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9月11日(土) 高野山

 朝方同室の客が支度をする物音で目が覚めた。布団から出られずにぐずぐずしていると、 しばらくして彼は部屋を出て行き、外で車のエンジン音がして、それが遠くなっていった。出発したのだ。

 そのまま何となくうつらうつらしていたが、外も明るくなってきたようなので時計を見ると6時だった。まだ眠気も残っていたが、 えいやっと布団を飛び出し、服を着て顔を洗い、朝の散歩に出かけた。


女人堂


 外の空気は山の中らしくひんやりと締まっていて気持ちが良い。今日の天気は良さそうだ。坂道を降りて明治の和洋折衷建築風の 高野警察署を右に曲がり、昨日バスで来た道を戻った。右手には寺の塀が連なり、左手には壇上伽藍を囲む杉木立が見える。 その杉木立の奥には薄汚れた多宝塔が見え、その手前に道に分断されたような形の濁った池があった。そのまま緩やかな坂道を 上った先には、路の両脇に大きな石灯籠が立っており、ここが高野山の入り口の一つである事を示している。


 その向こうに横長のお堂が ある。不動坂女人堂といい、明治まで女人禁制だった高野山では、熱心な女性信者が山の入り口手前のこのお堂で夜通し真言を 唱え祈ったのだ という。こういった女人堂はかつては山の7つの各入り口にあり、そのお堂を結んだ高野山を囲むルートを女人道と言って女性専用 のちょっとした巡礼道のようになっていたようだ。女人道は今でもあり、もちろん男性でも歩けるが、女人堂自体は 明治以降、山が女性にも開放された為、存在の必然性が無くなり、この不動坂以外は残っていない。

 女人禁制は高野山創建以来の決まりだったようで、空海自身がその遺言の中で「六波羅満多経」に「女人に親しみ、近づく とろくな事が無い」と書かれていることを例に挙げて、同じ真言宗の東寺に女人 を入れてはならないと定めている。今まで歩いてきた熊野三山は男性、女性、浄、不浄の別なく来る物を 拒まず全て受け入れていた事を考えると、同じ紀伊半島で相互につながりもある宗教組織が祈る者を受け入れる際に全く 正反対の態度を取るというのも面白い。

 無宗教な自分は、何となく自然に「神様、仏様」的な神仏習合感覚を持っている(こういう感覚を持っている事自体無宗教とは 言えないのかも知れない)が、考えてみればその二つの宗教の土台は 大きく異なる事に気付く。そもそも神道は熊野三山の御神体が示すように自然崇拝、つまり自分ではなく自分を動かす 環境要因、人も含めた自然に対する恐れや、希望、願望を神が叶えることを目的としているのに対して、 仏教の目的は己自身の”さとり”、 ”解脱”であり、 自己を左右し欲望となる環境要因を自身が超越する事としている。つまり、自分というものに対するアプローチが180° 違うのだ。神道における自己のあり方は欲望の発散であり、仏教のそれは欲望の吸収と言えるだろう。


 そう考えると欲望は叶える物として受け入れる神道と、それを邪魔な物として排斥する仏教という構図が見えてくる。ではその 欲望とは何かと言えば生命体としての継続的な運動である「生きる事」であり、その生きる事を成す為の生理現象として「食べる」 「寝る」「排泄する」「生殖する」という4つの命題を見出す事が出来るだろう。その4つの欲望を如何に統御するのかが 仏教の根本的な命題だとすると、補陀洛渡海に見られるような捨身行がその究極と言う事ができるのかも知れない。

 しかし、空海が持ち込んだ密教は、そういった仏教のイメージとは根本的に異なり、生きる事の欲望そのものを清浄な菩薩の境地 と説き、積極的にそれを叶える修法を取り入れている。その修法とは一言で言うと呪術であり、これは密教そのものが そもそもインドの呪術を起源として発生していることに由来する。つまり、密教とは、禁欲的な仏陀が説いた世界とは全く別の、 どちらかといえば正反対の世界 から生まれ、仏教のいう”さとり”に到達した宗教といってよいようだ。 もちろん密教は仏教の一宗派として発展し、空海はその仏教である 真言密教を持ち帰ったのだが、その発生起源の違いから、密教はそれまでに日本にもたらされていた仏教とは大きく異なっていた。

 空海は、既成の仏教諸宗や哲学などをまとめて顕教(けんきょう)と呼び、密教と比較させて、自らの著作で 度々その違いを論じている。その中で、 密教はそれまで出現したあらゆる宗教の中で最も進化した形であり、”さとり”を得るのに必要な時間が最も短いと述べて、 その優位を謳っている。 具体的にこの違いは、経文解釈により”さとり”を頭で学習しながら、 一切の欲望をそぎ落とし、清浄な境地でいつ来るのかわからない”さとり”が訪れるのを待つ顕教に対して、 呪術的訓練で得られる神秘体験から宇宙そのもの、そして”さとり”そのものでもある大日如来と一体化し、自ら”さとり” を掴み取るというように、 ”さとり”に対する方法論が顕教は受動的、密教は能動的、と全く違っていることに起因する。 従って、密教では禁欲が”さとり”を得ることと直接的に結びつかないどころか、欲望を持ったままの己自身が”さとり” そのものとなるのだから、そもそも欲望を否定する必然性は全くなくなり、生きることを肯定的に見る教義が成立する。


 密教の欲望を叶える修法とは、その”さとり”を得る修行で、 宇宙と一体化する事が出来るため、自身でもある宇宙そのものを自分の身体のように自在に動かすことができるようになる、 ということのようだ。つまり、その修法は”さとり”を得る修行で得られる副産物のようなものなのだが、それを社会に役立つよう 積極的に利用することが可能だ、という事らしい。

 しかし、これは同時に映画「スター・ウォーズ」のダース・ベイダーが使うダーク・フォース のように悪の為に使われる可能性もはらんでおり、実際、真言密教は後にこのダーク・フォースといえる暗殺の為の呪詛により 貴族達の信仰 を得るようになり、ダース・ベイダー顔負けの僧達が出現するようになってくる。恐らく空海は、こういった方向に進みやすい 密教、あるいは人の本質を知っており、それを防ぐ為必ず”さとり”を得た僧の指示に従いながら、個々人に適した正しい修行を行わなければ ならないと述べ、それを実践する場所として人の近寄りがたい高野山を選んだのだろう。女人禁制としたのは、中途半端な力だけを 身に着けた修行中の僧達が”さとり”を得る前に、安易にその力を用いて間違った道に進んでしまわない為の保険と考える事が 出来る。

 しかし、人の煩悩はその程度の決まりで超越できるものではないようで、世界中のあらゆる宗教施設でもよくある事だが 高野山の僧達も山の中で女が駄目なら男色は当然、獣姦まで行い、山を下りては堂々と女を買い、 江戸時代には修行僧と麓の娘がこの女人堂で心中事件を起こし、近松物の浄瑠璃のモデルにもなっている始末だったようだ。


 この不動坂女人堂の脇には小さな祠がある。説明板には、越後の小杉という不幸な生い立ちの女性が尼になり、 ここに小屋を建て、巡礼の女性信徒を世話した事が女人堂の始まりであると書かれていた。

 また、 お堂の向かいにいる大きなお地蔵さんの説明にも、安政の大地震で両親を亡くしたお竹という 江戸の女性が、30年かけて貯めた金で両親の供養の為に造ったと書いてある。権勢を誇り、堕落していった高野山の大伽藍は、 こういった純粋な信者達に支えられて今日まできたのだろう。



弁天岳


 そのお地蔵さんの横から弁天岳へ向かう山道が続いている。高野山の正面玄関である大門につながる女人道の一部だ。 杉の樹林下には朝露に濡れた笹が生い茂っている。蛇行する細い山道を登っていくと、途中に少し開けた場所があり「谷上女人堂跡」と 表示板が立っていた。ここから 直接高野山に入る道は無さそうなので、恐らく弁天岳に登る女性信者達の為の峠の茶屋のような休憩場所だったのだろう。そこから しばらく登ると山頂の神社に着いた。杉林の間から朝日が差し込み美しい。杉の無い場所からは雲海に浮かぶ山の峰々が見える。


 鳥居が4つ並んだ小さな祠の脇には涎掛けをした不細工な顔の狛犬達が鎮座しており笑ってしまった。この神社は「嶽山弁才天」 といい、空海が大和の天川弁才天で千日修行した時の宝珠をここに埋め、その弁天様を勧請したのが由来で、妙音房という天狗が 杉の上からここを見守っているのだそうだ。


 ここで一休みして、早起きは三文の得とはこういう事を言うんだなと思いながら刻々と変化する雲海を眺めた。


 神社がある山頂 から少し降りた場所に展望台のような所があり、ここからは山の緑に浮かぶ高野山の根本大塔が見えた。既に雲海は無くなっていた が、それでも十分幻想的な光景で、良く言われる山上の宗教都市というよりは空中都市だなと思った。


 もと来た道を戻るつもりだったが、ここまで来るのに思った程時間が掛からなかったので、計画変更して大門まで続く向こうの 山道を下る事にした。この道は暗い藪の間を抜ける登りと違い、日が当たり野菊やアザミなど色とりどりの花が咲いている。

 時々朽木に着いた菌類に、
「これは粘菌か?」
 とすっかり昨日の南方熊楠記念館の展示に影響されて写真を撮りながら道を下った。


大門


 弁天岳から下りて車道に出ると、そこには朝日を背にして巨大な門が聳え立っている。この入母屋造銅葺五間三戸二重門という 形式は寺院の門としては最も格式が高く、実際にそんな事を知らなくても、山中に出現するこの巨大な朱色の門は見る人を圧倒 する迫力を持っている。何しろ向かいの道の反対側まで行ってもカメラのフレームに収まりきらないのだ。


 これが高野山の正面玄関の大門だが、実は高野山創建当初はここに門は無く、山の下に鳥居があっただけだったそうだ。 寺の入り口に鳥居とは「?」という気がするが、 空海がこの地を選んだ時の話にはこの山の地主神の存在が大きく取り上げられており、空海がまず境内に 作ったのは地主神を祭る神社だったと聞くと納得できる。今見ているこの門は江戸時代宝永二年(1705)に建てられたもので、 軒下の柱間に見える 蛙股の青い円に彫られた動植物の細かな彫刻は、江戸幕府が始まってほぼ一世紀後に建てられたこの門にも 徳川初期のゴージャスな装飾の片鱗がまだ残っている事を感じさせてくれる。


 門を潜って反対側の蛙股の彫刻を見ていたらいつの間にやら時間がたっていたので驚いた。朝食は7時半なので急いで戻らねば ならない。もちろん遅れても食事を下げられる事は無いと思うが、それよりも今日はお尻が決まっているので早く食べないと回りたい所に 行けなくなってしまうのだ。


 門から通り沿いに並ぶ店々の前を急いで通り過ぎ、後でまた来る予定の壇上伽藍の建物群を横目で見ながら 左に曲がり、金剛峰寺の前をかすめて真っ直ぐ行くと高野警察所の前に出る。そこから坂を上がり青巌院に戻った。7時半は少し 過ぎているが、まだ朝食の支度はできていない様だった。何だ、それならこんなに息せき切って歩くんじゃなかった。


 しばらくして丁度息も落ち着いた頃、バンダナを頭に巻いた宿の奥さんが、朝食の支度が出来たと呼びに来た。食堂には背の低い 細長い机が2列に並び座布団が置いてある。入り口側の机に案内され5、6人は並べる机の真ん中あたりに座ってTVの 朝のニュースを眺めていると、小皿が並んだ御盆を持ってきた。皿に並んでいるのは塩鮭に玉子焼き、香の物にサラダが少々。 それにご飯と吸い物がついている。この量で足りるかなあと思いながら、朝の散歩で腹が減っているので吸い物に口を付けると 品の良い香りが鼻をくすぐり、柔らかいピンク色の塩鮭に箸を通すとこれが丁度良い塩加減、焼き加減で絶品だ。玉子焼きは ふっくら甘く、香の物は自家製のようでこれまた美味い。考えてみたらこの旅では昼食を取ったのは1度きりだし、 それ以外でも初日のサンマ寿司 を除くとろくな物を食べていない。昨日の夕食なぞ菓子パン3個だ。だからこの一見普通の朝ごはんが美味く感じるのかと思うと そうではなくて、どうやらこれは本当に美味い。食堂の奥にある狭い厨房で調理をしているのは奥さん一人だったが、 彼女はきっとプロの修行をした人に違いないなどど感心して食べていると、宿泊客のおばさんが一人入ってきた。

「おはようございます。」
 と挨拶を交わし
「どちらからいらしたんですか。」
 と聞くと
「堺からです。昨日仕事して残業までして、もう高野山行きたい思うて 宿も何も予約せんとパーッと電車乗って来てしもうたんです。そしたら駅でこのユースホステル紹介してもろて、泊まれるとこあって ほんまよかったわぁ。」
 と聞かれもしないのに一気にしゃべった。きっと仕事のストレスでも溜まっていたんだろう。昨日の宿泊客 で最後に到着したのは9時頃に着いた自分なので、5時に仕事が終わり、さらに残業までしたとしてもそれより早く高野山に 着くというのは堺は余程近いのだなあと羨ましく思っていると
「どちらからですか。」
 と聞き返してきた。
「僕は東京の練馬です。今週ずっと熊野の方を回って今日は高野山なんです。」
 と言うと、
「練馬、練馬ねえ。」
 と明らかに知らなそうなので、
「池袋からちょっと奥に行ったとこなんですけど、 大根が有名ですね。でも今はだいぶ開発されて大根はもうほとんどとれないらしいです。」
「私が東京行ったのはもう 10年以上前だから随分変わっちゃったんでしょうねぇ。」
「そうですね、特にここ何年かはバブル時代の再開発が形になって六本木ヒルズとか デカいビルがボコボコ 建ってますね。東京は何でもすぐぶっ壊しちゃいますから10年前とは随分変わりましたよ。」

 などと話している内にもう一人若い女性客が入ってきた。
「おはようございます。」
 と挨拶すると何も聞こえないかのように 軽く無視され、そのままスーッと厨房に顔を突っ込み、笑顔で
「おはようございます。」
 と奥さんに挨拶した。何だか嫌な感じだなと 思ったが、おばさんの横に座ったので
「ご一緒ですか。」
 と尋ねると、
「いいえ、違います。」
 という事だった。

 そのまま話が途切れ何となく 気まずかったので、さっき奥さんに挨拶していたのを思い出し、
「ここにはよくいらっしゃるんですか。」
 と聞くと、少しはにかんだように
「ええ、おかあさんのご飯食べに。これで三度目です。」
 なるほど。
「ああ、美味しいですよね。あんまり美味しいんでびっくりしちゃいましたよ。」
 と同感すると嬉しそうだったので
「どちらから来られたんですか。」
 と聞くと
「堺です。」
 今度は隣のおばちゃんがびっくりして
「ええ?私も堺なんです。どこら辺?」
 と地元話で盛り上がっていた。

 最初は固い顔をしていたこの女性も嬉しそうに話すおばちゃんに引きずられ、少しづつ表情が ほぐれていき、最後にはまるで母娘のようにリラックスして話していた。たまにこちらにも話を振ってくるが、もう ほとんど二人の世界になっているのでご飯をお代わりし、最後に出された豆乳プリンにブルーベリーソースをかけた物だった だろうか、品の良いデザートを平らげて部屋に戻った。

 食事を終わった堺の二人はそのまま仲良く談話室でコーヒーを飲んでいる。部屋で荷物を整理して出かける準備をしていると、 おばちゃんが親切にコーヒーを入れてわざわざ部屋まで持って来てくれた。

「ユースホステルなんてどんな所かと思ったけれど、綺麗だし来てよかったわ。」
 と嬉しそうだ。

 さっき見た女人堂もそうだが高野山にくる女性は何かしらの癒しを求めてくる人が 多いのだろうか。熊楠の書簡など読むと高野山の坊主など堕落して破廉恥極まりない人々だと書かれているが、 女人禁制だったこの山にくる女性達には食堂で会った二人にしろ純粋なものを感じる。結局俗物たる男たるものは聖なる女を乗り越えて 初めて仏道に励む事が出来ると空海は知っていたのだろうか。

 コーヒーを頂いた後、まとめた荷物を宿に預けてレンタサイクルを借り、高野山めぐりに出発した。女性2人は談話室から 顔を覗かせ、

「いってらっしゃい。」
 と笑顔で見送ってくれた。

徳川家霊台


 自転車に乗って坂を下り始めると
「カンカンカンカンカンカンカンカン!!!!!!!!」
 と後輪に何か当たる音が響き渡り うるさい。何かが引っかかっているようだったが、とりあえず自転車を漕ぐには問題無かったので、 さっき通った高野警察署前から女人堂に向かう道をカンカン走った。

 道沿いの寺の屋根の上には首のあたりに大きな傷を付けた白猫が朝日を浴びながらのんびり毛づくろいをしている。 夜にケンカでもしたのだろうか。首輪もしていないので飼い猫ではなさそうだったが、野良猫ならこんな山の上では寒かろう。 昨日見た駅猫 もそうだがきっと世話をしてくれる心優しい人がいるに違いない。

 もっとも、日本にはもともとイエネコは存在せず、 6世紀の仏教伝来 と共に経典を鼠から守るべく輸入されたと言われているので寺院に猫が住み着くのは本来の姿なのかもしれない。


 その寺の先を右に曲がり砂利道を入っていくと徳川家霊台がある。その門の前の石段下に受付があり、その脇に自転車を止め、1500円の 共通拝観券を買った。石段を上がり銅葺屋根の小さな四脚門を見ると、彩色 が落ち、規模も小さい為地味な印象をうけるが、 正面の蛙股に百獣の王である獅子が、軒には百花の王牡丹や菊の精緻な彫刻があり、ここが帝王を祀る江戸初期の霊廟建築である 事を教えてくれる。


 それらの彫刻を撮っていると、後からきたおばさんが不思議そうに眺めながら
「何を撮ってるの。」
 と聞いてきた。
「ああ、門の彫刻を撮っているんですよ。こうゆう装飾が徳川将軍家の霊廟建築の特徴なんです。」
 と言うと、しきりに感心したように門を見回し、
「へえー、私は何回も来てるけどそんなんある事すら気付かなかったわ。なるほどねえ。」
 と、バッグからコンパクトカメラを取り出して、一緒に写真を撮りだした。


 門を潜り右に曲がると双子のようにそっくりな唐破風向拝付宝形造の小さなお堂が二つ並んでいる。それぞれ菱形の格子に 組まれた透き塀に 囲われているが、右の廟のみ正面に鳥居が立ち、祀られている対象が神である事を示している。ここに祀られているのが 東照大権現こと徳川家康で、その隣に二代将軍秀忠が祀られている。


 それぞれの正面には石段があり、数段上がったところに唐破風屋根を乗せた門が透き塀につながっている。それがさらに堂本体の 唐破風向拝と併せて正方形の正面を 強調している。霊廟本体は門と同様木部の彩色は落ち、傷みもあるが、黄金色の金具や竜、鳳凰、麒麟、奏楽の天女、虎、獅子 といった何れも吉祥を示す彫刻や、その間を埋める極楽浄土を示す蓮の花などの唐草模様がちりばめられ 見事だ。 軒から連続して覗く竜頭や象頭などの異形の造形は、まるでゴシック教会のガーゴイルを思わせる。


 大正時代に日本に滞在したドイツ人建築家ブルーノ・タウトは、日光東照宮に見られるこういった豪華な装飾を 「まことに非日本的」と言って 非難している。桂離宮に代表されるシンプルな日本建築に、自身のモダニズムのスタイルを重ね合わせ、理想化していた タウトが、こういった小さな空間に饒舌な装飾を詰め込む建築に 違和感を持ったのは理解できるが、これらには明らかに意味があり、単なる装飾の為の装飾にはなっていない事や、 時代のスタイルを考慮して見るべきだ。


 また、面白い事にこの時代は丁度ヨーロッパでもバロックと呼ばれる ドラマティックで芝居がかった装飾スタイルが流行した時期にあたり、総合芸術である歌舞伎とオペラの誕生も1600年前後と同時代だ。 戦国から江戸初期の日本には 宣教師を始めとして 貿易に携わる西洋人が多数存在し、その様子は当時の南蛮図屏風に定型として描かれるカピタン行列に見る事が出来る。彼らが日本 に与えた影響は、その後の戦争のスタイルを変えた鉄砲や、信長の安土城、家康の南蛮式鎧といった実用的な技術にとどまらず、 当時の西洋音楽 を聴き、キリシタン大名となった大友宗麟や、今でも食べられている天婦羅やカステラなど文化や生活にまで及ぶように枚挙に暇が無い。


 西洋人であるタウトが非難した 日光東照宮が、当時の西洋バロック装飾の影響を受けて造られていたとすれば皮肉だが、東照宮建築を見ている限りでは、 タウト自身が指摘しているように西洋というより中国の影響、明らかに鎌倉以降日本に入ってきた禅宗様の発展形と 見ることができる。それに、もし西洋の影響があるとするなら このゴテゴテ感は、バロックというよりゴシックのような気がする。 いずれにしろ霊廟建築や歌舞伎にそういった西洋の直接的影響を見るのは難しく、また少し時間は下るが、 有田焼の柿右衛門以外に日本の装飾的な文化が同時代の西洋に影響を与えた という例も聞かないので、この時代に大陸の両端に文化的なシンクロニシティーが起こったのだと見るべきなのだろう。


 先程のおばさんは、一緒に霊屋を見ながら家康が合戦時の方位を気にする人物だった事を話し、
「昔は風水は実用的な科学だったのよ。」
 と言っていた。おばさんはひとしきり話をした後先に出て行ったが、自分は細かい彫刻を見ようとグルグル二つの廟の周りを 回りながら写真を撮った。


 それにしても高野山には奥の院という広大な墓地があるにも関わらず、何故三代将軍家光は、高野山の、それも脇の入り口付近に この霊廟を建てたのだろうか。場所的には壇上伽藍の北東、鬼門に当り、視点をずらすと秀吉が建てた清巌寺、現在の金剛峰寺の ほぼ真北、帝王を示し、仏教では北極星を神格化した妙見菩薩の方位にあたる。少なくとも山中では後に開かれた場所のように見えるが、 壇上伽藍の鬼門封じと豊臣家対抗 の為に建てられたのだろうか。鬼門封じの為に武人の最高位者、征夷大将軍である徳川初代、二代を祀るのは意味があるような 気がするが、 どうやらそれよりも、たまたまこの場所にあった蓮華院という寺院が徳川家とつながりがあったのが縁らしい。それを家康が 大徳院と改号させ、高野山における徳川家 の菩提寺にしたのが霊台建設の直接の理由だという。


 しかし、何故高野山に徳川家の菩提寺が必要だったのだろうか。高野山に秀吉が建てた清巌寺は、母の菩提寺として建てられているが、 その巨大さと壇上伽藍の後ろに構える位置から、恐らくすぐに山内の中心となった事だろう。関が原に勝ち、江戸幕府を成立させた とはいえ、征夷大将軍であった家康は、 結局関白という貴族だった秀吉より地位は低く、幕府成立当初において、関西の豊臣家の影響力は家康にとって目の上のたんこぶの 様 なものだったに違いない。当然高野山においてもその影響力を封じ、 徳川家の優位を示す必要があったのだと思われる。秀吉死後の豊臣の影響力の大きさは、神となった秀吉を祀る豊国廟を無理矢理潰し、 それをきっかけに豊臣家を滅亡させてからも、家康の存在を神として東照宮に祀らせてまで その優位と江戸幕府正当化を誇示する必要があった事実を見れば理解できる。


 家康に出会った当時の蓮華院住職宥雅は、戦に同行し、陰陽師として吉凶を占っている。 陰陽師であるならば、当然この寺の位置の風水的な意味を知っているはずだ。宥雅は、この寺の位置が徳川家の高野山支配と 豊臣封じに有効である事を家康に進言していたのではないだろうか。 もしそうであるならば、この霊台建設は、日光東照宮造営と同様、家康の直接の指示だった可能性もある。 宥雅がその後も江戸に引き止められ、 高野山御仏殿別当・高野山諸末寺触頭として高野山のみならず、全国の真言宗の社寺を実質管理する権限を与えられたのも、高野山にこの霊廟を建てる為だった のかもしれない。


 この話は、同様に江戸幕府草創期に深く関わった怪僧天海を思い出させるが、宥雅は恐らく天海の ライバル関係にあった僧の一人だったのだろう。政治的には結局、日光東照宮造営や江戸の都市計画に大きく関わり、 将軍の選定まで左右 するようになった天海が勝ったと言えるのだろうが、高野山の霊廟建設は両者のバランスをとる為でもあったのだと 思われる。


 しかし、徳川将軍三代のこの二人の僧への対応を見ていると、単なる幕府内のライバル僧対決といった構図より、高野山、比叡山 という真言、天台の密教系二大宗教勢力を幕府内に取り込み、無力化しようとするしたたかな政治的意図が見えてくる。 両山とも古くから 加持、祈祷や呪詛による要人暗殺を行い、戦国の世には僧兵を擁し、 武士と対立した武闘派である。いずれも信長に疎まれ焼き討ちや弾圧を受け、武力は骨抜きに されているが、政治的な影響力は残っていたであろうし、恐らく家康はその脅威を知っていたのだろう。 その時に 神となった家康を祀るのが高野山と、比叡山に影響力を持つ日光というのは、この二大宗教勢力を取り込んで政治的に無力化し、 かつその全国的な信者網に徳川家が優位である事を示すのにも重要な事だった に違いない。特に豊臣家の影響が残る高野山では、独立した霊廟を壇上伽藍の鬼門、秀吉が建てた清厳寺からは 帝王を示す北に建て、 その優位を示すと共に、 さらに紀州を直接徳川家が支配する事により、高野山を押さえ比叡山への睨みとしたのではないだろうか。


壇上伽藍


 徳川家霊台を出て自転車の後輪を見てみたが、なにが引っかかっているのかよく分からなかったのでそのままカンカン自転車 に乗って金剛峰寺前の駐車場に出た。そこから壇上伽藍に続く道があり、入り口に自転車を止め、砂利道を歩いた。まだ朝早い せいなのか、仲良く腕を組んで歩いている中年夫婦と自分の外には誰もいない。

蛇腹道


 この砂利道は蛇腹道と言い、空海が竹箒で蛇を追い払った事から付いた名だという。これは恐らく蛇に象徴される 川がここにあった事を示唆する話と見ることができる。蛇と川との繋がりは、記紀神話に描かれるスサノオが退治する 八俣の大蛇が、出雲の 斐伊川を象徴する蛇神といわれており、弁才天、インド神話におけるサラスヴァティーは、河を神格化した神であり、 川の蛇行する様を象徴する蛇を使者とするように、川と蛇は古くからそのイメージを一体化されている。

 この壇上伽藍は、朝登った弁天岳の麓にある。その弁天岳には吉野の天ノ川流域にある天川弁才天が祀られており、 天川弁天はしばしば蛇頭人身三面八臂の姿で天川弁才天曼荼羅に表されている。 この事からも、川と弁天と蛇の三者の関連を見ることが出来る。 この吉野の天川弁才天では空海自身が修行し、その後高野山を開く際に壇上伽藍を見下ろす山に天川弁天を勧請したと言われている。 これは、弁天 岳から伽藍に流れる川の治水工事を行うに当たり、その無事を願って祀ったと考えるのが自然ではないだろうか。 あるいは川とは言わないまでもこの山上の盆地を開発する基礎工事に水の処理がかなり重要で、苦労した事を示唆する話だと 思われる。

 現在、この道は綺麗に整備され、川どころか小蛇すら出る事も 無さそうだ。道の両脇に伸びるモミジから射す木漏れ日が美しい。秋にはきっと紅葉が綺麗だろう。

東塔


 しばらくすると白い壁に朱色の柱が目立つ多宝塔から巨大な大塔までお堂が連なっているのが見えた。手前の多宝塔が東塔で、 そのまま一直線にここからは見えない西塔まで並んでいる筈だ。


 この、初層を方形、第二層(正確には第二層ではない)を円形に積む多宝塔 と呼ばれるスタイルは、日本にのみ存在する事から空海がデザインしたものだと言われる。空海の帰国後、中国では 仏教弾圧が行われ、密教寺院そのものが失われているので、もしかすると空海は中国でこのような多宝塔を見ていたのかもしれない。いずれにせよ、 正方形の上に円を乗せるこの形は、明らかに正方形平面の中に無限に続く大小の円が幾重にも重なり、中心の大日如来に向かっていく という密教の世界観を表す曼荼羅を象徴している。 興味深いことに、こういった方形と円を組み合わせる建築は、空海の約1世紀後にヨーロッパで成立するロマネスク というキリスト教の教会堂スタイルに方形を地上世界、円を天上世界として象徴させる様式が現れており、 幾何学的な形態で宗教観を表すという発想は 洋の東西を問わない事を教えてくれる。この多宝塔を見ると、高野山に来たという実感がして妙に感動するものがあった。

 この壇上伽藍と呼ばれる一角は空海が弟子達と共に切り開き、密教教理を図にした曼荼羅に見立てて諸堂の配置を考え、 建設していった場所だが、山上の盆地であったこの 場所は一面湿地帯で、空海存命中に伽藍が完成しなかった事が物語るように、建設は困難を極めたようだ。しかし、目の前に 見ている東塔の説明板を読むと、この塔は白河法皇により大治二年(1127)に完成したとある。つまり、これは当初 考えられていた伽藍構成には入っていなかった建物で、空海の死後、高野山がその発展に伴い東に伽藍を拡大していった事がわかる。


三昧堂


 その隣には宝形造の小さなお堂が建っており、手前には桜が植えられている。この建物は三昧堂といい、桜は西行お手植えの 袈裟懸け桜と呼ぶそうだが、どう見ても西行の時代に植えられたものではないので何代目かにあたるものなのだろう。 この三昧堂は元からこの場所にあったのではなく、向かいの坂の東にかつて存在した霊山院が延長七年(929)に建立した際、院内に 建っていた堂で、西行がそこで 修行した事にちなみ、桜の場所に移築したのだという。


 現在の建物は江戸時代の再建になるもので、 力強い三手先組物に江戸の様式を感じるが、 基本形の方三間宝形造は、堂内の中心、方一間に阿弥陀如来を置き、その周囲四面を歩きながら念仏三昧の修行をする 平安密教建築の常行三昧堂の様式を残している。現在の本尊は金剛界大日如来だそうだが、恐らく当初は阿弥陀如来だった のではないだろうか。というのも西行の時代には真言密教の即身成仏と浄土思想が結びつき、高野山でも熱狂的な阿弥陀信仰が 起きており、例えば藤原道長が法華経と理趣経を 奥の院に埋納したと伝えられる事が象徴するように、高野山は弘法大師が 入定した弥勒と 阿弥陀の現世浄土として極楽往生を願う 人々が巡礼する一大聖地となっていたからだ。

 今では西行と言えば旅に生きた歌人として通っているが、当時そんな職業があるわけも無く、もとは院政を確立した鳥羽上皇の北面の武士、 言ってみれば近衛兵だったそうだ。その後、西行は23歳の時に出家し、僧侶として歌を詠む人生を送っている。 出家前の名は 佐藤義清といい、佐藤性は、 藤原秀衛が義経に家来として付けた佐藤兄弟と同様、平将門の乱を平定した鎮守府将軍藤原秀郷を祖とする奥州藤原氏につながる 武門の家柄だ。一方、母方の祖父は今様を詠い、 蹴鞠の名手として知られた源清経であり、彼の才能はその祖父から受け継いだもののようだ。

 もっとも、同じ武士とはいえ、彼と同い年で北面の武士時代の 同僚でもあり、友人でもあった平清盛が武力で政治権力を掴んだ後、その一族が貴族化していったように、 武家から彼のような才能が出現するのは、貴族社会から武家社会へ転換するこの時代の必然だったのだろう。彼が出家した 原因は明確では ないが、武芸や権力よりも風雅を愛した西行は、もしかすると平和な貴族社会から戦乱に向かう時代の匂いを敏感に 感じ取り、それを嫌って出家したのかもしれない。

 当時の貴族やエリートの出家というのは、どう見ても煩悩をさらに満たす為の政治的判断のようにしか見えないが、 都会っ子だった西行 の場合も他聞に洩れなかったようで、出家後陸奥を旅したり吉野に篭ったりと転々と彷徨った後、余程居心地が良かったと 見えて、32歳の久安五年(1149)から63歳の治承四年(1180)まで高野山を本拠地としている。 高野山が居心地が良かったのは実際のところ、戒律がゆるく、都との関係が密接だったからというのが理由だったようだ。

 僧としての修行では理趣三昧を修めたそうだが、理趣三昧には法会の際に謳う声明、つまり仏教の声楽音楽が含まれており、 例えば仁和寺の理趣三昧法会に 同時代の粋人、後白河法皇が毎年通っていた事が示す通り、非常に芸術性が高いものだ。特に高野山の声明は、開祖空海が中国から 直接持ち帰った真言声明のルーツに当たり、現在聞くことができる高野山の声明は、恐らく平安の頃とは変化しているとは思われ るが、 他の宗派のそれと比べると明らかに表現が柔らかく洗練されており、当時から貴族好みのものであった事は想像に難くない。 そんな理趣三昧の修行は、西行にとって趣味にも叶った楽しいものだったに違いない。

 また、西行が高野山にいた当時は、隣に建つ東塔が白河法皇によるものである事が示すように院政の絶頂期にあたり、 同時に上皇を中心とした貴族達の熊野詣全盛期にもあたる。高野山は熊野程ド田舎でも無く、吉野程修行も厳しくはない。 僧達と知的な会話を楽しみ、恋人?西住との逢瀬や、都との行き来もしやすく、毎年隣の吉野山で花見をし、気が向けばぶらっと 貴族気分で熊野詣にも出かけやすい。そんな高野山に住し、都で流行る仏教音楽の修行をするのは、 実は当時の流行の最先端だったのかもしれない。

 そんな雰囲気を窺わせる当時の仲間達との連歌には、
「人まねの熊野まうでのわが身かな(なんちゃって熊野詣のぼくだけど)」
  という静空の句に、
「そりといわるる名ばかりはして(ほんとにかっこだけの坊主だね)」
  と、茶目っ気たっぷりに明るく答えている。

 しかし、西行は高野山で好き勝手にただお気楽に遊んでいた訳ではなく、その才能で築いた都とのコネクションを使い、 勧進を促すなど山の経営と政治的安定に寄与している。実際に清盛相手に税の軽減を交渉した記録も残っているそうだ。

大会堂


 三昧堂の隣には大会堂(だいえどう)という大きなお堂がある。この堂は 鳥羽法皇追善の為、安元元年(1175)に院の皇女、五辻斎院頌子内親王が東別所に建てた寺院を、鳥羽院と縁のある西行が内親王に 薦め、治承元年(1177)壇上に移築して蓮華乗院と称したのものだという。僧としての地位や名誉を求めなかった西行だが、この 建物の存在からも彼の都への影響力と高野山への貢献ぶりを窺い知る事ができる


 三昧堂と同様江戸時代に再建されたこの建物も、軒や破風の 彫刻に江戸の時代性を見る事ができるが、入母屋造桧皮葺に一間向拝を持つ桁行五間、梁間五間の五間堂は、中世に確立した 典型的な密教の本堂建築の様式を持つ。もし、江戸の再建がオリジナルのスタイルをそのまま取り入れていたと すれば、安元元年建立は、この大会堂が中世に確立した密教本堂建築の最初期のものだった可能性を示しているといえるだろう。

 大会堂という名は、壇上で大法会を行う際、僧達がこの堂の前で行列を整える事から付いたのだという事だ。


不動堂


 大会堂の写真を撮り、先を見ると左手の下り坂の向こう、一段下がったところに、まるで鳥が羽を広げ、 今にもふわっと飛び立ちそうな緩やかな勾配の美しい屋根を持つお堂が見えた。東塔から並ぶ各堂が、 装飾的で明るく元気の良い江戸の町人文化を思わせるようなスタイルを持っているのに比べると、一見して明らかに優美でたおやかな この建物は、京の都を思わせるような貴族的な雰囲気が漂っている。


 近づいてみると、建物の横には「国宝 不動堂」と書かれた説明板が立っていた。確かにこの美しさは国宝と呼ぶにふさわしい。 一見した時は平安時代の建築かと思ったが、説明には平安の寝殿造の様式を残した、恐らく鎌倉時代後期の建築であろうと 書かれていた。この不動堂は当初一心院という寺院にあったそうだが、その寺院は江戸時代には荒廃して既に存在せず、 さっき行った徳川家霊台あたりを指す「一心院谷」という地名にその名を 残している。その一心院谷から女人堂に向かう道の左に、かつてそこが一心院の境内だった事を示す小さな池と金輪塔と呼ばれる 多宝塔が今でも並んでおり、その池の横、 現在は道路になってしまった場所にこの不動堂が建っていたのだという。不動堂は、明治41年に解体修理された際、この壇上に移築されている。


 建物正面を見ると、蔀戸(しとみど)の細かい格子がリズムを作り、少ない装飾の中に見える蛙股のシンメトリックで 抽象的な唐草模様は、イスラム寺院の アラベスクを思わせる。その蔀戸が並ぶ正面は、屋根の向拝が伸びる凸字型の形状を対位法的に模倣するかのように、 その左右が柱を残して方一間分後退し、同じく凸字型平面を形作っている。その後退部分の 空間に敷かれた板の間と一段下がったその前面の縁は、まるでそこだけ能舞台の一部であるような錯覚すら起こさせる。


 しかし、 この建物の美しさを決定的にしているのは、やはりその翼を広げたような屋根の形状だろう。入母屋造平入檜皮葺の屋根は、向拝 に正面を集中させながら途切れる事無くゆるやかな勾配をつなげ、破風面から左右に伸びる長い庇は、その勾配を一瞬険しくした後、 絶妙に反り上がり宙に浮いている。


 この美しい建物は不動堂という名が示すとおり、その優美な外観とは対照的に、怒れる不動明王を本尊にしているが、 その脇には天才仏師、運慶の 傑作、八大童子像が並んでいたそうだ。この本尊の不動明王像と八大童子像は今春、東京国立博物館の高野山展で 見たのだが、その素晴らしさに呆然と立ち尽くして見入ってしまった事を思い出した。あどけなさの残る顔立ちの童子達が 武器を手に厳しく睨んでいる様は、その写実的な表現も相俟って厳しさと柔らかさの矛盾した両面を表現している。この美しい 建物の堂内にこれらの仏像達が並んでいるのを見てみたいものだが、現在仏像は高野山の寺宝を納める霊宝館にあり、 そういった情景は想像するしかない。


 もし、運慶がこの優美な建物に触発されてあのような仏像を彫ったと考えるとロマンティックだが、この不動堂が鎌倉後期に建ったとする 説が正しければそれは不可能だ。しかし、説明板には鎌倉初期の建久九年(1197)に鳥羽天皇皇女の御願により行勝上人が建立 した言い伝えがあるとも書かれている。この事は「帝王篇年記」に「一心院不動堂供養」として書かれており、 「紀伊続風土記」などには「承久九年建立」と、1年ずれてはいるが同時期の建立年を示している。


 もしこれが事実であれば仏像製作は寺院成立と同時期 であったと見ることができる。「紀伊続風土記」には不動堂建立の際、源頼朝が若干の荘園を寄進した事も 書かれている。頼朝は、鎌倉幕府成立の後、戦乱で荒れた京都を始めとする諸寺の復興を意欲的に 行っており、運慶を代表とする慶派の仏師達はその運動に関わる事により、鎌倉ルネッサンスとも言うべき新時代の優れた 仏像群を残している。


 また、文治二年(1186)にはその頃伊勢にいた西行が東大寺再建の勧進の為東北をまわり、鎌倉で頼朝にも 会っている。その時ついでに高野山にも勧進する話をしていた可能性も無くは無い。いずれにせよ後の徳川家霊台建設が豊臣家と高野山の勢力を封じる 為と思われる事にも見られるように、 平家や後白河法皇を始めとする、朝廷勢力とつながりの深い高野山を押さえるのは、頼朝にとっても重要な事だったに違いない。 ただの偶然かもしれないが、鎌倉、江戸の両幕府初代征夷大将軍が、同じ場所で寺院や霊廟の建設に関わっているというのも面白い。

 そういった事を考えてみると、外観に明らかに平安の様式を示すこの建物の成立が鎌倉後期であること はむしろ不自然で、文献資料や鎌倉初期の特徴を示す仏像達、そしてその仏師と繋がる源頼朝、といった事からも、鎌倉時代初期、 建久の建立と見るのが妥当ではないだろうか。


愛染堂


 不動堂の写真を撮っていると、その向かい側、大会堂の隣にある小さなお堂に黄色い袈裟を着た若いお坊さんが登り、 読経を始めた。

 向拝柱の説明板に「愛染堂」と書かれた入母屋造桧皮葺のこのお堂も、隣に並ぶ諸堂と同様そのフォルムから 江戸時代の再建になるものと わかる。恐らくこの建物も、元々ここにあったものではないと思われるが、残念ながら元の場所は設明されていない。

 この建物は、壇上東にまとまる平安後期から鎌倉初期に建てられたその他の堂と違い、後醍醐天皇が自らを模して造らせた といわれる愛染明王を本尊として建てられたものだという。


 後醍醐といえば吉野という印象を持つが、建武元年(1334)に建設された と聞けば納得する。この年は、鎌倉幕府を倒した後醍醐が京都に凱旋し、いわゆる「建武の新政」を始めた彼の人生の絶頂期に 当たり、いずれも密教僧として出家している歴代天皇達が寺院を建立したこの高野山に、自らも寺院建設をする事でその権威を 示そうと意図したのだろう。 後醍醐は出家こそしていないが、父、後宇多法皇を通じて密教を伝授されたのだそうだ。

 お堂のお坊さんの向こうには、手前に小さな不動明王像が、奥には黒い愛染明王像が垣間見える。ここからは愛染明王の一部しか 見えないが、日輪を背負い、三眼憤怒の形相を持ち、六臂を構えているはずだ。

 こういった憤怒の形相をする仏像は日本独特の表現だそうだが、戦国時代に日本に布教にきた宣教師、 ルイス・フロイスに「火中に焼かれる悪魔」と言われた不動明王と愛染明王は対とされ、 密教曼荼羅における金剛界大日如来を不動明王、胎蔵界大日如来を愛染明王として象徴するようになる。そしてさらに 金剛界を男性原理、胎蔵界を女性原理と見て、その二元論的世界観統一、つまり完全なるものの象徴として 不動、愛染の二体の融合形を二頭八臂の両頭愛染明王として表現するようになっていったのだそうだ。


 両頭愛染明王は、昨日白浜で見たインドのガネーシャこと歓喜天を彷彿とさせるが、そもそも愛染とは愛欲染着を意味している。 つまり、愛染明王が性愛に関わり、秘仏とされる例が多い事でもわかるように、これは 歓喜天を密教的に消化した物といえる。そもそも真言密教の主要経典である「理趣経」に 性愛の各段階は、それぞれ清浄であり、菩薩の位にあたると説いている事が象徴するように、密教は仏教諸宗の中でも元々性に 対しておおらかな南方的教理を持っており、インドで密教が成立した時点ですでに歓喜天を取り込んでいた事を窺わせる。

 空海が日本に密教を持ち帰った後、程なく呪詛による暗殺を行うようになり貴族達の信仰を得た真言宗で、 性欲そのものが即ち悟りであるとする「煩悩即菩提」を是とし、欲望の実現そのものを目的とする 歓喜天即ち愛染明王信仰が平安後期以降起こってくるのは理解に難くない。空海にとってその事が本意かどうかは別にして、 単なる一要素として密教に 取り込まれ、隠れていた歓喜天が再び愛染明王として立ち現れてくるというのも面白い。この愛染明王信仰は、さらに 陰陽道と融合し、人肉を食らう荼吉尼(だきに)天を本尊とし、性交と髑髏を用いた呪詛を教義とする 真言立川流として一大旋風を巻き起こし、その後邪教として高野山に徹底的に弾圧される歴史を持つ。


 白浜の 岩に彫られた男女の性器の素朴な遺構は、真言立川流のようなカルトな信仰を成立させる下地が日本に太古から存在 していた事を示すのだろう が、太古の政治形態である天皇親政を目指した後醍醐は、正にこの真言立川流の僧、文観を重用し、鎌倉幕府倒幕の祈祷を行わせ、 自らもその倒錯した教理に基づく呪詛を行っていたようだ。ここの本尊の後醍醐本人を模した愛染明王は、 彼が仇敵調伏の為祀っていたのだそうで、わずか3年で建武の新政に失敗したこの天皇が激烈な煩悩の塊だった事を窺わせるが、 このお堂と道を挟んで後醍醐が滅ぼした鎌倉幕府の初代将軍頼朝に関わる不動堂が 並んでいるのは、両頭愛染明王としてそれぞれの本尊を一体化する表現がある事も含めて、歴史の皮肉を感じさせる。

 現在、一般に愛染明王は、恋愛成就、夫婦円満のご利益があるとされ、その憤怒の形相やどろどろした歴史に比べると なんだかほのぼのした 信仰になっているが、仏師の中には今でも愛染明王を彫ると命が取られるという人もいるそうで、そういった話に後醍醐が 愛染明王にその強烈な人生を懸けた時代の名残を窺い知る事ができる。

根本大塔


根本大塔  愛染堂から先のエリアは、全体が一段高くなっており、正に”壇上”伽藍である事を教えてくれる。その壇上 に上った右に巨大な多宝塔がそびえている。これが今朝弁天岳から見えた根本大塔だ。形はさっきの東塔と同じ多宝塔だが、その スケールが全く違う。全体の写真を撮ろうと後ろに下がったが、行けども行けどもフレームに収まらず、金堂とその隣の「高野四郎」 と呼ばれる鐘が下がる大鐘楼あたりまで下がらなければならなかった。同じ多宝塔でも東塔よりさらに垂直性を増した白地壁に 朱色の柱が鮮やかなこの塔は、まるでこのまま宇宙まで飛んでいってしまいそうな二段式ロケットのように見える。


 この根本大塔は、空海が高野山の伽藍に計画した諸堂の中でもその中核をなす建物で、 曼荼羅そのものを建築的に表現した多宝塔というスタイルの本家本元にあたる。空海入定後完成した この塔は、その後落雷等による火災で度々消失しており、現在の塔は昭和12年に再建されたものだという。当初は木造での再建が計画 されていたそうだが、耐火を考えて結局鉄骨鉄筋コンクリートに表面のみ木材を使うという方法で再建されている。 伝統的建築物の再建あるいは補修において、防災の観点上こういった方法を取るのは仕方の無い事なのかもしれないが、 那智の三重塔と同様、この方法では少なくとも本来持っていたであろう質感が全く再現できない為、どちらかといえば多宝塔形のビル を見ているようで、何となく白けてしまう。

高野四郎  大塔内陣は共通拝観券で拝観する事が出来る。拝観券を切ってもらい、 薄暗い内陣に入ると、黄金に輝く仏像群と鮮やかな柱群が目に飛び込んできた。 内陣中央に胎蔵界大日如来が坐し、それを極彩色の 菩薩が描かれた4本の 柱が平面対角線上に囲んでいる。その柱の外側、大日如来の左右と後方2柱の各延長線上に金剛界四仏を置き、 さらにその四仏の周囲を内側と同様極彩色で菩薩を描いた柱が各面4本ずつ計12本で方形に囲んでおり、この内側と外側の柱 を足した内陣柱16本はそのまま金剛界の十六菩薩を表しているのだそうだ。


 この仏と柱の配置は曼荼羅世界を現実に体験できるよう空海が考案した立体曼荼羅と言われている。空海の持ち込んだ曼荼羅図は 、大日如来の慈悲、精神世界の原理である理を表す「胎蔵界」、同じく智慧、物質世界の原理である智を表す「金剛界」と 通常二面の両部曼荼羅で世界を表現するが、この内陣の諸仏の配置は胎蔵界大日の周囲に金剛界四仏を置いており、 胎蔵界を中心に金剛界が広がる形の「金胎不二」と言われる両部が統一された世界観を表現している。しかし、空海が渡唐した当時、この 金胎不二の思想は、まだ中国密教界では現れておらず、空海の著作にもこの考えが見られない事から、 この諸仏の配置は後世の変更に かかるものかもしれない。あるいは、この大塔建立が空海の死後である事が示す通り、当初から伽藍構成のもう一方の軸として 構想されていた金剛界を表す西塔建設が経済的、技術的に困難と判断して便宜的にこのような両部諸仏が混ざった形に 配置したのだろうか。

 本来、寺院の塔建築は、中心に心柱と呼ばれる太い柱を立てて構造の軸とし、仏舎利を納める目的で建てられるものだったが、 多宝塔は構造の中心軸としての心柱を第2層から上に置いてしまい、初層はその太い心柱を廃した分、柱を分散させる事で構造と している。 そして、その増えた柱自体を菩薩として表現する事に利用しながら 仏舎利ではなく、大日如来を中心とした曼荼羅世界の諸仏を祀る広い空間 を確保する事に成功している。


 この空間は、釈迦が起こした仏教のみならず世界の全ての宗教、思想、哲学を内包し、かつそれらと比較 すれば最上であるとして、 全ての事象は「一にして多、多にして一」即ち根本原理である大日如来から発し、大日如来に帰する、 とした密教教理を明快に表す為に空海が考えた当時の塔建築としては画期的なものだったに違いない。

 そう考えると、この塔の建立が大幅に遅れたのは、従来言われるような経済的要因だけが原因では無く、 この新しい建築技術を成立させるのにも多くの試行錯誤の時間が必要だったからではないかとも思えてくる。

 いずれにせよ、この壇上伽藍の構成を一つの巨大な曼荼羅と見立て、さらにそれを構成する建築物一つ一つが曼荼羅を表し、それら の建物の内部構成が大日如来を中心とする一つの曼荼羅を示すというこの”曼荼羅の中の曼荼羅の中の曼荼羅”の中にいるのは、 まるでフラクタル理論のマンデルブロー集合図の中に彷徨いこんだように錯覚してくらくらする。それともこれは錯覚など ではなくて、実際に我々は、 インフレーション理論の言うように、曼荼羅やマンデルブロー集合図のような始めも終わりもない際限なく続く”メガバースの宇宙” の構成要素として存在しているのだろうか。


 まるで宇宙に広がっていき、また帰ってきたような諸仏と柱の配置を堪能した後、煌びやかに装飾された壁の四隅に掲げられた 密教縁の八祖像を眺めながら内陣をぐるっと回り、明るい外の世界に戻った。

御影堂


御影堂  根本大塔を出て、金堂の裏を過ぎた所にさっきの不動堂と同様なだらかな屋根勾配を持つ美しい宝形造桧皮葺のお堂があった。 向拝の柱に「御影堂」と書いてある。蔀戸が上げられていたので障子の隙間から中を覗くと、大勢のお坊さんが読経している様子が 見えた。この建物は江戸の再建によるものだそうだが、他の江戸期再建の諸堂とは異なり、 平安の昔からそのままだったかのような佇まいは、恐らくかなり忠実にそれ以前の姿を再現しているものと思われる。


 この御影堂は、空海存命中に既にこの場所に存在していた建物で、空海の姿を描いた「御影」が祀られている 事から現在の名前で呼ばれているそうだ。しかし、以前は「念踊堂」とも呼ばれていたそうだから、この宝形造の形式を利用して 歩きながら念仏を唱える三昧行をしていたのかもしれない。

   ここでは、空海が亡くなる際に「死んでも日に三度の修行はお前達とするから嘆くな」と弟子達に 誓った事が実現されているとされ、信仰上重要な場所となっている。 その為、弘法大師信仰が全国的に広まるにつれて寄進された数多くの宝物が納められ、 度々の火災にもめげず弟子達が必死にそれらを守り抜いたのだそうだ。 そのお陰で、我々は今日まで残された多くの宝物を見ることが出来る。


三鈷の松


三鈷の松  その御影堂の向かいには柵に囲われた松の木が何本かそびえている。空海が唐から帰国する際、日本のどこに寺を建てたら よいかその場所を示せ、と密教法具の三鈷杵(さんこしょ)を投げたらこの松に引っかかっていたという伝説が残る「三鈷の松」だ。 この話は「今昔物語集」などにも書かれ、実際にこの松に引っかかっていたといわれる三鈷杵が現存する事が示すように、 数ある弘法大師伝説の中でも最も有名なものの一つだ。 しかし、これは明らかに後世の作り話で、「性霊集」には空海自身の言葉として 「少年の頃、山林修行中に吉野から一日下ったところでこの場所を発見した」とあり、かなり前 からこの山上の盆地に注目していた事が分かる。

 空海の言う”少年時代の山林修行中”とは恐らく都の大学を1年程度で中退して彷徨していた19歳以降の7年間を指すと思われる。 空海の遺言である「御遺告(ごゆいごう)」に自らの生涯を述べた部分があり、そこにはこの間山々を彷徨い四国、 室戸岬での修行中に 明星が口の中に入る神秘体験をしてさとりを開き、その後夢のお告げにより久米寺で「大日経」を発見して 密教修行の理解不能な部分を追求する為渡唐した、と書かれている。


 四国で修行し、神秘体験をしたというのは空海が同じ四国の讃岐出身である事から実家を拠点に無頼な修行をしていたと 理解でき、過酷な修行で幻覚を見るというのは実際に良く起こることのようだ。興味深いのは、その後、当時の仏教の中でも 密教を確信する きっかけになったと思われる「大日経」を発見するのが久米寺というくだりだ。当時この経典は久米寺だけにあったのではない事が 分かっており、何も夢のお告げにその場所を奇跡的に教えてもらわなくともコネクションさえあれば他の寺でも”発見”する事は できただろう。この事は当時の空海が、久米寺と”夢のお告げ”以外のつながりを持っていた事を示唆すると思われる。 この久米寺は その名が示すとおり、聖徳太子の弟、来目皇子が建立したと伝えられるが、「今昔物語」には久米仙人が建立したという話も 書かれている。

 この久米仙人と言う人は吉野で修行して飛行術を体得したが、吉野川を飛び越える時に洗濯女の生足を見て欲情した為墜落し、 還俗してその女と夫婦になり、 その後、新都の造営人夫として働いた時に、その仙術で材木を山から空輸して工事がはかどった事からこの地を貰い、寺を造った。 という古代人らしいおおらかな伝説を持つ人物で、鳥山明の「ドラゴンボール」に出てくるスケベ爺の”亀仙人”の モデルになっている。

 この事から、この寺は 吉野を本拠地とし、やはり空を飛んだという役行者(えんのぎょうじゃ)を開祖とする修験道にかかわりのある事が分かる。空海 は、大学中退の理由を儒教を中心とした現実的で型にはまった学問は無意味でつまらないから仏教に関心が行った、と言っている が、それこそこの当時の仏教は国家によってコントロールされ、後に空海自身 も批判しているように宗教というよりは、経典を研究する型にはまった学問と化していたようだ。そう考えると、山野での 実践修行を行っている空海のいう 仏教とは、実は仏教として公認されていなかった現在でいうところの修験道の事だったのではないかという気がしてくる。 現在も修験道は独立した宗教 であり、明確に”仏教”ということはできないが、少なくとも現在の修験道は、多分に密教的要素を取り込んでおり、 空海が後に真言密教と区別して ”雑密”と呼んだ、密教要素を取り入れた宗派の一つとみなす事が出来る。体系としての密教は、 空海が初めて日本に持ち込んだもの だが、久米寺に密教経典の大日経があった事が示す通り、断片的にはそれ以前にも密教の情報が日本にも入ってきており、 実践修行を重視する 共通性から当時の修験道が密教的要素を取り込んでいた”雑密”だった可能性はあるだろう。

 修験道の開祖、役の行者小角(おずぬ)は、空海が大学を中退するほぼ1世紀前の文武天皇三年(669)に 讒言により伊豆に流されたと「続日本紀」に書かれ、その二年後に は赦されて都に戻ったとされている。この赦免が単に讒言が発覚した為なのか、それとも宗教者として役小角が認められた為 なのかはわからないが、 少なくともこの民間新興宗教が広まるきっかけになったのは間違いないだろう。修験道は役の小角が蔵王権現を感得した吉野の大峯 山を聖地とするが、久米寺は丁度吉野山から降りた先、大和三山の一つ畝傍山の麓にある。聖徳太子 の弟ゆかりの寺とはいえ、私寺だったこの寺を山下の拠点として、久米をはじめとする この新興宗教の信者達が集まっていたと 考えてもおかしくはない。 御遺告を読む限りでは、そこに好奇心旺盛で自分のエネルギーを持て余した青年が、 不思議な技を見せるオカルスティックな宗教の噂を聞いて訪れ、はまってしまったように見える。 この修験道の本場大峯山は、御遺告にもある通り地理的に高野山とも近い。 司馬遼太郎は「空海の風景」の中で、学生時代に友人二人と吉野から熊野へ徒歩旅行した時に、夜の天川沿い の山道 を登っていくと「不意に山上に都会が現出した。悪いものにたぶらかされているようでもあり、夢の中にいるようでもあった。深い ひさしのある門燈に寄って行ってきくと、ここは高野山だという。いまふりかえってみると、このときの驚きが、私にこの稿を 書かせているようでもある。」と高野山を”発見”した時の体験を書いている。空海が修験道にはまり、吉野や大峯で山林修行 をしていたと 考えれば、例えばこのような形でこの山上の盆地を”発見”していたとしてもおかしくはないだろう。

 もし、空海がこの修験道という新興宗教にはまり、大学を中退していたとするなら、それは多くの一流大学出身の信者が、 その指導者の下何の疑問も無く無差別殺人を起こし、 世間を騒がせたオウム真理教事件を思い出すが、いつの世でも若者の 漠然とした不安感や知的好奇心が理解不能なオカルトに向かっていく構造は変わらないのだろう。しかし、 オウム真理教が修行といって見せた 馬鹿馬鹿しい”超能力”や我々が”オカルト”として鼻で笑ってしまうような行為は、 少なくとも密教や修験道の行者には冗談でなくできる人がいるらしい。

 例えば司馬遼太郎は 「街道を行く」シリーズの「洛北諸道」の項で、「大和の上田さん」という修験者が枯れ滝のそばで気合一発、 「ドラゴンボール」のカメハメ波のごとく 発光体を出したのを見たという事を書いているし、水俣病などの公害が全国的に問題になっていた 昭和45年頃には 密教系僧侶達による「公害企業主呪殺祈祷僧団」なる集団が公害企業前で呪殺祈祷を行い、実際に役員が次々に死んだ企業もあった そうだ。もちろんその呪殺祈祷と企業役員の死に因果関係はないのかもしれないが、宗教者である僧侶が、 それほど遠くない昔にこのような事をした事実自体に驚かされる。 この呪殺という行為は、空海自身の話として、「今昔物語集」の「弘法大師、修円僧都と挑める語」に ライバル僧の邪魔をして、「互いに「死々ね」 と呪詛」合戦し、互角だと見ると弟子を使って「空海は死んだ」という噂を流し、相手が油断した隙に呪い殺した、という 無茶苦茶な話がのっている。開祖からして こうなのだから、こういった行為はいわば公認のようなものなのだろうか。

 空海に関する このような超能力話はかなり多いが、「南方二書」には「大力の跡は弁慶、風景の跡は金岡、霊験の跡は役小角、弘法大師に帰する が習いなれど、かかる一人一人に関する古跡は実証あるにあらざれば、さまで大騒ぎをして保存するの要なしと思わる。」と 書いているように必ずしも事実ではないようだ。空海がおこしたとされる奇跡は、呪詛合戦のように我々から見れば 聖(ひじり)にあるまじき行為と思うようなものも少なくない。これは時に同様の理不尽な奇跡が「聖書」に描かれるイエス・キリストを 想起させなくも 無い。この「聖書」という書物は、古くから芸術家のインスピレーションを刺激して多くの絵画やオラトリオの題材になっているように、 ドラマチックな話の宝庫だが、これを宗教書として読むと仏教経典などに比べ、 明らかに野暮ったく支離滅裂で理解に苦しむ話が少なくない。 しかし、「新約聖書」の四人の直弟子によって描かれるイエスの物語には、彼らが実際に見たとされるストーリーに共通する 部分があり、イエスが行ったであろう”奇跡”の痕跡を感じ取る事ができる。空海が徒唐した当時の長安には、ネストリウス派の キリスト教会が公認で置かれていたから、空海はイエスの奇蹟が布教に大きな力となっていた事を知っていたのかもしれない。 いずれにせよ、長安で勢力を伸ばす宗教は、奇蹟や呪詛を行い、その法力が皇帝に認められる事が必要であったから、 日本の宮廷に大きなコネクションを持たない空海が、新興仏教である密教を広める一番効果的な方法として、積極的に そういった力を発揮した例が呪詛合戦のような話として残っているのだろう。

 また、空海が慧眼するきっかけとなった、明星が口に入るというような神秘体験や超能力は、 密教発祥の地インドから日本とは違う伝播ルートで発展したチベット密教でも その体系の大きな要素と なっており、中沢新一の「チベットのモーツァルト」の「孤独な鳥の条件」には、自身のチベット密教修行中にいわゆる ”体外離脱”など様々な体験をした事が書かれている。中沢はこの論文の中で、 アメリカの文化人類学者カルロス・カスタネダがメキシコのヤキ・インディアンの呪術師「ドン・ファン」の 弟子として体験した内容と、 同様に師によって導かれるチベット密教修行体験との共通性、類似性について述べており、修行中 におきる神秘体験や超能力は、それ自体を目的にしたものではなく、その先に向かうステップに過ぎないとそれぞれの師が 述べている事が書かれている。

 こういった神秘体験や超能力といった現象は、必ずしも宗教的、呪術的な修行に限って起きるではなく、 一般的に起こり得る事のようだ。 例えば、最も簡単な 方法では、薬物による覚醒作用やその時見る幻覚は、宗教的神秘体験と本質的に同じと言えるだろう。実際にカスタネダは、 その師ドン・ファンによって処方された幻覚作用のある薬草を用いて呪術修行をしている。立花隆の「宇宙からの帰還」 には、多くの宇宙飛行士達、特にアポロ計画で月面に降り立った飛行士達が、宇宙から「神の視点」で地球を見る体験をした時、 神の啓示を感じ取る一定のパターンのようなものがある例を書いている。 中でもアポロ14号で公式にテレパシー実験を行い、帰還後ESP研究所を設立したというエド・ミッチェルの話は、クールに 聖書の言葉を引用しながら密教的な事を語っており、「宗教の本質はどれも同じ」と正に”悟り”の境地を覗かせていて面白い。 同じく立花隆の「臨死体験」にも、同様にその体験者達が、生死の境をさまよう瞬間に人種や宗教を越えてある一定のパターンで 神秘体験や超能力体験、さらにはUFO体験!をする例をまとめており、その体験後に多くの人が、既成の宗教を越えた より高度な信仰心を持つようになった事が書かれている。

 この「臨死体験」に、演奏中に体外離脱してしまうフルート奏者の例が書かれているが、実は自分自身が音楽活動をしていた頃 、演奏中に似たような体験をした事が何度かあった。自分の場合、体外離脱とまではいかないが、 楽器を演奏している自分と意識として存在している自分が分離している状態になる のだ。その時、意識は自分の体の筋肉、腱、関節の動き一つ一つを冷静に把握していながら、 何かに操られているかのように自動的に動き、 同時に自分の体から発散されるエネルギーと楽器から放たれる音が溶けあって、波のように空間の奥まで覆いかぶさり、 聴衆を包み込んでいくのがわかる。そして何よりも自分自身が音楽そのものになったかのような幸福な一体感を伴う。 これは、極度の集中により脳内麻薬が分泌され引き起こされた一種の覚醒作用 かとも思ったが、少なくともかなり細かな身体コントロールを必要とする演奏に火事場の馬鹿力や、麻痺状態 は全く役に立たない 事は明白なので、その説明では心身の分離という現象としては理解できても、同時に演奏する体験としては納得できない。 何しろ自分は楽器を弾いているのに弾いていないのだ。 こんな事はありうるのかと思ったが、何度か経験するうちにこういう事は起きるものなのだと受け入れて慣れてきた。 しかし、自分がまるで人形のようにだれかに操られていると言う感覚は何度経験 しても不思議で、かといって違和感があるわけでもない。しかもその状態が非常に心地よく、体がフワーッと 浮いてしまいそうな感覚が演奏後まで持続していた。恐らく自分は死んでも神なぞ信じないだろうが、 音楽と自分が一体化するこの感覚は、 音楽の神様にコントロールされていたと考える と何故か一番しっくりするので、これは宗教的な神秘体験と同じ体験だと言えるのではないかと思う。 この一体感と開放感は、確かに密教のいう性的絶頂感に似ていなくも無い。 宗教が音楽を道具として使うのは、恐らくこの一体感が一種の宗教的神秘体験として作用する効果を知っているからなのだろう。

 この意識と体が分離した状態で運動を行う現象は、「チベットのモーツァルト」の「風の卵をめぐって」に出てくる チベット密教の修行の一つ「風の瞑想歩行」というものに似ている。正確には同書に引用される、 東洋学者、ラマ・ゴヴィンダの言葉が語る体験と同じなのではないかと思う。 その体験とは、チベットにいたゴヴィンダが、美しい湖に見とれて帰る時間を忘れてしまい、このままでは遭難するという時に 「裸足に サンダルをひっかけただけの自分が、すべりもせずよろめきもせず玉石から玉石へと飛び渡っているのに気付き、 すっかり驚いてしまった。間もなく私は自分が奇妙な力に支配され、もはや意識が目や頭からの指図を受けずに働いているのに 気付いた・・・・・・いつの間にか身体の重さがまったく感じられなくなり、両足には足の本能とでも言うべきものが備わって、 注意して見ていない障害物を確実によけ、足許を確保しながら、玉石の上を軽快にバウンドしていたのである。」という経験をして 無事にキャンプに帰れたのだという。そして、 「自分の身体でさえ意思の力からなかば切り離され遠のいていく感覚なのだ。」と語っており、これは 正に自分の演奏中の体験と同じ現象、感覚だと思われる。 同書には、先に挙げたヤキ・インディアンの呪術師 ドン・ファンによる修行でも同様のものがある事を示し、それが既成の身体概念を解体する次のステップに進む重要な訓練だと 述べている。

 自分が体験した不思議な体験はもう一つある。当時自分はフランス留学中だったのだが、日本に一時帰国した折、 祖母に預けていた猫を実家に移した。しかし、その猫はその四日後に逃げ出してしまい、結局行方知れずのままフランスに 戻らなければならなかった。自分はその猫が心配で、かといって何もできないので街のカテドラルで毎日猫が無事に戻ってくる事 を祈っていたのだが、ある日カテドラルで猫の事を祈っている最中、 そのまま意識がどこかに 飛んでいってしまったようになった事があった。その時の記憶は全くないし、それがどれくらいの時間だったのかわからないが、 意識が戻った時に音楽と一体感を感じた後と 同様の体の浮遊感と快感が残っていた。その翌日、日本の実家から電話があり、家に入ってきた猫がいた が、母が捕まえようと家の中を追い回してしまい、結局その猫は2階の空いていた 窓から飛び降りて逃げてしまったというのだ。体毛の特徴から、恐らく逃げ出した猫に間違いなく、それが起こったのは 丁度カテドラルで意識 が飛んでしまっていた時間に重なっていた。カテドラルでの体験と猫が実家に戻ってきた事の間に因果関係があるのかと問われれば 分からないとしか答えようがないし、只の偶然といわれてしまえばそうなのかもしれないが、 自分としてはテレパシーのようなものが働いて猫が戻ってきたとしか考えられなかった。その後、再び猫が実家に戻ってくれるよう カテドラルで祈ってみたが、その日のような感覚になる事は二度と無く、それから3ヶ月くらいたった後、草原の花畑の中 で死んでいる子猫を抱き上げる夢を見た。子猫の姿にはなっていたが、それは行方不明の自分の猫である事がわかり、 花畑は死を象徴する風景である事を知っていたから、夢の中でこれは猫が死んだメッセージだと受け取った。これも実際に 猫が死んだのかどうか分からないし、自分の深層意識が猫の心配をするストレスを解消する為に仕組んだ夢なのかもしれない が、自分ではやはりその時猫が死んだのだと思っている。

 こういったテレパシー能力ともいえる現象は、枕元に人が立った夢を見たらその人が翌日亡くなっていたというような 死に関する話として数多くの例が世界中に残っているが、那智で幻覚と幽霊を分析していた南方熊楠は、「履歴書」に 「小生旅行 して帰宅する夜は、別に電信等出さざるに妻はその用意をする。これはrapport(ラッポール)と申し、特別に連絡の厚き者に こちらの思いが通ずるので、帰宅する前、妻の枕頭に小生が現われ呼び起こすなり。東京にありし日、末広一雄など今夜来ればよい と思い詰めると何となく小生方へ来たくなりて来たりしことしばしばあり。」と自身の具体例を挙げながら、死に関わらなくとも 日常的にこのような事が起こりうる例を示している。これらの例を見ると、実はこういった現象は、 ある条件がそろった時や、特別な体験をした後に発揮されやすい、人の持つ普遍的な能力の一つなのではないかと思えてくる。

 そう考えてみると、空海のいう明星が口に飛び込んでくるという体験は、臨死体験で見るという光の世界に入る体験と 似ていなくもない。その体験で開眼したのは、宇宙体験、臨死体験の後、世界観が変わったという多くの人々の 体験と一致しているように見える。しかし、空海はそれに飽き足らず、その先を目指したようだ。 恐らく当時の修験道にはそういった神秘体験に自身を導く体系的なセオリーまではあったのだろうが、それを説明し、 その上の次元に導く理論が乏しかったのではないだろうか。その体験を どう解釈してよいのか悩んだ時に大日経に出会い、恐らく「これだ!」という確信を持ったに違いない。空海にとって 大日経の発見は、自身の神秘体験を体験的にも論理的にも説明できる完璧な教えとしての密教そのものの発見でもあったのだろう。

 どうやらこの神秘体験と大日経を経て、空海がたどり着いたのは、宗教という枠を超えて人類が到達しうるある一定の境地、 仏教でいうところの”さとり”だったようだ。彼にとっては密教ですらも、そこに導く為の単なる方法論として 使っているように見える。というのは、空海はその著作「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」「弁顕蜜 二教論(べんけんみつにきょうろん)」の中で、密教の優位を他の宗教諸派をひとくくりにした顕教との 比較によって述べているが、その中で再三にわたり、密教によって到達する最終的な仏のさとりは、言語や我々が認識する既成概念 によって表す事はできない「かたちを越えた真理そのもの」であり、顕教の教えは「ただ句の意味のみを解釈して、 文字の深遠な意味を解釈することはできない。」と述べている。さらに、その「真理」である”さとり”は、かたちを持たない為、 経典の字義解釈では成立せず、”さとり”を得た師についての修行体験 を通じてのみ体得できるのだと「即身成仏義」で言っている。これは臨死体験や宇宙体験、 あるいは呪術師やチベット密教の修行といった体験 を通じて得られる新しい価値感の取得と、 密教という体系によって、人為的に導かれる神秘体験から得られる”さとり”すなわち人類普遍の究極の 価値感の取得は、いずれも目指す場所、たどりつく場所が同じである事に気付かされる。 だとすれば空海が 目指していたのは、教団としての真言密教の布教なのではなく、あらゆる宗教を超越し、統合する全く新しい人類普遍宗教の 創造だったのかもしれない。

 しかし、空海の死後、教団は”さとり”にいたる途中で得られる力、呪術的な面のみ増幅させ、 真言立川流のような鬼子を 産みながらその勢力を広げている。明治以降も熊楠に「一体、日本の仏教中、もっとも異議あるは、汝らの真言宗にして、 祈祷、呪ろく等の外は何の益もなく、云々」と 書かれる有様だったようだが、オカルト教団とも捉えられかねない方向に走ってしまったこの姿を見たら、空海は一体 どう思うのだろうか。

准胝堂


准胝堂  三鈷の松から視線を背後に戻すと、御影堂の横に入母屋造りの小さなお堂が建っており、准胝堂(じゅんていどう)と書いてある。 このお堂の創建に関しては、はっきりした記録が残っていないようで、天禄四年(973)建立説と小松(光孝)天皇建立設があり、 小松天皇は887年に崩御しているので建立年代に約100年の開きが 生じてしまう。いずれにせよ、建立後何度か焼失し、現在のお堂は明治に入ってから建て直されたものだそうだ。 准胝堂という名の由来は、空海が剃髪した時に自ら彫った准胝観音を出家得度の本尊として祀っていたからだそうだ。


 准胝観音は元々インドでは、獅子に乗る女神としてシヴァ神の暗黒面を象徴する荒々しい神だったものが、泉(チュンティー)と の発音の相似から水の神とされ、仏教ではその水の浄化作用から清浄をもたらすとして、世俗の汚れを洗い落とす出家得度 を象徴する観音となったようだ。しかし、その肝心の准胝観音は昭和20年以降行方不明なのだ そうで、恐らく盗まれて闇ルートででも売りさばかれてしまったのだろう。記録では貞観時代の仏像と思われるとあるから本当に 空海ゆかりの仏像だったのかもしれない。同時代の密教仏は、現在では室生寺でしか見ることができないのでかなり 価値の高い仏像だったに違いない。この准胝堂は伽藍の火災の度に諸仏の一時避難場所となっていたそうだから、 もともと仏像の出入りが 多かった為、本尊がなくなってもどこか他のお堂に移されたのだろうくらいの感覚で放置されてしまったのだろうか。

 こういった美術品の盗難は、例えばルーブルでモナ・リザが盗まれた過去があるように、 寺に限らず美術館などセキュリティーのしっかりしていると見えるような所でも 内部犯行などによる美術品流出がよくあると言うが、信仰の対象でもある寺の本尊が盗まれるというような話を聞くと、 心無い人がいるものだと情けなくなってしまう。ただ、現在高野山の主要な仏像達は、伽藍の正面にある 高野山霊宝館で保管されているので、このような安易な流出が起こりにくいのがせめてもの救いではある。

孔雀堂


孔雀堂  その隣に少し引っ込んで准胝堂と双子のような入母屋造りのお堂が建っている。こちらのほうが屋根勾配がゆるやかで、 准胝堂に比べると若干優美に見える。このお堂は後鳥羽法皇により正治二年(1200)に建立され、本尊に快慶の孔雀明王 を置くことから孔雀堂と呼ばれるそうだ。


 この孔雀堂の建立のいきさつが面白く、建立の前年が旱魃だった為、当時の東寺僧正、延杲(えんごう)が 京都の神泉苑で孔雀経法を修し、雨乞いをしたところ雨が降ったのだが、今度はその雨が止まないため止雨祈願をしたのだ そうだ。東寺は空海が朝廷から授かった真言宗の官寺であり、そこの僧正が降雨祈願を成功させた事から後鳥羽法皇が命じて 高野山に孔雀明王を祀るお堂を建てたのだという。

 この孔雀明王も准胝観音と同様、獣に乗る女神という姿で表されるが、こちらはその名の通り孔雀に乗っている。何故孔雀 かといえば、孔雀は平気でコブラを食べるように、解毒能力を持つ事からインドでは悪を滅ぼす力を持つとされる神となり、 仏教に取り入れられて孔雀明王となったようだ。何故女神かといえば男根を象徴する蛇を食すからだろう。降雨祈願については、 やはり川、水の流れを象徴する蛇を我が物にするからという発想ではないのだろうか。

 ちなみに神泉苑での請雨祈願は空海も行って成功している。御遺告にも神泉苑に住む金色の蛇の姿をした善如竜王 が現れて雨が降った事が書かれており、こういった祈祷関係に真言宗が強かった事を物語る。 これは恐らく空海の狙い通りであり、このような加持祈祷によって真言宗は 勢力を伸ばすのだが、同時に”さとり”の境地に導く「真言」を離れ、呪詛、祈祷宗教という”雑密”として進んでしまう萌芽が この時すでに現れているともいえるだろう。

西塔


西塔  孔雀堂の横はさらに一段高くなっており、それまでの広い平地から杉にかこまれた空間に入る。その杉に囲まれて古色蒼然とした 多宝塔が建っていた。裳層(もこし)に貼られた銅板が緑青を噴き、白木が色あせた柱は、長年の風雪に 耐えてきた時間の長さを感じさせる。これまで見てきた多宝塔に比べると明らかに垂直より水平を意識を意識して建てられている この塔は、西塔といい、小松天皇により仁和三年(887)に建立されたのだという。この塔も度々火災に遭っており、 現在建っているのは江戸期に再建されたものだということだ。


 この塔は、根本大塔と対称をなし、 金剛界大日如来を本尊として、その周りに胎蔵界四仏を置く。初層の柱計37本は、金剛界三十七尊を表しているそうだ。こちらは 内部の見学は不可能なので、大塔のように諸仏による立体曼荼羅を体験する事はできないが、大塔の様子を基に想像する事は 難しくない。

 西塔は大塔と同様、空海の死後建設されたのだが、空海により構想された当初の伽藍計画に入っている。 しかし、大塔と対称にするのなら何故 金堂を中心として大塔、西塔を左右対称に配置しなかったのだろうか。しかもこの西塔は、当初多宝塔ではなく五重塔だったらしい。 位置に関しては、大塔と対象の位置が、空海存命中に既に建っていた御影堂に当たる事から不可能だったとも解釈できるが、 少しずれはするが、その隣のスペース、現在の准胝堂、孔雀堂が建つ位置に十分建設可能だったのではないかとも思える。 もしかすると、 建立年代がはっきりしない准胝堂の建設者が西塔建設に関わる小松天皇だという説があることを考えれば、実は西塔は当初一段下の 御影堂の横、現在准胝堂、孔雀堂が並んでいる場所に五重塔として建てられたのではないだろうか。この創建当初の五重塔は 正暦五年(994)に落雷から発生した火災により壇上の御影堂以外の全てが焼失した時の大火災で焼け落ちた事がわかっており、 准胝堂も同時に焼失した記録がある事から、もしこの場所に西塔が建っていたとすれば、多少強引ではあるが、 西塔と准胝堂を混同していた、あるいは 西塔に准胝観音も置かれていて准胝堂とも呼ばれていた可能性もあるのではないかと思う。 何故当初多宝塔ではなく、五重塔だったのか については、小松天皇が高齢で即位した為在位期間も3年と短く、それを見越して在位中の完成を目指すには、 まだ建設例の少なかった多宝塔より一般的な五重塔のほうが工期が早かった為ではないだろうか。

 もちろんこれはあくまで推論に過ぎず、現在の准胝堂、孔雀堂の位置に当初西塔が建っていたのかどうかは、その場所を掘れば 恐らく塔の基礎部分の遺構が発掘されるはずだからすぐにわかるだろう。しかし、現在まで幾度か両堂の再建が図られているが、 残念ながらそういった遺構に関する話は聞かない。あるいは、西塔が焼失して存在しなかった間、 西塔の諸仏を准胝堂に仮安置していた時期があると いうから、この時に西塔と准胝堂の情報が入り混じり、こういった混乱が起きたのかもしれない。しかし、 空海自ら「御図記」にこの曼荼羅を模した大伽藍の構想を記していた事を考えると、少なくともこの西塔は、現在ある位置よりは 段下にあるほうが配置として明らかに美しく曼荼羅としての説得力もあるのも事実だ。残念ながらその「御図記」にどのようにこの 西塔の位置を示しているのかは知らないが、当初の建設予定地はこの下の場所だったのではないかと思う。

 現在の西塔は寛永七年(1630)の焼失以来、歴代の正智院住職が三代かけてその200年後に再建を果たしたものだそうで、 古びているとはいえ凛としたたたずまいにその情熱と誇りを見る思いがする。


御社


御社  西塔の西、さらに山側にいった突き当たりの高台に、朱色の鳥居の向こうに千木をのばした社が三棟建っている。 いずれも桧皮葺屋根 を持つが、手前の二棟が春日造、奥の一棟が流造となっている。 夏の観光シーズンが終わったからだろうか、その手前の拝殿 周辺を作業員が土を掘り起こして何か工事をしている。明治の神仏分離以前は、寺の境内に神社が、 あるいは神社の境内に寺があるのが 普通だったと頭では分かっていても、密教曼荼羅を具現化した典型的な寺院の境内に、 角のような千木を伸ばす神社が出現すると、何となく違和感というか新鮮な驚きのようなものを感じる。 鳥居に近づいてみると「御社(みやしろ)」と書いてある。社の向かって右から「丹生明神」「高野明神」「十二王子百二十伴神」を祀っている ということだ。「十二王子」は恐らく熊野の神を祀っているのだと思うが、 「丹生明神」と「高野明神」は高野山の地主神にあたる。丹生明神は「御遺告」にも 丹生津姫命(ニウツヒメノミコト)として高野山の裏道に祀られ、その近くの沢に近づく人は皆殺されるが、空海は丹生津姫の お告げでこの高野の地を譲られたと書いてある。高野明神は別名狩場明神とも呼ばれ、犬を二匹つれた長身の狩人の姿で表される。 「御遺告」にこの高野明神の事は出てこないが、「今昔物語集」には空海が唐から投げた三鈷杵を探している途中、 この狩場明神に遭い、 その場所を教える犬を追っていたところ、丹生明神に三鈷杵の落ちた高野の地を譲られたとある。但し、今昔物語集では 三鈷杵が引っかかっていたのは松ではなく檜とあり、これは元々高野山に聳え立つ巨大な檜の信仰が弘法大師伝説と混ざり、 その檜がさらに樹格の高い松に変化したのではないだろうか。


 三鈷杵と高野明神の話は、恐らく後世に作られた伝説だろうが、これらと丹生明神は関連付けられなくもない。 丹生明神は金属加工の必需品であり防腐剤、毒薬、あるいは 不老長寿の薬として知られていた丹沙、水銀を象徴し、 高野明神は世界に多くの類型を持つ典型的な 製鉄神の姿を持つ。そして三鈷杵は古代インドでは武器だった金属性の密教法具、とこの三者は金属あるいはその加工技術を思わせる 共通項を持つ。高野山とこれらが象徴する金属に関する事は多くの人が指摘しているが、どちらかといえば不老不死などの 密教的呪術の方向に向かって しまうか、鉱山開発による経済的利益を伽藍建設資金に使ったといった実業家空海的な推論が多く、それはそれで面白いのだが いまいち釈然としないものがある。

 宗教施設と金属加工、特に製鉄のつながりで思い出すのは、フランスのフォントネ修道院を訪れた時の事だ。 このフォントネ 修道院は、高野山と同様に山と川に囲まれた修道院で、こちらも世界遺産に指定されている。この中世の修道院には鍛冶場があり、 周囲の山には鉄鉱石の採掘跡があった。何故宗教施設に鉄が必要なのかと思ったが、この修道院は シトー会という、清貧を 旨とし、世俗との交流を遮断した空間で沈黙、祈り、労働する質素で厳しい生活を送っていたため、 農具を自らの手で造る必要があったのだという。フォントネに修道院を建設したのは聖ベルナールという シトー派の代表的なキリスト教神秘主義者で、この修道院は、彼の美学を現実化した「ベルナール平面」 と呼ばれるシトー会独特の規格化された幾何学的な平面プランを実現しており、その建物も装飾のまったく無い、 ストイックな厳しさ と美しさを持っている。シトー会はその厳しい戒律と生活から修道者は皆若くして亡くなっていたようだが、この 厳しい戒律と瞑想で得られる境地は、身体を限界まで持っていく日本の修験道や密教修行などと基本的に変わらないのでは ないだろうか。 しかし、キリスト教改革派だったシトー会も、その勢力を増すにつれその存在はより政治的になり、腐敗、堕落して支持を失い、 18世紀には廃墟と化していたそうだ。

 高野山とフォントネを同一視するわけではないが、まだ新しかった真言宗にとって、鉱物資源はフォントネと同様、 より現実的な必要性に基づいて利用されていたのではないだろうか。「御遺告」には、高野山の寺域に「常庄」と呼ばれる田が三町 程あることがいわれており、そこで使う農具を製作していた可能性がある。さらにもう一つの可能性として、 密教修行には各種の金属製 法具が必要であり、日本に体系的な真言密教を初めて持ち帰ったのが空海である事を考えると、その教えが広まるにつれて必然的に 密教法具の製造が必要になったとみることができる。空海には自ら仏像を彫ったとか、弘法大師お手製のなんちゃらといった、 真贋は ともかくそういう謂れのある物が非常に多く、筆作りも実際上手かった話があるように、そういった 技術にも関心が高かったようだ。もしかしたら、自身が初めて日本に持ち帰る宗教に必要な法具製作技術を、 在唐中に身に付けてきた のかもしれない。あるいは、空海が唐から日本に持ち帰った物を自ら記した「請来目録」には、持ち帰った密教法具の製作者として 「趙呉」と書かれた後、「楊忠信」と書き直されており、空海がこの技術者を日本に連れてきた後、 日本名に改名した可能性も考えられる。


 当時の僧は、現在のような単なる宗教者ではなく、進んだ大陸の技術を輸入する科学技術者の側面も多分に持っており、 例えば鑑真は 僧であると同時に医者でもあったようで、五度目の渡航失敗後失明した為、鼻で薬を嗅ぎ分けた話も残っている。その鑑真 の伝記「唐和上東征伝」には、天宝二年(743)の第二次渡航計画の際の準備品として、仏教関係の物の他に、薬品、 香料などの文物や、弟子の他に工人85名(185名説もある)も連れてくるつもりだった事が書かれている。 こういった過去の例から見ても、 空海が「請来目録」にわざわざ名前を挙げている技術者達を日本に連れ帰り、密教法具製作に当たらせたとしても不思議ではない。

 今昔物語集の話で丹生明神、高野明神が空海の三鈷杵にからむのは、空海が若き日にコネクションを持った 高野山周辺の鉱物資源と土着の技術集団を使って楊忠信の指導のもと、密教法具製作工房を営んでいた事を示唆しているように 思える。 この御社をまずこの伽藍に建てたのは、地霊鎮魂もあるのだろうが、空海を受け入れてくれた高野山の人々 に対する気持ちといったものもあったのかもしれない。

山王院


山王院  この御社の下に、少し離れて横長の入母屋造桧皮葺の古そうな拝殿が建っている。若い作業員二人が相変わらず、 この拝殿周囲の土を掘っていた。 この拝殿は通常の神社拝殿と違い、社との距離があり、御社は拝殿から独立しているかのようにその周りを透き塀で囲んでいる。 それに、何故か神社に 向かっていない建物の両端に一間向拝が付いており、この拝殿の用途は当初別のものだったのではないかと思わせる。

 説明板には「山王院」と書いてある。山王とは御社に祀られる高野山の地主神を山王と呼んだ為だそうだが、院と名が付いている のは、より独立性の高い建物である事を物語る。実際、この山王院は拝殿として御社の神に祈る場所であるべきにも関わらず、 目の前にいる神々とは別に夏の間だけ波切不動明王を置いているそうなので、やはり御社とは別の建物だったのかもしれない。


 ここに夏季だけ置かれるという 本尊?の浪切不動明王は、空海の乗る帰国船が嵐に巻き込まれた時、持っていた不動明王に祈ったところ、 不動明王の持つ 剣が浪を切り裂き、無事に航海できたという、まるで旧約聖書のモーゼの話を思わせる伝説を持つ。何故ここにその浪切不動を 持ってくるのかと思うが、ここは弁天岳の麓、伽藍の最西端にあたり、やはり弁天岳から流れてくる水を制御する為、浪を切り裂いた 不動明王を置いたのではないだろうか。

 そう考えると、伽藍造営の最初期に御社が建てられたというのは、弁天岳から染み出す水の治水工事の成功を祈って、 あるいは完了を感謝して、まず地主神を祀る為だったのかとも思える。いずれにせよ、各堂の建設年代を見ても伽藍造営は、 この西側から東に向けて拡大していった事は間違いない。ではこの山王院も古くからあったのだろうか。説明板には文禄三年(1594) 再建としか書かれていないので分からないが、現在見られる堂の形からも御社建設より後だったのではないかと思う。


六角経蔵


六角経蔵  山王院の横のゆるい坂を下ると、右手に六角経蔵があった。その名の通りお経を納める六角形の二段式ロケットのような蔵だが、 下層の校倉の下 に人が押す為の取っ手が何本が突き出しており、この経蔵を回せるようになっている。回せるといっても、この経蔵自体が 回るのではなく、取っ手部分が蔵の周りを回るようになっているのだという事だ。これは経蔵をメリーゴーラウンドのように 回す事で中に納められている仏典を 唱えたことにするという、何ともふざけたものだが、大乗仏教は、旧約聖書を母体とするユダヤ、キリスト、イスラムのように 聖典を厳しく限定する事がないから、際限なく増えてしまった経典を全て読んで理解しろというのも土台無理な話で、現実的処理 としてこのような運動で解決しようとする気持ちも分からないではない。

 以前、長野の善光寺の経蔵内部にこのような転輪蔵と呼ばれる 回転式書架が置かれているのは見たこと があるが、建物自体を回転させる(実際は回らないが)ように造ってあるのは初めて見た。この転輪蔵は中国の南北朝時代の 傅大士(ふだいし:497〜569)という人が考案したもので、当初は膨大な仏典を効率よく納め、取り出しやすくする為にこのような 形をしていたのが、そのうち回転すること自体が意味を持つようになり、中身のお経は次第にどうでも良くなってしまったようだ。 この転輪蔵は空海が渡唐した時には既に存在していたはずだから、長安でこういった書架を見たかもしれないが、この六角経蔵 は空海とは直接関係無く、平治元年(1159)に鳥羽天皇の菩提を弔い、紺紙に金泥で書かれた美しい金字一切経を納める為 建てられたということだ。


金堂


金堂  気が付くと、空に薄く雲が広がってきた。高野山の天気は変わりやすいと聞いていたが、雨が降るほどではなさそうだ。六角経蔵 の先には入母屋造瓦葺の巨大な金堂がそびえている。これもカメラのフレームからはみ出てしまうので、後ろに下がったが結局上手く 写せる位置がなく、フレームに入りきらなかった。良く見ると屋根の鬼瓦をはじめいたるところに三鈷杵をクロスさせた装飾が入っており、 ここが壇上の中心である事を誇示しているようだった。しかし、この建物も度々の火災で焼失しており、 大塔と同様鉄骨鉄筋コンクリートに表面のみ木材を貼っている造りな為、残念ながら趣は感じられない。


 堂の正面に行くと、その向かい側に階段があり、その下に建物の礎石のみ残した更地があった。以前はその礎石の上に壇上正面入口 を示す中門があったそうだが、天保十四年(1843)の火災で焼失し、いまだに再建されずにいるのだという。 その門にあった多聞天と持国天像はさっき見た大塔で再建の日を待っている。

 金堂内部は共通拝観券で見学できるが、入り口でチケットを切ってもらおうにも肝心の係りの人がいない。トイレにでも行っている のだろうか。他の客もいないし、まあいいかと思って勝手に中に入った。金堂は空海存命中の建築で、当初は講堂と呼ばれていた そうだ。 この金堂内陣には、春に国立博物館の高野山展で見た、平清盛が自らの血を顔料に混ぜて描かせたといわれる 巨大な二面の血曼荼羅が掛かっていた そうだ。その曼荼羅は、かなり色あせ、近づいても何が描いてあるのか良く分からないどす黒い巨大な二枚の布といった 印象しかなかったが、この薄暗い巨大な空間に色鮮やかだった頃の曼荼羅が掛かっていたのを想像すると、きっとその巨大な二枚の 布に吸い込まれそう だったのではないかと思える。

 二面の巨大な曼荼羅を金堂内陣に懸けるのは、清盛の発案によるものではなく、引仁十年(819)の講堂完成時からのようだ。 空海が唐から持ち帰った密教に関する物品は、 自身が帰国直後に記した「請来目録」に載っているが、 その中に七幅一丈六尺の胎蔵界大曼荼羅一鋪、金剛界大曼荼羅一鋪の記録があり、曼荼羅を持ち帰った理由も書いている。 そこには、空海の師、恵果(けいか)の言葉として、「真言密教を弟子に伝えるには図画を 用いなければ不可能。」といわれ、日本に持ち帰った曼荼羅十点を作らせたとあるから、弟子に秘法を授ける為の場所に 曼荼羅を懸けるのは 、その絵図を通して間違いなく弟子に教えを伝える意味があったことがわかる。空海が曼荼羅を重視していたことは、 存命中からこの両部曼荼羅のコピーを作る作業を始めていることでも示されるが、清盛の曼荼羅はその空海の両部曼荼羅の 系統を受け継ぐ 「現図曼荼羅」と呼ばれるものの中でも現存する最も古いものとされている。空海の持ち帰った曼荼羅は既に存在しないため、 血曼荼羅が どれだけ忠実に現図を再現しているのかはわからないが、焼失した金堂をその翌年に再建した清盛が自らの血を混ぜて描かせたという 話からは、その後貴族の世を終わらせるきっかけを作った清盛の情熱というか勢いのようなものを感じる事ができる。

 この金堂は、引仁十年(819)の完成当初は仏像を置かず、巨大な両部曼荼羅を本尊としていたようだが、金堂建立の約20年後、 空海が没して3年後の承和五年(838) 嵯峨天皇により薬師如来を本尊に、その眷属を脇侍仏として置くようになったという。以前の本尊は 火災で焼失したため、現在のものは昭和六年(1931)に高村光雲が彫ったものだそうだ。既に高齢だった光雲は完成する前に死ぬかも しれないからと一度は断ったそうだが、高野山側で光雲を 死なせないよう祈祷するからと説得し、実際に仏像製作中は不思議なくらい元気だったと光雲自身が語っている。この薬師如来は 完成したものの、大きすぎて光雲自宅の門と塀を壊して運び出し、さらに道のコーナーを回れなかった為、了解の上、角の家の塀 まで壊して運んだという話も残っている。

 その本尊は秘仏の為残念ながら見ることができないが、僧侶が集う講堂に”さとり”そのものを表す大日如来を置かず、 現世利益を象徴する薬師如来を置くというのも面白い。この薬師如来は、密教では阿しゅく如来と同一視されるそうだが、 阿しゅく如来は 全てを映す鏡の役割を持つとされ、大日如来に象徴される”さとり”を映し出し、それは同時に映し出される目の前の人々全ての事 だと気付かせて”さとり”にいざなう即身成仏を体現した如来だ。そう考えると弟子達を”さとり”に導く為に、 阿しゅく如来である薬師如来が置かれている のも納得できるが、この仏像が置かれた当時から薬師と阿しゅくを同一視する考えがあったかどうかはわからない。いずれにせよ、 「成仏すること頓中の頓」つまり、いつまでたっても”さとり”を 得られない今までの仏教諸宗に比べ、”さとり”を得るのに最速であり、その身そのままで成仏できるという 「即身成仏」を革新的要素とした真言密教では、”さとり”と”現世利益”は矛盾せず、むしろ積極的に肯定した ことから、抽象的で理解しにくい”さとり”を体現する大日如来より現実的な利益を叶える それぞれの仏を祀る信仰に世間一般の人々が流れていくようになる。ここに天皇自ら薬師如来を置いたというのは、 そういった傾向が 空海入定後3年で既に現れていることを示しているのかもしれない。


金剛峰寺


金剛峰寺入口  薄暗い金堂から出て時計を見ると、案の定昨夜計画した時間を過ぎている。急いで回らないと今日の宿に たどり着けなくなってしまう。このまま霊宝館に行こうかと迷ったが、とりあえず自転車を置いた場所に戻る事にした。

 壇上から蛇腹道を戻り、自転車のある駐車場手前に着くと、平日にも関わらず忙しく車が行きかい、バスからは観光客がドヤドヤ 降りてくる。なんとなく観光客につられて、目の前の金剛峰寺入り口手前に自転車を止め、中に入った。向こうの門から団体客 が賑やかに出てくる。平日だからなのか、寺だからなのか老齢の客が多い。中には小さな子供連れもいて、おじいちゃんが 親しげに声を掛けている。はにかむ子供に、親が「ほら、こんにちはでしょ。」と言っているのを見て、皆にこにこ笑っていた。


金剛峰寺の門  土壁に囲われた先の桧皮葺四脚門は、軒下の木鼻に彫られた猪や波打つ雲の彫刻に、これが江戸の霊廟建築に 繋がるものである事を教えてくれる。 その門を潜ると、広い手前の空間の向こうに唐破風付入母屋造桧皮葺の巨大な堂が現れる。それは右に突出した表玄関を付け、 さらにその右に通用口を付けている。 横に伸びるその姿は、壇上で見た古代から中世に渡る各堂とは全く違い、明らかに禅宗の影響を受けた書院の形式を見せており、 寺院というよりは武家の宿泊用の城といったほうがふさわしい威圧感を持っている。


 この金剛峰寺は、文禄二年(1593)に豊臣秀吉が、高野山二世真然大徳の廟堂が建っていたこの場所に、 青巖寺として母の菩提を弔うために建立したもので、この巨大さと威圧感は、 普請道楽の秀吉らしいと言える。もともと金剛峰寺という名称は、空海が山を開いた時に高野山全体を指して使っていたものだが、 山内でも学侶、行人、聖の派閥争いが絶えなかった為、明治に入って分裂を解消し、 この寺院の名称を金剛峰寺とし、山の総本山として統一の象徴としたようだ。


正面玄関彫刻  右手前の袴腰付鐘楼の脇を通り、正面玄関の見事な彫刻を見て、右端の入り口で靴を脱ぎ中に入った。下駄箱にサンダルを入れ、 上に上がると、どうだと言わんばかりの大きな杉の年輪がいくつか飾ってあった。チケットを切ってもらい、写真は撮っても良いか 尋ねると、建物なら大丈夫とのことだった。


玄関透かし彫り  先程表から見た正面玄関を中から覗くと、丁度土間部分の壁をアラベスクのような規則的な透かし彫り模様が壁を覆い、外の光を 和らげて美しい。玄関を上がり、板張りの廊下に出ると、天井に竜のように伸びる何本もの海老虹梁が見え、それは 中世ゴシック教会のフライングバットレスのような躍動感を感じさせる。


廊下の海老虹梁  廊下から右の大広間を覗くと、そこには並ぶ襖一面に鶴が舞う姿 が生き生きと描かれ見事だ。これは狩野探幽の描いたものだが、 こういった巨大な書院造が成立した時代に武将達に気に入れられた狩野派の絵は、 やはりこういった空間に非常にマッチする。狩野派には当時豪壮な画風で安土城、大阪城、聚楽第と当時の大建築の内装を飾り、 秀吉お気に入りだった探幽の祖父、狩野永徳がいる。もし永徳がこの青巖寺でも障壁画を描いていたとすれば面白いが、 残念ながら青巖寺創建前に亡くなっている。その孫の探幽は早熟の天才として知られ、15歳で徳川幕府の御用絵師となり、 江戸時代の 画壇を狩野派が制覇する基礎を築いた人物でもある。探幽は祖父のように大阪城、名古屋城、日光東照宮などにも障壁画を 描いているが、この金剛峰寺と同様の巨大な書院建築である二条城の障壁画が恐らく最も有名なものだろう。 しかし、二条城のこれでもかといわんばかりのゴージャスさに比べると、こちらは鶴を描くライン や空間の取り方など表現に柔らかさを感じる。この襖絵を描いたのは、恐らく二条城造営より後なのだろうが、 この違いは年をとって人間が 丸くなったといった年齢的なものからくるのか、徳川の権勢を見せる二条城と高野山のような寺院の襖といったように 目的が違う為なのだろうか。 探幽は、目にしたありとあらゆる名画を鑑定、模写した 「探幽縮図」と呼ばれる膨大な画集を残しており、出来る限りのあらゆる画風を貪欲に吸収していたことがわかる。 そういったものを見ると、この人は目的に応じてかなり自在にそのタッチを変えることができたのではないかと思う。つまり、この 襖絵では意図的に柔らかい筆使いをしているのではないだろうか。 ちなみにその「探幽縮図」の中には、この高野山滞在中に模写したと思われる西方院本尊の「恵果阿闍梨像図」も含まれており、 探幽という人は、きっと絵画と見ると模写せずにはいられない情熱の人だったのだろうなと思わせてくれる。


正面玄関彫刻  その大広間の先にもやはり狩野派、狩野探斉の襖絵で飾られた部屋がある。説明には豊臣秀次が自害した「柳の間」とある。秀吉 の甥で跡継ぎとして関白にまでなった秀次は、辻斬りや比叡山で禁じられた鷹狩を強行するなど「殺生関白」と呼ばれた人物だが、 実子が誕生した秀吉に疎まれた上、謀反の疑いありとして、高野山に送られ、この部屋で切腹したのだそうだ。 ここまでなら戦国時代によくある跡目争いだが、秀吉は、秀次に関係する妻妾、子供ら30人を皆殺しにするという行為に出た為、 凄惨な事件として今に伝えられている。


袴腰付鐘楼と門  この柳の間には熊楠に関するエピソードがあり、自らの「履歴書」に、 友人であった高野山法主、土宜法竜を酔っ払って訪ねた時、 法竜の前で居眠りした上、垂れた鼻水を「蜂の子が落ちる」と拭いてもらったことがあり、その時たまたま訪れていた老婆に その場面を目撃され、あきれて数珠を手に拝まれた上に

洟たれし(放たれし)次は秀次自害の場

と、一句詠んで走り去られた、と書かれている。


 これはただの笑い話にすぎないが、熊楠は、この土宜法竜とはロンドン時代に知り合った後、書簡による交流が生涯続いており、 それらにいわゆる「南方マンダラ」が現れているように、熊楠の書簡の中でも最も価値があるとされている。

正面玄関彫刻  この土宜法竜という人物は、廃仏毀釈後勢いをなくした仏教界に危機感を持っていたようで、1893年にシカゴ万博を記念して 開催された シカゴ万国宗教会議に、日本仏教代表団の一人として参加している。その帰途ロンドンで熊楠と意気投合し、パリのギメー博物館で 仏教美術に関する仕事をした後、仏教発祥の地インド経由で日本に戻っている。熊楠の書簡を見ると、法竜は真言密教総本山の座主 でありながら禅に興味を持ったり、「履歴書」には「この法主は伊勢辺のよほど貧人の子にて僧侶となりしのち、慶応義塾に入り、 洋学をのぞき、僧中の改進家たりし。」と書かれている事から、単に真言宗の枠内で活動したのではなく、 日本仏教界というものを見ていた人物だった事が窺える。


 しかし、肝心の真言宗や仏教教義に関して熊楠に再三その間違いを指摘されているように、旧態依然たる組織の壁、特に教育の壁 はかなり厚かった ように見える。ただ、そういった熊楠の指摘や真言宗への批判をも受け入れ、帰国した熊楠に東寺に創設する高校の教師になる事 を依頼しているように、土宜法竜という人は、本質を理解する能力を持つふところのそうとう深い人物だったようだ。 法竜のふところの深さを感じる のは、法竜宛書簡の熊楠の宛名の変遷を見るとわかる。

 例えば、

明治二十六年十二月二十一日では、
 土宜法竜師へ  例のごとき難筆御推読下されたく候
                            南方熊楠啓

その3ヵ月後の明治二十七年三月三日は、
                            南方熊楠拝
 土宜法竜様

さらにその2週間後の明治二十七年三月十九日には、
 末弟
  土宜法竜様
                      旧称 二代目新門辰五郎事
                            南方熊楠大菩薩より
      予は仏教の相伝のときようを侠気上よりおしえてやったんだ。だから、新門辰五郎というなり。
となり、この手紙の文末には、
                         金栗(きんぞく)王如来
                            南方熊楠より
米虫ひょっとこ坊主
  土宜法竜様

となる。それから10年も経った明治三十六年七月十八日には
 子分 法竜米虫殿
                      金栗王如来第三仏
                            南方熊楠

 と、いうように最初こそ敬意を込めて書いているが、次第にほとんど人を馬鹿にしているとしか思えない書き出しで 手紙を出すようになっている。それにも関わらず、法竜は文面に対して反論したり、「パン虫」、「木葉天狗」などどやり返す事は あったようだが、やりとりを止めようとはしていない。もちろん、この愛すべき天才の書く奔放な書簡の本質的価値を認めていた為、 法竜自身にもメリットがあったのだろう。冗談の通じる仲だったということもできるかもしれない。 しかし、高野山法主という社会的地位のある人間が、地位や肩書きの全く無い、それこそ 乞食のような自称植物学者と生涯にわたって書簡のやりとりをするというのは、普通に考えればありえない事ではないだろうか。 そんなところに法竜の人としての大きさ、おおらかさや、熊楠自身も「柳田邦夫宛書簡」で書いているように、 法竜という相手あっての熊楠の哲学の発露、といったものも見えてくる気がする。


 熊楠は法竜との書簡の中で、数々の科学者を弾圧したキリスト教とは違い、「神意を説かずして因果を説く」仏教は その教義が科学とは矛盾せず、むしろ仏教の科学的側面をこれから 育てれば未来の可能性があることを説いている。特に、その仏教の中でも熊楠自身が信じる、仏陀をも越えた大宇宙を真理とする 真言宗の教義は、極めて大きな可能性を秘めている事を指摘している。この事は、現在の量子力学の世界で説かれる宇宙論と、 密教で説く宇宙論が酷似している事を考えれば、多分に示唆的な指摘だと思う。

 熊楠が真言宗を信仰していたのは、南方家が真言宗の門徒だったこともあるようだが、熊楠が追い求めた真実と真言宗の説く 真実が、曼荼羅という共通のモデルを介して一致するようになった事が大きいのではないだろうか。法竜との書簡を読んでいると、 南方家と高野山とのつながり、熊楠の世界を股にかけた無頼な研究生活、 その中での法竜との出会いと友情、そしてその書簡で姿を現す「南方マンダラ」と考えた時、ほとんど奇跡的な偶然の 重なりが、必然となり結晶化していく様子を見ることができ、書簡にある「何の気もなく、久しくやっておると、むちゃは むちゃながら事がすすむなり。これすなわち本論の主意なる、宇宙のことは、よき理にさえつかまえ中(あた)れば、知らぬながら、 うまく行くようになっておるというところなり。」という言葉を体現しているようで感動的だ。


 熊楠と生涯交流を深めた土宜法竜は、「蜂の子」をふき取った2年後に世を去り、その時が熊楠と会った最後となっている。

蟠龍庭  感慨に耽っていたら、時間があっという間に過ぎていく。時間が無いので駆け足で院内をまわるが、広い。見学者に振舞われるお茶 とお菓子のサービスの誘惑を振り切り、日本最大の石庭だという蟠龍庭(ばんりゅうてい)を通り過ぎる。空海の故郷、四国から 運んだ巨岩で雌雄の龍をかたどり、対称とさせることで金剛界、胎蔵界の両部曼荼羅を表しているそうだ。日本最大というだけ あって見事だが、密教寺院に禅宗に見られる枯山水庭園があるのも面白い。といっても枯山水の技法は、禅宗が全盛になる鎌倉時代 より前に記された「作庭記」にすでに書かれている事でもわかるように、禅寺の専売特許ではない。しかし、 この金剛峰寺自体が禅寺の様式 で建てられているのは、伽藍でみた平安貴族の世界から、武士の世に権力が移り変わったことを強烈に示しているようにも思える。

上壇の間  その先に、壁面に全面金箔を貼った「上壇の間」があった。天皇が山上に滞在する時に謁見の間として使ったのだそうだ。 全面金箔 というと悪趣味なイメージを持つが、外の光があまり強くないせいか、金と木部の色とが良く合っており、成金趣味というよりは むしろ威厳がありシックな印象を受けた。 秀吉が造ったという黄金の茶室も、利休に非難されたという話から成金趣味のイメージを持っていたが、この上壇の間を見ると、 実は我々が想像するものより趣味がよかったのではないかという気がしてくる。この部屋は、さすが天皇が座する場所だけあって、 上座の格天井には各格子に精緻な彫刻が施されており、同じ格天井でも彫刻のない下座のそれとは差が図られていた。


真然大徳廟堂  さらに順路をめぐると、突き当たりの先を見上げた所に小さな廟堂が見える。高野山二世真然大徳の廟堂だった。ここに寺院が 建てられる前に、この敷地にもともとあったのだそうだが、昭和63年に大徳の舎利器が出土して現在の廟堂が建てられたという。 この大徳は、空海が「御遺告」でじきじきに後継者として指名した人物で、高野山の伽藍完成に大きく貢献している。きっと この人は、宗教家というより実務家としての才能があったのだろう。しかし、大徳が完成させた伽藍は、正暦五年(994)の火災で その大部分が焼け落ち、僧達は山を捨てざるを得なくなった事もあったそうだ。恐らくこの頃までは、この高野山も謙虚に厳しい修行 をしていたのではないかと思うが、復興の為の経済的理由から呪殺祈祷も辞さない、より実益を重視する教義に変わっていき、 高野山中興の祖と呼ばれえる覚鑁さえ、権力争いから暗殺されそうになり、山を追い出されている。

庫裏の西瓜  廟堂を拝んだ後、順路を行くと、天井の高い薄暗い庫裏に出た。大きな釜が幾つも並び、水槽にはスイカが何個かプカプカ浮いていて 涼しげだったが、今でも金剛峰寺の台所としては使っているのだろうか。調理場の裏に、大きな飯炊き用の釜が3つあったが、 「二石釜」とわざわざ説明板が立っている。そこにある3個の釜で二千人分の飯が炊けるのだという。この金剛峰寺だけで 二千人分の食料が必要になる事は恐らく無かっただろうから、これは明らかに戦争時を想定して置かれていたのではないかと思う。 もっとも、秀吉に降伏した後の高野山は、戦に巻き込まれる事もなかったので一度にこれらの釜を使う事はなかったに違いない。 その庫裏の写真を撮った後、建物入り口に戻り、金剛峰寺を出た。


高野山霊宝館


 金剛峰寺を出ると、早朝の天気が嘘のように鈍い灰色の空が広がっている。寺の入り口脇に止めた自転車を見ると、 後輪の車軸から 何か紐のようなものが少し出ているのが見えた。さっきからカンカンうるさいのはこれのようだ。 後輪のスポークの隙間から指を入れて 紐を引っ張った。薄汚れた紐は、車軸に絡み付いているので外れにくくはあったが、 もう随分長い事車軸にからまったままのようで、思いっきり引っ張るとブチブチちぎれた。ちぎれる紐を何度か引っ張ると、 最後に金属製フックが付いた部分が外れてきた。 自転車の荷台にくくりつけるゴム紐の先っぽだった。何かの拍子に荷台から後輪に巻き込まれ、そのまま放っとかれていたのだろう。 手は自転車の油で黒くなってしまったが、カンカンいう音の原因が分かったうえにその問題が解決したので、 すっきりした気分で自転車にまたがり、壇上伽藍の外側を通る車道から霊宝館に向かった。

 高野山霊宝館は、金剛峰寺前の駐車場から壇上側にすぐ曲がった左にあった。道路からは少し奥まったところにひっそり 佇んでいるので、人によっては見逃してしまうこともあるかもしれない。道路から正面まで少し坂を登り、駐車場らしき所に自転車を 止めて、受付でチケットを切って貰い、靴を下駄箱に入れて廊下を奥に進んだ。

 廊下を左に曲がり展示室に入ると、まずは仏像達が出迎えてくれる。壇上の不動堂にあったという運慶の八大童子像をはじめ、 国宝、重文級の仏像達 がならんでいる。八大童子像は、春に国立博物館で既に一度見ていたが、やはりこれは高野山の文化財の中でも飛びぬけて優れている。

 まるでそこから風が湧き上がってきているかのように流れるすそや、どこかで会ったことがあるような童子達の写実的な表情を 改めてまじまじと眺めていると、後から初老の男性2人とそのどちらかの奥さんと思われる女性の3人組が入ってきた。 男性の一人が 仏像のうんちくを垂れながら八大童子像はすっ飛ばしてすたすたと仏像を見て回る。女性は、平安の特徴をした仏像の前で、

「あたし、この仏さんの顔好かんわ。」
 と、言うとすかさず男性が、
「そないなこと言うとるとバチ当たるで。」
 と、切り返していたのが可笑しかった。

 そもそも、この旅を思い立ったのは、以前から高野山の伽藍や「山上の正倉院」と呼ばれる高レベルの寺宝を一度見てみたい、 と漠然と思っていたところに、熊野、吉野と合わせて世界遺産に登録された話を聞いたのがきっかけだ。もっとも、高野山の寺宝は、 この春の展覧会で主要なものはすでに見てはいるが、それでもそれらが本来あった場所で見るのは、また想像力を刺激されて なかなか楽しい。

 とはいえ、この高野山霊宝館は、大正十年(1921)に、高野山の寺宝を火災から保護する目的で 新たに造られた建物なので、 正確にはそれぞれの作品がここに本来あったものとは言えない。しかし、現在この霊宝館に納められている収蔵品の中には、 もともと比叡山にあったという浄土教系のものもあるそうだから、本来の目的からさらにスケールを広げて、 日本の仏教美術の最高峰が集まっている施設ともいえる。

 最初、この霊宝館の展示室は、この仏像達がいる建物だけなのかと思ってゆっくり観ていたら、廊下に戻るとさらに奥に行く順路 表示がしてある。今観ていたところは新たに増設された建物で、ここからが本来の霊宝館の建物だった。つまり、まだ展示はある、 ということだ。そうと知っていればペース配分を考えたのに、と思ったが仕方が無い。曼荼羅や、狩場明神と二匹の犬に出会った空海 を描いた絵画を目に流し、サイケデリックな仏の後光の色使いにクラクラしそうになりながら急いで展示を回る。 しかし、ここにある展示物は いずれも一目見ただけでそのレベルの高さがわかるものばかりだ。これらは、代々の権力者に保護された高野山の経済力の証 でもあるのだが、それだけでなく、高野山がいかに人々を引き付ける求心力を持っていたかを示す証と見るべきなのだろう。

 展示の最後には現代の作品まであり、空海の開いた高野山の信仰が、紆余曲折はあったにせよ、 インドでおきた密教の原型を残しながら今に続き、そして未来へもつながっている事を感じさせてくれる。

奥の院


一の橋  霊宝館を出て自転車を見ると、サドルが濡れている。周りの木々や道路も濡れていた。この短時間に雨が降り、 また止んだらしいのだが、空には既に晴れ間すら見えていた。こんなにころころ天気が変わるのなら、確かにこの高野山を 切り開いたのは大変な作業だったろうな、と空海と弟子達が伽藍建設に苦労したことがわかるような気がした。

 時間がないので、奥の院まで続く車道を自転車で飛ばした。平日だというのに、道路は連なるバスや乗用車で 渋滞が発生しており、その道の並びの店は観光客で賑わっている。ここだけ見ると、高野山は宗教都市というより観光都市のようだが これらの商店も女人禁制の頃は、女性が入れなかった為、店の後継者は必ずしも経営者の血筋の人間ではなく、代々の番頭 が後継していたところもあったのだという。時々それらの店や、路上で「高野槙(こうやまき)」の枝や苗を売っているのを見かけた。 この槙の木は、高野山周辺に自生する木で、空海がその枝を花の代わりに仏前に供えたという言い伝えから、 高野山では仏前に高野槙の枝を供えるのが慣わしになっている。苗を一本欲しかったが、大きなものばかりだったので諦め、奥の院 への道を急いだ。伽藍から奥の院までは地図でみた感じより距離があり、道も渋滞していたので自転車があって助かった。


一の橋


 奥の院の入り口には、まるでここからあの世に入る事を示すかのように橋がかかり、 その奥に延々と杉の大木達に囲まれた墓地が続く。橋を渡ると道が左右に分かれていたが、山側の左手の道を進んだ。 この道の左手、山側の傾斜地にも巨大な五輪塔が立ち並び、所々滲み出した水が 流れている。じめじめした空気と、ここに入ったとたんにまとわり付いてくる蚊に閉口しながら奥へ進んだ。

 空海がこの地を”発見”した時は、恐らく周囲の峰々から湧き出し、流れ落ちる 水でこの盆地全体がこのようにぬかるみ、蚊が飛び回る鬱蒼とした森が広がっていたに違いない。その風景を想像すると、 ここに壇上で見たような 伽藍を建設するという発想は本当に途方も無い計画だったのだという事がわかるが、現在はそれをさらに通り越して正に ”都市”になっている事を考えると、継続する人の力の大きさを感じずにはいられない。


 この奥の院の道は石で綺麗に舗装されており歩きやすいのだが、斜面に並ぶ墓地は、場所によって崩れそうなところもあった。 ここに立ち並ぶ巨大な五輪塔は、そのほとんどが戦国から江戸時代にかけて権勢を誇った大名達のものだ。五輪塔は、宮本武蔵 の「五輪書」の構成の典拠となったものだが、もともとは密教経典である「大日経」に、「真言の修行者は、 世界を構成する五元素”地水火風空”を自らの身体に想起せよ」、つまり自分の肉体を宇宙そのものであるとイメージしろ と書かれていることに由来し、それを形にしたものだ。


町石  この五輪塔のデザインは、縦長に細くされた形で”高野山町石道(こうやさんちょういしみち)”と呼ばれる参道に、 一町ごとに立つ”町石(ちょういし)”と呼ばれる道標に使われている。 これは空海が道標として開山当初に立てた木製の塔婆を文永二年(1265)に鎌倉幕府が中心となって整備し、 石造りの五輪塔形のものに立て直したのだそうだ。この鎌倉時代の町石は現在でもかなりの数が残っており、 奥の院の道沿いに立っているものも鎌倉時代のそれで、苔むした姿に風雪を耐えてきた長い年月を感じ取ることができる。


市川団十郎墓所


市川団十郎墓所  ふと見ると「市川団十郎墓所」と書かれた表示が立っていた。これは五輪塔ではなく、いわゆる卒塔婆型の墓だ。まわりを 見ると普通の墓石もたくさん立っているのに気付いた。五輪塔は大名だけに許された墓石の形だったのだろうか。 この歌舞伎の市川家は、柿色の 地に三枡紋がトレードマークで、団十郎の他に海老蔵という芸名も持つ。この柿色と海老蔵の名は、市川家のルーツが 甲斐武田家の家臣であったことから武田の 赤鎧になぞらえて、柿色と海老という赤にちなんだ色を残しているのだといわれている。ちなみに柿色は、修験道では 山伏が着る鈴懸(すずかけ)という衣装の色として用いられており、柿色の衣を着ることにより行者が母体内で無欲解脱、 不苦不楽にあることを示すとされている。


 また、正にこの柿色に大きな白い三枡紋を染め抜いたモビルスーツのような衣装を着て、海老のような髪型の鎌倉権五郎が 演じられる市川家の代表的狂言、 歌舞伎十八番「暫(しばらく)」のせりふにもあるとおり、市川家は代々自称「成田不動の申し子」であり、 真言宗成田山新勝寺への信仰が深いことでも 知られている。この成田山は、空海が彫ったという不動明王像をここに持ってきて平将門の乱平定を祈願し、平定後 その不動明王像が「衆生利益の為にこの地に留まる」と言って動かなくなった為、 新勝寺を建てて祀った という由来を持つ。ちなみに新勝寺の開山、寛朝(かんちょう)は、熊野路を安陪清明と歩いた花山法皇が藤原氏の陰謀で出家 させられた時に立ち会った僧なのだそうだ。成田山は房総半島を紀伊半島と見立てたときに正に高野山と似た位置、条件の場所に あり、房総半島に熊野神社がやたら多い事が物語るように、半島の開発総仕上げとして新勝寺が建立されたのかもしれない。 団十郎の墓が”成田不動”のお膝元、成田山でなく高野山にあるというのも面白いが、この奥の院入り口近くには「暫」と同様 市川家の代表的狂言で、これも歌舞伎十八番「助六」のモデルとなった仇討ちの曽我兄弟の墓もあり、 両者が観光名所でもある奥の院の目立つ場所にあるのは、初代団十郎が死んでもなお観光客相手に大見得を切っているようで、 今に続く江戸のスーパースターに思わず「成田屋!」と声を掛けたくなる。


高麗陣敵味方供養碑


 諸大名の苔むした巨大な五輪塔や墓石群に混じり、第二次世界大戦の戦没者の供養塔や、中には秀吉が行った朝鮮征伐の 両軍戦没者 供養を目的とする島津家の「高麗陣敵味方供養碑」があった。この朝鮮征伐では、供養碑を立てた島津家そのものが朝鮮人を 奴隷として売買したり、当時茶道具として珍重され、日本に製作技術のなかった白磁製作技術を持つ朝鮮人陶工達を拉致し、 鹿児島に幽閉して薩摩焼という名で重要な輸出品としている。 それが現在まで続く伝統工芸品として製作されていることを思えば、この敵味方供養碑の存在は、現在とは価値感が違う時代の ものとはいえ、そこに立つ説明板の謳う「島津家の武士道精神の表れ」とは一概には思えず、かえって居心地の悪くなるような 複雑な気分になる。


明智光秀墓所  その朝鮮征伐の時代に成立し、秀吉に愛された茶の湯を我々は純粋な日本文化だと思いがちだが、その作法はともかく”名物”と呼ばれる茶道具や、 茶室そのものは圧倒的に中国、特に朝鮮の影響を受けている。現存する利休の唯一の作、そして究極の茶室といわれる 妙喜庵待庵(みょうきあんたいあん)には、最近の研究で朝鮮民家の影響が色濃く表れていることが指摘されている。 また、当時の茶人達は、”井戸茶碗”とよばれる朝鮮の素朴な飯茶碗を珍重し、その茶人風再現の試行錯誤から利休と長次郎によって 楽茶碗が誕生している。東京の静嘉堂文庫美術館で中国の窯変天目茶碗を見に行った時に、たまたま朝鮮の井戸茶碗と 初代長次郎の黒と赤の 楽茶碗が展示されているのを見たことがある。以前、どこかで初代長次郎の黒楽茶碗を見て、正に芸術品として作られている意志 を感じて「かっこいいなあ」と思っていたのだが、静嘉堂文庫で比較して見た時は、庶民の日用品として使われる事以外何も 考えられていない天真爛漫で力強く、悪く言えば無造作に造られた井戸茶碗の前では、楽茶碗の持つ芸術的意志はうさんくさい作為に 感じられてうざったく、井戸茶碗のほうに魅力を感じたことを思い出した。


豊臣家墓所  恐らく、利休もこの不作為の美に強く魅力を感じたのだろう。といってもこうした陶器は、当時の朝鮮では 傷物の出来損ないとしてガラクタ同然にされていたものであり、それを日本で茶人や大名達が珍重していたというのも面白い。 ”井戸”とは現在の韓国の”セミゴル”という町の名の漢字表記なのだそうで(現在の韓国では政策により漢字はほとんど 使われない)その名が正にルーツを示しているが、朝鮮征伐時に日本に拉致された朝鮮陶工は鹿児島だけでなく山口の萩にも連れて 来られ、 これも現在の萩焼に繋がっている。戦国大名達の茶の湯好きが高じて日本に拉致された陶工達には同情するが、現在の我々から見ても 茶碗に限らず当時の”李朝”時代の工芸品には、恐らく日本人には出せないおおらかな美しさがあり、とても魅力的だ。 日本の工芸復興運動 ”民芸”運動を起こした柳宗悦も、朝鮮の伝統工芸品の持つ美しさ、力強さに打たれたのがその運動を始めるきっかけであり、 茶碗に関しても”楽”より”井戸”の優位性を 度々説いていた事を考えれば、とかく狭い世界に閉じこもりがちな日本人は、この美しい工芸品を生み出した隣国に対する 憧れのような感情を、生まれつき自然に持っているのかもしれない。


石田三成墓所  井戸茶碗に見られるような傷やゆがみに美を見出す感覚は、ヨーロッパ美術史で言う”マニエリスム”と同様のものといってよい。 ヨーロッパ美術史におけるマニエリスムは、均整の美を追求したルネサンスの反動的美的価値感から発生し、 ミケランジェロの後期作品、例えばバチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画”最後の審判”に見られ るようなゆがんだ表現を特徴とし、そのままバロックという劇的表現に昇華していく。先に見た徳川家霊台で江戸の 初期文化がヨーロッパのバロック文化と同様に劇的で、同時代に成立したことに偶然の不思議を感じたが、 安土、桃山に成立した茶の湯もヨーロッパのマニエリスムと同様ゆがんだものに美を発見し、 バロックたる江戸の前時代に当たることを考えると、文化的時代循環の西洋との同時性に改めて不思議なものを感じる。


結城秀康、蓮花院石廟


結城秀康、蓮花院石廟  五輪塔や墓石が林立する中に突如立派な石造り の唐破風付入母屋造と切妻造の二棟の建物が並んでいる。結城秀康とその母蓮花院の廟堂だ。この廟堂は、 さっき見た徳川家霊台の奥の院版ともいえるが、 石に張り付いた苔がよりいっそう風格を醸し出し、五輪塔型の他の墓に比べると明らかに異彩を放っている。その形からは、 徳川家の格の違いを見せ付ける為にそこに存在しているという意図が見えるようだ。しかし、この秀康と母お万の方は、 父家康に冷遇され 、二人そろって養子として豊臣家、次いで結城家とたらいまわしにされている。その後お万の方がなくなり、秀康が切妻造の霊屋を ここに建て、 34歳で秀康が亡くなった時にその息子が入母屋造の霊屋を、母の霊屋によりそうように建てたというから、 必ずしもこれは徳川家の意図とは違うのかもしれない。むしろ父家康と弟秀忠の霊台より空海に近い奥の院に霊廟を建てることで、 生前と立場の逆転をはかったのだろうか。


織田信長墓所  観光ガイドの気の利いた冗談に笑う団体客を抜かして歩きながら、最初は大名達の風格ある五輪塔を「おお〜」と思いながら 見ていたが、そのうち江戸時代まで生き残れなかった 武将達の墓の扱いに明らかに差があることに気付いた。例えば高野攻めを決断し、多くの真言僧を殺害した信長の墓は、 同じ行為をした後、高野山復興に力を貸した秀吉に比べそっけなく造られている。さらに、現在でも戦国時代劇の憎まれ役として 定着している明智光秀や石田三成の墓は、場所も低く規模も小さい。光秀のものなどほとんどぼろぼろ、といった具合だ。 死後の世界とされるここにも後世の政治的圧力で、 その格差が形作られていることに少しおどろいたが、これが最終的に権力を握った徳川家の意図なのだろう。徳川家が高野山を 保護したのは、各大名の勢力をそぐ為にここに巨大な墓を造営させ、それに伴い莫大な金を寄進させることを 誘引する目的もあったようだ。 高野山側のいう「かつての敵もお大師様のお膝元では、皆平等に葬られている」という言葉を思い出し、 確かにそれは事実ではあるが、ここに並ぶ墓を見ていると、その裏の政治的、経済的な匂いもしてくる。 そういった格差に気付いてしまうと、墓に まで政治を持ち込み、「皆平等」などという奇麗事だけでは済まさない人の業のようなものを感じてうんざりしてくる。


御廟橋


御廟橋  目の前には、川に架かる石造りの橋が見える。川の名は「玉川」、橋は「御廟橋(みみょうのはし)」と言い、 ここから先は弘法大師空海が眠る聖域なので 写真撮影は禁止と書いてあった。この橋自体は新しそうだったが、橋とそれを構成する橋板36枚の計37は、金剛界37尊を表しており、 実際橋板の裏には36尊を示す梵字が彫られているのだという。これは、この奥の院そのものを金剛界曼荼羅と見立て、 先に見た壇上伽藍を胎蔵界曼荼羅とし、この高野山はその両部が統一された一個の巨大な曼荼羅、即ち宇宙であるという 思想を表現している。そう考えると曼荼羅に表現されている諸尊にランクがあるように、今まで見てきた墓に大小や軽重が見えるの は、曼荼羅の構成要素として至極妥当なのかもしれない。橋の途中から川を見ると、川面から木製の卒塔婆がまとめて 何本か立てられており、三途の川を渡っている人々を目の前に見ているようで何だか薄気味悪かった。


燈篭堂


 その先を少し行くと、石畳の正面に巨大な杉に囲まれて立派な入母屋造瓦葺の「燈篭堂」が見える。 ここはもともとこの奥にある空海が眠る「弘法大師 御廟」の拝殿として建てられたのだが、長和五年(1016)にお照という女性が「貧女の一灯」と呼ばれる燈篭を献じたことから 信者達が献灯する習わしが始まり、燈篭堂という名になったようだ。このお照の火は一度も消されることなく今も常明灯として 燃え続けているという。薄暗い堂内に入ると、天井にびっしり吊るされた燈篭があり、正面のお坊さん達がいそいそと働いている 場所から奥には上から下まで何段も重ねて灯篭が置かれていた。これだけの数の火を置く為当然といえば当然だが、この堂もコンクリートで出来て いるようだ。赤、金、黒のバブル時代の六本木でも思わせるような配色の堂内部を見るとあまりありがたみを感じないが、それでも 一体幾つあるのかわからないこの燈篭の数には今に続く弘法大師信仰を眼前に見るようで圧倒された。


弘法大師御廟


 燈篭堂から裏の「弘法大師御廟」につながる外の通路は後から後から続く人で混んでいた。宝形造の御廟は拝む場所から さらに高いところにあり、人が多いこともあってよく見えない。ここで祈っている人々は、奥の院を歩いていた時の観光客 然としたのんきな態度から一変して、熱を感じるほど皆一心に祈っている。団体客のガイドさんが説明の後 「真言を唱えて祈りましょう」と 言っている傍から今時のギャル風の娘を連れたお母さんが、娘と一緒に真言を唱えながら熱心に祈っている姿が印象的だった。


法然上人墓所  この御廟には空海が今でもそこに生きているとされ、その事自体が弘法大師信仰という真言密教とはほとんど別の信仰を生む根拠 となっている。この場所は空海が自らの死を悟った時に墓所として指定した場所で、釈迦入滅後56億7千万年後に現れるという 弥勒菩薩 と共に世界を救う為、それまでここで世界を見守っているのだという。「今昔物語集」には承和二年(835)の空海の死後放置 されていたこの場所を、曾孫弟子 にあたる観賢僧正が開けた時、まるで生きているかのように髪が伸び、服が傷んでいた為、頭をそりなおし、新しい服を着させた という話が載っている。その話から空海はこの場所で生きていると信じられるようになり、空海はここで死んだのではなく入定した のだと言われるようになったのだという。


 こういった死体が腐るでもミイラ化するでもなく、生前と同じ状態で残るという現象は、必ずしも眉唾というわけでもないらしく、 キリスト教カトリックでも「ルルドの奇蹟」と呼ばれる同様の事例があることが知られている。 これはフランスのルルドという村に住んでいたベルナデッタという女性の話だ。彼女は、1858年に村はずれの洞窟で 聖母マリアを目撃し、その場所を掘ると病に効く泉が湧き出した。 その後1879年にベルナデッタは35歳で亡くなるのだが、その死体は全く腐らず、生前と 同じ状態で保たれている為、聖書に書かれた時代以来の奇蹟だとされ、彼女は聖人に列せられて ルルドは多くの巡礼者で賑わう聖地となっている。この聖ベルナデッタの遺体は、フランス、 ヌベールの修道院に安置されており、 現在でも生前と変わらない姿でそこに横たわっているのを見ることができる。残念ながら聖ベルナデッタと違い、 我々は空海の遺体を見る事はできないが、 もし今昔物語集にある話が事実であれば、聖ベルナデッタと同様の現象がおきていると考える事ができるだろう。 空海が火葬された記録があると何かで読んだ気もするが、今でも高野山にはここで空海一人を世話する役割を持つ僧がいるそうだから 空海が弥勒と共に思索に耽りながら静かに56億7千万年たつのを待っていると想像するのも悪くない。但し、 地球は約50億年後に赤色巨星化した太陽に飲み込まれると推定されているので、惜しいところで 空海は自身の肉体を失ってしまうかもしれない。


 ここで唱える真言は知らなかったが、ともかく御廟で弘法大師にお参りした後、燈篭堂の脇を通り、 来た道とは別のわき道から玉川に向かって歩いた。 道沿いに蟻塚のようなピラミッド型の塚が数基並んでいる。無数の五輪塔を積み上げて造った塚で、この奥の院で新たな墓が造成される 度に掘り出された無縁墓を積み上げたものだった。誰がしたのだろうか、小さな五輪塔に帽子を被せたり、涎掛けが掛けられたりして いる。行きに見た巨大な五輪塔はそれはそれで迫力のあるものだったが、良くも悪くも現世の見得のようなものを 感じざるを得ない代物だったのに比べ、これら無名の小さな五輪塔群が積み上げられている風景からは、世界の終わりに全てを救う 為に現れる弘法大師、あるいは弥勒菩薩の少しでも近くにいたいという人々の純粋な想いが積み重ねられているように感じられる。 恐らくこういった感覚が、平安末期に流行した浄土信仰を高野山が素直に受け入れる素地になったに違いない。この御廟周辺の地域 は、空海以前の飛鳥、奈良時代をはじめとするかなり古い時代の信仰を示す遺物が出土しており、もともとこの場所にあった来世に 向かう信仰に空海が乗っかって入定した為、人々の想いがさらに増幅されて現世浄土的な場所になっていったのでは ないだろうか。


 脇道から玉川に戻ると、ここにある橋の周辺は護岸してあり、川に向かう階段を降りて向こう岸に立つ不動明王に向かい、 水行が出来るようになっている。実際に行をしている僧はいなかったが、橋を渡った向こうに立つ地蔵像には多くの人が線香を ささげ、水をかけて、まるでここにさまよう霊を慰めているかのようだった。ここには社務所があり、 ちょっとした休憩所のようになっていたので トイレに寄り、ここから奥の院入り口までの道を戻った。行きには気付かなかった法然や親鸞など浄土宗の僧達の墓もあり、 この高野山で 浄土宗が盛んだったことを物語る良い証拠となっている。本当はこの奥の院にあるというロケット供養塔など現代の 企業が造った変り種の墓も見てみたかったのだが、急いで歩いていたこともあってどこにあるのかわからないまま入り口の一の橋に 戻った。


苅萱堂


 奥の院から戻る途中、道沿いに「刈萱堂(かるかやどう)」がある。少し時間がありそうなので、中に入ってみた。この刈萱堂は、 高野聖が諸国で語った説話「石童丸物語」ゆかりのお堂だ。その物語は、出家した父「刈萱道心」を探し高野山に来た息子の石童丸 が、同行した母の死をきっかけに出家し、父と名のらない刈萱道心と共に仏道修行した、という話だ。

 ここは巡礼のお堂らしく、土足でまわれる堂内を歩きながら壁に並ぶ「石童丸物語」を描いた額を見ることが出来る。 もっとも期待していた物語の 額は、それほど大した価値のあるものではなかったので時間のこともあって駆け足でぐるっとまわって道に戻った。

金剛三昧院


 相変わらず車で混んでいる道をさかのぼり、店が並んでいるあたりに戻った。丁度昼時でどこも混んでいる。

「どこかで豆腐料理でも・・・」

 という考えが頭をかすめたが、あいにく時間がない。高野山で豆腐といえば、”高野豆腐”がすぐに 思い浮かぶが、江戸時代の料理本「豆腐百珍」を見ると「凍(こごり)豆腐」の項に「または高野豆腐という。」とあって、 高野山が ルーツではないような印象を受ける。しかし、高野豆腐は江戸後期には既に「氷豆腐」として高野山名物になっていたようなので、 豆腐を凍らせる製法といい、高野山が発祥地だという説には説得力がある気がする。

 もっとも「豆腐百珍続編」の「腐乾(ろくじょう)」には、 六条豆腐のことをやはり「俗に 六条という。」と書かれており、こういった当て字風に名を付けるのが江戸の粋だったのだろう。 そう考えてみれば、一般に”高野豆腐”と呼ばれているものを洒落て”凍豆腐”と書いたのかもしれない。 ちなみにこの「腐乾」の項には、高野山独自の 六条豆腐の作り方が紹介されていて、当時から高野山の僧たちがグルメだったことを彷彿とさせる。 一時は高野山の主要輸出品だった 高野豆腐は、豆腐生産の工業化の波に押されて現在は山内では生産しておらず、”高野”という名のみが往時を想像させて くれるだけだ。

金剛三昧院の門  その通りの途中を左に曲がり、細く急な坂道を上った。道の途中は工事中だったので、路面はぼこぼこで走りにくい。 その坂道を上ったあたりに 塀越しに古びた多宝塔が顔をのぞかせている。古びた門をくぐり、中に入ると正面奥に続く石畳の先に入母屋造りの本堂、 右手に唐破風付の玄関がついた立派な本殿、そして 左手奥には外からも見えた古びた多宝塔が建っている。この寺院は「金剛三昧院」という。 源頼朝の妻政子が出家して二位禅尼となった後、以前建立した「禅定院」に亡き夫と 息子実朝の菩提を弔う為に多宝塔を建立し、寺院の名を「金剛三昧院」に改めたのだそうだ。面白いのは、その菩提 供養をとりおこなったのが禅僧であり、禅僧が管理するこの寺院が密教学を起こしているということだ。おそらく、当時の新興仏教 であった”禅”は現在のような位置や教義がまだ確立しておらず柔軟で、真言密教の総本山に禅僧を置いて密教を研究させるという ようなことを許容することができたのではないだろうか。


金剛三昧院境内  境内左手に諸堂とは少し離れて立つ多宝塔を見ると、首が細く、壇上伽藍で見た大塔のボテッとしたスタイルに比べると 随分軽やかだ。 国宝にも指定されているこの塔は、日本で2番目に古い多宝塔で、最も古い石山寺のそれより本来の姿を示しているといわれている。 近づいてみてみると、柱や組物、蛙股などの装飾がシンプルで、確かに平安の面影を残しているように見える。ただ、 柱の朱ははげ落ち、建物全体が古びたというよりほとんど痛んでいるという印象を受けた。素人目で見ても、 修復が必要なレベルまで痛んできているのがわかる。きっとこういった古建築の修復は莫大な費用が掛かる為、 国宝といってもそう簡単にはいかないのだろうが、天下の高野山が擁する国宝をこんなボロボロの状態で放っておいて 良いのだろうかと思ってしまう。


金剛三昧院多宝塔  遠くから見る多宝塔の姿に見とれているとまた時間が経ってしまった。この金剛三昧院には、多宝塔 の他に重要文化財指定されている建物が3棟もあり、高野山の諸寺院の中でもこれだけ文化財建築が集中している所は他に無い。 これでは維持管理するのが大変だろうなぁと寺の経営をする住職の苦労が少しだけわかる気がした。

 他の建物もゆっくり見たかったのだが、時間が無い。残念だったがそれらはさっと見て、 本堂で頼朝の信仰が厚かったという愛染明王にお参りして寺を後にした。



高野山YH  ぼこぼこの坂道を下り、ちょっとだけ遠回りをして壇上の美しい不動堂をもう一度見てからYHに戻った。荷物は玄関に 置かれっぱなしだったが、自転車を借りた礼と荷物を預かってもらった礼を言おうと奥に向かって、

「すみませ〜ん!」
 と何度か呼んだが返事はない。仕方がないので大声で礼を言って、 昨日降りたバス停に向かった。


ジシバリの花  坂道を下った高野警察署横の道端にジシバリの花が咲いていた。この草はどこにでもみられる雑草だが、 ちいさなはっきりした形の黄色い花はよく目に付く。

 バス停に到着すると若いアベックがバスを待っていた。彼らと少し離れて立っているとぽつりぽつり小粒の雨粒が落ちてきた。 バス停には幸い屋根があるので少々の雨は心配ない。

 調べておいたバス時間にはまだのはずだが、観光客を一杯乗せたバスが向こうからやってきた。どうやら臨時増発便のようだ。 ぎゅうぎゅうのバスに大きなザックを持って乗るのはなんだか気が引けたが、電車の時間を考えると悠長に1本次のバスを 待つわけにもいかず、人を押すようにして無理矢理乗り込んだ。


高野山ケーブル


 乗客はそのまま高野山駅までほとんど増えも減りもせずに乗って行き、さらにそのままケーブルカーに乗って下界に降りていく。 昨日高野山に到着したのは夜だったのでケーブルカーからの風景は全く見えなかったのだが、下りながらで改めて外を見ると、 昨夜登ってきたのは ほとんど断崖絶壁といってよいほどの急斜面だった事に気付いた。ケーブルカーでないとたどり着けないと考えれば、まあ、 当然といえば当然なのだが、こういった乗り物がなかった時代、それこそ空海がこの山を開いた頃を想像すると、 本当に下界と隔絶された別世界だったに違いない。恐らく空海は現在のようなほとんど観光地と化してしまった姿を想像だにしていな かったことだろう。

橋本駅


 ケーブルを降りてからそのまま南海高野線に乗り、橋本まで行った。そこからJR和歌山線に乗り換えるのだが、橋本では、 駅を出て改めてJRの改札を通る必要もなく、構内のホームを移動するだけでJR線に乗り換えられるので 吉野口までの切符も買わずに電車を待った。時刻表を見ると、次の電車まで30分ほどある。 のんびり座って待っていたが、ふとみると駅の改札口付近に弁当屋のような店が見えたので行ってみた。柿の葉寿司を売っていたので 750円のものを買った。なにか飲み物をと思ってホームのベンチ脇にある自動販売機でお茶を探したがなかったので、やむなく レモンティーを買った。

 寿司にレモンティーはさすがに合うとはいえなかったが、吉野名物という柿の葉寿司は、初めて食べたがなかなか旨かった。 これは いわゆるサバ寿司だが、それを一つ一つ柿の葉でくるんである。柿渋は防虫防腐効果があるそうなので、 きっと柿の葉にも殺菌保存作用があるのだろう。

 ホームは高校生の男の子とおじさんと自分の三人だけで、実にのんびりしている。久しぶりにまともな昼食を食べたことも あって、電車を待つ間ホームで風に吹かれながら田舎駅の風情を楽しんだ。

吉野口駅


 吉野口までの電車はいわゆるワンマン電車で、運転席の後ろにバスと同様の清算機があり、主要駅でしかドアも自動で開かない。 乗客は地元の中学、高校生が多かった。なるほどこういうシステムで最後に電車賃を払えばよいのか、と納得していたら、 降りる吉野口はドアが全開の駅だった。電車賃を払わなくて良いのかなと思いながら、近鉄吉野線の乗り換えホームに行き、窓口で 駅員に声を掛けた。

「あの〜、下市口までの切符買いたいんですけど。」
 人の良さそうな駅員は、
「あぁ、電車すぐ来るから車内で清算してください。」
 とのんびり言った。言われたそばから目の前のホームに乗るべき電車が入ってくるのが見える。
「いや、橋本からここまでのJRの分のお金も払っていないんですが・・・。」
 と言うと、駅員はとたんに大慌てで、
「えっ、そうなんですか?それは清算しないと。えーと、ちょうど400円ですね。」
 財布を見ると、こういうときに限って一万円札しかない。
「あのう、大きいのしかないんですが・・・。」
 人の良さそうな駅員はさらに大慌てで、
「えっ、細かいのないんですか?ちょっ、ちょっと待っててくださいね。」
 一万円札をつかんだ大慌ての駅員は、窓口奥まで急いで行き、バタバタしながら両替をして窓口に戻ってきた。 そのままお釣りを鷲づかみにこちらに手渡し、
「はい!お釣り9,600円です。近鉄線は車内で清算して!電車出ちゃうから急いでください!!」

 急いで礼を言い、階段を駆け上がって電車に飛び乗った。車内は空いており、座る事ができた。こちらも乗客は学生が多かった。 電車が発車してしばらくすると、車掌が車内をまわってきたので、そこで下市口までの切符を買った。

 下市口駅の改札を出ると、大峯登山や洞川(どろかわ)温泉で利用客も多いだろうに、駅前には実に何もない。 やっているのかいないのかよくわからないおんぼろの店が一つ目に付くだけだった。まあ、このさびれた感じも風情があって 良いか、と思っているとバスが来た。

 バスの乗客はほとんどが地元のおばあちゃん達で、皆初老の運転手と顔見知りのようだった。途中で乗ってきたおばあちゃんは、 降りる駅を通過してしまったようで、

「ちょっと、ちょっと、ああ過ぎちゃった。ちょっとここで降ろしてくれない。」
 と、停留所でもなんでもないところで降車を要求し、運ちゃんはこともなげに、
「はいはい、ちょっと待ってねえ。急に止まるとあぶないから。」
 と言って、適当なところでおばあちゃんを降ろしてあげるのだった。

 道中もおばあちゃんが一人、運ちゃんと どこどこさんちのだれべえさんがどうしたといった他愛無い話をひたすらしていたりして、このバスが路線住民の文字通り足と なって親しまれていることがよくわかる。

 下市口から今日泊まる天川川合まで、バスはほとんど川沿いの道を走る。それも一本の川に沿って走るのではなく、火野川、 長谷川、笠木川と幾つもの川筋を通っていく。それだけこのあたりの山間の地形が複雑で、バスもかなりの山奥まで 走っているということなのだが、それでも長谷川までは 道路沿いに人家が結構あって、割り箸の無人販売所などという珍しいものが林業の盛んな地であることを教えてくれる。

丹生


 その長谷川沿いの道に「丹生(にう)」という停留所があった。この丹生とは正に高野山の壇上にあった丹生明神の丹生のことで、 ここに”丹生川上神社”がある。この神社は「日本書紀」の神武東征譚に、「夢のお告げにより 敵陣の天の香具山から取ってきた土で祭器、瓦をつくり、丹生の川上で天神地祗を祀った」とあることを由緒とする古社で、 また古すぎて どこが当初の神社だったのかわからなくなった為、現在”丹生”と名の付く神社は上、中、下と三社ある。長谷川沿いにある神社は、 その中の下社にあたるのだそうだ。

 この神社は雨乞いの神としても 古来有名だったようで、「続日本紀」の天平宝字七年五月の記述に黒毛の馬を奉納したとある事から、 祈雨には黒馬、祈晴に白馬を奉納する慣わし になったのだという。丹生神社が祈雨と祈晴の霊験があるということからは、空海が祈雨法を使って神泉苑で降雨祈願を成功する ことができたという事実との関連も考えられる。これは、空海が御遺告で言っているような 高野の地を丹生明神に譲ってもらったということだけでなく、例えば丹生神社に伝わる祈祷法も伝授されていた、 といったようなより密接なかかわりを示唆するものだと考えることもできる。

天ノ川


 丹生を過ぎた先から笠木川沿いの道に入るといよいよ山深くなってきて、ここまで来ると地元の乗降客はほとんどおらず、 バスの乗客も皆洞川温泉に行く観光客のようだった。 川沿いの道から長いトンネルを2本抜けた先の交差点手前が、目的地の天川川合停留所だ。乗客は皆洞川温泉に向かうものと 思っていたが、自分のほかに3,4人バスを降りる人がいた。バスを降りると目の前に観光案内所がある。ここはその地名が示すと 通り、目の前を流れる天ノ川に周囲の山の峰々から水が滔々とそそぎこんでくる場所だ。

 なぜ地上にあるのに天ノ川なのか?と川の名前に疑問を感じるが、旧暦の七夕の日にこの川の流れが天上の川の流れと一致するから ついたのだという説が一般的だ。この天ノ川沿いをここから少し下った所には天ノ川温泉があって、川合でバスを降りた人達は皆 その天ノ川温泉に行くようだった。その天ノ川温泉のある場所には天河神社があり、ここが今朝高野山で登った弁天岳に祀られる 天川弁天の本家本元だ。さっき通り過ぎた丹生とこの天河神社、そして天ノ川の源流をたどっていくと修験道の聖山大峯こと 山上ヶ岳がそびえている。天河神社周辺は、現在でも霊感をくすぐるパワースポットとして有名なのだそうで、 神社には千日修行をしたという空海の足跡も残っている。さっきの丹生といい、 どうもこのルートは空海が若き日に雑密修行した地域のようだ。 おそらくその修行の過程で高野の地の情報を得、吉野近辺の雑密の影響が少なく、かつ霊感を得られる修行地として 高野山に密教正統派として真言密教の道場を開いたのだろう。

天川ユースホステル


 バス停から天ノ川沿いを左に曲がり、民家が並ぶ小さな道を少し行った先に青い壁の建物があった。その隣には小さな神社が見える。 その青い建物が今晩泊まるYHで、 外では男女2人がなにか作業をしていた。もう夕方なので空はだいぶ暗くなり、風も出てきた。空を見上げると、 ぽつぽつ星が見える。YHの入り口を入ろうとすると、作業道具を片付けていた外の若い男性が声をかけてきた。

その男性が宿の主人で、金を払った後、手持ちのコンロで自炊できるか訊ねると、

「うちの駐車場のとこでしてもええよ。」
 と言ってくれた。

 その後、1階の風呂と、2階の洗面所、そして奥の部屋を案内され、
「お風呂は何時頃入ります?」
 と、聞かれたので、
「適当にシャワー浴びますから湯は沸かさんでいいですよ。」
 と答え、部屋に入った。

 部屋で荷物を整理した後、通り道にあった酒屋で500ml缶の発泡酒を買った。YHの駐車場に自炊セットを持って行き、 前の駐車場から持ってきた石を椅子代わりにして、ヘッドランプの明かりを 頼りにコンロに火をつけ自炊した。見上げると、夜空には星が広がっている。星の数の多さに天川とはよく言ったものだなあと 思っていると、 風がみるみる強くなってきて、雲が広がってきた。レトルトご飯に缶詰、そしてラーメンの相変わらずの食事をしていると 強い風に混ざって雨粒まで落ちてきた。建物のキッチンからは、こちらも丁度夕食のようで先程の男性と女性の話し声に混ざって、 換気扇からうどんか蕎麦汁のようなだしのきいた良い香りがしてくる。風雨が強くなってきそうなのでさっさと夕食を済まして 部屋に戻り、食器を洗ってからシャワーを浴びた。

 風呂場から出てくると、ホストの男性が、
「コーヒー入ったから一緒にどうです?」
 と、声を掛けてくれので、
「じゃあ、いただきます。」
 とキッチンに入った。若い女性がいて、付けっぱなしのテレビでは巨人戦をやっている。

 コーヒーを飲みながら、他愛のない話からいつしか旅の話題になって、女性が話に乗ってきた。この女性は旅行好きが高じてこのYHで手伝いのアルバイト をしにきているということだった。話してみるとぽわわんとしたのんびりした性格のようで、ホストの男性と 良い対照をなしている。明日自分が山上ヶ岳に行く話しをすると、ここにも山開きの行事を見るために泊まった客がいた事を 話していた。明朝4時過ぎに出発する予定だと言うと、

「じゃあ、玄関の鍵開けっ放しにしといてええよ。」
 と快く言ってくれた。

 コーヒーを飲んでから部屋に戻り、明日の用意をして布団を敷き、携帯電話で目覚ましタイマーをセットして寝た。 起床が早いので緊張しているのかあまりぐっすり眠ることはできず、うとうとしながら夜半に強くなってきた 風雨の音を意識していた。





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