句碑が立っている。この句は西行の句に答えるように詠んだもので、西行を慕って旅をした芭蕉の感慨の ようなものを感じる事ができる。芭蕉が最初にここを訪れたのは春ではなかったようで、再度花の季節にここを訪れ、 桜を愛した西行を追想しながら

「春雨の木下に伝ふ清水かな」

 と、詠んでいる。

西行庵

 苔清水から左手斜面に登り道があったが、穂を付けたススキに呑まれるような下の道を行くと、その先に開けた場所があり、 そこにモミジに囲まれて「西行庵」という小さな庵が建てられていた。中に西行の木造が安置してある宝形造の庵は 割と最近建てられたもののようで、 まだ土壁が白く新しいのが目に付く。その土壁から覗く柱は自然のままの曲がつき、内装に使われている床柱や棚にも同様の 材が使われている為、如何にも侘び住いという風合いを出している。確かに漂泊の歌人西行というイメージに、この”岩間の苔清水” を”汲みほすまでもなき”ような一見粗末な庵はふさわしいとは思うが、残念ながら 明らかに茶室の様式を示すこの小屋は、西行の時代にはまだ存在していない建築様式で建てられており、 かつての姿を再現したものではない。 今ここにはこの西行庵と呼ばれる小屋しか建っておらず、江戸時代の記録を見てもここには西行庵しかなかったようだが、 敷地はその小屋一つの為のものではない広さを示しており、かつてはここにも安禅寺の僧坊が営まれていたのだと思われる。

 ここに庵を結んだ西行は、歌人としても知られる熊野三山検校行尊(1055〜1135)に憧れて、二度の大峯奥駆修行を行っている。 この奥千本にあった 安禅寺は、その奥駆修行の拠点として丁度良い場所にあり、しかも春には満開の桜に囲まれるという西行にとっては理想郷の様な 場所だったのかもしれない。

 しかし、吉野の桜をこよなく愛した西行も「さめざめと泣」く程厳しい奥駆修行は二度で十分だったようで、ここは三年ほどで引き払い、 高野山に居を移している。

 ここから金峯神社に戻りたいのだが、西行庵のある場所にはそれを示す表示はない。周りを見回すと、先の斜面を下る細い道が あったので、きっとこの道に違いないとその坂道を下りてみた。その斜面から谷合の小さな川を渡る道沿いにはホトトギスや ツリフネソウが咲いており、ちょっとした山歩き気分を味わえる。 しかし、その細い山道はどんどんか細くなっていくばかりで、どうやら方向も違うようだ。今日はそれほど 山奥を歩いているわけではないので、道に迷ったとしてもたいした事は無いが、昨日の二の舞を踏むのも癪なので、西行庵から 苔清水に戻った。

高城山展望台

 苔清水には表示板があり、さっき見た斜面を登る道が金峯神社に戻る道だと書いてあった。その斜面を登り、再び金峯神社前から 奥千本口に出て、そのまま林道のような坂道を下った。相変わらず膝は痛いが、歩いていると痛みに慣れるのか軽くなってくる。 高くなった日が、じりじりと背中を射して暑い。道を下っていくと、右手に小山があり登れるようになっていた。登ってみると、 木や草が刈られ、平に整備された頂上には、大きな屋根付きの展望台があり、中の良さそうな中年夫婦がお弁当を食べていた。 そこにある説明板を読むと、 ここは「高城山展望台」といい、護良親王が吉野に立てこもった時、ここを拠点の一つとしたことから「ツツジヶ城」とも呼ばれる と書いてある。確かに周囲に展望が開けるこの場所は山城を築くにふさわしい場所だが、この砦は元弘三年(1333)北条軍に攻められ て最初に落とされたのだそうだ。

 暑くて喉が渇いたので、自動販売機でもないかと思ったが、立派な展望台の割りに何も無かった。仕方が無いので日陰で少し休憩 して周囲の展望を楽しんだ。きっと桜の季節にはここから見る吉野の山並みは綺麗なのだろうと想像するが、周囲の木々が障害になり 思ったほど展望が開けていないのが少し残念だ。それでも遠くに重なり霞んでいく山並みは十分美しい。

牛頭天王社跡

 展望台から下りた麓のトイレで用を足し、再び道に戻った。その道の左手に「牛頭天王社跡」と書かれた石碑が立っている。 牛頭天王は、疫病退散の神で祇園精舎の守護神として知られる。 ここに立つ説明板を読むと、かつてあった社は 高城山にあったツツジヶ城の鎮守として建立されたが 、明治になって廃された、とある。牛頭天王信仰は平安から中世にかけて庶民に広まった信仰なので、 もしかしたら護良のツツジヶ城以前、御嶽詣での盛んだった平安時代に高城山の神として祀られていた可能性があるが、今は 石碑が無ければ社があったことすらわからない。

 この牛頭天王は薬師如来を本地仏とし、スサノオノミコトと 同体とされたが 、明治の神仏分離で神と仏を同体とするだけでもけしからんのに”天王”を名乗るとは何事だ、と目の敵にされた。その時に 牛頭天王を祀る寺は、かつての織田信長の社寺破壊を免れる為に、織田家の信仰厚い牛頭天王を祀る寺に変えられたのだから これは本来そこに祀られていたものではない、とする ”牛頭天王信長対策説”という訳の分からない説が飛び出し、 多くの寺がスサノオを祀る神社に変えられるか廃寺にされている。

 ちなみに京都の祇園にある八坂神社は、元々平安時代に牛頭天王を祀っていた 場所に藤原基経が社を建て、「祇園社」と呼んだのが始まりで、有名な祇園祭りはこの牛頭天王が伝染病の蔓延しやすい 夏の京都を練り歩き、庶民の 疫病退散を願って始められたものだ。しかし、明治の神仏分離令で”祇園社”は”八坂神社”に、”牛頭天王”は ”スサノオノミコト”に替えられている。

吉野水分神社

 エンジンをかけないで走るスクーターが、後ろから抜かして坂を下っていく。地元の人なのだろうが、きっといつもこうして この坂を下っていくに違いない。その坂をさらに下っていくと、右手に赤い鳥居が見える。鳥居から続く階段の先には柱を朱に 塗られた立派な二重門が建ち、その門正面の蛙股には龍の彫刻が彫ってあるのが見える。鳥居があるのにさらに門があるというのも 面白いが、その門をくぐると境内は建物に長方形平面で囲まれ、敷地中央は植栽が植えられた庭園のようになっている。左手には 長い軒を持つ桧皮葺の拝殿が横に伸び、庭園を挟んだ向かい側の高所に、まるで拝殿に対応させるかのように長い軒を並行させる 桧皮葺の本殿が建っている。この本殿は、流造と春日造が交互に連棟で七棟並んでいるという珍しい造りになっているが、 屋根にリズムを与える三つの破風が、向かいの動きの無い拝殿と対照的で、古色蒼然とした色合いもあり美しい。

 この神社は「吉野水分(みくまり)神社」といい、金峯神社の奥にある青根ヶ峰から周囲の 川に流れ出す水を分配する分水嶺を祀った神社だという。元々は青根ヶ峰にあったのが、山上の金峯神社、中腹の水分神社、山下の 勝手神社の三社に分かれたのだそうだが、”延喜式”には既に金峯神社と共に載っており、勝手神社が”延喜式”よりさらに古い 大海人皇子の伝承を持っている ことを考えると、かなり古い時代に分社化されていた事 が分かる。こういった一つの社を上中下と三社に分けるのは、丹生神社にも同様の手法が見られることから、この地方独特の古い 祀り方なのかもしれない。

 この水分神社は、恐らく分社化した後その本来の神を忘れてしまったようで、 ”水分(みくまり)”が”御子守(みこもり)”に転じて、平安時代には”子守明神”という子授け、安産、養育の女神として 図像化され、信仰を集めていたようだ。実際に豊臣秀頼や本居宣長は、それぞれの父親がこの子守明神に祈ったところ、その霊験で授かった とされ、秀頼は慶長九年(1604)に現在見られる美しい社を再建し、宣長は「玉勝間」でこの神社の信仰の変遷の謎解きをすることで それぞれ恩返しをしている。

 普通格式の高い神社というのは拝殿や塀で本殿が隠されていることが多いのだが、この神社は、門をくぐった時点で 最初から拝殿と本殿の間に立てるようになっており、拝殿を背後にしながら本殿に直接祈る事ができる珍しい 構成をとっている。その拝殿には秀頼寄進と伝えられる神輿など様々な宝物が並び、本殿では極彩色で飾られていた かつての装飾画の片鱗や、豪華な桃山建築の特徴を示す蛙股の彫刻を見ることができる。

花矢倉展望台

 水分神社を出てさらに坂道を下ると、左手に駐車場とその奥に売店があった。売店は閉まっていたが、 その横の自動販売機で買ったジュースを飲みながらそこにある説明板を読むと、 かつてはここに”世尊寺”という寺があり、牛頭天王社や奥千本の安禅寺と同様、明治の廃仏の嵐で廃寺となった、と書いてある。 世尊寺といえば、ここ吉野と吉野川をはさんだ向かい側の大淀町に吉野寺、比蘇寺、現光寺、栗天奉寺そして世尊寺と 寺名を変えた聖徳太子ゆかりの寺があり、そこは大峯入峰前に役行者が修行したところだとされる。廃寺になった世尊寺が大淀の 世尊寺と関わりがあるのかは不明だが、寺にあったという釣鐘は平清盛の父、忠盛が寄進し、本尊の釈迦如来像は 鎌倉時代のものだというから、 少なくとも御嶽詣での盛んだった平安時代以降栄えた寺だったようだ。説明板には本尊だった釈迦如来像は、 現在蔵王堂の前に並ぶお堂の一つに移され、平忠盛ゆかりの釣鐘はここの駐車場裏の丘にあると書いてある。

 その釣鐘があるという丘に登れるよう細い道があったので行ってみた。花見の季節なら別なのだろうが、普段わざわざこの丘に 登る人などほとんどいないとみえて、細い道は荒れている。丘を登りきったところはまるで近所の裏山といった感じだったが、 釣鐘はコンクリート 製の鐘楼に吊るされ、いたずらされないよう柵に囲まれて良く見えない。この鐘は東大寺の「奈良太郎」、高野山の「高野四郎」 と並び「吉野三郎」と呼ばれる名鐘なのだそうだ。では次郎はどこに行ったのかと思うが、どうも存在しないようだ。 あるいは存在したのかもしれないが、”4”を嫌って兄弟から外されたのかもしれない。ここに世尊寺があったころは、 きっとこの丘から時を告げる鐘の音を吉野の山に 響かせていたことだろう。

 この丘には鐘の他に、コンクリートブロックで造られた小さな祠があり、 中には「人丸塚」と呼ばれる古い石塔の ようなものがある。石には線刻で何か刻まれているのが見えるが、これは五輪塔の一部で、線刻は 藤原期の作風を示す仏像なのだという。”人丸塚”という名の由来ははっきりしないそうだが、子宝に恵まれる「人生まる塚」説や、 火災から守る「火止まる塚」説があるのだという。いずれにせよ子授けの霊験があり、水の神を祀る近くの水分神社との関係を連想 させる。実際に”子守”という名の地にあったこの寺は、水分神社と関係が深く、御嶽詣での貴族達の休憩、宿泊施設として 賑わっていたのではないかと思われる。

 丘から下りて展望台から景色を見ると、眼下に吉野の景色が広がる。ここは高城山より低いはずだが、 周りの樹木が無い分、こちらの方が景色が 良かった。 ここから見ると、吉野は高野山のような山上の盆地に面状に町が広がるのではなく、 山の稜線に沿って線状に町並みが連なっていることが良く分かる。

佐藤忠信花矢倉

 展望台から道を下ると、すぐにまた小さな見晴台のような小屋が道沿いに建っている。説明板には「佐藤忠信花矢倉」と書かれていた。 佐藤忠信は義経の吉野逃避行の際、自ら義経に偽装してそのしんがりをつとめ、 この矢倉で迫る追手と戦った、という話が”義経記” に出てくる。それをモデルに謡曲”忠信”が生まれ、さらにそれが”義経千本桜”にアレンジされていったのだそうだ。

稚児松地蔵

 その花矢倉の先から分岐する杉に囲まれた細い山道をひたすら下ると、「稚児松地蔵」に出る。小さいが立派な祠 に祀られたお地蔵さんは、その名前からなにかいわれがありそうだが よく分からない。少なくともここは、万葉の歌にも詠まれた喜佐谷から吉野川の宮滝に出る川沿いの道との分岐点に当たる為、 何か目印になるようなものが昔からあったのだろう。宮滝には縄文、弥生時代の遺跡があり、日本書紀、続日本紀にも度々登場する 吉野離宮はその周辺にあったことが知られている。もしかしたら現在と違ってこの万葉の道が、吉野へ向かう古のメインルート だったのかもしれない。そこで一息入れた後、表示板の示す如意輪寺方面へ向かった。

如意輪寺

 稚児松地蔵を境に、ぼうぼうと生える藪の間を歩く坂道になった。たまに脇の雑草を刈ってはいる のだろうが、きっと夏の強い日差しにすぐ伸びてしまうのだろう、道はすっかり草に覆い隠されて見えない。焼けるような 日射しとむっとする草いきれに包まれ、隠れた足元に注意しながら 歩いていると、まるで中上健次の小説に登場する”被慈利(ひじり)”にでもなったような 気分になって、

「ジャアラジャアラ。」

 と、声を出して歩いてみたりする。

 こんな所を通る人などいないだろうと思っていたら、道の向こうには急な斜面にもかかわらず畑が広がり、 時々農作業をしている人がいる。その藪道から一度車道を横切り、坂を下りきると、如意輪寺の駐車場があった。

 その駐車場から再び坂を上がると如意輪寺の境内に出た。左に正門が建っている事から、くぐってきたのが裏門にあたる ことが分かる。境内には裏門正面に唐破風付の立派な社務所が、その右、 正門から見て正面に一間向拝付宝形造の本堂、如意輪堂が見える。 その傍らでは住職の奥さんだろうか、この暑さの中玉の様な汗を流しながら草むしりをしている女性がいた。その如意輪堂の前には 「浄土宗 如意輪寺」と書かれた石碑が立っている。この寺には多宝塔がある為、てっきり真言宗 だと思っていたので少し驚いた。寺歴を見ると、延喜年間(901〜923)に日蔵道賢上人が真言宗の寺院として創建し、 後醍醐の時代に南朝の勅願所となった後荒廃し、それを江戸時代の慶安三年(1650)文誉鉄牛上人が浄土宗に改めたのだという。

 社務所脇の小道からは、境内奥に行けるようになっている。「後醍醐天皇御霊殿」と書かれた唐破風向拝付 入母屋造瓦葺の豪壮な建物を見ると、朱塗りの柱や細かな彫刻、そして壁面の絵画は、高野山の徳川家霊台を彷彿とさせるが、残念ながら それらの装飾は手入れもあまりされていないようで色あせるままになっていた。

 御霊殿から奥に行く左に宝物殿があったので入ってみた。館内は涼しくて少しほっとしたが、汗の匂いに蚊がまとわりついてくる。 入ってすぐに「寝拝み観音」なる 如意輪観音の画が天井に架かり、その下に”寝拝み”用の椅子が置いてあった。画は本尊の如意輪観音を描いたものだそうだが、 あまり趣味が良いとは思えず、 汗だくで椅子に寝るのも嫌だったので、拝むことなく館内を見て歩いた。ここは小さな宝物殿だが、 古い歴史と南朝ゆかりの寺だけに内容は充実している。残念ながら貸し出し中の展示物が多かったが、それでもそのコピー を展示してくれていたので、本物を想像する事ができた。中でも楠正行(まさつら)が四條畷(しじょうなわて)の最後の戦に 向かう前に、寺背後の後醍醐の墓を詣で、鏃(やじり)で辞世の句を刻んだという鉄扉は、刻んだ跡も生々しく、 鏃で書いたにもかかわらず、なかなかの達筆で驚いた。こういった南朝ゆかりのものや、それを賛美する明治以降のものも多かったが、 他に吉野曼荼羅や、慶派らしい 写実的な緊張感を持つ蔵王権現像など見るものが多かった。この源慶作の蔵王権現像は大きくはないものの、バランスの取れた ポーズや、風にあおられる背後の火炎が高野山の八大童子像を彷彿とさせるが、源慶が運慶の弟子と聞けばそれも納得する。 この像は 蔵王堂に置かれる蔵王権現のモデルになったものとも言われており、そう聞いてもさもありなんと 思わせる素晴らしいものだ。

 宝物殿から出ると、境内最奥に建つ多宝塔が見える。遠くからライトアップされている姿は美しかったが、近くで見ると 高野山のものに比べて 安定感がなく、あまり美しいとはいえない。この塔は新しそうに見えたが、大正時代に寄進されたということだ。

後醍醐天皇塔尾稜

 如意輪寺境内から背後の山に行く道があり、そのまま後醍醐天皇塔尾(とうのお)稜につながっている。つながっているとはいえ、 天皇稜は 寺の持ち物ではないらしく、坂の入り口には宮内庁の看板と小屋があり、中にはこの暑いのにネクタイ姿をした宮内庁職員らしき 若い男性が 暇そうに座っていた。そこから始まる石段をしばらく登ると、南朝第三代の長慶天皇の娘、”世泰親王”の墓があり、さらに登った ところに石造りの鳥居と透塀に囲まれた後醍醐の墳墓があった。明治天皇に”正統”と 認められて以来、悲運の天皇として忠臣楠正成と共に英雄視された人物の墓としては、意外なほど静かで 質素なたたずまいをみせている。通常の天皇は南向きに遺体を葬るのだそうだが、後醍醐は ”北闕(ほくけつ)の天を望まん”という辞世の句のとおり、 北向きに葬られているのだそうで、その執念を思うとこの静かなたたずまいはかえって不気味に思えてくる。

 杉に囲まれた石段を下りて、本堂前に戻った。さっきは気付かなかったが、本堂脇の女性が草むしりをしていたあたりに 石碑が二つ立っていた。一つは楠正行が出陣に際して奉納した髻(もとどり)を埋めた「正行公の髻塚」で、もう一つが正行と縁談のあった 弁内侍が正行を弔う為、自らの髪を埋めた「弁内侍の至情塚」と呼ばれるものだ。正行は主君である 後村上天皇に弁内侍を勧められた際、自らの死を悟っていた為その話を断り、弁内侍は正行の死後尼となった、 という美しい話が残っている。

 そんなロマンティックな話を思いながら、門の脇にあった自動販売機でジュースを買った。喉が渇いているのでジュースを一気に 飲み干したが、自動販売機の横のゴミ箱からは空き缶があふれ出し、横に山積みになっている。車で直接境内に乗り入れられないので、 ベンダー業者の回収も頻繁ではないのかもしれないが、曲がりなりにも天皇稜を守る由緒ある寺の門の脇に空き缶が山積みとは ちょっといただけない。

 少し休憩した後、立派な正門をくぐり、急な石段を下りて吉野へ向かう道を歩いた。一度山裾を川まで下り、再びくねる道を登る。 先程の花矢倉からの道と違ってここはもう山道ではなく、桜の季節に賑わう散歩道のようで、道沿いには柵があり、木もあまり 生えていない。坂を上ると「五郎兵衛茶屋跡」から広い野原のような場所に出て、表示もないのでそのまま方向感覚を頼りに 進んだ。その野原を突っ切ると再び道があり、下っていくと袖振山の山裾に出る。そこを裾伝いに左へ行くと、桜本坊の駐車場 に出た。駐車場から坂を上がった先に桜本坊があるが、向かいの竹林院とどちらに先に行こうか迷った。もう4時を過ぎており、 片方しか拝観できないかもしれないからだ。

竹林院

 結局、庭園が有名な竹林院に行くことにした。門をくぐると白砂が広がり、その右には立派な僧坊がある。玄関には 立派な彫刻が施された唐破風が付いており、修験の宿坊というより禅宗の僧坊といった感じがする。この寺は、今でこそ修験道の宿坊として名高い が、他の修験の寺とは違い、役行者ではなく聖徳太子が”椿山寺”として創建したという由緒を持つ。 その後、空海が立ち寄り、聖宝が修行したといわれ、 大峯修行中に”蔵王菩薩”や 菅原道真に会った という日蔵道賢がここで剃髪した後、住職となり真言宗の寺院として中興したという。 南朝時代には後小松天皇の勅命で「竹林院」と名を変え、 明治に一度廃寺になった後、天台宗の寺院として復興し、現在は喜蔵院と同様、修験道本山派聖護院門跡寺院で 大峯山寺の護持院、そして吉野山四宿坊の一つとして本山修験の中核を担っている。

 拝観料を払って、”大和三名園の一”といわれる「群芳園」に入った。池の左後方には斜面を利用して滝石組がなされ、 湾が入り組んだ池には鶴、亀の島や石が浮かんでいる。これは典型的な池泉回遊式と呼ばれる大名庭園の様式だが、池を背にすると、 ここから吉野の景色を展望 できるのが独自の特徴となっている。この庭園は、室町末期に二十一代住職、裕尊が大峯山の景色を庭に仕立てたことに始まり、秀吉の吉野 の花見に際して利休とその弟子の細川幽斎が改作したものだという。宿坊に禅宗の様式を感じるのも、恐らくこの時に庭園だけでなく 寺院そのものの改築もなされたためだろう。もっとも、今ここに見える建物は、外観にこそその名残をとどめてはいるものの、 近年かなりの改築を重ねているようで、 最新の設備を取り入れた高級旅館という雰囲気を醸し出している。

 大和三名園の一とはいえ、群芳園は京都の洗練から比べれば、どうしても野暮ったさというか、素朴さのようなものが見えてはしまうが、 恐らく花の時期はここからの展望もあり、 もっと美しいのだろう。この寺には秀吉の他に、西行や本居宣長、そして新宮の西村伊作邸にも度々訪れていた与謝野鉄幹、晶子 夫妻など文人墨客の詠んだ 詩が数多く残されており、修験の厳しい修行や数々の反乱劇による戦火といった吉野の激しい歴史を忘れさせてくれる 静かな空間となっている。

 丁度池を背にした吉野の風景は、低くなってきた日差しが正面から射してまぶしく白んでいた。他に誰もいないこの庭にいる 時間が贅沢な気がして、石のベンチに座り、しばらくぼうっとその景色を眺めていた。

 気が付くと、いつのまにか5時近くになっていた。池から裏の丘に回り、ぐるっと庭園を一周して竹林院を出た。

桜本坊

 竹林院を出て、その蓮向かいにある桜本坊に行ってみた。気持ち悪いほどに全身朱色をした 阿吽の仁王像に守られた門は開いてはいたが、拝観 は既に4時で終わっていた。この寺は、大海人皇子が見た桜の夢を日雄角乗 (ひのおのかくじょう)に占わせて壬申の乱を起こして勝利した後、吉夢を見た日雄離宮に角乗を住職として寺院を建立した、 と言われている。

 角乗は、続日本紀の文武天皇三年(699)に記述のある役行者の高弟と言われており、 この寺には白鳳時代(649〜710)の釈迦如来坐像が伝わっているため、天武天皇の在位中(673〜686)の 創建という話は事実なのかもしれない。しかし、この創建譚は、さっき行った坂下の「大日寺」のそれと ほとんど同じだ。それに桜の吉夢というのは、役行者の伝承が固まった平安後期以降の成立と考えられ、時代的にも大海人皇子には 勝手神社の吉祥伝説のほうがふさわしいと思われる。もともと、この寺は坂を下りた先の蔵王堂の前にあったのが、明治6年に現在の場所に移ったということだが、 その創建譚の一致から、現在の大日寺の場所にあったのかもしれない。但し、 旧境内には「井光神社」があったという話もあり、もしそうだとすれば、ここから坂を下りる途中にある「井光神社八幡宮」 のある場所にあったことになる。

 この”井光”というのは、記紀の神武東征譚に、吉野入りした神武が 光る井戸から出てきた尻尾のある 人に名を尋ねると「僕(あ)は国つ神、名は井氷鹿(ゐひか)と謂ふ」と答えた、と書かれる吉野の原住民の名だ。その”井光”のあとに 同じく尻尾を持つ人として”吉野の国巣(くず)”の先祖”石押分子(いわおしわくのこ)”が神武に加勢するために駆けつけている。 ”光る井戸”というのは製鉄の炉、あるいは焼き物の窯のような火を使う当時の最先端技術を思わせ、 ”尻尾のある人”は「引敷(ひっしき)」という獣の皮を尻に つける山伏装束を思わせる。現在の山伏装束に神話時代の吉野の人々と同じ風俗が残っているとすれば面白いが、山伏装束が 機能性を重視した実用的なものであることを考えると、その頃から吉野の山岳を移動して、後の山伏や忍者が使う ネットワークの基礎を築いていた人々は、案外山伏と 似た服装をしていたのかもしれない。 また、記紀に”井光”は、吉野の首(おびと)等の先祖と紹介されていることから、彼らは同じ吉野の国巣人と同様、神武に従い、 大和政権確立に寄与した部族だったことがわかる。つまり体制側にあった吉野の人々の服装が、山伏装束として残った可能性が 全く無いと言い切ることはできない。

 しかし、”井光”という名の残る地は、吉野川をさらに奥に行った川上村にあり、そこが記紀に書かれた”井光”が現れた場所ではないか、とも いわれているが、現在の桜本坊の道を挟んだ向かいにある「善福寺」境内にも”井光”が現れたという井戸が残っており、 実際の場所はともかく、袖振山にも”井光”の伝承があったことは確かなようだ。

 大海人皇子の時代には、既に 神武東征譚は伝説になっていたようだが、その神武と同様に東征して反乱を成功させた応神天皇に吉野の国栖(くず)人が 酒を献じて歌い 舞った、という記述が記紀にあり、これが後に定着して”国風歌舞(くにぶりのうたまい)”として節会や大嘗祭で定期的に舞われる ようになったことが 分かっている。恐らく大海人皇子もその舞や由来を知っていたことだろう。そう考えると、 ”井光”の伝承が残り、応神をたたえた、独自のネットワークを持つ部族のいる吉野を反乱の旗揚げの地に選んだことは理解できる。そして、壬申の乱 の勝利後に、自らに味方した吉野の人々をたたえる寺を創建し、その境内に”井光神社”を置いた、と見ることができる。 さらに天武天皇十二年(683)には、 吉野首に、天皇家以外の神の子孫に与えられる家臣の最高位、”連(むらじ)”の姓(かばね)が与えられている。

 もし、現在の”井光神社八幡宮” のある坂の中腹に桜本坊があったのだとしたら、大日寺は平安時代に 真言密教が伝わった後、天台系の修験道となった桜本坊と分裂して峠の下に独立したのかもしれない。

 寺歴を見ると、今でこそ立派な堂宇が立ち並んでいる天武天皇ゆかりのこの寺も、明治の廃仏の嵐に巻き込まれたようで、寺宝にはその憂き目にあって潰された吉野の寺院の 本尊が集められているのだそうだ。白鳳時代の釈迦如来像に始まって、平安後期の地蔵菩薩像や鎌倉初期の役行者像、 修験道中興の祖である理源大師聖宝像、 それに恐らく後醍醐が持ち込んだと思われる真言立川流の聖歓喜天など、吉野の歴史をそのまま語っているようなものが 多い。

袖振山

 桜本坊から町屋造りの落ち着いた店が並ぶ坂道を下って、喜蔵院に戻った。玄関で声を掛けたが、宿の人は出てこずに、受付の すぐ向かいにある部屋から長期滞在の客と思しき中年女性が出てきた。客かもしれないがまあいいや、と思いながら 荷物を預かってもらった礼を言って宿を後にした。

 坂を下る途中の藪の中に「袖振山」と書かれた石碑が埋もれているのをかろうじて見つけた。井光のような尻尾をつけた人が光る 井戸から出てきたり、天女が琴につられて舞い降りたりする伝承が残るこの坂道は、きっと昔はもっと神秘的な雰囲気に包まれていた に違いない。

 時間もあることだし、坂下に並ぶ食堂で食事でもしようかと思ったら、店は全て閉まっていた。通る客もいないようなので、店を 開けていてもきっと儲からないのだろう。

 そのまま吉野駅に向かう道を足を引きずりながら歩いていくと、陀羅尼助丸や桜細工、吉野葛を売っている町屋造りの店が 並んでいる。せっかくなので、古そうな店構えの吉野葛店で「葛しるこ」を買った。 内装をほとんど変えていないような店内に入り、人の良さそうなおばあちゃんと言葉を交わしていると、 まるで江戸時代にでもタイムスリップしているような気分になる。さらに並びにある土産物屋で葛餅を買い、再び蔵王堂の境内に 登ってみた。

 人気の無い境内に巨大な蔵王堂は悠然と構えている。ふと気が付くと、四面桜の右手奥にあるお堂で若い女性が何か熱心に 祈っている。近づいていくと、気付いた女性は逃げるように階段を賭け下りていった。お堂には 「愛染堂」とあり、恋愛成就のご利益があるのだという。きっと彼女は恋をしているのだ。 ここに祀られる愛染明王は、奥千本にあった安禅寺が廃寺になった後、四方堂からここに移されたのだという。 かつて奥千本にあった伽藍で”北闕の天”を呪う狂信的な祈祷に使われたと思われるこの 愛染明王は、今は恋愛成就の仏として若い女性に人気なのだそうだ。

南朝妙法殿

 境内の左手を見ると雲の間から夕日が射して独特の情景を作っていた。その夕日は蔵王堂の一段下にある八角形の塔を照らしている。 ここは、後醍醐が南朝皇居とした実城寺の跡地で、昭和32年に「南朝妙法殿」として建てられ、 南朝歴代天皇とその家臣を祀っている。後醍醐が 吉野を選んだのは、楠正成が吉野の山伏ネットワークを握っていた要害の地ということに加え、神武、応神、天武 と反乱を成功させた歴代天皇にもあやかったのだろう。しかし、真言立川流による加持祈祷を好み、尊主、正閏論、攘夷を謳う 非現実的な宋学を根拠に天皇親政を目論んだ この原理主義者は、当然のことながら現実的な政治的能力を持っていなかった為に建武の中興に失敗し、南朝を開いた後も 怨念と社会的混乱だけ残して死んでいる。

銅鳥居

 蔵王堂から仁王門を抜けて、再び吉野のひなびた町を歩いていくと緑青の噴いた鳥居があった。これは「銅鳥居(かねのとりい)」 と呼ばれ、山上ヶ岳まで並ぶ四門のうち、最初の”発心門”にあたる。自分は旅の最後にこの門をくぐっているが、普通、大峯へ 向かう修行者は、柱の周りに手を掛けて回りながら、

「吉野なる銅の鳥居に手を掛けて 弥陀の浄土に入るぞうれしき」

 と、三度唱えてこの最初の門をくぐり、厳しい修行に向かうのだという。

   この鳥居は、東大寺の大仏の余り材で造られたとか、扁額は弘法大師の筆になるものだとか いういわれがあり、随分古くからここに立っていたのは間違いないようだ。 現在の鳥居は康正四年(1455)に建てられたのだそうで、今でこそ緑青が噴いているが、当初は”金の御嶽”の入り口を示すのに ふさわしく、黄金色に輝いていたことだろう。ちなみにこの鳥居は、 宮島の朱塗りの鳥居、大坂四天王寺の石の鳥居とならんで日本三鳥居の一、といわれているのだそうだ。

吉野神宮

 細い参道沿いに並ぶ小さな店を見ながら歩いていくと、黒塗りの門を抜けて、ロープウェイの駅表示がある。丁度最終便に間に合う 時間だったが、奈良で10時まで時間を潰さなければならないし、旅が終わるのも名残惜しくなったので、このまま吉野神宮駅まで 歩いてみることにした。

 途中の自動販売機で買ったスポーツドリンクを飲みながら車道を歩いていくと、芭蕉の句碑があり、ここにもヒガンバナが 咲いていた。

 その先には護良親王の身代わりとなって死んだ村上義光の墓があり、その先の大きな下りカーブに差し掛かると 視界が開け、その先に広がっている空には雲間から差し込む夕日が黄金色に輝き美しい。

 しばらく雲間から射す光がうつろうのを見ていたが、日も落ちてきたので先を急いだ。少しずつ暗くなってくる道は、結構車の 交通量が多い。またバッテリー切れの役に立たないヘッドランプを出さなければ いけないかと思っていると、吉野神宮に着いた。といってもこの時間は既に閉まっていて、境内には入れない。道沿いに敷地周囲を たどれるが、かなり広い境内を持っているようだ。この吉野神宮は、後醍醐が再評価された明治22年(1889)に創建され、 現在の社殿は昭和7年に建てられたのだそうだ。

 明治22年は大日本帝国憲法が制定され、昭和7年は日本が満州国建国を宣言した年にあたる。いずれも後醍醐が目指した天皇を 中心とした国家的イデオロギーが確立され、その暴走に歯止めがかからなくなった年に重なっている。 そう考えると、第2次世界大戦の悪夢は、北闕の天を望んだ後醍醐の呪いのようにも思えるが、9.11以降の日本がアメリカと同様、 急速に右翼化しつつあり、戦前の国家主義的な政治体系を賛美する政治家の馬鹿な発言を耳にしていると、かつての愚行は 全く人事ではない気がする。恐らく心ある人々は、これから冷静にそういった暴力に立ち向かっていかなければならなくなるだろう。

 この旅を通じてもつくづく思ったが、日本は美しいし、日本文化は素晴らしい。 それらが成立しているのは、一言で言うと”多様性”にある。その多様性を実現するには広い視野が必要だが、残念ながら それを育てるべく計画する立場にある政治家達はそのほとんどが実に無能だ。彼らの無能ぶりを見ていると、 我々は彼らに頼らずに生きていく方法を考える必要があるのではないかと思う。

 暗くなってきた道を下りながらそんなことを考えた。道は吉野神宮の正面から二手に別れ、右の蛇行する坂道を下りていく。 坂の途中の小さな団地で奥様方の井戸端会議をする脇を通り過ぎ、下りきったところで川を渡ってそのまま真っ直ぐ行くと駅前に出た。 駅前といっても、正面に大きな病院が見えるほかは、小さな個人商店があるのみで、学校帰りの高校生がのどかに自転車で 走っていく他、人もいない。切符を買ってホームに行くと、ネクタイ姿のサラリーマンや学校帰りの高校生達が電車を待っていた。ホームから 見える夕暮れの吉野山を眺めて感慨に耽っていると、しばらくして電車が来た。

奈良

 吉野神宮駅から近鉄吉野線に乗って橿原神宮に行き、そこから近鉄橿原線に乗り換えて大和西大寺まで行った後、さらに 近鉄奈良線に乗り換えて8時過ぎに奈良に着いた。改札を出て、バスターミナルの場所を確認した後、 食事ができるところを探したのだが、実に店が閉まっている。探した場所も悪かったのかもしれないが、観光地の繁華街というのは こんなものなのかもしれない。ようやく駅前の幹線道路 から横に入った商店街で、パン屋の2階がレストランになっているのを見つけ、ハンバーグセットとビールを頼んだ。 ようやく見つけたこのレストランも、入ったとたんラストオーダーだったので、あたふたと食事を済ませた。 ハンバーグはなかなか旨かったが、 パン屋が経営している割りに肝心のパンはそれほどでもなかった。

奈良交通バス

 レストランを出て、どこかで時間をつぶそうかと考えたが、探すだけ無駄だと思い直してバスターミナルの待合室に行った。待合室には まだ客はほとんどおらず、受付と売店に若い職員がいただけで、たまに外から売店の酒目当ての客が入ってくる。 暇なので荷物を少し整理したのだが、 山上ヶ岳登山の前にザックにしまったはずの鍵が見つからない。思い違いではないかと思って服のポケットも探ってみたが 、やはりみつからない。仕方が無いので自宅に電話をして、妻に明日の帰宅予定時間を告げ、鍵を開けてくれるよう頼んだ。

 それでもまだ時間があったので、売店でビールを買い、待合室のツアーパンフレットを眺めたりして時間をつぶした。出発時間 が近づくと、ざわざわしてきた待合室のカウンターで、スーツ姿の神経質そうな中年男性が無意味に 偉そうな態度で金切り声を張り上げ、何か文句を言っている。夜行バスが不満なら新幹線で東京までいけば良いのに、 と思っていると、カウンターの若い男性はにこやかに、

「そうでございますか。それでしたら確認を取って手配させていただきます。」

 と、丁寧に対応している。夜行バスの受付は、酔客などこのようなわけの分からない客の対応も多いだろうに、ここは 教育が良くできているのか売店のお姉さんも含めて対応は皆感じがよかった。

 定刻より少し前に到着したバスに乗ると、席は一番前の左窓側だった。この席 からすると、この便のチケットを最初に買ったのは自分なのだろう。1週間前の購入が最も早いのならバスは空いているのか と思ったが、奈良で既にほぼ満席だった。

 出発した車内の隣の席にいる若いカップルは、ディズニーランドに行く話で盛り上がっている。待合室で 金切声をあげていた神経質そうなサラリーマンは、次の停車駅で降りた。どうやらバスがほぼ満席だった為、希望の席が 確保できなかったのが気に入らなかったらしい。この駅で別の東京行きに乗り換えるようだ。この男性は、 車掌に名前を呼ばれ、説明を受けていたが、華奢な体を滑稽なほどふんぞり返らせ、車掌に礼も言わずに降りていった。

 外の景色を眺めていたら、すぐ消灯時間になったので、シートを少し倒し、カーテンを閉めて寝た。途中の休憩では目が 覚めたので体を伸ばしに外に出た。




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