9月9日(木) 熊野古道/中辺路

朝の川湯温泉  朝、目が覚めると既に大学院生は出発していなかった。横浜の会社員が出発準備をしている。 窓の外は明るく、今日も晴れているようだ。

 バスの時間が9時台なので暇つぶしも兼ねて、朝風呂に入った。ここにはユースとして泊まったが、 正式にはユースもやっている温泉宿なので当然風呂は 温泉だ。風呂場にもそんな事が書いてあったが湯船に浸かると、ぬるい。窓が開いているので冷めてしまったのだろうか。 それとも先客が薄めてしまったのだろうか。そういえば昨年新潟の露天風呂に行った時も一緒に入った客に思いっきり ぬるくされてしまった事を思い出した。まあ他に客もいないし長湯ができるかと思い直してのんびり湯につかった。

 部屋に戻ると横浜の会社員が出発するところだった。お互い良い旅を、と挨拶した。朝食をまた川原 で自炊しようかとも思ったが、面倒なので部屋で作ることにした。本当はこんな事はよくないのだが、TVのニュースを見ながら 窓際のテーブルで湯を沸かし、レトルトご飯と缶詰を食べた。ニュースでは今日も台風被害の事を言っている。紀伊半島の天気は 良さそうだ。

川湯温泉の鳶  コーヒーを飲みながら外を見ると川の対岸の林に鳥が飛んできた。鳶だ。川魚でも狙っているのだろうかと思ったら、 木の枝に止まって 毛づくろいをしている。朝日に当たって気持ちが良さそうだ。ずっと止まっていたのでカメラを取り出し、何枚か写真を撮った。 しばらく飽きずに眺めていると、鳶は悠然とつばさを広げ、川の上流方面に飛び去っていった。

 暇なので今日のルートを確認しているとルームクリーニングのおばちゃん達がバタバタ、ガヤガヤ空いた部屋を片付け始める声 が聞こえる。 そのうち廊下の掃除を始め、この部屋の前で
「まだいるのかねえ。」
と言っているのが聞こえた。チェックアウト の時間にはまだ余裕があるはずだが、まあいいかと思って荷物をまとめ、宿を出た。


浄妙堂


浄妙堂  外はいい天気だ。バスにはまだ時間があるので橋の向かいにある小さな祠を覗いてみた。「浄妙堂」という祠に「十二薬師 如来」が祭られている。鎌倉時代に温泉の薬効を感謝したのがはじまりで、毎年1月には薬師様が山に帰る目印として橋に 様々な物を吊るす祭りがあるそうだ。一般に神様が春に里に下り、冬に山に帰るというのは稲作などの農耕に関係するのだが、 田が広がる訳でもないここで温泉の薬効に由来する仏に同様の祭りが行われるというのも面白い。


 他に見る物もないのでバスを待った。本宮行きのバスを一本見送った後、田辺行きの小さなバスに乗った。 ハイキング姿の中年男性が3人と、同じくハイキング姿の初老の夫婦が一組乗っていた。自分も含めて 皆中辺路を歩く客だった。

熊野古道なかへち美術館


熊野古道なかへち美術館  近露王子でバスを降り、案内板を頼りに川の方へ行くと車道沿いの右手にこんもりと木々に覆われた一角がある。これが近露王子 (ちかつゆおうじ)跡だが、左手の下り坂 の先にガラス張りの背の低い建物があった。「熊野古道なかへち美術館」という妹島和代設計の美術館だ。ぐるっと回ってみると 半透明フィルムが張られた長方形のガラスの筒と黒い不定形のスペースが建物からにょきにょき不規則に飛び出しており、 一体どこが正面なのかわからない様になっている。道沿いに一箇所だけ細長い庇が飛び出たところがあり、名称が書いてあること からここが入り口である事がわかるが、残念ながら「休館日」と札が立っていた。この美術館を見る為に出発時間を遅らせた のに何て事だと思ったが、考えてみれば夏休みが終わった直後のオフシーズンに美術館が 展示換えの為休館するのは当然といえば当然だ。 事前にきちんと調べておけばさっきバスで通り過ぎた「野中の一方杉」などもっと古道歩きができたのに、 と少し後悔した。

なかへち美術館のカフェ  ともかく外観だけでもと思い、美術館の周りをぐるぐる回る。ガラスに張られた半透明フィルムは良く見ると 「NAKAHECHIARTSALON」と無数の細かいプリントがしてある凝った物で、 レースをまとったような淡い白色はガラスの硬質感を消す事に成功している。 建物から突き出した黒い部分は空調機器などの設備スペースのようで、ここにもよくみると ロゴ入りのフィルムが張ってある場所があった。美術館のように建物自体の美しさも問われる場合はこういった設備スペースなどの 「美しくない物」の処理方法が問題になり、 ともすれば見えないところに持っていけば解決すると言わんばかりに屋上にルーバーをして隠したり、 地下を掘ったりするのだが、 こういった平面的処理はこの美術館自体の非正面性を増す事にも貢献しており、効果的かつ現実的な処理といえるだろう。

なかへち美術館のアマガエル  建物を回っていくと川に面した部分はカフェになっており、ガラス越しにパステルカラーの可愛らしいスツールとテーブルが 並んでいるのが見える。さらに回って行った所のガラス面に、マスコットのようなアマガエルがちょこんとへばりついていた。

 
近露王子跡


近露王子跡  美術館を離れ近露王子跡に行くと、団体客がガイドさんの説明を聞き終わってぞろぞろ出てくる。今日も日差しが強く暑いがこの 小さな王子跡の木々の間に入るだけでスーッとした風が吹き、汗を乾かしてくれる。水場があったので水を飲み、昨日同宿の 会社員が中辺路はあまり水場がないと言っていたのを思い出し、ペットボトルに水を汲んだ。

 ここ近露は歴代上皇を始め熊野詣での巡礼者が宿泊し、川で禊をした後この王子社で参拝する習慣のあった宿場町 だったようで、熊野九十九王子と言われる程数多い王子社の中でも最も古い由緒を持つ場所の一つだ。近露という名は花山上皇が 食事時に箸代わりに手折った 枝が赤い事を 「これは血か露か。」と聞いたのが由来と言われている。この冗談のような話で名前が決まったところに上皇といえども所詮関西人かと 思ってしまうが、どうやらこれはこじつけらしい。

日置川  古い記録では、この地を「近湯」と書いていたようで、この近くに 上小野(かみこの)温泉がある事から「近つ湯」つまり温泉に近いという意味の言葉の音が「近露」に転じたようだ。「近つ」 という言い回しは現在では使われていないが、古事記の履中天皇の項に皇弟が「近つ飛鳥」「遠つ飛鳥」という地名を付けた例が 載っている。

 この王子社は江戸時代には若一(にゃくいち)王子権現社とも呼ばれ、江戸の王子神社にも若一王子宮として祭られていたが、 明治の神社合祀令で合祀され、現在は小さな林に石碑と石仏が一体あるのみだ。


丘から近露王子跡となかへち美術館を望む  汗が引いたので車道に戻り、日置川に架かる橋を渡って山裾から古道に入った。開けた登り道は眼下に先ほど行った美術館に王子跡、 遠くには連なる山並みが見渡せる。ここから見ると美術館のプランが近露王子跡に対するものである事がよくわかるが、王子跡が 周りに広がる自然風景を代表する林であるのに対して、風景に溶け込んでいるとは言えない美術館の人工的なフォルムは、 川の向こうに広がる人家を始め とする自然に抗う物の代表のように感じられる。しかし、高さのボリュームを持たないこの人工物は圧迫感を与えるわけでもなく、 かつての人工物である王子社との対比あるいは皮肉を感じさせ適度な緊張感と存在感を示しており面白い。


石畳の間から覗くフウロソウ  明るい古道には石畳の間からピンク色のフウロソウの花が覗き、刈られたばかりの斜面の下草からは草いきれが漂う。登りはそれなりに 急だが久しぶりの山歩きの感覚に心が躍った。

 道は昨日の大日越えと同様すぐに杉林に入った。しばらくして軽装を通り越して只の観光客といった身なりの人達に 何組かすれ違ったが「こんにちは」と挨拶しても無視されるばかりだった。 山登りの経験が無いのならば挨拶する習慣がないのも当然かと思ったが、当然ながらあまり良い感じはしなかった。

箸折峠


牛馬童子像  登り道が終わるあたりを箸折峠といい、ここに花山法皇供養の為に納経したという宝印塔に、法皇をモデルにしたと言われる牛馬 童子像が立っている。牛と馬を並べた背にまたがっている袈裟姿におかっぱ頭の子供の石像は、隣の役行者像 と同じ作者によるもの で割と新しいのではないかと思われるが、表情が可愛らしいので人気がある。行った時にはキャンバスに絵を描いている 人がおり、通る人は皆写真を撮っていった。この箸折峠は近露の名前の由来となった花山法皇が箸となる枝を 手折ったとされる場所で、その話が事実かどうかは別にして、そのような言い伝えは藤原道兼に騙され、出家させられた 失意の法皇が那智に至る道のりの途中にこの道を通った事を偲ばせてくれる。


 登りはそこで終わり、平坦な道からすこし坂を下る。一度車道を横切り再び古道に入った。一定距離ごとに道標が立ち、古道から 外れないよう気配りがされていてありがたい。

 世界遺産に指定されるには単にその対象が貴重であるだけでなく、その 保存対象を維持、管理する為の努力と具体的な計画、方法がしっかりしている事も条件だと聞いたが、よく整備された巡礼の道や、 その道で迷わない為の表示、各ポイントでの説明文などに多くの人々の情熱や努力を垣間見る事ができる。


ツリガネソウ  もっとも、古くから この道を歩いている人のなかには整備されすぎた道やあまりにも気軽に訪れる観光客に本来持っていた魅力がなくなってしまうと 心配する人もいるだろう。しかし、最も中世の巡礼道を追体験できるとされるこの中辺路でさえ所々車道で寸断され、森には 徹底的に杉を植えられてしまっている。もはや人の手を借りなければこれらの環境すら維持できないのは明らかだ。むしろ世界遺産 登録は、熊楠が目の前で見てきたような破壊を抑制する事ができるチャンスであり、 なおかつ観光資源として人々の生活をも潤しそれを再び資源に 還元する事によってさらに価値を高めていく循環型観光開発の一つのモデルになれるのではないだろうか。観光開発というとすぐに 土木建築による環境破壊を想像してしまうが、逆の方法で良い物を残していって欲しいと思う。


アジサイ  杉の樹林下には貧相でつまらない植物しか生えないと熊楠は言っているが、それでも川沿いの少し日が入る場所には、 小さな草花が咲き心を和ませてくれる。 花の写真を撮っていたらいつの間にか大坂本王子跡に到着する予定時間を過ぎてしまった。少しピッチを早めて再び始まった 坂を上る。


大坂本王子跡


大坂本王子跡  大坂本王子跡は逢坂峠の麓にある。峠越えをして一休みするのには丁度良さそうな場所だ。今は王子 社は無く、斜面を平らにした場所に石塔と表示、それに建物の礎石だったのか、何か祈りの対象だったのか崩れたような石が転がって 苔むしているばかりだ。

キバナノホトトギス  水を飲み一息入れてから峠道を登り始めた。大坂と名が付くだけあって結構きつい。2食減らしたにも関らずちっとも軽く なったように感じない荷物が肩に食い込んでくる。汗をぬぐいながら歩いていると斜面に黄色い花がいくつも咲いていた。 キバナノホトトギスだ。自生するのはこんな斜面なんだと思いながら少し荷物が軽くなったように感じた。山道はこうゆうご褒美 があるから皆嵌るのだ。


逢坂峠の歌碑  峠を登りきると車道に出た。その向かいが峠のピークのようで、左手の草むらにはここに茶屋があった事を示す歌碑が立っていた。 峠を過ぎると杉の木漏れ日に包まれた明るい峰が続く。穏やかな山道だが暑い。 中辺路は平均して標高500mくらいのところをずっと歩くのだが、やはり1000mを越えないとこの季節は涼しい風も なかなか吹いてくれないようだ。それでもここで時間を稼がなければと歩を早めた。


杉の切り株  途中、ここにも三体月伝説がある事を示す説明があった。この伝説は本宮だけでなくこのルートに沿って茶屋跡がある上田和や 悪四郎屋敷跡がある 悪四郎山にもあるという。もしかするとそういった自然現象は割と頻繁にこの地域で見られたのかも知れない。それとも本宮 からこの道沿いに伝説が伝わっただけなのだろうか。いずれにしろ、この地域には旧暦の11月23日に三体月を拝む為、 地元の人々が それぞれの伝説を持つ山に登り、お供え物をして読経しながら月を拝む行事があったそうだ。


小判地蔵


小判地蔵  悪四郎屋敷跡の先に小判地蔵という小さな石の地蔵がある。江戸時代、口に小判をくわえたまま行き倒れになった巡礼者を偲んで この地蔵が置かれたという。この話は何か説話めいたものを想像させるが、昔は血糖値の急激な低下から貧血を起こし、 突然倒れる事を「餓鬼」に取り付かれたと言っていたそうで、冬場などに体温低下からそのまま亡くなった人も いたのだろう。

 熊楠の「ひだる神」には餓鬼に取り付かれた様々な例に加え、自身那智山中で「ガキ」に取り付かれ倒れた経験から、 「それより後は里人の教えに随い、必ず握り飯と香の物を携え、その萌しある時は少し食うてその防ぎとした。」とある。 巡礼者には盲人や病気持ちの人もいただろうから、行き倒れになったのが皆 貧血と言う事はなかったであろうが、気軽に車で目的地まで行けてしまう今と違い、巡礼の道を全て徒歩で移動していていた時代は それこそ命がけでこの道を歩いた人も多かった事だろう。

木漏れ日の中を歩く  しかし、熊野古道で面白いのは本宮、新宮、那智に着くまでの道の途中に並ぶ王子社の存在だ。近露王子の由来を見れば 分かるとおり、恐らくかつては単なる宿泊所や休憩ポイントだった場所に熊野の御子神を祀り、仮に途中で挫折してもどこかの王子社 でお参りをしていれば熊野詣は成就した事にしてしまうのだ。この何ともいい加減と言うかおおらかなシステムは、 多分にこれらの王子が造られた平安時代の「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽往生できるという浄土宗の影響を反映している のではないだろうか。 また、これらの祠を現実に遭難者を保護する避難、救護施設として使う事もあっただろう。 熊野九十九王子と言われた王子社の多くが、貴族や庶民が通った山中の中辺路に多いのはそれなりに意味がある気がする。


古道の尾根道  尾根伝いの道を歩いていると、時々道端の藪で「ガサガサ」と音がしてびっくりする。立ち止まって様子を伺うと、藪から 小さなトカゲがしゅるしゅる飛び出して来てこちらの顔を覗き、「しまった!」と言う顔をしてまた藪に戻っていく。 焦って戻っていくなら出てこなけりゃいいのにと思うのだが、必ず顔を覗かせるところが可笑しい。あまりにも頻繁にトカゲと遭遇 するので、もしかしたら彼らは古の巡礼者の生まれ変わりなのかもしれない、と思ってしまった。よく見るとトカゲの細長い顔は 瓜実顔のちょっと間抜けな平安貴族に見えなくも無い。


十丈王子跡


崩れた五輪塔  杉に覆われた道から突然開けた広い場所に出た。その手前の少し高くなっている木陰にひっそりと、崩れた五輪塔が転がっている。 「十丈王子」 と書かれた石碑と説明板が無ければ見過ごしてしまいそうだが、昔は神社の周りに茶店や民家が建ち、中辺路の休憩所として 賑わっていたようだ。「南方二書」には、「官公吏が人民を脅迫教唆して悪をなさしめたる例はなはだ多し」として この王子周辺の神林伐採の為役人にけしかけられた村人二人が神社縁の者と偽称し、 合祀の後役場に訴えられ逮捕、そのうち一人は獄死したという 話を揚げている。

 ここは、昔民家があったあたりまで杉を切り払い、ベンチが置かれてちょっとした公園のようになっている。 丁度1時になったので昼食にした。視界の開けた公園から三千六百峰といわれる果てしなく続く熊野の山並みが見渡せる。 日差しが強いので、ベンチの前に1本だけ残された杉の木陰が動くのに合わせて移動しながら 食事をした。 歩いている時にはなかった涼しい風が時折吹いてきて心地良い。ふとこのまま昼寝でもしたら気持ちいいだろうな、と思ったが そんな事をしたら今日中に田辺に着けなくなってしまう。その代わり、のんびり食事をしてデザートに桃缶を開け、往時の茶店 の賑わいを想像して楽しんだ。


熊野三千六百峰  桃缶をつついていると、向こうから老夫婦が仲良く歩いてきた。
「今日は暑いですね。」
「そうですね。」
と挨拶を交わし、 王子 社跡はどこか聞かれたので教えると礼を言われた。二人は王子社を見てからベンチに戻り一休みしていた。きっと滝尻から 歩いてきたのだろうからこの時間にここまできたのなら近露には3時か4時には着くだろう。 朝早く出てきたんだろうなと思い、のんびり予定オーバーしている自分は予定時間に滝尻までたどり着けるのだろうかと 少し不安になってきた。


 十丈を出て少し歩を早めて歩いたがどうも自分が考えているより歩くスピードが遅いようだ。 荷物が重いせいもあるが、それよりも明らかに 体力が以前より落ちている。歩くのには多少自信があっただけに少しショックだった。最後に寄ろうと思っている滝尻の 熊野古道館は諦めなければならないかもしれない。

大門王子


大門王子  再び始まった杉林から時折見える熊野の山並みを眺めつつ歩いていくと小さな赤い祠の大門王子に着いた。街中を歩くような 軽装の白人の男の子と日本人の女の子の若いカップルが、広げたビニールシートに座りおしゃべりしながらくつろいでいた。 明らかに 山歩きなどした事がなさそうな二人にこの道は結構大変ではないかと人事ながら心配になったが、楽しそうにおしゃべり している姿をみると、二人一緒ならこんな道など問題ないと言っているようだった。

 その二人に挨拶をして王子の説明を読むと、昔はここに本宮の大鳥居 があり、その脇に王子社が祭られたのが由来だという。藤原定家はこの付近の小屋に泊まったそうで、宿泊場所として利用された 事から鳥居や社が建てられたのだろう。しかし、江戸時代には既に社は無くなっており、 今は新しい朱塗りの祠の裏に石碑と笠塔婆、そしてその周りには崩れた石が転がっている。


高原池


高原池  写真を撮った後、休憩せずにそのまま道に戻り緩やかな坂道を下っていった。途中道の左手に突然緑色に濁った水面を持つ 池が現れた。説明も何もなかったが、この池は高原池というらしい。池の縁に降りてみると水面から突き出した枝に トンボが止まり、濁った水の中には小さな魚達が泳いでいた。水面には向かいの山や池沿いの木々が鏡のように映り美しい。魚の いたずらだろうか、風も無いのにその水面にポッポッと表れる小さな波紋は、波紋同士がぶつかり合い、 また新たな波となってゆらゆらと円を描いて広がっていく。広がる波紋に 揺られる幻想的な風景に時間を忘れた。ここには静寂が漂っている。もしこの時人が自分を見たら、傘を差した大きな荷物を 背負ったままポカーンと口を開けて 池に佇むこの人はきっと頭がおかしい、と思ったに違いない。幸い誰もここを通らなかったが、気がつくと30分も 経っていた。慌てて風景を写真に撮り、美しい波紋が映るかもしれないと思って動画も撮ってみた。道に戻ると池と反対側の斜面 に穴が開いており、そこに「ここはあぶない」と書かれた看板が立っていた。この幻想的な池の畔で修行した人が こもった穴なのかもしれない。覗いてみたかったが、なんだか穴に引きずり込まれるような気がして覗くのは止めて先へ急いだ。


棚田から熊野の山並みを望む  下り坂の傾斜がついてきたあたりに屋根の付いた木製の休憩所があり、ここで用を足して水を補給した。急いで歩いているので 汗が滝のように滴り落ちる。頭を冷やす為に水を被ったら気持ちが良かった。その休憩所の脇にへんてこな民家がある。 切妻屋根だけで出来た様なネイティブアメリカンのテントを思わせる家で、こんな所に小屋を建てて何をしているのだろう と思ったら、その奥に陶芸用の釜が見えた。

 家主は陶芸家なのだろうか、ここいらの土は焼き物に よいのだろうか、こんな所に住むのだからきっと変わり者で話をしたら面白そうだな、などと思ったが、 残念ながら家に人はいないようだった。


高原の庚申さん  このへんてこな家を過ぎた先から時々廃屋が現れ、左手には畑も見えてきた。人里の匂いを感じていると坂はさらにきつくなり、 道の脇にある小さな2体の石仏を祭った庚申さんを境に集落に出た。視界が開け、道も舗装されている。斜面には棚田が広がり、 坂道沿いの民家の庭では鶏が草をつついている。その脇には山から湧いた水が流れ、その水で鯉を飼っている家もあった。 民家にはかつて宿をしていた事を書いた札が掛かり、かつてはここも中辺路の宿場町だった事を伺わせる。来た道を 振り返ると一気にかなりの 高度を下りてきたのだと驚いた。きっと本宮に向かう巡礼者がこの急坂を前に体を休めるのに 丁度良い場所だったのだろう。


駐車場からの田園風景  坂を下りきると広い駐車場に大きな休憩所があった。休憩所を覗くとみやげ物なども売っているようだが無人だった。 壁に浩宮が来た時の写真が飾ってある。ここの駐車場や休憩所、それに繋がる車道は見るからに立派だが、もしかしたら ここは皇太子が来る為に山を切り崩して整備したのかもしれない。皇太子が登山好きな事を思うと、 こういった整備の仕方は何とも複雑な気分になる。

 駐車場からは十丈王子あたりから見るのとはまた違った景色が広がり、日の光を浴びて咲くオミナエシや裾野に広がる田園風景 が美しい。


高原熊野神社


高原熊野神社  駐車場から車道に出てすぐのところに「高原熊野神社」があった。小さな神社だが主殿は春日造茅葺の立派な物で彩色が施された 柱や壁などが見事だ。この室町時代の社は、熊野古道で現存する最古の建物だそうだ。かつての各王子社も多かれ少なかれ このように立派だったのだろうと思わせる。社の古さに比べると向拝の下に鎮座する木製の狛犬達は新しそうだ。人間の 様な表情が何とも可笑しい。

 その主殿に並んで連棟銅葺屋根の六(七?)神殿があり、地主神などを祭っている。

高原熊野神社の大樟  この狭い境内には、まるでこの木だけで一つの森を形成しているかのような樹齢千年を越える見事な樟の大木がそびえている。 神社の御神体はこの木を削り、棒にした物だという。 その木陰で地元のおじいちゃんがシャツ一枚で気持ち良さそうに昼寝していた。この神社は地域の氏神様で、 この樟の大木にここの人々は千年以上もの間見守られてきたのだろう。

 明治にはこの神社も合祀の危機にあったらしく「南方二書」には、地元の「大豪傑なる宮本なる男」 が維持金取り立ての役人が来る度に料亭を連れ回し、 酩酊させては出張期限切れにして送り返す作戦を繰り返し、時間稼ぎをしているうちに合祀を免れた、という話が載っている。

 この小さな高原神社だけ見てもこの古木に立派な社だ。中辺路で見てきた「跡」と名が付くそれぞれの王子もきっと そこだけで一つの豊かな世界を創っていたに違いない。


針地蔵  車道沿いの民家の庭に栽培している大量のランを眺めながら古道に戻った。ここからは古道といってもほとんど裏山を 歩いているようだ。さっきの下りでだいぶ高度を下げた事もあり、もう山道という感じはしない。民家の犬に尻尾を振られ、 途中に電波塔があったりして本当にこの道でよいのかなと思いながら表示を信じて先へ行く。

 ちょっとした 峠に方形造の小さなお堂があり、 黄色い涎掛けをした古そうな石のお地蔵さんが3体仲良く並んでいる。「針地蔵」というそうだが針供養をした所なのだろうか。 ここから道はまた下り始め、遠くに猟銃を撃つ音が聞こえてきた。


熊野の山並み  昔は山伏が修行したような岩場の脇から車道に下り、道路向かいの斜め右から再び古道に入った。道標が無ければここなど 見落としてしまいそうな場所だ。ここからはまた杉に囲まれた上りが始まり古道の雰囲気が戻ってくる。

 ここが最後の上りだ。木陰の中の山道だがとにかく暑い。滝尻から近露に抜けるよりこの逆のルートのほうが肉体的 には楽なのかも知れないが、高度をどんどん下げていくこの道は、それにつれて気温も上がっていき、歩く距離以上に暑さ が疲れを増す。手にペットボトルを持ち、水を補給しながら歩いた。この上りの途中で道が左右に別れ、右に展望台 とあったが、より古道らしく見えた左手の道を選んだ。程なく杉の木に「ホラ貝ポイント」と書かれた札が括り付けられている所 があった。 ここでホラ貝を吹くとよくこだまして返事が返ってくるのだそうだ。人の声ではその効果は無いとも書かれてあり、 ちょっとがっかりした。その先にフォローするように「ヤッホーポイント」なるものもあったが試さなかった。さっきから 人の声どころか銃声が聞こえてくるのだ。狩猟に関しては、生活の糧にしていた昔ならともかくレジャーとしての狩猟など自分は 理解できないし、散弾の残虐性や鉛汚染などあまり 良いイメージは持っていない。ましてやかつての浄土でもあるこの古道で銃声を聞くのは気持ちの良いものではなかった。


剣ノ山経塚跡


剣ノ山経塚跡  登り道は終わり、森の中の平坦な道にたどり着いたところで荷物を降ろし休憩した。ふと見ると崩れた石のかたまりが まとまっており、少し先には説明板があった。「剣ノ山経塚跡」とある。ここには本宮まで要所々々に立っていたという 九品(くほん)の門の内最初の下品下生(げぼんげしょう)の門があり、神聖な場所とされたこの場所に経塚が立てられて いたそうだ。 その経塚は明治の末に盗掘され、塚に立っていた笠塔婆はこの先の滝尻に置かれている。九品とは「観無量寿経」に書かれた 一般人の往生 の分類の事で、上、中、下品にそれぞれ上、中、下生を組み合わせた九つを指す。人は生前の行いによって、 その九つの往生のどれになるかが 決まるという。ここにあったという下品下生の門はその最初の一つで、本宮まで並ぶ九つの門を潜る事によって 上品上生の極楽往生に たどり着く。つまりここから聖なる道が始まる事を示していたのだろう。さっき通ってきた大門王子にあったという 大鳥居も九つの門の一つだったのだろうか。

 この九品の考え方の面白いところは、極悪人でも「南無阿弥陀仏」と唱えれば必ず罪を 赦され極楽の蓮華のなかに生まれ変わる、とする万人救済思想で、この世の終わりも近いと思われていた平安時代に極楽浄土を夢見て 救われたいと願っていた人々の気持ちがわかりやすく表れている。

 但し、熊野詣でをした貴族達はどちらかといえば双六でもするゲーム感覚でこの旅路を楽しんでいたのではないだろうか。 古道にある数々の王子やこういった門などのポイントは、宗教的意義も兼ねながら歌会や湯治に禊などのイベント をするきっかけにもなっており、只歩くだけでは疲れる旅路を如何に卒なく楽しめるか工夫を凝らした結果、と見るとこの時代の 上皇達の「粋」といったものも見えてきて面白い。


寝不王子跡


寝不王子跡  休憩の後平坦な道から下り坂に入ると道に日が入ってくるので、西向きだとわかる。帽子を目深に被り直し坂を下っていく。 坂の途中に「不寝 (ねず)王子」と書かれた石碑と説明があった。江戸時代には既に王子跡になっていたようで語源も含めて由来は良くわからない ようだ。滝尻から山頂までの中間地点として、ちょっとした休憩場所だったのだろうか。


乳岩

乳岩  不寝王子から下は、斜面に露出する岩の間を縫うように下りていく。ここに乳岩と胎内くぐりと呼ばれる岩がある。
 乳岩の由来は、奥州藤原氏三代目秀衡が子に恵まれないので熊野権現にお願い したところ妻が懐妊した。そこで夫婦で本宮に向かう途中ここで妻が産気付き、 生んだ子を神託に従い岩屋の下に残して お礼参りを行った。帰りにその岩屋に戻ってみると1匹の狼がその子を守り、岩から滴る乳を飲んで子も元気だったと言う話だ。

 この話は根(黄泉)の国熊野が生を授ける輪廻的価値観を持っていた事を示すものとして理解できる。 ここは、この先の富田川を渡ると熊野の聖域に入る として巡礼者が禊を行っていたと言うから、聖(死)と俗(生)の境界線に生命を育む岩とそれを守る狼がいるという話は、 墓室と子宮を思わせる自然の岩屋が森の生命の循環を象徴し、生態系の頂点に君臨する狼がそのバランスを管理するという事を象徴 していると解釈できる。

 ここでは子に乳を与えるのは岩だが、ローマ建国の祖ロムルスとレムスから1920年にインドで発見 されたというアマラとカマラの姉妹まで、人が狼に育てられた又は助けられた話は古今東西枚挙に暇が無い。 日本ではその名が示す通り、 狼とは大神であり、田畑を荒らす獣を退治する神として信仰の対象になっている。 今でも秩父の三峰神社など狼信仰と関わりのある神社があり、これらの神社に共通する点で面白いのは、いずれも 朝鮮渡来系氏族が開発した地でなおかつ製鉄に関係する山にあると言う事だ。

 傍らに川が流れ、山肌に岩が幾つも露出している剣ノ山は、こちらの方が規模は小さいが新宮の高倉神社付近と条件が似ている。 もし、新宮で製鉄が行われていたのならば狼に関る伝説が残るここでも鉄を産出した可能性があるのではないだろうか。

 この地の鉄と狼の関連は想像に過ぎないが、1905年に最後のニホンオオカミが確認されたのが紀伊半島だった 事が示す通り、狼の多かった地域でのこの伝説は、昔から狼と熊野の人々との良好な繋がりを窺わせる話だといえよう。

 だが、熊野権現により授かり、神である狼に守られた秀衡の子泰衡は父の代までに築き上げた奥州の極楽浄土、平泉と共に頼朝に 滅ぼされている。

 乳岩の岩屋には赤い涎掛けを付けた赤子を模った石に、願い事が書かれた木札がまとめて置いてあった。


胎内くぐり


胎内くぐり  その下の胎内くぐりという大岩は、この岩の下を潜ると安産するという言伝えがあり、乳岩同様泰衡誕生譚との 関わりを想像させる。しかし、巨岩群に生命力を見るというのは、元々ここに古代から巨石信仰があった事を思わせ、それに 滝尻と関わりの深い秀衡を加えて子授け話が生まれたのではないだろうか。

 胎内くぐりの写真を撮っているとカメラの画面に「メモリーカード残量がありません」と表示が出た。出発前に確認した時には 撮影可能枚数が600枚以上あり、1週間の旅行には十分だろうと思っていたのでメモリー切れには驚いた。撮影分を遡り、失敗 写真や高原池の動画を消したがそれでもあと4日分の撮影には到底足りない。SDカードは結構高いので追加購入はしたくなかった が明日田辺で電気屋を探さなければならない。


滝尻王子


滝尻へ下る道の岩  あと少しで中辺路も終わりだというのに明日の電気屋の事やカメラのメモリー残量を気にしながら歩くのはストレスがある。 そうこうするうちに川沿いの滝尻王子に出た。この王子社は五躰王子の一つとして他の王子に比べて格式が高く、熊野権現に子を 授かった秀衡がここに七堂伽藍の寺を建立したという。神社合祀の際は村の神社をここにまとめた為、現在でも 社は残っているが、秀衡建立の七堂伽藍は既に秀吉の紀州攻略時に 破壊され、平泉と同様往時の姿を想像するしかない。

滝尻王子  しかし、それでもここは五躰王子と言われるだけあって、石垣を2段組んだ上に建てられた 拝殿付流造の小さく色あせた社は、山中の神社としては立派なものだ。五躰王子と言えども合祀され消滅した王子社もあるというから残っている だけでも貴重なのではないだろうか。

笠塔婆  神社の石垣の手前には剣ノ山経塚に立っていたという笠塔婆もあった。荷物を降ろし、手水鉢の水で手を洗った後、神社に 参拝した。


王子社脇の岩肌  参拝した後、手水鉢の横にあるベンチに腰を下ろした。なかなか汗が止まらない。 向かいの民家の庭から犬がこちらを覗き、ワンワン 吠えている。人に向かって吠えているというよりは散歩に行きたいと主張しているようだった。ここに到着した時点で既に 5時を10分程過ぎていたので道路の向こうに見える熊野古道館は閉まっていた。まあ、やはりと言うか予定通りなのだが 足が遅くなった自分を認めるようで少し悔しい。 田辺行きのバスが来る5時50分まで中途半端に 暇になってしまったので靴紐を緩め、足を楽にしてカメラの画像をチェックし、改めて消せる画像は消去した。汗の匂いのせいか 虫が纏わりついてうざったい。帽子で虫を払いながらカメラをいじっていると、やはり中辺路を歩いてきたという中年男性が やってきた。挨拶はしたが、なんとなく会話が途切れたままカメラばかりいじっていた。

 
滝尻王子宮  気が付くともう45分だ。靴を履き直し、橋を渡ってバス停に行った。川沿いの車道はここも昔は巡礼の道だったそうだが、 今はすっかり舗装されてかつての面影など見る由もない。この道は今でもきっと幹線ルートなのだろう。交通量が結構あり、 行きかう車はかなりスピードを出している。杉の丸太をしこたま積んだトレーラーも地響きを立てて通り過ぎた。そういえば 歩いてきた道の途中でこんな所にまでといった狭い急斜面にも杉が植えられていた事を思い出した。切った木はどのようにして 道路まで運ぶのだろう。


 バスを待っていると、白いヘルメットを被った地元の中学生が何人か自転車で通り過ぎていった。

 トンネルの向こうから田辺行きのバスがやってきた。予定時間を5分は過ぎているだろうか。相変わらずな ルーズさが何とも心地よい。

 バスは川沿いの道を延々と走り続け、山が切れたあたりから右に曲がり田辺市に向かう。道の途中車窓から道路の脇に 王子社跡が見え、やはりここもかつての古道である事を教えてくれる。

田辺


田辺駅前のバス  40分程バスに揺られ、田辺駅前に着いた時にはもう暗くなっていた。駅前のロータリーには弁慶の銅像が立っている。 その向こうに 停車中のバスのボディーには子供達の絵が描かれ可愛らしい。今日泊まるユースの案内図を見ながら駅前の商店街を通り過ぎた。 古い町のはずだが規則的な方形に区画されている。戦争で焼けて一度町を造り直したのだろうか。メインストリートを外れ、少し 寂れた雰囲気になってきたあたりにユースの看板があった。入り口にはアメリカンタイプの大型バイクが止まっている。 中に入った右側に談話室があり、そこを覗いて中の若い男性に声を掛けると
「僕も客なんで、入り口にある ブザーを押してもらえませんか。」
 と言われてしまった。入り口に引き返してみると確かにブザーがあり、押してしばらく待つと、 少し神経質そうなTシャツに短パン姿の中年男性が出てきた。談話室に上がり、手続きの後料金を払った。 HPに載っていたより少し値段が安い。どうも 消費税分が入っていないようだったが黙っていた。説明を受けてから部屋に案内され

「ここは蚊が多いからね。」
 とベープマットをコンセントに差し込んでいた。

 畳が敷かれた部屋にはさっきの男性の荷物は無く、宿の男性は今日は客が少ないので個室だと言っていた。 明日行く予定の稲荷神社の場所を尋ねると親切に教えてくれ、レンタサイクルを使いたい旨言うと置場所を 案内してくれた。神経質そうに見えたが話すと親切だ。ついでに近所のスーパーまで教えてもらった。

 このYHはまるで海の家のように開放的な造りで、各部屋に行くのには一度靴かサンダルを穿かなければならない。昼間の汗 が残っていたのでまずは風呂にした。開けっ放しの窓から蚊が入ってきたがあまり気にせずに湯船に浸かった。

 風呂から出て さっぱりしたところでビールが飲みたくなり、教えてもらったスーパーに買い物に行った。少し靴ずれを起こしたかかとに貼る バンドエイドと、コッヘル用のガスが減っていたので念の為追加でガスボンベも買った。 ボンベは1本で十分だったが3本まとまった ものしか売っていなかった。重くて嵩張るが仕方が無い。せっかく食料を減らしてもこれではザックの重さはあまり 変わらないかも知れない。

 ユースに戻りビールを冷蔵庫に入れ、談話室の奥のキッチンを借りてラーメンを作った。サバ缶を開け、談話室でビールを 飲みながら食事にした。畳敷きの部屋は、両脇の壁全面に本が並び、それも漫画から美術書、哲学書、宗教書、教育書、 歴史書など多岐に渡るジャンルと量に驚かされる。ここのオーナーは学者か教育者なのだろうか。そんな事を考えながら食事を していると、さっきとは違う若い男性が入ってきた。彼もライダーで一人でぶらぶらツーリングをしているらしい。 ユースホステルは初めて泊まると言っていた。

「普通、ユースホステルってこんなもんなんですか?」
 と質問された。明らかにこの宿に対して不満気である。
「ここは海の家みたいだけど、例えばヨーロッパだと古いお城を改造した下手なホテルなんかより余程良い所もあるし、 日本でも場所によりけりだよ。」
 と答えておいた。彼は不満そうだったが、ここはインターネットも使えるし駅や海にも近くて便利 な上に安いので、今日のように混んでいなければ自分には十分だ。もっとも、その彼も昨日は白馬で野宿して寒かったと言っていた ので別に我儘で言っている訳では無さそうだった。彼と旅の話などしているうちにもう一人のライダーがやってきてバイク話で 盛り上がってきた。バイクの話はよく分からないので部屋に戻りTVのニュースを見ながら荷物を整理して寝た。





Copyright (C) 2005 Namekohouse all rights riserved.