9月10日(金) 田辺・白浜

 朝起きて外を見ると曇りだった。そのうち晴れるかな、と何となく希望的観測を持ちながら顔を洗い、荷物をまとめた。昨日 宿の人に言われた通りシーツを談話室のカゴに入れ、ザックを預けた。預けたと言っても 宿の人が見ている訳でもなく、 談話室の入り口に鍵が掛かっている訳でもない。昨日荷物を預かって欲しいと言ったら、ここに置いておけと言われたので そうしたのだが、きっとこの状態が預けたという事なのだろう。

 車庫の片隅から自転車に只引っかかっているだけのチェーンを外して市内に出た。昨日通った道で見つけたコンビニ で、朝食用のおにぎりとお茶を買い、まずは海沿いの道に出る。車道と海岸に挟まれた遊歩道には、 緑地帯を兼ねた公園が付随しており、 まだ朝8時台という事もあってかジョギングや犬の散歩をする市民が多かった。

 この海岸は、扇が浜という名の通り扇形の湾が広がっている。壇ノ浦の戦いに挑む熊野水軍は、ここから出発したのだと言う。 確かにこの地形は、船が集結するのに丁度良さそうで、かつてこの湾一杯に軍船が並んだ古の姿を想像することができる。

 海沿いの道を行くと会津川の河口に出る。丁度今は引き潮のようで、河口に浮き上がった浅瀬に鵜やミサゴだろうか、猛禽の鳥 達が魚を狙って群れ集っていた。そのまま川沿いを遡り、橋を渡って稲荷神社を目指した。


高山寺


 地図を頼りに自転車を漕いでいるのだが、どうも目印となるスーパーが見つからない。通り過ぎたのかと思って道を 戻ってみたが、 見つからないので道沿いの店先で話し込んでいたおじさん二人に尋ねてみた。

「稲荷神社?そりゃ全然方角が違うわ。わしもよう知らんけど高山寺の方やからこっちの方やないよ。」
 と、言われたので、一先ず高山寺を目指す事にして道を教えてもらった。

高山寺山門  会津川に戻り、教えて貰った道から再び川を遡った。川を横断する広い車道を渡り、線路の下を潜って細い道を行くと高山寺に出た。 立派な門の前に自転車を止め、門の先に続く石段を登った。石段の隙間から、何かカサカサ音がして赤いものが逃げていく。 見ると、石段のそこかしこからカニが顔を覗かせている。


高山寺のカニ  熊楠の「本邦における動物崇拝」蟹の項に

「紀州の人家、戸口に平家蟹、麒麟貝、コバンウオ等を懸けて、邪鬼を禦ぐことあり。」

とある。ここのカニが平家蟹なのかどうか分からないが、すばしっこくて捕まえるのはなかなか難しそうだ。



多宝塔  石段を登りきると、美しく整備された伽藍が広がる。高野山と同形の多宝塔が立っているのが印象的だ。その多宝塔の前に、地元 のお年寄り達が集まって、ラジオに合わせて体操をしている。

 高山寺は、多宝塔が示すとおり弘法大師を開祖とし、聖徳太子にも縁があるという由緒ある真言宗の寺だ。 境内は、会津川沿いにある小山の頂上にあり、ここから田辺 市内を望む事ができる。この境内からは縄文時代の貝塚も発見されており、この山も新宮の蓬莱山と同様、古代から信仰を 持たれてきた山なのではないだろうか。


松に着生するシダ  また、田辺に居を構えた熊楠は、この神社林で穏花植物の採集をしており、彼が情熱を注いだ神社合祀反対運動は、 この高山寺境内にあった 日吉神社合祀がきっかけになっている。墓地には熊楠の墓もあるという事だが、訪れた時はその事を知らず、 墓参りは出来なかった。


境内の猫  境内の奥には池に浮かぶ宝形造の古いお堂があり、その池の畔に腰を下ろして持ってきたおにぎりを頬張った。 小さな池の反対側では、 猫が虫かなにかを狙って身構えている。池に浮かぶ蓮の葉の上では、蛙がのんびり日向ぼっこをしていた。


池の蛙  おにぎりを食べ終わり、改めて境内をぐるっと回ってから石段を下り門を出た。その門の向かいにある店の人に声を掛け 、稲荷神社への道を尋ねると、先程通り過ぎた広い国道沿いの山にあると教えてくれた。店の人に礼を言い、自転車で川沿いの道を 戻り、国道に出た。広い道沿いの大型スーパーを通り過ぎた先にそれらしき山に上る道があったので右にまがり、坂道が始まる 手前の民家の庭先にいたおばあちゃんに声を掛けた。


稲荷神社


稲荷神社 「稲荷神社に行くのはこの道でいいんですか?」
「ええ?なんだって?」
 耳が遠いらしいので、もう一度大声で尋ねると、
「ああ、そうです。この道上って行った先の学校曲がったとこです。」

 と教えてくれた。 大声でお礼を言って坂道を登った。かなりの急斜面だったが、何とか自転車を降りること無く漕ぎきった。小学校脇の道を右に 曲がるとこんもりした森が見える。その森の手前にある鳥居の脇に自転車を止め、参道を上った。



稲荷神社参道  参道の左にある森が、「山麓または谷間または低原の神社にのみ生を聊(りょう)するもの多し。」と熊楠が 例に挙げている「当地近き稲荷村の稲荷社の神林」だが、当時 から既に林内を掃除する事による腐葉土の減少で、「毎年、樟、柯(しい)が枯れ行く」と書かれている。

 現在この森は、田辺市の天然記念物として保護されているが、神社の 説明板には、林内の乾燥化でかつて程豊かな状態ではない、と書いてあった。乾燥化の原因は地球温暖化もあるのだろうが、さっき 通った国道沿いの山は、造成により切り崩されていたので、恐らく周辺環境の変化によるものが大きいのだろう。


狛狐  神社の門を潜り、境内に入ると、朱の鳥居が縦に並んだ先に、狛狐に守られた拝殿付連棟造の社が見える。 屋根は銅葺だが、千木と鰹木が 乗った立派なものだ。説明には、ここ伊作田の人々は神武軍と共に土蜘蛛八十建征伐に加わり、大和平定時にこの山に 天照大神を祭った、とあるからかなり古い由緒ある神社 のようで、今に残る棟札の最も古いものは明応九年(1500年)を示しているという。



賽銭箱の紙  神社に参拝しようと、続く鳥居を潜り、拝殿に出ると賽銭箱の手前に「さわるな 警察」と、どう見ても警察が書いた とは思えない、マジックで手書きした紙が置いてあり、笑ってしまった。


稲荷神社の杜  参拝して神社とその横に広がる森の雰囲気を堪能した後、急坂を自転車で滑り降り、再び国道に出た。先ほど通り過ぎた 大型スーパーの敷地内に家電店があったので、SDカードを買う為に中に入った。店員にメモリーカード売場を教えてもらい、あと 3日分持たせるため250Mbのカードを買った。レジから店を出ようと歩いていくと、店員が走って追いかけてきたので何かと 思ったら、自分が持っているのは空箱のみで中身が入っていないので交換させて欲しい、という事だった。 中身を確認すると、確かに空だったので気が付いてくれて良かった。


南方熊楠邸


 店を出た後、市内に戻り南方熊楠邸を目指そうと、持ってきた筈の地図を探したが、どうやら宿に置いてきたザックに入れてきて しまったらしく見つからない。市内で何人かの 人に南方邸の場所を聞いたが、

「ああ、聞いた事あるなあ。」

 とは言うものの、誰もはっきりした場所を知らなかった。 3人目に聞いた商店街の 人が言う 「あっちら辺」に行き、道行く人に尋ねると

「ああ、近くらしいな。でもわしも大坂から単身赴任で来とるから場所知らんのや。 そこに博物館あるからそこで聞いてみて。」

 と言われた。見るとすぐそばに「田辺市歴史民族資料館」と書かれた建物が建っていた。 一見すると民家かと思って通り過ぎていたのだ。

 自転車を降り、資料館に入ったが人がいない。高山寺貝塚の出土品なども展示 してあるようなので、そのままぐるっと館内を見ても良かったのだが、白浜行きの電車時刻を考えるとそんな余裕もなく、

「すみませーん。」
 と、大声で職員を呼んだ。返事がないのでもう一度呼ぶと奥の方から
「はーい。」
 と、返事が返ってきた。 急いで出てきた女性職員に
「南方熊楠邸がこの近くだと聞いたんですけど。」
 と、尋ねると
「うーん、説明しずらいなあ。南方邸を探すにはあまり役に立たないんですけどねえ。」
 と、言いつつ田辺市の観光地図をくれ、
「ピンクの壁が目印ですから。」

南方邸のピンクの壁  と、丁寧に 道を教えてくれた。観光地図には「旧南方熊楠邸」という印と説明がのってはいるが、細い路まで書かれておらず、「あっちら辺」 しか分からない為、確かに実質役に 立たない。女性職員の説明通りに道をたどると少し汚れた古そうなピンク色の土壁が通り沿いにあり、門の脇に説明板が 立っていた。


南方邸表札  門の脇には「ただいま庭内を公開中です」と書かれていたので邸内は非公開だと分かり残念だったが、 門に掛かった「南方」という表札を見て何だか妙に感動した。

 南方熊楠というこの変わった名前を始めて知ったのは、1990年代に中沢新一や荒俣宏らにより一種ブーム のようになった時期だが、その頃は新聞などで騒いでいるので「なんだかすごい人らしい」くらいの意識しか持っていなかったし、 浅田彰と共に「ニューアカの旗手」などと騒がれていた頃の中沢新一には、「今をときめくオシャレな宗教学者」 というイメージになんだか胡散臭さを感じて、あまり良い印象を持っていなかったので、あえて本を手に取る事もしなかった。

 むしろしばらくして、熊楠を題材に山本政志が映画を撮る話があり、以前見た山本の監督作「ロビンソンの庭」が 面白かったので、その映画のほうに興味があった。結局山本の映画は資金繰りが上手く行かず中断されたと新聞 で報道されていたが、残念ながらその後完成したという話を聞かない。

 改めて熊楠を知るきっかけになったのは、昨年亡くなった母方の祖父の葬儀の為秋田に行った時、祖父の書棚から平凡社 刊の「南方熊楠選集」を見つけ、写真、本好きだった祖父らしいコレクションから、「木村伊兵衛写真全集」や、 石元泰博の美しい写真に丹下健三が文を書いた 「桂」、地元湯沢の郷土史書、司馬遼太郎の文庫本などを貰い、共に持って帰った時の事だ。 その時見逃したのかもしれないが、 本棚には何故か熊楠の代表作「十二支考」を収めた選集1,2巻が抜けており、持ち帰ったのは3巻以降のものだった。


 家に帰ってからもしばらくは本に目を通す時間が無かったが、一度ページをめくり始めると、 バケツからぶち撒かれた水がそのまま沸騰するかのような情熱的な文章と、怒涛のように 押し寄せる膨大な知識の量に唖然とし、すぐに彼がいわゆる天才である事を理解した。

 最初はこの天才の勢いに圧倒され、驚きながら読んでいたが、古今東西のあらゆる事象を多角度から可能な限り 均等に観測する事により普遍性を見つけ出すという 思考方法に共感を覚え、所々挟まれる彼の愉快なエピソードに南方熊楠という人を好きになった。

 彼が書いた中で、最も好きなエピソードは「諸君のいわゆる山男」にある、採集を終えた帰りの山道を、 助手をしていた文吉という樵と共に補虫網を両肩に、大声で叫びながら丸裸で駆け下りた件だ。


「熊野川という小字の婦女、二十人ばかり田植し ありが、異様の物天より降り来たれりとて、泣き叫び散乱す。小児など道に倒れ起き上がることあたわず。小生ら二人、かの人々 遁ぐるを見るに画巻のごとくなるゆえ、大いに興がり何のこととも気づかずますます走り下る(その処危険にて岩石常に崩れ 下るゆえ、足を止むれば自ら大怪我するなり)。下まで降り著きて田植中の様子に気づき、始めてそれとわが身を顧み、その異態 にあきれたり。」
 にも拘らず彼らはそのまま調子に乗って田辺まで行ってしまうのだ。
「村の人々狂人二人揃うて来たれりと騒ぐ。」


南方熊楠邸の楠  この天才は、奇人としても地元ではかなり有名だったらしいが、その奇行ぶりも明るくて、どこか愛嬌がある為なんだかんだ 言われながらも彼は素朴な熊野の人々に愛されていたようだ。彼の著作を読んでいると、そういったエピソードや、暴走しまくり 何処に行くのか分からない文章に、その奇人ぶりを垣間見る事が出来るが、その言わんとしている内容は体裁や常識に捕われず、 極めて理性的で常に物事の本質を捉えているのに驚かされる。

 その彼の思考方法はいわゆる「南方マンダラ」と呼ばれる図に端的に示されている。この手書きの図は一見すると 線が縦横無尽にグジャグジャ引かれているただの落書きのようだが、彼が「理」、「すじみち」と 呼ぶ事象の個別性をあらゆる方向に伸びた独立した線に表し、 その線と線の重なりや距離をそれぞれの 事象の関係性に置き換えた立体的な図だ。 「前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数無尽なり。故にどこ一つとりても、それを敷衍 (ふえん)追求するときは、いかなることをも見出し、いかなることをもなしうるようになっておる。」


楠に付着する着生植物  この「南方マンダラ」は、CGか模型にすると彼の世界の美しさがよりわかり易くなる のではないかと思うが、誰か作っている人はいないのだろうか。

 この思考モデルは熊楠に限らず「万能の天才」と呼ばれる孤高の人々の思考構造を理解する鍵になるのではないか。 また、多様性とその関係性が世界を構築していると解釈できるこの図は、ともすれば 物事を一元化しようとして他者を排斥し、その関係性すら排除しようとする 現実世界が社会的実害を伴って急激に世界を破壊していくのを目の当たりに 見ていると、このマンダラあるいはこういった価値観の共有が、 人の視界を広げ、その破壊行為にブレーキをかける方法の一つとして有効なのではないだろうか。


楠の樹上にある鳥の巣 残念ながら、熊楠は教育者としての活動はしていない為、その具体的な学習方法を人に直接伝えているわけではない。 その著作から 見えてくるのは、自分の興味の赴くままにがむしゃらに遊び、読み、書く事をひたすら続けている事だけだが、 この無秩序な好奇心が後に統合され、このマンダラのようなスケールの大きい思考に帰着している。


 このマンダラのマニュアル化は彼の思考のエッセンスを消してしまう可能性が高い為必ずしも賛成できないが、 少なくとも今の画一的なサラリーマン製造装置と化した教育方法のアンチテーゼとなる事はできるのではないだろうか。

 門を潜り、中に入ると、玄関前の小庭に熊楠を思わせる赤い小さな石像が置かれていた。屋敷を回り庭に出ると、軒先にそびえる 楠の木が目に入る。熊楠は自らの名にも楠という字が使われている為、この楠に深い愛着を抱いていたようで、 「巨樹の翁の話」に「予が現住宅地 に大きな樟の樹あり。」と、夏の暑さや雨をしのぎ、大風から家を守ってくれるので「樹が盛えるよう朝夕なるべく根本に小便を 垂れてお礼を申しおる。」と書いている。熊楠というちょっと変わった名前については、楠を御神体とする神社のある熊野では よくある名前の一つで、南方家には楠が付く名前が多いのだと言っている。


ミナカテラ・ロンギフィラを発見した柿ノ木2代目  庭先の室内から女性が窓を開けて声を掛けてきた。挨拶をするとパンフレットをくれた。記帳し、見学料が必要なのか聞くと、 うちわで庭から襲来する蚊を追い払いながら必要ないと言う。

「家の中まで見せてあげられなくてすみませんねえ。」

 と、なんだか腰が低い。南方家の人なのだろうか。娘さんの 南方文枝氏は亡くなったと聞いたのでお孫さんかと思ったら親戚の方で、現在は彼女が南方邸を管理しているのだそうだ。


奥が試験畑  この庭は様々な植物を植え、新種の粘菌を発見したりするなど熊楠自ら「試験畑」と呼んだ場所で、「履歴書」には南隣に 越してきた成金が壁際の長屋を二階建てに改築したため、この「試験畑」に日が入らず知事まで動員して抗議した 顛末が書かれている。


センダンノキ  この庭で, 熊楠が可愛がっていた亀がいた事を思い出し、

「池は無いんですか。」
 と、尋ねると、
「池?池はありませんよ。」
「亀を可愛がっていたと本で読んだのですが。」
「ああ、それは池でなくて、何と言うか水が溜まるものを置いて亀を飼って いたんですよ。」


 その亀は、1匹だけ今でも生きており、長命なので学術的にも貴重なのだそうだ。熊楠に親近感を 抱いている為、つい最近の人のような気がしていたが、考えてみれば生まれたのは江戸時代の末で、この田辺に来たのも明治の頃だ。 その当時飼っていた亀が今まで生きているというのだから確かに長生きだ。ただ、残念な事に、 以前3匹いた亀が「失踪」した事件があり、翌日1匹は死体で見つかり、新聞報道で大騒ぎになった後、北側の壁沿いに 1匹は死体で、1匹は生きて「帰ってきた」のだと話してくれた。

「荒俣さんなんかも心配してくださって。「帰ってきた」なんて皆言ってますけれど私はそうは思っていないんですよ。 あまりこういう事は言いたく無いんですけれど珍しい亀だし誰かが持っていったんだと思うんですよ。 私はいなくなってからすぐに市に言ったんですけれどなかなか動いてくれなくて、新聞に出たのも1ヶ月近くたってからでしょう。 結局2匹死んでしまって。「帰ってきた」なんて綺麗な話ではないんです。」


 残った一匹は正確には熊楠が飼っていた亀の子供で、死んだ二匹に比べると年も若いが、 「別の場所」で大切に飼育されていると言う事だった。

 後から調べてみると亀が棲んでいた「池」は、敷地北側の現在 公開していない場所に存在する。「別の場所」も意図的に具体的な場所をにおわせるような話を一切してくれなかったので、事件 がよっぽどショックだったのだろう。警戒している感じだった。

 「ひどい話ですね。可愛そうに。」
 と、言うと、女性は憤りで厳しくなっていた顔を柔らかくさせ話題を変えた。敷地北隣の 亀が発見された所に研究所が建つのだという。熊楠は生前から研究所設立の為寄付金集めに奔走していたようで、恐らく日本で一番 長い彼の「履歴書」は、その研究所設立の為の寄付金を請う為書かれた書簡だ。そんな「履歴書」に、今まで寄付金を出してくれた お偉方を小馬鹿にする ような下ネタまで披露して良いのだろうかと思うが、彼自身、生きている間に研究所設立は無理かもしれないと思っていた節も窺え 、政治力、経済力の無い典型的な天才の感情の激しさが詰まっており面白い。政治力の無い熊楠の夢だった 研究所がようやくできるというのは、やはり彼が普遍的価値を持つ本物だからだろう。

 そんな事を話していると、後から初老の夫婦が庭に入ってきた。女性はその夫婦に声を掛けたので、庭を回る事にした。


 熊楠は菌類の繁殖の為、樹の落ち葉なども一切掃除せず、畑にしていた所以外は成るがままだったそうで、てっきり ジャングルのような庭かと思っていたが、蚊が多い事以外はそれ程雑然とした感じもせず、むしろすっきりした印象を持った。 この庭は、出来るだけ熊楠が生きていた時に近い状態 で維持管理されているという事だが、熊楠の死後枯れてしまった樹もあるようで、ここでも古い物、 特にここでは生き物も含めた 維持管理の難しさを感じた。それでもシンボルツリーとなっている樟や隣家と悶着した畑跡、新種の粘菌を発見した柿ノ木、 死の床で見たといわれる紫色の花を咲かせ、熊楠が好きだったというセンダンノキなど様々なエピソードを彷彿とさせる には十分だった。

 襲い来る蚊に追われながら庭を回り、軒先まで戻ってくると、管理をしている女性が

「これからどちらまで行かれます。」
 と、聞いてきた。
「今日は高野山まで行くつもりです。」
 と、言うと
「良かったらこちらにも寄ってみて下さい。」
 と、白浜にある「南方熊楠記念館」のパンフレットをくれた。

闘鶏神社


 南方邸を出て「闘鶏神社」へ行った。駅から海へ向かう道の途中に大きな鳥居が見える。その奥にこんもり茂った緑の森があり、 その手前に社殿が並んでいた。街中の神社にしては随分立派なので驚いたが、本宮大社が大斎原にあった頃の社殿を再現 しているそうで、ここでの参詣で三山参詣に替える事ができたという事だった。山道に入る中辺路の入り口で熊野詣を 済まそうとする古の人々の根性には苦笑を禁じえないが、流失した本宮のコピーだと考えると別の意味で貴重だ。社殿は塀で 囲われている為詳しく見る事が出来ないが、森を背後に春日造茅葺の本殿と上御殿の二棟が並び、左に連棟銅葺の西御殿、 右に同じく 連棟銅葺の中御殿、下御殿、右端に春日造銅葺の八百万殿が並び、本殿の前には拝殿が建っている。


 拝殿の前には名前の由来になった闘鶏をさせる熊野別当湛増と弁慶の銅像が立っていた。弁慶は湛増の子だと言われ、 傭兵軍であった熊野水軍が源平のどちらに味方するかを占う為、ここで紅白の鶏を闘わせたという伝説がある。

 鳥を占いに使うというのは、古代ギリシャの叙事詩ホメロスの「イリアス」や「オデュッセイア」にも書かれ、 中国の古代玉器には鳥信仰を示す物が出土している。その中国では四方の門だった物が日本で形式化したのが、その名も「鳥居」 と呼ばれる 神社の門となったように、鳥占は古今東西で行われていたようだが、東南アジア原産の鶏は、その飛行能力の無さから家畜化され 、「天の岩戸」の話にもあるように最初は時を告げ闇を払うとして、ついで闘鶏により吉凶を占うようになったと考えられている。


 日本に鶏が来たのは弥生時代 に中国からもたらされたとされているが、現在闘鶏の伝統が残っている地域を見ると、九州や四国など黒潮ルートに沿っている。 これらの地域の先住民、つまり我々が一般に縄文人と呼ぶ人々は、東南アジアから渡ってきた人々だと言われ、実際に今でも 東南アジアでは闘鶏が盛んだ。そういった事は、 実際に記紀に記された土着民の風俗が、明治の同化政策以前のアイヌや東南アジアの伝統と共通している事、 縄文人、アイヌ、そして現在の東南アジアに住む人々が、古モンゴロイドと呼ばれる共通の身体的特徴を持ち、細胞内の ミトコンドリアDNA配列が極めて似ている事からも、そのルーツを 東南アジアに求める事が出来る。彼らが日本列島に渡ってきた時、既に家畜化された鶏がいた事は十分考えられ、 彼らが行っていた闘鶏占いがそのまま諸民の 娯楽として定着したのではないだろうか。ここ紀伊半島もその黒潮の延長線上にあり、神武東征以前の土着民、特に海を生活圏とする 人々は恐らく東南アジアを ルーツとする、闘鶏占いをしていた人々だったのではないだろうか。それこそ和歌山出身の南方熊楠など正にいわゆる 縄文人、つまり東南アジアをルーツとする古モンゴロイドの特徴を顕著に示した顔をしており、そのルーツを考えると興味深い。 もし、東南アジアをルーツに持つ熊野の海の男達の闘鶏の伝統が、この神社の闘鶏伝説に転じたのだとしたら面白い。


 もっとも、闘鶏は平安時代には三月三日に「鶏合わせ」の神事として宮中に定着し、貴族の娯楽として楽しまれていたそうで、 平安貴族が熊野詣の度に立ち寄った田辺では、当然都のそういった情報も入ってきただろうし、 実際に立ち寄った貴族達がここで行っていた闘鶏を、熊野水軍が吉凶占いとして引き継いだのかもしれない。

 その湛増の末裔、神社の神官の娘が熊楠の妻となっている。彼女は破天荒で経済観念の無い夫に随分苦労したようで、 長男誕生後しばらくの間夫と子供を置いて、実家に戻っていた時期もあったようだ。「履歴書」の中で、熊楠は彼女の事を 親孝行で働き者、琴などの芸事にも通じ、菌類の採集など熊楠の仕事にも協力してくれる 「『女今川』育ちの賢妻良母風の女なり」と褒めちぎっており、天下無双の熊楠先生も 妻には頭が上がらなかったようで何とも可笑しい。


クラガリ山の神林  熊楠は、妻の実家である神社の森、仮庵山(かりほやま)でも採集をしており、「南方二書」には「当地田辺の闘鶏権現の クラガリ山の神林またなかなかのものにて、当県で平地にはちょっと見られぬ密林なり。」と書いている。しかし、神社合祀に 関係なかったこの森も、公園を造るという名目で枯葉を清掃し、腐葉土不足で枯死する樹木が相次ぎ、 健康な樹木でさえ言いがかりを 付けられ切り倒されたそうだ。中でも樹齢三百年の大樟は枝にかけた鳥の巣を枯損だと根こそぎ切られ、切り倒す時に周りの木々 までわざと傷つけ一帯を伐採しようとした顛末が書かれている。この話の中で、本来森を守るべき神官の一族である妻の親族が伐採 に加担し、大樟伐採後、神社の清水が枯渇し「発頭人(前郡長なりし人)口より涎出で動く事能わず、戸板へのせ宅へ帰り、 五日ばかり 樟のことのみ言いちらし狂死す。」と書いている。神木の伐採に関してはこのようないわゆる「祟り」まがいの事は多かったようで 「南方二書」には幾つもの例が載っている。樹木は伐採される時に何らかの化学物質を分泌するという話を聞いたことがあるが、 何か人に影響する強烈な武器の様な手段を持っているのだろうか。


 お参りして神社を後にした。ユースに戻り、自転車を車庫に返して談話室を覗くとザックは朝置いたままの状態で電話の横に あった。人気はなかったが、大声で礼を言い駅へ向かった。

 時刻表で事前に調べていた快速に乗るにはあまり時間が無かったので、道を急いだ。闘鶏神社の横から駅前の商店街に出て、駅が 見えてくるあたりを歩いている時、後ろから自転車のベルを鳴らされた。自転車が追い抜きたいのだろうと振り向かずに歩道を 左に寄ったら

「ちょっと、ちょっと。」
 と、後ろから呼び止められた。見るとおじさんが走ってきて
「おにいちゃん、これ落としたで。」
 と、三脚を 差し出した。わざわざ自転車を降りて持ってきてくれたのだ。ザックの後ろに括り付けていたのが急いで歩いた振動で外れたらしい。
「あれ、ああ、ありがとうございます。」
 と、礼を言うと、
「おにいちゃん、これから熊野古道行くんかい。」
 と、人懐こそうな笑顔で聞いてきた。
「いえ、熊野古道は昨日歩いて、今日はこれから高野山まで行く予定なんです。」
「ほうか、そら凄いな。気ぃ付けてな。」

 熊楠に「至って人気よろしく物価安く静かにあり、風景気候はよし」と書かせ、死ぬまで暮らした田辺の人も親切だなと 思いながら再び礼を言って駅に向かった。

田辺〜白浜


田辺駅前の妙にハンサムな弁慶像  駅で発着掲示板を見るが、乗るつもりの白浜行き快速が表示されていない。おかしいなと思って改札に立っていた駅員に 聞いてみると、なんと
「ああ、それは土日祝日のみの運転なんです。」
 と、いう事だった。うーん、それならもう少し田辺市内を見て回り たかったのにと思ったが、後の祭りだ。昨日、田辺到着時に駅で時刻表を確認しておけばよかったと後悔した。

 仕方が無いので次の急行の切符を買った。せっかく用意した「青春18きっぷ」も使えず、一駅の為に 特急券を買うのはもったいないとは思ったが、その次の各駅を待っていると「南方熊楠記念館」に行く余裕が無くなってしまう。


田辺駅構内のメカ弁慶  改札で切符を切ってもらい、ホームに出ると、田辺の高校生達が造った「メカ弁慶」が薙刀を振るうポーズで飾られていた。 白浜方面のホームは階段を渡った向かい側だ。電車を待っていると、田辺終点の電車がホームに入ってきた。降りてきた おばさん3人の一行が、車掌に白浜行きの次の電車の事や田辺からバスがあるかを聞いている。バスの事まで聞かれた若い車掌は、 積極的なおばちゃん達に
「バスの事はバス乗り場で聞いてもらわんと・・・。」
 と、少し困惑気味だった。一度ホームから改札に 向かったおばちゃん達は、バスが無かったのか再び戻ってきてベンチに腰を下ろした。結局、特急券が 必要な次の急行より、1時間半近く待つ後の鈍行を選んだようだ。3人はひたすらしゃべり続けていたので 1時間半などあっという間に過ぎてしまうのだろう、などと思っていると特急が来た。


 車内は空いていて、乗っている客もほとんどこれからのんびり温泉旅行に行きますと顔に書いてある人々だった。あっという間に 白浜駅に到着し、やっぱり特急券はもったいなかったかなと思いながら狭いホームに下りると、南国白浜のリゾート気分を満喫 しようとする客で溢れていた。

 改札を出てから念の為和歌山方面に向かう電車時刻を掲示板で確認し、レンタカーの受付でレンタサイクルの申し込みをした。 必要事項を紙に書き、料金を払うと若い職員が駅の外にある自転車置場から自転車を出して観光地図をくれた。

「温泉に 行かれるんですか。」
「南方熊楠記念館に行きたいんですけど、どれくらい時間かかりますかね。」
 と、聞くと、予想と違う答えに 少し驚いた顔をしてからすぐに笑顔に戻り、
「ちょっと遠いですけど。」
 と、言いながら親切に地図で道を説明してくれた。荷物を 預かって欲しいと言うと、コインロッカーか土産物屋がある建物を指して、そこで預かってくれると教えてくれた。

 コインロッカーに行くと、荷物が大きすぎて入らなかったので、土産物屋入口の受付に荷物を預けた。

 荷物を預けた後、観光バスとタクシーが並び、土産物屋が取り囲む駅前のロータリーから坂道を上がり、 海へ向かう道をペダルを踏んだ。 道沿いは山になっており、 駅近くの土地は道路以外の開発はされていないようだったが、海が見えてくると入り江にヨットが並ぶリゾートホテル群が 突然出現し、その落差に少し 驚かされる。中には何の意味があるのか分からないゴシック風の意匠をしたホテルがあり、ちょっと異様だった。ここはいわゆる 白浜温泉とは少し離れた場所だが、通り沿いに温泉の公衆浴場があったりするので、温泉と海のセットを目当てに開発されたのだろう。

 白浜には大学の水産試験場があり、このリゾート地あたりからゴム長をはいた学生と自転車で抜きつ抜かれつしながら 海沿いの道を走った。空は曇っていたが、海沿いの道は開放感があり気持ちが良かった。

歓喜神社


 しばらく走っていると、岬の先にこんもり盛り上がった山が見え、その麓に歓喜神社ののぼりが立っていた。駐車場で自転車 を降り、暇そうにしている入り口のおじさんに声を掛けて拝観料を払った。

 この神社は白浜美術館と一体となっており、美術館を通って神社に行くようになっている。 汗をかいているので美術館の冷房が気持ちよかったが、中に並んでいるのはインドやチベット、東南アジアなどの 歓喜天を中心とするなまめかしい男女結合像達だ。

 歓喜天とはインドのシヴァ神とパールバティーの子、軍神ガネーシャの事で、象頭人身の形で表される。 これが仏教に取り入れられ 、必ず男女が抱き合って結合している姿で表される事から歓喜天と呼ばれている。 これはSEXで得られる忘我 の快感を悟りの境地に例える為に取り入れたものなのだろうか、あるいはガネーシャ信仰を持った人々を仏教に教化する為、 抱かれる女性を十一面観音の化身として解釈したのだろうか。いずれにしろ、仏教による解釈云々よりも、恐らく それ以前から信仰の対象であったその形からは、古代人の性に対するおおらかな好奇心に 我々がいつの間にか蓋をしてしまった自然な感情を見透かされているようで何ともこそばゆく感じる。

 美術館に展示されている物は皆新しそうで、それ程価値があるとも思えなかったが、日本の寺では歓喜天は例外なく 秘仏とされ、 目にする事が出来ないそうなので、まとめて見るには良い機会だったのかもしれない。

 性に対しておおらかといえば、熊楠も「履歴書」の中で、熊野が如何に未開の僻地であるかを実証する例として「(実は今も) 今日の南洋の島のごとく、人の妻に通ずるを尋常のことと心得たるところあり。」とその他の例も挙げながら論じている。 同様の描写を中上健次も小説の中で行っているが、こういった風俗は何も熊野に限った事ではなく、特に南方系の風俗の色濃く残る 地域では、ムラの青年で構成される若衆組の構成員が行う”夜這い”を大人になる通過儀礼として認め、機能させてきたと 司馬遼太郎は言っている。また、司馬はこの若衆組という若者組織が単に、性の欲求を発散させる為の集団ではなく、ムラ社会に おける自警団的な役割も担っていたのではないか、と推測している。そして、こういったムラの縦社会から独立した組織が成立する 文化が紀伊半島や鹿児島に残っていた痕跡から、これらの地域の人々のルーツが、やはり今でも同様の若者組織が残る南方の 島々にあるのではないか、という鋭い考察をしている。

 また、日本に今でも残る性器を祀る信仰は、生命を生み出す性の神秘性を神格化し、それが転じて性器自体が魔除けに通じる として、両性器が結合した形の藁を辻に下げる習慣や、熊に襲われた女性が性器を見せたら退散したというような話として残っており、 性に対するおおらかな価値観が、実は存外身近に残っている事を気付かせてくれたりする。

歓喜神社御神体  順路をたどり、美術館の外に出て神社に行った。神社とは言っているが、ここは昭和30年に発見された古代の祭祀遺跡で、山肌に 露出した岩に男女の性器が並んで彫りぬいてあり、そこに祠を被せている。通路を歩いているとセンサーで説明放送が自動的 に流れ、何となく恥ずかしい。

 その祭祀跡の岩を見ると、男性器に比べて女性器のほうが明らかにリアルに彫られている。形にするのは男性器のほうが 作りやすく象徴的な気がするが、女性器がこれほどしっかり 形になっているのは、生む性がいかに重要であったかを物語るのだろう。現代と違って古代の文献を見ると 卑弥呼から始まって幾人もの女性首長、天皇が現れており、古代においては必ずしも現在ほど男性優位ではなかった事が窺える。


土師器と須恵器の破片  社から降りると、神社に奉納された物が飾ってあった。やはり形になりやすい男性器を模った木彫が圧倒的に多い。 しかし、そんな物より祭祀跡から発掘された という土器の破片に興味が向かった。茶色の破片とグレーの破片を分けてケースに入れてあり、 グレーの箱には 5世紀の古墳時代の物だと書いてある。茶色の方は縄文時代から使われていた技術で焼かれた土師器(はじき)と思われる 破片だったが、グレーの破片は明らかにろくろを使って作られた須恵器(すえき)で、それまでの野焼きによる製作ではなく、 穴窯を使ったその技術は、 日本書紀の雄略天皇七年(464)に書かれている百済の才伎(てひと)の一人、陶部高貴(すえつくりのこうくい)あるいは 彼が象徴する渡来系氏族が 日本にもたらしたのではないかと言われている。もし、この須恵器が5世紀の物だとすると、当時の最先端技術が白浜まで 伝わっていた 可能性がある。5世紀後半から6世紀にかけては、丁度須恵器生産が大和から地方へ広まる時期にあたり、もしかするとこの近辺にも 窯があったのかもしれない。あるいはここから大阪湾を北上すると、現在の堺市から狭山市にかけて広がる陶邑(すえむら)古墳群と 呼ばれる大規模な須恵器生産窯跡があり、そこで生産された輸出品だった可能性もある。


 宝物殿から出口に向かうと社が正面に見える緩い斜面に賽銭箱が置いてあり、ちょっとした広場のようになっている。 ここで祭祀を 行っていたようだが、正面の岩に表されている性器は現代の我々が抱く陰湿な性のイメージとは違い、むしろ堂々として あっけらかんとした明るい表現だ。


 恐らく祭祀といってもここで行われていたのは荒れすさぶ神を恐れ、敬うようなものではなく、豊作祈願や子孫繁栄、 収穫の喜びを祝い、皆が楽しむような明るい祭りだったに違いない。もしかすると、「古事記」や「万葉集」に 描かれているような若者が恋を歌い、求婚した開放的な「歌垣」の場にもなっていたのかもしれない。


歓喜神社の森  祭祀跡から社務所に入る所に注連縄をかけた男女の性器を模った石が並んでおり、「「おさすり」して夫婦円満を祈願して下さい」 と書いてある。なんだかなあとは思ったが、うちの奥さんの肩凝りが良くなるよう「おさすり」して拝んでおいた。


 再び海沿いの道に戻り、南方熊楠記念館を目指した。日差しが戻ってきて暑い。ここらあたりから波に洗われた奇岩が海から露出 し始め、陸にはダイビングに来ている水着姿の女性達がいたりして、それらに目を奪われながら先に進む。メインの車道から 岬の突端に向かう細い道を入り、京大水族館の横を少し奥に行った駐車場に自転車を止めた。


南方熊楠記念館


 駐車場のすぐ裏にはジャングルのような熱帯性樹木とカシなどの広葉樹に覆われた植栽があり、入り口の門に 「南方記念館」とかすれた字で書かれた板が埋め込まれている。木々の間を通る舗装された坂道を登った先に、昭和天皇の 歌碑が立っている広場があり、そこにある三角点の周りからツワブキが飾りのように葉を広げていた。


 この記念館は昭和天皇が1929年に南紀行幸した際、熊楠が白浜沖の神島(かしま)を案内し、キャラメル箱に入れた粘菌標本 110種を進呈して、島の植生や粘菌について御進講した事を記念して建てられたものだ。


 天皇が地方を回る際に、地元の学者が付き添うのは良くある事かもしれないが、無為無官の在野の学者に よるものは初めての事だったそうだ。その時の熊楠は奇人変人を感じさせない「ジェントルマン」だったそうだが、 その印象は天皇には余程強烈だったようで、熊楠没後の1962年に白浜再訪した際には、石碑になっている
「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」
という珍しい個人名入りの字余りの歌を詠んでいる。

 一方の熊楠もこの名誉がよほど嬉しかったらしく、御進講後すぐに妻と記念写真を撮り、友人、知人に菓子を配っている。 さらに、一年後に神島の上陸地に立てられた行幸記念碑に は、熊楠が詠んだ
「一枝もこころして吹け沖つ風 わが天皇(すめらぎ)のめてましし森ぞ」
の句が入れられている。


 しかし、「わが天皇のめてましし森」神島も神社合祀の被害にあったようで「南方二書」には 「この島は千古、人が蛇神を恐れて住まざりし 所なり。自生の楝(せんだんのき)あり、また海潮のかかる所に生ずる塩生の苔scale-mossあり。奇体な島なり。」と 神島の植生の特異性を紹介し、社が無くなる事によりこの神の島に人が勝手気儘に入り込み貴重な植生を荒らしている、と 合祀による被害を訴えている。

 熊楠は、この天皇への御進講が励みになったのか、1934年には自らの手で天然記念物指定書を書き、 1936年に神島は国の天然記念物に指定され、現在は人の足で汚される事無くその植生が大切に保存されている。

南方熊楠記念館  記念館は、広場から少し尾根を行った先にあった。白く四角い建物が木々に挟まれている。喉が乾いていたので入口手前にある 自動販売機でスポーツドリンクを買い、一気に飲んだ。

 受付で入館料を払いトイレに寄った後、白い螺旋階段を昇り2階に行く。階段室では熊楠を紹介するビデオを流して いたが時間がかかりそうだし、おおまかな事は知っているのでそれは見ずに展示室に入った。


 展示は熊楠の生涯を追いながら その業績を紹介しており、南方熊楠という名前を知らない人にも分かりやすいように工夫されていた。実際、この記念館に来ている 人々の多くは白浜観光のついでに立ち寄ったといった感じで、熊楠目当ての人はいないようだったので、この展示方法は正解と 言えるだろう。

 展示で東京大学予備門の同期に夏目漱石や正岡子規がいた事を初めて知ったが、学校にほとんど行かずに「ひたすら上野図書館 に通い、思うままに和漢洋の書を読みたり。」、あるいは標本採集に飛び回ったりしたあげく中退している為、本人はきっと そんな同期生がいた事すら気付いていなかったのではないだろうか。


神島  熊楠が通った上野図書館は、ルネサンス様式の立派な洋風建築だが、近年安藤忠雄の設計でその建物に ガラスボックスを嵌め込むという意匠で再生され、現在は「国際こども図書館」として利用されている。以前建物の見学に行った時、 かつての閲覧室の 様子として明治の写真が展示してあったのを思い出した。もしかしたらそこに熊楠も写っていたのかもしれない。


 展示品には熊楠の写真やデスマスク、自筆の書簡やノート、スケッチ、愛用の遺品などがあったが、 その中で最も印象的だったのは熊楠本人に 関する物では無く、実際に拡大鏡を通して見る事ができる粘菌の美しさだった。今だに謎が多いこの色鮮やかで小さな生き物達は 条件により、時には植物のように時には動物のように 形を変え、移動するのだという。熊楠は「履歴書」に粘菌の特徴や種類による個性、鮮やかで様々な色を持ち、自宅の庭で培養 している事を書いており、夢中になって調べていた様子が窺える。


 展示室を出て、階段から屋上に上がった。空は不機嫌そうに曇ってはいたが、岬の先の灯台や荒波に削られた海岸線、 遠くに神島も見えた。神島を見ながら、熊楠がいなかったらあの島は全く別の姿になっていたかもしれないなあとしばらく 感慨に耽った。チケットを買った1階事務所には熊楠関連の書籍などグッズが揃っていたが、熊楠自筆の猫の絵が入った ポストカードセットと美しい粘菌写真のポストカードセットを買った。


 記念館を出て、熱帯の木々の間を抜け、駐車場に戻った。よく見ると、ここの木にも新宮で見たビカクシダが着生して、 白浜の温暖湿潤な気候を教えてくれている。 目的は果たしたので駅に戻るのだが、同じ道ではつまらないのでもう少し先まで行く事にした。

 再び海岸沿いの車道に戻り、白良浜の方へ向かっていると、雨粒が落ちてきた。すぐ止むだろうと思ったが、 なかなか止まずに雨足が強くなってくる。カメラが濡れないようにハンカチとガイドマップで包み、自転車の荷台に置いた。


円月島  路沿いの岩肌は、何か硬い物で引っかかれたような無数の傷で岩盤がむき出しになっており、波の浸食がいかに激しいかを 物語っている。

 沖合いに島の真ん中下側だけ丸い穴のあいた奇妙な島が見えてきた。円月島という観光名所で、雨の中 写真を撮っていると、その穴を観光船が潜っていった。


熊野三所神社


 雨がひどくなってきたので自転車を漕ぐスピードを速めたが、なにせいわゆるママチャリなので速めたと言ってもたかが知れている。かといって 雨宿りする場所も無いしなあ、と思っていると温泉街が現れるあたりに木々が生い茂った神社があった。 これは丁度良いと思って境内に入ると、 「熊野三所神社」と書いてある。こんな所にも熊野神社があるのかと思ったが、ここは田辺から那智へ向かう大辺路からは 少し外れている筈だ。 熊野詣の途中、温泉に寄り道する言い訳に作られた神社なのだろうか。


火雨塚古墳  鳥居から社に向かう砂利道を歩いていくと木の根に覆われた 石室があり、「火雨塚古墳」と書いた説明板が立っていた。6世紀後半の円墳だという。この古墳が6世紀後半の物だとすると、 その後ろにそびえる小山はそれ以前から信仰の対象だったのだろう。


熊野三所神社  境内には斉明天皇行幸碑が立ち、昭和天皇が熊楠と共に神島に渡った際に使った御座船が保存されている。 山を背にした斜面には石垣に乗った拝殿と、その奥に春日造銅葺きの本殿が見える。日本書紀には斉明天皇 が658年紀の湯(白浜)行幸の際、有馬皇子の謀反計画を知り処刑した話が載っており、この境内もその舞台になったのかもしれない。 この記述は、白浜が熊野詣のルート形成以前に、大和から船で行ける湯治場として 早くから知られていた事を示しており、神社のパンフレットには、本殿の下 に長方形の磐座と本殿背後に巨岩がある、と書いてある事から新宮のゴトビキ岩と同様に、古代の巨石信仰が転じて 熊野の神を祭るようになった事がわかる。


 神社の背後を覆う社叢は、県の天然記念物に指定されており、ホルトノキが多いのが珍しいのだそうだ。 社を囲んでいるのはホルトノキではなく楠で、立ち並ぶ木々の枝ぶりは縄文時代の火炎型土器を思わせるように 力強くめらめらと広がっている。

 そのうち雨も上がったので、お参りして神社を出た。このまま温泉に浸かるか、千畳敷や三段壁の方まで行こうか迷ったが、 電車に間に合わなくなりそうなので、結局どちらにも行かずに新しく整備されたらしい道を通って、 行きに大学生と自転車チェースをした道に戻り、そこから駅に向かった。


白浜〜高野山


 思ったより早く駅に着いたのでもう少し遠出をしても良かったかなとは思ったが、紀州土産を何も買っていなかったので 自転車を返した後、駅前の 土産物屋で瓶詰の梅漬けを買った。電車の時間に合わせて駅に人が集まってくる。地べたに座り込んでおしゃべりをする若い 女の子のグループや大辺路を歩いてきたのだろうか、トレッキングシューズを履いた中年男性達にお土産を両手にいっぱい持った おばちゃん達など皆様々だ。

 預けた荷物を返してもらい、駅の待合ベンチに座っていると、駅のステンドグラス模様のガラスにオニヤンマが外に出たがって ぶつかっていた。可哀そうだったが手前の仕切りが邪魔で高さもあるため助けられない。きっとこのまま力尽きて 死んでしまうのだろう。

 白浜からは「青春18きっぷ」を使うため特急には乗らない。当てにしていた快速も平日は運行しないので鈍行を使い、 田辺と御坊で乗り換える事にした。

 発車時間が近づいたので、ホームに行くと田辺駅にいたおばちゃん3人組にまた会った。海産物を安く買えて良かったと興奮気味 に話している。ガイドマップに「とれとれ市場」という観光市場が書いてあったので、きっとそこに行ったのだろう。 同じような古くからの 温泉地でも熱海のように今は閑古鳥が鳴いているような所もあると聞くが、おばちゃん達の嬉しそうな声を聞いていると 白浜は温泉だけでなく様々な楽しみ方が出来る点が観光客にとっては魅力なのだろうと思った。

 さっきからホームを行ったり来たりしながら、いわゆる知恵遅れの若い女性が携帯電話で電車の写真を撮りまくっている。 鉄道マニアはほとんどが男性だと思うが、彼女は数少ない女性マニアのようだ。 マニアの間では同じ鉄道好きでも「旅行系」「車両系」などそれぞれ専門?分野があるそうだが、彼女はきっと車両系なのだろう。 ホームを行ったり来たりするので結構危ないと思うのだが、同伴の母親がしっかり見ているので問題は無さそうだった。

 白浜から田辺まで鈍行でのんびり行った後、田辺で30分程乗り継ぎの電車を待ち御坊行きに乗った。 丁度中高生の下校時間に当たったらしく、車内は結構込んでいる。よぼよぼ のおじいちゃんが乗ってきたので席をゆずったら
「すぐだからええ。」
 と、頑なに断られてしまった。腰が曲がり、吹けば 飛んでしまいそうだったが、毎日通う電車なのだろうか、慣れている感じで手すりにつかまりしっかり立っていた。
 
 この電車は、2両編成で運転手が車掌を兼ね、無人駅では車両先頭のドアのみ開けて切符を回収する改札係りも兼ねており、 まるでバスのようだ。 白浜にいた客のほとんどは、そのままこの電車に乗っていたが、鉄道マニアの女性はこの電車に乗っているのが 嬉しくてたまらないらしく、自主的に降車客の切符集めを手伝い始め 運転手に怒られていた。怒られて謝ってはいたもののエネルギッシュな彼女は、全く落ち込む様子も無く 、白浜駅の地べたに座り込んでいた女の子達とアイドルの話などして盛り上がっていた。

 時間があれば道成寺で途中下車しようかとも思っていたのだが、既に行っても寺は閉まっている時間だったので、 そのまま終点御坊まで 行き、そこから和歌山まで出た。いい加減腹が減ったので、ホームに立ち食い蕎麦でもないかと思ったが、そんな物は見つからず、 キオスクで菓子パンを3個買って食事代わりとした。

 外はもう暗くなってきて、車内も帰宅する社会人が多い。和歌山から快速で橋本に行き、そこで南海電鉄に乗り換えて極楽橋に向かう。 高野山方面に行くのはほとんど 高野山に住んでいる人達のようで、さすがに夜8時を過ぎて観光に向かう人はいないようだ。

 高野山に向かう電車は明らかに山の中に入っていくのが分かり、極楽橋駅に到着すると下界とは違う 山の冷気を感じて少し寒かった。 ケーブルカーに乗り換える為駅の改札に行くと、その手前に「いらっしゃい」 といった風に野良猫がちょこんと座っていて可愛い。観光客に餌を貰って生活しているのだろうか。

 この旅に出発する前、交通機関の乗り継ぎ時刻を調べていたらこの高野山ケーブルは夜10時台まであるのに驚いた。もしかして この山の坊主は生臭なのかと思ったら、熊楠の「土宜法龍宛書簡」には果たしてその生臭ぶりが書いてあった。「予輩高野に登りし ときなども、毎夜四里近きところを下駄はいて下山し、九度山や玉屋与次兵衛方で発娼し、また梨木坂とかいう処に僧正がいろ的を 尼としてすえたあともあり、小姓が和尚を召ぶにも屁をもって相図するなど」云々とある。もっとも、高野山では空海が いたころから条件付きで飲酒を認めており、それがいつの間にか冬の寒さをしのぐ為、酒を「般若湯」と名づけ飲むようになって いるので、生臭も弘法大師のお墨付きといったところなのだろうか。

青巖寺 高野山ユースホステル


 ケーブルを降り、待っていたバスに乗った。さすがに夜道は暗く夜遊びに向かう坊さんもいない。バスが坂道を上った後、高野山 の寺が見え始め、しばらく行った「警察前」で降りた。左手の坂道を少し上った所にユースホステルがある。ホステルというより宿坊といった 感じの和風な建物だ。

 門を潜り、玄関で
「すみません。」
 と、言ったが、誰も出てこない。

 何度か呼ぶと、奥から作務衣を着た中年男性が出てきて宿泊手続きをし、風呂などを案内してくれた。 館内は、隅々まで掃除が行き届き、 飾られているちょっとした小物に宿の主人(奥さんだろうか?)のセンスが感じられて、ここが本当にYHなのだろうかと思うほど きれいだ。きっと外国人などは、このような美しい和風空間に安く泊まれると知ると大喜びする事だろう。外人ではないが、 昨日田辺のYHで不満そうだったバイクの彼に見せてあげたいと思った。

 案内された部屋には、先客の荷物が置いてあったが人はおらず、荷物を降ろしてまずは風呂に入る事にした。昨日ほどでは ないにしろ、それなりに汗をかいたので熱い風呂は気持ちが良かった。

 風呂から上がり、部屋に戻ると先客が明日の用意をしていた。彼は思い立って会社を休み、レンタカーで紀州を回っているのだ と言っていた。明日は朝5時台に出発して大峯登山をすると言うが、どう見ても山登りをする人のようには見えない。話 を聞くと、女人禁制の山があると聞いたので行ってみたいという如何にも行き当たりばったりな旅をしているようだ。修験の山なぞ に行って大丈夫かなと思ったが、
「公共交通でここら辺を旅するのは不便じゃないですか?」
 と、逆に心配されてしまった。
「確かに不便と言えば不便ですけど、移動中に次の計画を立てたりできるし、 それに目的地の行きと帰りの道が一緒じゃつまらないでしょ?」
 と、答えると、
「確かにまあそうですねえ。」
 と、あまり納得はしていない様子だった。

 お互い荷物を片付けながらそのまま旅の話などしていたが、一段落したところで布団を敷き、明日朝5時に出る彼を部屋に残して 談話室で明日の高野山めぐりの策を練る事にした。

 談話室の床の間には小さな招き猫が置かれ可愛らしい。奥の部屋には女性が泊まって いるようだが、話し声が聞こえる訳でもなく、こういった落ち着いた静かな宿もいいもんだなと思った。

 テーブルにセルフサービスのお茶のセットがあったので頂くと、これが旨い。喉が渇いていたからというのもあるのだろうが、 明らかに茶葉が違う。 ユースホステルは単価が安いので経営は結構大変だと聞くが、ここは場所が良い事もあって、きっと経営も上手くいって いるのだろう。このお茶一つとっても普通のホテルのものなどより余程良いし、何より皆がいくらでも飲めるよう置かれたお茶に こういった心配りができるところが粋ではないか。
 
 お茶を飲みながら明日のルートを考えていると、宿の主人が顔を覗かせた。もう消灯の時間だったが、彼は部屋に戻れとは 言わずに使用済の湯飲みを片付け、談話室を出る時の消灯の事だけ言って戻っていった。

 気が付くと12時を回っている。言われたとおり談話室を消灯し、そっと部屋の襖を開けて布団に潜り込んだ。





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