熊野・高野・吉野旅行記/9月12日(日)大峯

9月12日(日) 大峯

 ふと目が覚めて時計を見ると、3時過ぎだった。もう少し寝てもよかったのだが、今寝ると6時頃まで寝入ってしまいそうな 気がしてそのまま起きる事にした。まだ暗い窓の外からは雨音がする。部屋の明かりをつけて窓を開け、外の様子を窺うと、暗闇に ぼうっと光る街灯が、降り落ちる細かい雨粒を照らしている。昨夜半に比べると雨足が若干弱まったような気はするが、暗いので そう見えるだけなのかもしれない。どちらにしろ昨日の天気予報では、今日は晴れるといっていたので日が昇れば雨もあがるだろう と思いながら、荷物をまとめて布団をたたみ、なるべく音を立てないようにそうっと階段を降りて玄関に行った。

 宿の主人が気を使ってくれたのだろうか、玄関は明かりがつきっぱなしになっており、その明かりに釣られて大きな蛾や蜘蛛が 集っていた。虫達に見送られて玄関の鍵を開け、そのまま宿を出た。合羽を着ようか迷ったが、そのうち晴れるだろうと思って、 ザックにだけカバーを付け、新宮でおじいちゃんに貰った傘をさして歩く事にした。

水分神社

 YHを出て、すぐ裏にある水分(みくまり)神社で今日の登山の無事 を祈った。川合にあるこの小さな神社は「水分」という名から、なにかいわれがありそうだったが詳しい事はよく分からない。祠も 一つだけかと思ったら、横にも別の神を祀った祠があった。もしかしたら吉野の水分神社と何かつながりのある古い神社 なのかもしれなかったが、暗くて何の神を祀っているのか分からなかった。

 神社からYH前の道に戻り、昨日降りたバス停に向かう道の途中を左に曲がって、神社の裏から蛇行する坂道を登る。 ほどなく街灯がなくなり、 真っ暗になった。ヘッドランプを点けてはいるが、明かりが弱い。どうも電池があまりないらしい。予備を持っていなかったので 大丈夫かなと思ったが、立ち止まってしばらくすると眼が暗闇に慣れた。我ながら自分の目の能力に驚いたが、この真っ暗な山道を 歩くのはあまり気味の良いものではない。この山奥の深夜にもかかわらず、時折車が通り過ぎる。ヘッドランプが暗いので、遠く からエンジン音がする度に道の端にできるだけ寄り、事故にならないように気をつけて歩いた。

御手洗渓谷

 暗い杉林に挟まれた大きく曲がりくねった急な坂道をしばらく行くと、トンネルが見える。そのトンネルの手前で、後ろから来た ワンボックスの若い運転手に声を掛けられた。

「すみません、洞川(どろかわ)温泉に行きたいんですけど、道わかりますか。」
 車の後ろの窓にはアニメ・キャラクター柄のカーテンが掛かっている。家族連れのようだ。
「このトンネルを抜けて左に道なりに真っ直ぐ行けば洞川温泉に着きますよ。」
 と答えると、若い運転手は礼を言ってトンネルに入っていった。地図を見るとここから洞川へ行くのは別に複雑な道を通るわけではないが、 真っ暗な山道を走っていると、何となく道を間違えた気がして不安になるのだろう。しかし、こんな朝早くから温泉に行って どうするのだろうか、と疑問に思ったが、この後何台か同じ質問をする車に会ったので、このような客はいるものらしい。

 トンネルを抜けると山上川を渡る橋に出て、渡った先を左に曲がり、川沿いの道を歩く。この川沿いの道は”御手洗渓谷遊歩道” といって、秋の紅葉の時期には賑わうらしいが、まだ夜明け前の漆黒の中を歩いていると、暗い山のシルエットがおぼろげに浮かぶだけで 、ここが美しい渓谷である事はさっぱりわからない。

 「ギャン、カン!!」

 甲高いイヌ科の獣の声と同時に右上の藪が”ガサガサッ”とざわめく。立ち止まってその辺りを見るが、ヘッドランプの明かり は当然のように届かず、真っ暗闇のままだ。犬にしては声が高い。狐だろうか、まさか狼?。しばらく気配を探るが動きがないので、 口笛を吹いてみた。反応はない。が、なんとなくこちらを見ているような気配はする。明治に絶滅したとされるニホンオオカミは、 ここ吉野では昭和の中ごろまで地元の猟師による目撃談があったそうなので、もしこの獣がオオカミだったらと思うとわくわくするが、 甲高い声からすると狐なのかも知れない。

 そのまま川沿いの道を歩いていると、しばらくして藪の中から
「ギャン、カン!!」
 とまた同じ個体の声がした。右手の森の中をついて来ていたのだ。すかさず口笛を吹くと、
「ギャン、カン!!」
 と答えるではないか。何度か口笛を吹いて会話を楽しんだ。しばらくすると飽きたのか返事が返ってこなくなったので、再び道を 歩いた。

 洞川方面から走ってきた車が100m程手前で急に止まってライトを消した。どうしたのかと思いながら歩いていくと、 どうもこの暗闇の山道を 歩いてくる人影に幽霊でも出たと勘違いしてこちらの様子を窺っているようだ。ヘッドランプが暗い為余計にぼうっと光って妖しく 見えたのだろう。それとも右手の藪をついてくる狐が、なにか昔話のようないたずらでもしているのだろうか。かまわずに歩いていると、 車はそろそろと動き出し、すれ違いざまに運転手と助手席の二人がこちらの顔を恐る恐るのぞいて過ぎていくのがわかった。車 は通り過ぎてしばらくのろのろ走った先でライトを消して再び止まり、後ろからこちらを見ているのがわかった。そんなに 恐ろしいならいっそ「わあっ!」とでも叫んで車を追いかけてやれば面白いかとも思ったが、馬鹿馬鹿しいのでやめた。

 この遊歩道は、途中から右手の山中の道と橋を渡った左手の車道に分かれる。山道は真っ暗なので左手の橋を渡り始めると、 右手の谷合から寂しそうな遠吠えが聞こえる。ついて来れるのはここまでなのだろうか。なんとなく後ろ髪を引かれる思いがして 口笛を返した。

 この車道を歩いていると、うっすらと空が明るくなってはきたが、雨はあがらない。温泉に近づくにつれて、建物や駐車場など 人工物が増えてくる。川の向こう、右手の森が切れて開ける手前で再び、
「ギャン、カン!!」
 と声がした。ここまで追ってきていたのだ。口笛を吹くと返事をするが、ここから先は人によって切り開かれているので、 今度こそここまでだろう。声にもそんな感じが漂っているように思える。それともここまで追ってくるのは、「この先は危ないから行くな」 というメッセージなのかとも思いながら、川辺の屋根付ベンチで休憩する事にした。

洞川温泉

 当初は朝食をもっと先でとる予定だったが、雨も止まないので、明るくなってきた洞川温泉の川縁でとることにした。 出発時間が早かった為、予定より30分ほど早く到着したこともあり、雨に煙る山並みを見ながらのんびり朝食をとった。朝食をとっている間に 夜が明けたが、相変わらず雨は降り続き、遠くには雷鳴すら聞こえる。まるで夜明けと共に蔵王権現が現れたかのようだ。 しかし、川下のほうには青空も垣間見え、夜明けと共に鳥が一斉に 賑やかに飛び立つのを見て、そのうち晴れるだろうと楽観的な気分になった。

 ゆっくり食事をしてコーヒーを飲み、川を渡った向かいの駐車場にある公衆トイレで用を足し、水を補給して出発した。川沿いに は、ひなびた温泉街が広がっている。「陀羅尼助丸」の看板を掲げた薬屋や、山伏の為の宿があり、ここが修験の山麓であることを感じさせてくれる。 この洞川は温泉地としてだけでなく、名水の里としても有名で、大峰の登山客は、洞川を出発する時にこの名水でつくられる豆腐を 頼んでおき、帰りにそれを食すのが通なのだというが、残念ながら時間が早すぎて開いている店はなかった。

 洞川が温泉地としてどれほどの歴史を持っているのかは知らないが、この町は修験道の開祖、役行者が使役したという 鬼の一人”後鬼(ごき)”が修験者を助ける為に開いたと伝えられ、川の対岸にある真言宗醍醐派総本山の ”龍泉寺”は天智六年(667)に役の行者によって開かれたということだから、修験の基地としてかなり古くから 知られていたのだろう。龍泉寺の名からは、この地が水に縁が深く、真言宗である事からは晴雨法を修した空海との関係を 容易に想像することができる。寺には開祖と伝えられる役の行者の他に、弘法大師、理源大師が祀られ、龍神出現の場とされる 境内の瀧では水行をし、洞川の地名の由来となった寺周辺に点在する鍾乳洞も修行の場になっていたのだという。

 また、この寺には不動明王も置かれてはいるが、修験の寺にも関わらず本尊は弥勒菩薩だという。 寺の本尊と、天智六年に寺が創建されたという話からは、あるいは朝鮮渡来人が開いたのではないか という想像もできる。日本書紀には、この寺の開かれた4年前、天智二年(663)に日本の百済救援軍が、朝鮮の白村江(はくすきのえ) で唐、新羅連合軍に大敗し、その年の百済滅亡に際して大量の亡命百済人が日本に渡ってきたことが書かれている。 その当時の朝鮮では熱狂的な弥勒信仰があったことが知られており、本尊の弥勒菩薩と寺の創建年代からは、 渡来人が鉱物資源などの開発拠点としてこの寺あるいは町そのものを開いた可能性も考える事ができる。

母公堂

 温泉街を過ぎて、左に山上川、右に杉林が広がる山裾の道を歩いていると、時折樹林下の開けたところに赤紫色の花を咲かせた ツリフネソウが群生しており美しい。たまに登山客の車に追い抜かれ、歩いていると地元住民だとでも思われるのか、 登山口への道や、この先に駐車場があるかなどと訊かれた。洞川から登山口まで歩くと2時間半程かかるので、道を訊かれたついでに 登山口まで車に乗せてもらおうかとも思ったが、なんとなく言うタイミングを外したまま歩きつづけた。

母公堂  洞川から稲村登山口を過ぎて、川沿いの道を歩いていると、「母公堂」という流造の祠がある。 ここは山上ヶ岳で修行する役行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)が、 訪ねてきた母の白専女(しらたらめ)と会ったところだといわれ、かつてはここから先が女人禁制となって いたのだという。今でも祠の横には「従是女人結界」と彫られた石塔が立っており、かつてここが 女人結界だったことを教えてくれている。

 役行者小角には、母親の白専女が小角を見守ったという宝塔ヶ岳(大日山)の岩屋が隣の峰にあり、”日本霊異記”には讒言により逮捕される時に 小角がなかなかつかまらないので、母を人質にしたところ、自分から捕縛されにきた、と書いてあるように母親との 強いつながりがあったことを示す話がいくつか残っている。この役小角の生涯は、数多くの伝説に彩られ、 どこまでが本当なのか実際のところよくわかっていない。同時代の記述としては、”続日本紀”に葛城山に住み、呪術をよくし、 弟子の外従五位下韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の讒言により、伊豆に流罪にされた事が書かれ、 「世間のうわさ」として鬼神を使役し、反抗すると呪術で縛り動けないようにした、と付記されている。 これが、少し後の”日本霊異記”では、小角は賀武(かも)の姓を持ち、山岳にこもり、「孔雀の呪法」を修して空を飛び、海原を駆け、 鬼神どころか神をも使役する人物として かなり大げさに描かれている。どうも日本霊異記に書かれていることは、続日本紀でいう「世間のうわさ」話 そのものであるように思えるため、とても全てが事実だとは思えないが、当時からカリスマ的な人気があったことが窺える。 日本霊異記に描かれる小角は仙人を思わせ、これは道教の影響を見る事ができる。また、「孔雀の呪法」とは密教の修法であり、 葛城を本拠地とする渡来系の賀茂氏は神を奉ずる一族、と考えると、これは修験道の要素を全て満たしており、 ここに修験道の開祖たる役行者小角が現れてくるのを見ることができる。現在では 修験道に関する多くのことが小角に帰せられているが、実際は平安期に盛んになった紀伊半島を中心とする”雑密” 山岳修行者達が、その正当性を”スーパーマン”役行者小角に托して宗教組織化を図ろうとしたというのが実際のようだ。 この母公堂の話も、高野山に 空海とその母親の同様の話があり、真言宗の求心力となった弘法大師空海をモデルにカリスマ教祖、”神変大菩薩役行者小角”を 演出しようとした話の一つと見ることができる。また、女人禁制は大峯でも修行するようになった密教僧達が、高野山のルールを ここにも適用したのだろう。

 母公堂でしばらく休憩した後、再び登山口へ向かう道を歩き始めた。

大峯大橋

 川沿いの道をひたすら歩いていると、雨が降っているにもかかわらず、というより湿度が高いからというべきなのか、 汗が滴り落ちてくる。暑いので着ていた長袖シャツを脱ぎ、上はTシャツ一枚にした。自分もそうだが、 日帰りで山に上り始めるのに丁度良い時間なのだろう、登山客の車に随分追い抜かれた。

 分岐する川に沿って右に曲がり、しばらく 行った先の駐車場に、蕎麦屋や売店まで付いた休憩所がある。先程追い抜いていった車の客は、 皆ここで朝食をとりながら登山準備をしていた。当初はここで合羽を着て傘をたたむつもりだったが、どうにも暑いので、結局Tシャツ に傘といういでたちで山を登る事にした。

 この駐車場から「大峯大橋」という、朱色の欄干に金の擬宝珠が付いた新しそうな橋を渡る。この橋とその先に見える黒い四脚門の 意匠を見ると、これから山登りというより寺参りをするような気分になる。橋の下を流れる川は、雨のせいもあってかなり水量が多く、 激しく流れているのがわかる。渡った先の門をくぐり、その横に並ぶ墓石群を抜けると、山道が始まる場所に木製の女人結界門が 立っている。その脇には「登山者へのお願い」として、宗教上、伝統上の理由から女人結界の維持に協力して欲しい、 と丁寧に書かれた説明板が立っていた。

一ノ世茶屋

 そこから先のぬかるんだ山道は、杉に囲まれ、転がる岩には苔が貼り付いている。登り始めてすぐの道を杉の倒木がふさいでおり、 この山の厳しさを示しているようだった。修験者の修行の山とはいえ、このあたりも植林された杉だらけなので、ここら辺りはまだ 個人の所有する土地なのかもしれない。恐らく普段でも あまり日の入ることのない杉の樹林下の道だが、時折白いショウマの花が咲いており、心を和ませてくれる。 登りは急だが、道がぬかるんでいる他はよく整備されているようだ。車で来た軽装の登山者が次々に抜かして登っていく。 そのぬかるんだ道を進んだ先にトタンに覆われた小さな小屋があった。看板に「一ノ瀬茶屋」と書いてある。 茶屋といっても無人だったし、 登り始めて間もないということもあり、休憩せずに先へ進んだ。

一本松茶屋

 天気は霧雨に変わり、時折雨足が強くなる。傘をさしたり、たたんだりしながらしばらく行くと、 杉林を抜けて山裾を回るように細く蛇行する道に変わった。視界は開けてくるが、この生憎 の天気では、残念ながら眺望は望めない。それでも、時折霧の間から大峯山系最高峰の大天井ヶ岳が顔をのぞかせているのを 見ることができた。

「ようお参り。」

 山伏姿の下山客に声を掛けられる。この山上ヶ岳での登山客の挨拶は、「こんにちは」ではなく「ようお参り」なのだ。 言い馴れない挨拶を返すのが何となく気恥ずかしくて思わず

「こんにちは。」
 と言ってしまった。

 丁度昨夜山頂の宿坊に泊まった客が下りて来る時間帯なのだろう、 ここらあたりから下山客とすれ違うようになり、少しづつ「ようお参り」と言うのにも慣れてきた。日本全国に散らばる他の修験の 山で、「ようお参り」と挨拶をするとは聞かないので、恐らくこの山だけの習慣なのだろう。この挨拶に慣れてくると、 ここが信仰の山であることを自然に強く意識するようになり、また大峯登山の実感がわいてくる気がする。  この山裾の道は、時折足場がないため金属製のグレーチングで 整備され、登山道の確保がされている。こういった道なき山だからこそ修行に使われていたのだろうが、きっと事故も多かったに 違いない。「ようお参り」という挨拶は、この困難な道で修行する者を暖かく迎える意味で自然に言われるようになったのだろう。

 山道に転がる朽木には色鮮やかな菌類がへばりつき、斜面から時折「がさがさ」とヒキガエルが這い出してくる。熊野の中辺路で 出会ったトカゲ達が古の平安貴族の生まれ変わりだとすれば、このヒキガエル達はさしずめ山伏の生まれ変わりといった ところだろうか。もしかしたら山伏達は、このヒキガエルから強心剤となるセンソを取り出し、薬として用いていたのかもしれない。

 途中すれ違った山伏姿の行者に
「あのう、写真撮らせてもらっていいですか。」
 と尋ねると、
「こんな顔でよければどうぞ。」
 と快くOKしてくれた。

 この”勧進帳”の弁慶の姿でおなじみの山伏の装束は、単なるスタイルではなく、山で修行する上での工夫と信仰を形にした 非常に現実的なものなのだそうだ。例えば頭に乗せている”頭襟(ときん)”は、大日如来の宝冠を表し、同時にコップとしての機能 を持つ、といったように、身に着けるもの全てに宗教上の意味づけと現実的な用途が備わっており、そういう視点で見ると、 山伏達はまるで両部曼荼羅を一つにした小さな宇宙を身にまとっているように見える。

 また、この装束には修行者が母胎内にいることを示す意味づけもなされている。これは、修験道の山岳修行が”死と再生”を 大きなモチーフとしている事に由来する。具体的には、修行者は入山の際に一度死に、母胎内で再度受精して生まれ出る までの成長の過程を、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人道、天道、声聞、字明、縁覚、菩薩を通ってさとりにいたるという十界 に重ね合わせた”十界修行”としており、山中にはそれぞれに対応したポイントが定められている。ちなみに、我々が山で何気なく 使う”〜合目”という言葉は、この十界のポイントを数字で示したものだ。このように修験道の言葉が山で一般化するほど 浸透している事実は、いかに多くの山伏達が全国の山で修行していたかを示していると見ることができる。

 険しい山道の途中に「一本松茶屋」があったので小休止にした。ザックを下ろしてベンチに腰掛けると、薄暗い茶屋内に 全身から吹き出るように水蒸気が立ち上るのがわかる。水を飲み、チョコレートを頬張って再び山道に向かった。

お助け水

 ぬかるんだ山腹の道は、岩がむき出しの場所が増えていき、道幅も人一人分くらいになった。荷物が重い事もあり、登り客には 後ろから抜かれることの方が多かったが、その度に立ち止まって道を譲らなければならない。しばらく歩いていると、前方に 山伏姿の人と普通の登山の格好をした人が入り混じった、10人ほどのパーティーが先行しているのが見えた。 年齢も中学生くらいの男の子から、初老の 男性まで幅が広いが、皆白い鉢巻を巻いている。そのパーティーはよほどのんびり歩いているようで、あっという間に追いつき、 道が狭い為抜かす事もできずに まるでそのパーティーの一員にでもなったかのようにしんがりに付いて歩いた。普通なら道を譲ってくれるところなのだが、 のんびりした彼らは縦一列に並びながら大声で世間話をしてこの雨の中楽しそうに歩いている為、 自分が後ろに来た事に気付かない。話の内容から山伏姿の初老の男性の一人が、どうもどこか関西のお寺の住職で檀家さんを 引き連れて「金の御嶽詣で」をしているようだ、ということがわかってきた。

 そのうちパーティーの若い登山装備の男性が自分のことに気付き、前に連なるメンバーに、
「おーい!人通るから道開けてやって。」
 と声を掛けてくれた。通り過ぎながらその男性に礼を言い、
「よう、お参り。」「よう、お参り。」「よう、お参り。」
 と立ち止まってくれた人を抜かす度に挨拶した。

 その中の恐らく寺の住職と思われる山伏姿の男性が、人懐こそうな関西訛りで質問してきた。
「えらい荷物やなあ。お兄ちゃん、どこから来はったん?」
「ええと、今週熊野から高野山を旅して今日は大峯登山なんです。」
「熊野から来たゆうても、その言葉やと出身はちゃうやろ。どこ住んどん?」
「ああ、東京です。」
 そこでメンバーを見回し、
「このお兄ちゃんわざわざ東京から来はったんやて!えらいなあ。」
 と大声で宣伝してくれた。メンバーも
「東京やて。」「東京やて。」
 と、ざわざわ反応している。何が”えらい”のかは良く分からないが、とりあえずほめてもらっているようなので 悪い気はしない。
「で、どこまで行かはるねん?」
「明日吉野に行って東京に帰る予定です。」
「吉野まで行かはるんですか。そらえらいなあ。頑張ってや。」
 と、再びメンバーに聞こえるように大声で言い、またメンバーはざわめきながら好奇心旺盛なまなざしでこちらを見ている。

 ”えらい”は、この寺の住職らしき男性の口癖のようだったが、明るく人懐こい性格の人のようで厭味には聞こえない。 その住職らしき人に礼を言って、歩くペースを上げた。

 パーティーを抜かしてしばらく歩いたところで、人が何人か立ち止まって休んでいるのが見えた。 道がV字状に曲がった窪み部分に小さな祠があり、その下の石を積んだところから水が流れている。脇には「役之行者慈悲乃助水」と 書かれた石碑が立っている。”お助け水”とはよく言ったもので、険しい山道に丁度喉が渇いてきたところだった。同様の感想を持つ 登山客も多いのだろう、水飲み用の ひしゃくが何本かあったが、並ばなければ飲めなかった。水を口に含むと、ふくよかに柔らくて旨い。喉が渇いていたこともあって ひしゃくに3杯も飲んでしまった。この湧き水の脇にもツリフネソウが可憐に咲いていた。

 ”お助け水”は、登山道中で距離的にも場所的にも休憩地点として丁度良い位置にあるようで、 登山、下山双方の人々が立ち止まって一休みしていく。 湧き水周辺にはベンチが置いてあったが、雨でぬれているため座って休む事はせず、 呼吸を整えるだけにした。

洞辻茶屋

 水を飲んで生き返ったような気がして歩いていたが、朝4時頃から長い道のりを歩いているのでさすがに疲れてきた。地図上では お助け水から洞辻まで距離はそれほど無いはずだが、疲れが出てきた事もあり長く感じる。

 蛇行する山道から開けた場所に出た。目の前には吉野方面、山上ヶ岳山頂方面を示す標識が立ち、一ノ瀬、一本松と同様トタンで つぎはぎされたような茶屋が建っている。後ろを振り返ると道の横にちょっとした広場のような場所があり、柵に囲われた中に 「出迎え不動」と呼ばれる黒い 不動明王像が立っていた。

 茶屋はそれなりに広く、建物内を貫く通路に置いてあるベンチに荷物と腰を下ろし少し長い休憩を取る事にした。 ここでも全身から吹き出る汗が体温で気化し、水蒸気となって立ち上っていく。靴の紐をゆるめ、足を楽にしてしばらく休んだ。

 茶屋内を見回すと、真ん中辺りに外とつながる場所があり、そこに役行者を祀った小さな祠があった。この役行者の像は、前鬼、 後鬼という夫婦の鬼を従え、錫杖に独鈷杵を持ち、高下駄を履いた髭の老人、という定型を持つ。 この形が現れるのが平安時代後期で、鎌倉時代に全国 に同様の造形が広まっている事からも、修験道の組織化にシンボル化された役行者小角の図像が用いられていたことが わかる。

 ゆっくり休憩した後、通路から”出迎え不動”が立っている広場を見てみると、さっき抜かした10人ほどのパーティーが真言を唱えながら 一心に祈っている。道で見たのんびりしたご一行様という感じが嘘のように皆気合が入り、まるで別の集団のような厳しさが伝わって くる。日本では、少なくとも東京のような都市で見る宗教というものは、単に祭りや儀式のような形式としてしか実感できないが、 目の前の彼らを見ていると、信仰に血肉が付き、肉体を形作っている瞬間を見るようで新鮮だった。高野山では、その深い歴史 や教義とは裏腹に観光地というイメージのほうが強かったので、こういった厳しい信仰に生きている人を目の前にしていると、 ここが生きている信仰を守り続けている聖山であることを実感できる。

陀羅尼助小屋

 茶屋を出ると、そのすぐ先の登り道の脇に鮮やかな青紫色の花が咲いている。ヤマトリカブトだ。見るとそこらじゅうの 藪から首を伸ばして色鮮やかな花を咲かせている。道もこの茶屋を抜けたとたん傾斜がきつくなり、岩場が増えてくる。 土が少ないからなのか、高度のせいなのか、明らかに杉が減り、ブナだろうか、広葉樹が増えてくると同時に空も開けてきた。

 とはいえ、天気は相変わらずの霧雨なので視界は全くきかない。それでもトリカブトの鮮やかな花色を楽しみながら登ると すぐに新しそうな小屋があり、「陀羅尼助小屋」と書いてある。地元の薬屋が休憩所兼販売所として建てたものらしい。陀羅尼助という のは、人の名前ではなく、”陀羅尼助丸”という薬のことだ。キハダの樹皮から取れる黄檗(おうばく)を主成分に、 ゲンノショウコ、ガジュツなどを調合したもので、これも役行者が発明して藤原鎌足の病を治したという伝説を持つ 。現在では胃腸薬として用いられているが、オウバクは湿布や入浴剤として使用すると打ち身や捻挫、火傷などにも効き、 殺菌作用が強い為、結核や虫下しから目薬に牛馬の体調不良にも効く薬として使われたというから、 古くは万能薬として重宝されていたのだろう。 この陀羅尼助は、小角の出身地とされる葛城の当麻寺(たいまでら)に役行者直伝といわれる製法が残っているそうで、 僧が「陀羅尼」を唱えながら薬を精製して 薬効を増すのだそうだ。「陀羅尼」というのは真言、「助」は薬のことだが、面白い話としては朝の勤行で僧がこの陀羅尼を唱えていると 眠くなるのでこの苦い薬を気付けとして用いた事から”陀羅尼助”の名が付いた、という話も伝わっている。実際この薬は苦い事が 有名で、以前は母親が乳首にこの薬を塗って子供の乳離れを即すのに使ったりしていたのだそうだ。

 それにしても陀羅尼助丸を 売る薬屋の周りに、猛毒あるいは漢方薬としても知られるトリカブトが群生しているというのも意味深な気がして面白い。

油こぼし

 陀羅尼助小屋をくぐったあたりから、遠くににほら貝を吹く音が聞こえてくる。さすが修験の山。ここから険しい行場が始まる事を 教えてくれているようだった。 そこからしばらく歩くとチェーンの垂れ下がった岩場に着いた。「油こぼし」という行場で、滑りやすい事から付いた 名のようだ。脇に迂回の為の階段が敷設してあったが、それ程きつそうにも見えなかったのでチェーンをしっかり握りながら 濡れた岩の斜面を登った。

鐘掛岩

 その「油こぼし」から少し行くと、「鐘掛岩」と彫られた石碑が脇に立つ行場がある。 まず途中に九つほど小さな祠がある「小鐘掛」と呼ばれる岩場を登ると、さらにその先には上に綱を張った「鐘掛」 という切り立った岩がある。 先程の「油こぼし」や「小鐘掛」に比べると、 ほぼ垂直に立った岩を登るようになっており、見るからに危険だ。単独では登らないよう書かれた注意書きに躊躇していると、 後ろからウェストバッグのみ装備した、長髪を束ねた若者がやってきた。

「ここは登っていいんですか?」
「ええ、行場みたいですよ。横に安全な迂回路が付いていますけれど。」
「ふーん、じゃあ登ってみよう。」

 と言ったかと思うと、軽快に岩場に取り付き登り始めた。スラッとした体格にオシャレな登山服を着た 長髪の彼は、後ろから見ているとまるで若い女性のようだ。知らない人が見れば、女人禁制の山に大胆にも挑戦するたくましい女性登山者だと思うか も知れない。その彼はあれよあれよという間にこの岩場を登りきり、姿が見えなくなってしまった。自分もチャレンジしようか と思ったが、雨でぬれた垂直に近い岩場から転落すれば、重い荷物を背負っている事もあり危険だ、と判断して横の迂回路を歩いた。

 脇の草むらを見ると、紫色の小さなつぼみをたくさんつけたリンドウの花が見える。牧野富太郎が「はなはだ風情が あり、ことにもろもろの花のなくなった晩秋に咲くので、このうえもなく懐かしく感じ、これを愛する気が油然(ゆうぜん)と湧き出る のを禁じえない。」と書いたこの小さな花は、日光に反応してつぼみを開く性質のため、天気の悪い今日は残念ながら 閉じたままだ。リンドウは龍肝と書き、葉や根が肝のように苦い事からその名が付いたのだそうだ。苦いといえば、 陀羅尼助にも使われているキハダもそうだが、このリンドウも根から健胃薬として使われるゲンチアナチンキが取れるのだそうで、 さっきのトリカブトといい、この山は薬草の宝庫だったのかもしれない。

西覗岩

 時折山下から強風が吹き付けてくる。ガスに覆われた稜線の道の両脇には、厳しい環境条件にもかかわらず森が広がっている。 土が少なくて根がはれないのだろうか、それとも常に吹き付ける強風に耐えられなかったのだろうか、 時々根こそぎ倒れている木を目にした。この道からはほとんど景色が見えないが、時折霧の中から険しい崖が覗き、 まるで中国の仙人境にでも来たような 気分になる。古の人々は、恐らくこういった幻想的な風景にここを地上とは隔絶された仙人の住む世界だと考えて、常人の 近寄りがたい霊験ある山として恐れ、あがめていたのだろう。

 さっきから聞こえているほら貝の音がだんだん近づいてくるのだが、どうもこの人はあまり上手くないようだ。音の当たり外れが 多い。ほら貝は自然の貝そのものを使うので、規格品である一般の楽器に比べて難しいことは想像に難くない。

 修験道では、法螺の音は 大日如来の法身説法を表しているのだそうだが、嘘つきのことを”ホラ吹き”と呼ぶように、江戸期以降里に定住し、加持祈祷を 生業にするようになった修験者の中には胡散臭いエセ行者も多かったようだ。昔は子供がいたずらをすると、 母親に「悪さばかりしていると 天狗にさらわれるよ。」と言われたそうだが、実際に山伏が性の欲求の捌け口に幼児を誘拐し、連れまわすといったことは よくあったらしい。熊楠も”土宜法竜宛書簡”の中で、「謡曲(「谷投げ」とかいう、四十番の外なり)に、 真言僧が少年をつれて葛城山にまいりしに、病気になりしゆえ、止むを得ず山制なりとて谷へ投ぐるを、金剛薩た、 竜となりてすくうところあるなり。」 という例を引いているし、大峯山系の行場には「稚児泊(ちごどまり)」という宿場があり、 正にその名が幼児を連れて修行する山伏がいた事を教えてくれている。

 山道から階段を上った「等覚門」をくぐり、その横に祀られる役行者を見てからさらにしばらく行くと、 目の前に巨大な岩塊が現れる。岩場の右手を見ると、 人一人入れるくらいの小屋があり、その先で山伏姿の若者が中年の行者にコーチされながら一生懸命ほら貝を 吹いていた。コーチしている行者はこの小屋に常駐しているらしい。暇だからほら貝のレッスンをしているのだろうか。ここは、 この断崖絶壁から逆さ吊りにされる「覗きの行」が有名な「西の覗き」と呼ばれる岩場で、大峯修行のハイライトとも言える行場だ。 この行は落下の恐れがあり危険な為、この行者のような専門スタッフがとり行うのだという。岩場の端の吊り下げられるという 場所まで行ってみたが、ガスで下が見えないためどれだけの高さがあるのか残念ながら実感できなかった。 その崖の先にもけなげにリンドウが花をつけているのが見えたので一歩足を踏み出すと、崖下から湿った強い風が吹き上げてくる。

「おにいちゃん、危ないよ、気ぃ付けて!」

 行者に声を掛けられた。ほら貝のレッスンを熱心にしていたのでこちらの事は見ていないと思っていたのだが、 ちゃんと見ていたのだ。休憩がてらその岩場でしばらく腰を下ろしていたが、ほら貝の彼はいくら吹いても要領を得ないようで 相変わらず「プー」とか「スー」とかいう音のほうが多い。 一生懸命吹いているだけに見ていると余計におかしくなってくる。そのうち笑いをこらえきれなくなってきたので、 岩場から道に戻った。

大峯山寺

 再び戻った道の森は、先程にも増して倒木が多いのに驚かされる。中には強風で複数の木々がまとめて根こそぎ倒され、その根塊に 苔や菌類が付き、そこを土台にまた新たな芽を吹いている木まであった。この森を過ぎると斜面が開け、宿坊が 並んでいるのが目に入る。ここで道が分かれているため一番手前の宿坊に入り、大峯山寺への道を尋ねた。”宿坊”というイメージ から働いている 人は皆作務衣か何かを着ているのかと思っていたら、中のテーブルの食器を片付けていたのは意外にも今時のアウトドア派といった 感じの服を着た、小粋なあご髭を生やしたオシャレな青年だった。しかし、さすが宿坊で働くだけあって、受け答えは親切で気持ちが 良い。

 青年に教えてもらった通りに宿坊に挟まれた道を上っていくと、その先に「大峯山寺」と彫られた石碑があり、その奥に薬医門が 建っている。この門は「妙覚門」といい、先程くぐった「等覚門」とさらに吉野からここにいたる道に建つ「発心門」、 「修行門」とあわせて四門と呼ばれ、これら4つの門をくぐることで成仏できるというシステムになっているそうだ。これは、熊野の 中辺路にあった九品の門と同じく浄土思想の影響があらわれたものと見てよいだろう。弥勒下生の地とされた、ここ 大峯こと金峯山(山上ヶ岳) は、平安中期以降、 藤原道長をはじめとする上級貴族や皇族がこぞって「金の御嶽詣で」をした為、 熊野と同様のシステムを取り入れたのだと思われる。 それともこちらが先で、熊野が後なのだろうか、山頂の大峯山寺の経塚からは、 実際に道長が納経した経筒が出土している。

 もう少しで山頂だ、と少しほっとしながら門をくぐり、続く階段をのぼると、霧の中から巨大な宝形屋根に覆われた寺が現れた。 この 「大峯山寺(おおみねせんじ)」は山頂の寺としては日本一の高所と規模を誇るそうで、その由緒ある歴史もあり、 国の重要文化財指定を受けている。 この寺は役行者がここで千日修行をした際、本堂にも祀られる金剛蔵王権現を感得して蔵王堂を建立したのがはじまりとされている。 ただ、この蔵王権現を感得したときのエピソードというのが少し変わっており、最初に顕れた釈迦、千手観音、 弥勒菩薩に対して姿が優しすぎると次々に文句をつけたので、怒りの表情をした金剛蔵王権現が顕れたと いう伝説がある。釈迦、千手、弥勒 はそれぞれ過去、現在、未来をつかさどる仏なので、この話はそれらを統合する仏として蔵王権現が顕れたと解釈されている。

 しかし、別の伝承では 顕れたのは弁財天、地蔵菩薩、そして蔵王権現であり、弁天は天川の天河弁財天へ、地蔵は川上村の金剛寺へ流れて本尊として 祀られるようになった、といわれている。役行者が顕れた仏達に対して文句を言うというのもおかしいが、2番目の話を見ると、 これはこの山の聖地をめぐる地元権力の変遷を語っているのではないかと思われる。

 そもそも、この山で蔵王権現を見るというのは、 「扶桑略記」に道賢という僧が天慶四年(941)に金峯山で修行中に体験した臨死体験の中で、 執金剛神(しゅうこんごうしん)に金峯山の浄土を案内され、その時 に”蔵王菩薩”に会った、という記述に初めて見られ、役行者が蔵王権現を感得するという話は鎌倉時代にならないと現れてこない。 この話が出てくる平安後期 から鎌倉初期は、丁度修験道の組織化の時期と重なっている。

 修験道の組織化は、寛治四年(1090)白川法皇が熊野詣をした際、先達(道案内) をした園城寺の僧、贈誉(ぞうよ)を熊野三山検校に補任した事に始まり、当初熊野修験を中心に権力を握ったのは、 天台宗寺門派の園城寺門跡だった。 しかし、鎌倉末にはその末寺の聖護院門跡に権力が移り、”本山派”を形成する。 また、それとは別に、大和の修験一派は、 真言宗総本山醍醐寺の三法院門跡を中心に”当山派”を形成するようになる。門跡というのは、僧籍に入った皇族や、貴族のことで、 この”門跡”が中心となるということは、 修験道が多分に政治的存在になったことを示していると思われる。その後、江戸幕府は、この二派を競合させ、政治的 、軍事的に無力化させる巧みな宗教政策を取り、山伏の兵力化、忍者化を避けるため、里への定住を進めている。 現在の修験各派の修行あるいは教義の多くは、この江戸期の組織化に伴って整理され確立したものだ。

 このように修験道が組織化した際、天台系の本山派、真言系の当山派の両者が関わる大峯では、 地元に伝わる信仰、あるいは権力の変遷話を取り入れて、両派のバランスを取る為、密教とは直接関係の無い 役行者と蔵王権現にその開祖を託したのだろう。しかし、蔵王権現の怒りの表現は、 明らかに密教の不動あるいは愛染明王の影響を示しており、 これは最終的にこの山を天台、真言の密教両派が支配したことを象徴的に示したものだと思われる。

 ところで、金峯山で臨死体験をした 道賢は、その体験中に憤死した菅原道真に会い、その事を朱雀天皇に奏上したのが北野天神創建のきっかけとなった、 と言われている。

 大峯山寺は山岳巡礼の寺らしく、土足で堂内に入れるようになっている。ザックを入り口横のベンチに置き、薄暗い中に入った。 中は御朱印を書いてもらっている山伏姿の客やら一般登山客やらで結構人がいる。土産ついでに何か買おうかと思ったが、 これといってめぼしい物が見当たらない。さすがに険しい山岳修行の拠点だけあって、その知名度にも かかわらず全く観光地化していないところがいかにも女人禁制の山らしい。修行者は、堂内奥にある秘密の役行者像をおがむ事を 目的にここを訪れるのだそうだ。

 堂内を出て建物をぐるっと回ると、色あせた柱周りの装飾はシンプルで平安から鎌倉の時代性を彷彿とさせるが、窓は室町以降に 見られる禅宗の様式である火頭窓や猪目形の格子窓があったりして様式的統一感には欠けている。現在の本堂は、 戦国期に一向衆と争った際に焼失 した後、元禄四年(1691)に再建されたものだという。本堂脇から後部を見ると、建物が途中から岩になっており、 建物自体が巨大な岩盤から湧き出したように見える。本堂脇には石柱に囲われた護摩壇があり、その奥の岩場には役行者を 祀った祠があった。そこからさらに右へ行くと、境内から二本の道が伸びており、一本は蔵王権現が顕れたという湧出岩へ、 もう一本は、ここからはるか熊野まで続いている。

 熊野まで続くこの道は、修験者達が紀伊半島の背骨とも言える 標高千数百mの大峯山脈を”七十五靡(なびき)”と呼ばれるポイントで修行しながら吉野〜熊野間を縦走する「大峯奥駆道」 と呼ばれる修行の道だ。密教系の当山派は、熊野からここ吉野までさかのぼる修行を行い、これを「順峰(じゅんぷ)」と呼び、 天台系の本山派は、吉野から熊野へ縦走し、これは「逆峰(ぎゃくふ)」と呼ばれている。

 奥駆道の通る”大峯”とは古くはこの山上ヶ岳そのものを 指していたようだが、現在はこの山上ヶ岳をも含めた山脈の総称として用いられている。またこの山上ヶ岳は”金峯山(きんぷせん)” あるいは”御嶽(みたけ)” とも呼ばれ、富士に次ぐ日本第二位の高さを誇る山と信じられていた。この大峯山系に既に山上ヶ岳より標高が高い山があるにも かかわらず、 日本第二位の山と信じられていたというのもおかしな話だが、常に今日のような雲に隠れ、幻のように突然現れる神泉境のような 奇岩の山は、 そのイメージだけで他の山より高く見えていたに違いない。また金峯山の名が示すように、古くは金が取れていたのではないか とも言われている。「今昔物語集」には奈良の大仏を鋳造する際に使う金が無いと悩む聖武天皇に、僧達が「大和国、吉野の郡に 大なる山有り。名をば金峰(みたけ)と云ふ。山の名を以て思ふに、定めて其山には金有らむ。」と答え、良弁僧正に祈らせると、 この山の金は弥勒出生の時に使うものなので分けられないが、近江の国の指定した場所で祈ると金の出る場所がきっとわかるであろう、 と夢のお告げがあり、その通りにして陸奥、下野で砂金が取れる事を知ったとある。大峯山寺改築の際には、小さな金の 如来、菩薩像が発掘されているので、あるいは本当にこの山の周辺で金が取れたのかもしれない。

 この熊野へ続く道を見た時に、これまで旅してきた地域が「紀伊山地の霊場と参詣道」として評価され、世界遺産 に登録された意味を初めて理解できた気がした。この旅で熊野から高野、 そして吉野の大峯、と大雑把にポイントのみ訪ねてきたが、それらは別のものとして成立しながら、 つながれた道により影響しあい、それぞれが独特 の信仰を形作っているのだ。

 特に民間宗教として起こり、組織化が最も遅かった修験道を見ると、神道、仏教、道教などが混ざり 合い、教義より修行体験そのものを重視する性格もあり、宗教組織として頭で理解しようとすると混乱してくる。 修験道は、宗教組織としてのあいまいさと、山伏の武装化や忍者化といった問題もあり、幾度か宗教弾圧に遭っている。特に 国家神道の確立の為神仏分離を進めた明治政府は、明治五年(1872)に修験道廃止令を出している。その後昭和十五年(1940)に実質 認められ、第二次大戦後完全に復活したとはいえ、このような断絶があったにもかかわらず、 この山では今日自分が山道ですれ違ったような山伏姿の信者達を数多く目にすることができる。

 これは、政治的にはともかく、 宗教の本質に形式というものが、実はほとんど意味を持たない事を示しているといえるのではないだろうか。 この全く別のものが混ざり合い、ゆるやかにつながっている「紀伊山地の霊場と参詣道」の多様で豊かな世界は、田辺でも感じたことだが、 とかく多様性を否定し、それぞれの小さな形に盲目的に固執しがちな現在の世界を考えると、 現代が抱える様々な問題解決のヒントを示唆する一つの例として見る事ができるので はないだろうか。

 本堂前のベンチでは飲食禁止と書いてあるにもかかわらず、その説明板を見ていないのか、登山客が 美味しそうにのんびりおにぎりを頬張っている。 その本堂の向かいに建つ「絵馬堂」で奉納された数々の品を見た後、荷物はベンチに置いたまま寺の境内から山頂へ向かった。 山頂は境内から細い道を少し行った先の「頂上お花畑」と彫られた石碑のある”笹畑”にあった。きっと春から夏にかけては可憐な 花が咲いているのだろう。そこで証拠写真を撮り、体も冷えてきたので本堂に戻った。

レンゲ辻

 大峯山寺から稲村ヶ岳方面へ行く道があるはずなのだが表示が無く、わからなかったので、荷物を担ぎなおして先程の宿坊まで戻り、 トイレを借りるついでに再び道を尋ねた。

 宿坊の食堂にいたのはさっき道を尋ねた時とは違う青年だったが、彼もまたオシャレなアウトドア派な格好をしている。今時の 山男はオシャレなのだなと思いながら、稲村ヶ岳のほうへ行く道を訪ねると親切に教えてくれた。礼を言って宿坊の裏を通る 斜面の道を歩き始めると、背後で道を尋ねた青年と奥から出てきた最初に道を尋ねた青年の会話が聞こえてきた。

「あの人、これから稲村行くんやて。」
「稲村かあ、やるなあ。」

「お〜い!」
 最初に道を尋ねた青年が、道を進む自分を大声で呼んだ。振り返ると、
「この天気やし稲村のほうへ行く道はガレ場が多くてすべりやすいから気ぃつけて。」
 と、叫んだ。こちらも傘をあげながら大声で礼を言った。

 宿坊から再度山頂のお花畑へ出て狭い下り道を歩く。最初は藪の間を抜ける下り坂だったが、そのうち尾根沿いのなだらかな西側 斜面を歩く道に変わった。ウチワカエデやブナが多く、時折サクラもあった。この稲村小屋へ向かう道は鎖場もあってそれなりに 険しいのだが、 行場が続く洞辻から山頂までの道と随分植生が違い倒木も少ないため、こちらのほうがおだやかな森といった印象を受ける。 恐らく反対の東側は山下から強い風が吹き付けるため、こちらより植物の生育条件が厳しいのだろう。しばらく歩くと女人結界門が現れ、 山上ヶ岳の領域から離れた事を教えてくれる。

 この女人結界門のあるレンゲ辻で少し休憩した。さっぱり天気も良くならず、首からぶら下げていたカメラは 相変わらずの霧雨で濡れるので ザックに入れ、服は汗のせいなのか雨のせいなのかそれとも両方なのか、傘を差していても全く意味無くびしょぬれだったので、傘 はたたみ、杖代わりにして再び道を歩きはじめた。

稲村小屋

 霧雨というよりほとんど雲の中を歩いているような白い世界の道は、起伏が激しくなり、 急斜面に沢水が流れ込んでいる岩場を横切ったり、倒木を避けたりしながら歩かなければならない。急な岩場から金属製の階段を 降りようとして前を見ると、強風に流される霧の中から険しく巨大な岩塊が覗いていた。 幻想的な光景に目を奪われ、一瞬ザックからカメラを出そうか躊躇した。

「!!!!!!!!」

 思いっきり尻もちをつき、2段、3段と階段を体が落ちていく。左手でとっさに手すりをつかみ、その手をすべらせながら さらに2、3段落ちた所で体が止まった。風景に気を取られて足が滑ったのだ。肩からはザックが半分外れかけ、左手の腕時計は 外れている。もし右側の手すりと階段の間から体が落ちていれば、その下の断崖絶壁に叩きつけられて良くて骨折、悪ければ 死んでいただろう。ザックを担ぎなおしながらゆっくりと体を起こし、腕時計をはめ直そうとしたが金具が壊れていてはめられない。 見ると、文字盤のガラスも割れている。この時計は知り合いに貰った自動巻きのパイロットウォッチで、 イミテーションだがメカメカしいデザインが結構気に入っていたので、壊れたのは残念だった。 立ち上がり、気を落ち着かせてみると、多少擦り傷はあったものの、 大きな怪我や痛みは無かったので、ここから先はできるだけ足元に意識を集中して慎重に歩く事にした。

 滑ってみてはじめて分かったのだが、どうも靴底のラバーが大分磨り減っており、濡れたつるつるの金属板の上では滑ってしまう らしい。不思議な事に、岩場など自然物で滑る事は無く、人工物の橋や階段では手すりをつかみながらゆっくり 歩いていても”ズルッ”と 滑ってしまう。滑りやすいのは自然の物だとばかり思っていたが、足場を良くする為にわざわざ人が作ったもので 足を滑らせてしまうというのも皮肉なものだ。 そんな道を歩きつつ、いい加減疲れてきたなと思っていると、稲村小屋のある山上辻というなだらかな鞍部に出た。 左手にソーラーパネル付の立派なログハウス風トイレがあったので、用を足そうと行ってみると閉まっていた。 やむなく近くの木の根元で 済ませたが、閉まっているのはトイレだけでなく、小屋自体も無人のようで扉には鍵が掛かっていた。

 霧雨はまだ降っていたが、切の良い時間だしテーブルとベンチがあったので、ここで濡れながら昼食をとることにした。 荷物を降ろしてバーナーで湯を沸かしていると、中年の男性登山者がやってきた。そういえば下山路で人に会ったのは初めてだ。

「こんにちは。」
「こんにちは。」
 女人結界門を過ぎたここでは、もう「ようお参り」とは言わない。
「生憎の天気ですね。」
 と、話しかけてきたので、
「そうですね。今日は晴れるって聞いてたんですけど、ずっとこんな天気で残念ですね。」
 と、答えると、
「いや、雨降っとんのここだけですよ。下界はええ天気でしたわ。」
「えっ、そうなんですか。」
「ええ、ここだけお天道さん悪さしよるみたいですよ。きっと日頃の行いが悪かったんやろ。ハッハッハッ。」
 誰の日頃の行いが悪いのかは知らないが、その男性は如何にも気の利いた事を言った、というように満足気に笑っていた。 周囲が晴れているのにこの山上ヶ岳周辺だけ雨というのも何だか 不思議な気がするが、それゆえ古代から大蛇の住む霊山として恐れ、あがめられていたのだろう。

 少し話しをした後、その男性はそのまま山道を登って行った。予定の時間には30分ほど余裕があったので、 風に流される霧の濃淡 を楽しみながらのんびり食事をした。食事をしていると、女性を含む登山客が何組かここを通ったが、特に中年女性のいる パーティーは賑やかだった。普段の山登りでは山歩きに来ているのか、おしゃべりをしに来ているのかどっちかにしてくれと思うこと もあるおばちゃん達だが、厳しい女人禁制の山を登ってきたせいか、明るい笑い声を聞くとなんだかほっとした気分になった。

稲村ヶ岳

 デザートにみかんの缶詰を空け、コーヒーを飲んでから出発した。目の前の粗末な手書きの地図看板には、戻る洞川温泉方面の 法力峠は 右の道を行くよう示しているが、右に道らしいものは見当たらない。 きっと左の道がこの先で左右に別れるのだろう、と判断して左の道を歩いた。

 道はシャクナゲが群生する山腹を回りながらすぐに細くなったが、右に分岐する道は現れず、向かっている方向も目的地とは逆だ。いずれ にせよ、この道が間違っているのならすぐに大日山へ着くはずだし、大日山に登ったとしても時間的に丁度予定通りくらいになる 筈なので、それならそれでまあ良いかと思って気楽に歩いた。途中学生風の若い男性登山客に抜かされたが、 そんな感じだったから道を訊く事もしなかった。 しかし、いくら行っても右に行く道も大日山も現れない。 これはいよいよおかしいなと思っていると、右手に金属製の展望台が見えた。きっとここから山の逆側に回り、洞川の方へ行く道が あるに違いないと思いながら、その展望台へ行った。道は展望台で行き止まりになっており、山の逆側に続く道は無かった。 展望台に上ってみると、さっき抜かされた学生風の若い登山客が、マットを敷いて座っていた。

 挨拶して、とりあえずここがどこなのか尋ねた。

「あのう、ここが大日山ですか?」
「えっ、いやここは稲村ヶ岳ですよ。大日山はここに来る途中の右に表示があったの気付きませんでしたか。」
 そんな表示には全く気付かなかった。稲村ヶ岳まで来ているのならちょっとやばい。帰りのバスに間に合わなくなる可能性がある。 しかし、彼は内心そんな風に焦っている自分に気付く訳も無く、
「それにしても最悪ですね。」
 と、のんびりここの展望の感想を言っている。見渡すと、周りはひたすらガスに覆われ真っ白だ。周囲の山のかけらすら 見えない。 恐らく彼はここに座り、霧の晴れるのを待つつもりなのだろう。ジム・ジャームッシュの映画「ストレンジャー・ザン・パラダイス」 にも、湖を見に行ったら霧で何も見えない、というシーンがあって大笑いした記憶があるが、 霧はともかく稲村ヶ岳にいるという今の状況は全く笑い事ではない。霧の山頂風景もそこそこに展望台を降り、そこに ポツンと置かれている三角点を登頂の証拠に写真に撮って、大急ぎでもと来た道を引き返した。

 稲村ヶ岳は、”白専女”が息子の役行者を見守ったという大日山の隣にあるせいか、別名「女人大峯」とも呼ばれ、 女人禁制の山上ヶ岳に登れない修験道の女性信者達の修行の場になっている。山上、 稲村の二山を金剛界、胎臓界の両部曼荼羅に見立て、金胎不二を表す、とする見方もあるようだ。しかし、 それでは女人禁制を敷く山上ヶ岳の優位 を示すには足りないのか、山上ヶ岳だけで両部曼荼羅を満たしているという説もある。もっとも、奥駆をする大峰山脈全体を 巨大な曼荼羅と観想する事もあるというから、人それぞれに曼荼羅を観想できれば良いということなのだろう。しかし、そう考えると 密教が導入した曼荼羅という世界観は、ありとあらゆる形に当てはめることができる実に便利なものだということに気付く。 例えば今回旅している熊野、高野、吉野をそれぞれ独立した曼荼羅と見立て、さらにそれぞれが巡礼の道でつながった紀伊半島を 巨大な曼荼羅とみることができる、といった具合で、熊楠が曼荼羅をモデルに独自の世界観を打ち立てたのも理解できる。

 しかし、この巨大な曼荼羅の中で今の自分のすべきことは、バスの時間に間に合うように急いでこの小曼荼羅でもある山から 下りることだ。山上辻に向かう途中、大日山のキレットを示す表示に気付いたが、当然キレットを登ることも無く、山上辻への 道を急いだ。

法力峠

 山上辻で洞川方面へ行く道を探すと、今往復した稲村ヶ岳への道が始まる場所とは鞍部の反対側、つまり山上ヶ岳から下りてきた 道のすぐ横にあった。この辻へ下りてきた時に、この道には全く気付かなかったのは不注意だった。やはり、 稲村ヶ岳へ向かう途中におかしいと思った時点で引き返すべきだったのだ。 山ではこういった安易な判断ミスで遭難事故になる事もあるので、これは今後の山登りへの反省点としなければならない。

 稲村ヶ岳へ行ったために、昼食時にあった30分の貯金がマイナス30分になってしまった。山上辻では休憩せずに、そのまま 駆けるように山を下った。幸い、下るにつれて天候は回復し始め、道は岩場の無い普通の山道に戻った。 それでも時折金属製の橋が あるので、そういった所では足を滑らせないように慎重に歩いた。急いで歩いていても高度が下がるにつれて、山の植生が変化 していくのがわかる。隣同士の山上ヶ岳と稲村ヶ岳周辺の植生の違いにも驚いたが、そこから下る道沿いも植物を見ているだけで 面白そうだ。しかし、残念ながら時間がないので写真を撮ることもせずにひたすら歩いた。地図を見ると、山上辻から法力峠への 道は、「高橋横手」という白倉山の山腹を伝う道で、白倉山から山上辻まで伸びる尾根には「狼尾」という名が付いている。この 狼尾という名は、単に尾根の形状を狼の尾に例えたものなのかもしれないが、この豊かな植生を誇る山の森に狼が多く住んでいた事 を物語るのではないだろうか。最後にニホンオオカミが確認されたのが吉野だったという話からも、吉野の豊かな森にオオカミを 頂点とする生態系のピラミッドが形造られていたことは容易に想像できる。そう考えると、今朝出会ったイヌ科の獣は、人目を忍んで 生き残ったオオカミだったのではないか、と想像を膨らませながら道を歩いた。

 法力峠は、峠とは言っても単に道標が立っているだけで、休憩するような場所ではなかった。 ここから稲村ヶ岳方面と観音峰方面に道が分岐するのでポイントになっているだけのようだった。ここで一度ザックを下ろし、 飴を舐めながら水分を補給した。ここまで来れば洞川まではすぐなので、残った水は荷物を軽くする為に山に流した。

稲村登山口

 法力峠から下は、杉と檜が植林された人工林をなだらかな山道が縫っている。道はなだらかとは言え 今日の登山の疲れと、これまでの旅の疲れもあるのだろうか、だんだん登山靴が重くなってくるように感じる。 道が母公堂登山口からの道に合流したあたりから、杉林の間に 朝歩いた山裾の車道が右に見えてくる。その先の五代松(ごよまつ)鍾乳洞の脇には、みかん栽培の山によく見られる小型モノレールの 軌道が敷設してある。麓からつながっているようだが何を運ぶのだろうと思っていると、丁度モノレールがヘルメットを被った 親子連れを乗せてやってきた。 このモノレールは物を乗せるために走るのだとばかり思っていたが、通常荷台になっているところに椅子を取り付けて 鍾乳洞見学客を運んでいるとは驚いた。なかなか楽しそうだったので乗ってみたかったが、 残念ながら鍾乳洞を見学している時間は無い。

 この鍾乳洞を過ぎたあたりで、稲村ヶ岳山頂で会った青年に追い抜かれた。さすがに 若いだけあって足が速いと思っていると、先に幟が立ち並ぶ道が見えた。何だろうと思って気をとられた瞬間、

「!!!!!!!!」

 足を乗せた石に滑って転倒し、右膝が石のとがった部分に思い切り当たった。
「くーっ。」
 痛みにうなりながら、しばらく動くことができない。気を落ち着かせて立ち上がると、ズボンには うっすら血がにじみ、そのズボンの裾をまくると、膝が小山のように腫上っているのが見える。傷自体はたいした事はなかったが、 再び歩きはじめると、腫れた右膝に痛みが走った。 気を取られた幟が並ぶ道の先には、何かを祀った祠があるようだったが、痛みで確認するどころではなかった。 あともう少しで山を下りるというのに なんて事だと思いつつ、それでもびっこをひきながら傘を杖にして稲村登山口まで歩いた。

 登山口から朝歩いた車道に出ると、山上辻で話した中年登山客の言った通り、 ここは山上ヶ岳の雨が嘘のように青空が広がっている。この天候の違いを少し恨めしく思いつつ、 重い足を引きずりながら車道を歩いた。途中、川の向かい側の空中に、行きには気付かなかった半透明の美しいつり橋が掛かって いる。 写真を撮ろうとザックからカメラを取り出したが、湿気でレンズがすっかり曇ってしまっており、写す事ができなかった。 この橋は「カリガネ橋」という そうだ。”かりがね”とは地元で”イワツバメ”のことを指すのだそうで、宙に浮いたような美しい橋に軽やかに空を飛ぶ イワツバメのイメージを重ね合わせた のだという。その吊り橋を眺めながら洞川温泉街に着くと、すでにバスの発車時刻を少し過ぎている。稲村ヶ岳に行っていなければ、 この洞川でゆっくり温泉に入れる筈だったのにと思いつつ、足を引きずりながら山上川に掛かる橋を渡り、バス停に急いだ。

 バスは丁度出発するところで、運転手がドアのところで遅れて来る客を待っていた。温泉地には よくあることだが、宿泊客をすこしでも増やす為、バスの始発は遅く、最終便は早目の時間に設定されている。 洞川もご多聞に洩れず、その方式で最終便の時間が早いので、きっとあと一歩というタイミングで乗り遅れてしまう人も 多いのだろう。自分が急いでバスに乗り込んだ後も、慌てて 乗ってくる客がいたが、発車時間を過ぎているにもかかわらず、運転手は慌てる事もなく客を待っていた。

 車内はほぼ満席だったので、空いていた一番後ろの席に座った。バスが出てから靴紐 をゆるめ、汗びっしょりのシャツが座席に張り付くのを避けるため、しばらくは腰を浅くして座っていたが、そのうち疲れからか 寝入ってしまった。

下市口駅

 下市口駅を告げる車内アナウンスでハッと目が覚めた。慌てて荷物を担ぎ、靴をつっかけてバスを降りた。 バスは駅が終点ではないらしく、客を乗せたまま再び発車した。なんとなく荷物が足りない気がしたので確認すると、 車内に傘を忘れた事に気付いた。 新宮の阿須賀神社前で親切なおじいちゃんに貰ったボロ傘で、「捨てていいよ」と言われていた物だが、今日の登山では、 登りは雨をしのぎ、下山時には杖として役に立った事もあり、旅の記念に持って帰ろうと思っていたのに残念だった。

 駅で切符を買い、ホームで電車を待った。傾いてきた日の差す人影もまばらな夕暮れのホームはなかなか風情がある。 やってきた近鉄吉野線の電車に乗り、車窓から風景を見ていると、山陰に日が落ちる様子が美しい。それから 20分ほど電車に揺られて、吉野駅に着いた。

吉野駅

 吉野駅の改札を出ると、左手に土産物屋などの小さな店が並んで店じまいの準備をしている。これから向かう今日の宿は夕食は 無いし、調べる限りではその宿の周辺にも夜までやっている食堂は無さそうだったので、客が入っていたこの駅前の店の一つに 入る事にした。店のおかみさんはせっせと店じまいの準備をしていたので、手っ取り早く夕食を済ませようと お勧めは何か訊くと、柿の葉寿司だというので、それと一緒にビールを頼んだ。おかみさんによると、

「うちの柿の葉寿司はなんたって自家製ですからね、柿の葉だってうちで育てたのを一枚一枚手作りしてるんですよ。鯖だってね、 「これ小さいんじゃないの」なんていうお客さんもいらっしゃいますけどね、これだって丁寧にうちで〆てるんですからね、 そこいらにチェーン店を出して工場で大量生産している店とは違うんですよ、ねえお客さん、味を見てください、味を。」
 さすが商売人、聞きもしないのに自動的に売り込んでくる。しかし、そう言われれば確かに昨日食べた柿の葉寿司より 味がしっかりしていて旨く感じるから不思議だ。言葉一つで味が変わるというのも変な気がするが、例えば山で食事をすると 何でも旨く感じてしまうように、人の味覚なんて結構いい加減なものなのかもしれない。

 おかみさんがテキパキと片付けをしている間、店の旦那らしき人は店のテーブルに陣取ってのんびりとしている。この店はこの おかみさんがしきっているようで、くるくる働きながら、今日はどこに泊まるのか、どこから来たのか、うちの柿の葉寿司は 美味しいでしょう、とこちらに話しかけて 情報を引き出してくる。吉野から下りてきた馴染みの山伏姿の客にも通りすがりに人懐こく話しかけ、

「このお客さん、今日これから喜蔵院はん泊まらはるんやて。」
 などど話しこんでいた。

 食事を終わり勘定を済ますと、おかみさんは、
「吉野の道は明るいから、喜蔵院さんすぐ分かりますよ。ありがとうさん。」
 と、愛想笑いをしながら言った。
「ご馳走様でした。」
 ビールで少し酔ったので、気分良く礼を言って店を出た。

喜蔵院

 外はすっかり暗くなってしまったので、ザックからヘッドランプを出して吉野山へ向かった。電池を買ったわけではないので、 ヘッドランプの明かりは相変わらず暗く、あまり役に立たない。この吉野駅から山まではケーブルカーが通っているのだが、高野山と違い、 吉野では早い時間に終わってしまう。これは近代以降修験道が禁止されていたこともあり、 吉野山が高野山ほど拓けなかったという事なのだろうが、裏を返せば吉野の僧 達は夜遊びをしなかったということにもなるのだろう。吉野山の麓の道を歩いていると、駅前の店のおかみさんの言葉とは裏腹に 街灯も無くなり真っ暗になった。今朝と同様目が暗闇に慣れたのでなんとか歩いたが、これでは本当に夜遊びなどできない。 この暗闇の道から途中の坂を上がると、吉野の山のメインルートに出た。さすがにここには明かりがあったが、それでも高野山に 比べれば地味なものだ。そのまま道を真っ直ぐ進み、二股に分かれる道から右の急な坂道を上がった。途中の駐車場から、 向かいの山腹にライトアップされた多宝塔が見える。写真を撮ってみたが、手持ちだとぶれてしまって上手く写らない。 三脚を出そうかとも思ったが、疲れていることもあり面倒だったので、再び坂道を上った。そのまましばらく歩くと、左手に 「宿坊 喜蔵院」と石碑の立ったユースホステルがあった。

 喜蔵院は宿坊とはいえ、YHのイメージからすると、随分立派な門構えの寺、という印象を持った。 それもその筈、この寺は承和年間(840頃)に智誠大師円珍が大峯入峰に際して創建した修験道本山派聖護院門跡寺院で、 今日行ってきた大峯山寺の護持院として、同じく護持院である洞川の龍泉寺、吉野の東南院、竹林院、桜本坊と交替でその住職を 務めており、本山修験で大峯逆峰行する際の到着所でもある吉野山四宿坊の一つ、という由緒ある寺だ。 門をくぐると、すぐ横には大きな鳥かごがあり、止まり木には立派な孔雀が2羽とまっている。きっと役行者が孔雀の呪法を修した ことにちなんで飼っているのだろう。その先の広い玄関は開きっ放しになっていた。 玄関の中には大峯で修行している山伏の写真が飾られており、さすが大峯山寺の護持院といった感じがする。 受付は無人だったので中に声を掛けると、奥から若い女性と太った男の子が出てきた。この宿坊の奥さんと子供らしい。 宿泊手続きをしている間、この子はお母さんにひたすら

「この人なんて人ぉ?」
 と、しつこく訊いてお母さんの仕事の邪魔をしている。名前を教えるとうれしかったのか、名前を連呼しながら後を付いてきたが、 お母さんにたしなめられていた。体が大きいので小学生に見えるが、あの無邪気さはきっとまだ幼稚園くらいなのだろう。 自分がびっこをひいて歩いているのを見ては、

「ねえねえ、びっこひいてるよ。」
 と、お母さんに報告して客に対して興味津々のようだった。

 部屋には、その子のお父さんである宿の主人が案内してくれた。今日は客一人なので、案内された部屋と襖でつながった隣も一緒に 使っても良いですよ、と気前良く言ってくれた。しばらくすると、親子で風呂が沸いたと案内に来たので、男の子に

「お手伝いして偉いねぇ。」
 と、褒めながら頭をなでてやると、うれしそうにはしゃいで可愛らしい。

 客一人の為に嫌な顔一つせずに風呂を沸かしてくれるのは、昨日の宿とは大違いだなと思いながら風呂場に行くと、広い湯船 に湯を注いでいるのはガマの焼物だった。今日、山上ヶ岳の山道でヒキガエルを多く見かけたので、この偶然はなんだかおかしい。 もっとも、吉野山の”蓮華会”と呼ばれる祭りでは、カエルの着ぐるみを乗せた蛙神輿が山内を練り歩き、蔵王堂境内で「蛙とび」 と呼ばれる儀式をするのだそうで、その儀式にこの喜蔵院も関わっているそうだから、そういった意味もあってこの焼物を置いている のだろう。この「蛙とび」の儀式は、蔵王権現に暴言を吐いた男が大鷲にさらわれ、断崖絶壁に置き去りにされたところを 吉野の僧が蛙に変えて連れ戻し、蔵王堂で一晩読経して元の姿に戻した、という説話を祭りのイベントに取りれ入れたものだそうだが、 大峯にヒキガエルが多いこと からきっとそんな話も生まれたのだろう。風呂は温泉ではないはずだが、疲れた体にジンジンお湯が染み渡り、気持ちが良かった。

 風呂から上がり、部屋のテレビをつけながら荷物を片付け、座卓に用意された旅館のようなお茶セットのお茶を入れながら 明日の予定を考えようと思ったが、明日は旅の最後だしのんびり行くか、と思い直して向かいの布団部屋から布団を出して 寝ることにした。




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