FX自動売買
禁断のケーキ
じゃらん♪
さくらのVPS


9月8日(水) 新宮・本宮

ホテルから見た神倉神社  朝起きて窓から外を見ると昨日の天気が嘘のように晴れていて気持ちが良い。山の方をみると岩にへばりついている神倉神社 がはっきり見えた。

 ホテルの食堂で朝食をとり、新聞に軽く眼を通した。食堂奥に付けられているTVのニュースが各地の台風被害の事を言っている。 新聞の一面も台風だらけだ。去年は冷夏で台風も少なかったが、今年は猛暑で毎週のように台風被害が発生している。 毎年異常気象だと皆言っているが、一体正常な年などあるのだろうか?このまま異常な状態が正常になるのではないかと思う。

 朝食に来ていた他の客はほとんどビジネスマンで、観光客らしいのは夫婦連れが一組いただけだった。コーヒーを飲み、部屋に 戻って歯を磨き、荷物を片付けてフロントへ預けチェックアウトした。


はとぽっぽ  9月とは言え、晴れるとまだ日差しは強い。少し歩くと背中がジリジリしてくる。駅前に「はとぽっぽの碑」とそれに ちなんだ彫刻があり、その前で鳩が日向ぼっこをしていたのが可笑しかった。

 「はとぽっぽ」は日本最初の口語体の童謡で、作詞者の東くめが新宮出身だった事から、碑と彫刻が立てられた そうだ。ちなみに「はとぽっぽ」の作曲者は滝廉太郎で、作詞者共々東京音楽学校、現在の東京芸大出身だ。滝の作品と言えば、 教科書に出てくる「荒城の月」のイメージが大きいが、「はとぽっぽ」の他に「お正月」「鯉のぼり」など 東作詞の童謡を多数作っており、新しい日本の未来を背負う子供達の為のソングライターチームとして活動していたのだろう。 もっとも、作品はそんな大げさな気概を感じさせず、今でも親しまれているのが素晴らしい。


改良鋸  踏み切りを渡り、速玉大社へ向かう道の途中に昨日見た蓬莱山のような小山がある。明神山というそうだ。周りに寺がある事から 恐らくここも古くから信仰の対象になっていたのではないだろうか。頂上には電波塔が立っていてとても目立っている。

 通り沿いにあった刃物屋の店先のガラスケース上に、鋸が杉丸太を挽くように挟まっていた。 「昭和20年頃使用されていた手打の改良鋸」と丸太にマジックで書かれている。鋸は刃に一定間隔で大きな切れ込みが入っており、刃が途中で引っ掛かっても 抜けやすくする工夫がしてある。この町が林業で栄えた頃は、商売道具である木材加工道具の需要はかなりあったのだろう。

 駅から速玉大社へ行く通りの家並みは昨日通った海寄りのエリアと違い、あまり長屋、町屋の面影を持った家や店は無かったが、 看板建築風の建物は残っており、海側より町の中心部の方が栄えていた事が伺える。現在は昨日間違えて出た、新宮城麓の商店街が メインストリートになっているようだ。


王子製紙の灯篭  川沿いの広い道に出て横断歩道を渡り、左に真っ直ぐ行った先に速玉大社がみえる。道は車道だが、歩道に灯篭が幾つか立っており、これが 参道である事を示している。中には「王子製紙株式会社」と入った灯篭もあった。

 王子製紙は東京北区の王子に明治時代にできた製紙会社で、実業団アイスホッケーの強豪である事でも知られている。王子の名 は熊野にある九十九王子と同様熊野の神を祭った王子権現社があるからなのだが、由来は少々複雑で、「江戸名所図会」によると 元はこの地の山に「元亨(げんこう)年中(1321〜24)豊島左衛門、飛鳥(阿須賀)の祠(やしろ)を移す(祭神、 事代主命(ことしろぬしのみこと)なり)。よつて飛鳥山」つまり最初は阿須賀神社を勧請したので飛鳥山と呼ばれたが、 太田道灌により豊島氏が 滅ぼされた後一時荒廃した。

 その後、江戸時代に入ると徳川家光により飛鳥山麓に王子権現社として「紀伊熊野権現を勧請」し、 その時荒廃した飛鳥神社を「台命(将軍の命令)によつて当社(王子権現社)の境内に 遷坐(うつ)す。」とあり、さらに紀州ゆかりの八代将軍 吉宗が「元文(1736〜41)の台命によつて桜樹千株を植ゑさせらる。」ことにより山中は観光 遊楽の名所となり、地元民のためには林業で雇用を創出した事が書かれている。この吉宗版ニューディール政策は 「数千人を雇用」しただけでなく、「花木また林となり、春時ごとに爛漫」となるほど桜が成長し、花見の名所として賑わった事から 観光地としてまた新たな雇用も創出して民衆にも 喜ばれたそうだ。吉宗といえば、”質素倹約”という享保の改革のイメージがあるが、この飛鳥山の開発を見ると、庶民の楽しみを理解しながら現実的な経済効果もあげるという、実務家として優秀な人物だった一面を垣間見ることが出来る。

 その後飛鳥山周辺では江戸の園芸ブームと共に園芸産業が発展し、近郊の染井村では現在の日本人に最も愛されている桜 「ソメイヨシノ」種が作られる。そして明治に入ってから周囲の水資源をベースとした製紙業を渋沢栄一が起こし、 それが現在の「王子製紙」となっている。

 現在でも王子周辺には財務省印刷局があり、飛鳥山は花見の名所として地元に親しまれている。


熊野速玉大社


熊野速玉大社鳥居  朝日を受ける鳥居を潜り境内に入ると、右脇に流造りの小さな「八咫烏神社」と「手力男神社」が仲良く並んでいる。その先 に「奉八度参詣、奥州南部八戸領久慈八日町、吉田金右衛門」と書かれた江戸時代の石碑があり、八戸から歩いて八回も お参りに来た人がいた事が書かれていた。



ナギの大樹  神社に来る道の途中からも見えた平重盛お手植えという「ナギ」の大木には注連縄が掛けられ、 マメヅタや着生シダなどが付着していた。説明板にはボウランが着生 しているとあったが、見つける事はできなかった。

 この木はナギとしては日本一の巨樹だそうで、説明板に「ナギ」が「凪」に通じる事から家内安全、和楽の信仰があり、古くから 熊野詣での印に小枝を手折っていたという説明に藤原定家の歌が添えてあった。今は天然記念物なので枝を折る事はできない。


速玉大社の狛犬  まだ朝早いので参詣客はほとんどいないが、巫女さんたちが開店準備(?)にいそいそと歩き回っている。 よく見ると巫女さんの後頭部 、髪を結んでいる檀紙の上に葉が何枚か付いた小枝が覗いている。ナギの小枝を挿しているのだ。なかなか可愛らしく粋な事をする。

 そもそも巫女さんの衣装というのは女性が着ると何故か可愛く見えてしまう不思議な物だが、袴の帯位置が高い為か 何となくチマチョゴリに似ている気がする。

 朝鮮での伝統装束は、高句麗古墳壁画に現在の物と基本的に変わらない衣装 が描かれている事から、少なくとも朝鮮三国時代(B.C.57〜A.D.668)には成立していたと言われ、 三国時代と言えば昨日の項に挙げた高麗王若光を始め大挙して 朝鮮半島から人が流れ込んできた時代であり、高松塚古墳壁画(7世紀末〜8世紀初め)に髪を現在の巫女と同様後ろで結び、 スカート様の物を穿いた女官達が描かれている事からも 進んだ文化を持った人々のファッションに日本人が影響された名残が残っているのでは ないかと思う。

 もっとも、現在の巫女装束は平安時代の女房装束(十二単)の下着で、現在であれば浴衣やTシャツにあたるという説が 一般的だ。しかし、十二単とは重ね着ファッションな訳で、重ねる前の姿にオリジナル (チマチョゴリ)に近い 形が残っていたとしても不思議ではない。

 日本では女性用の韓衣装を指してよくチョゴリと呼ぶが、チョゴリとは上衣のみを指すそうで、 正しくはスカートにあたるチマをつけて女性用のチマチョゴリ、袴にあたるバジをつければ男性用のバジチョゴリになるのだという。 ちなみに日本語のチョッキはチョゴリを語源とするそうだ。


オガタマノキに着生するボウラン  ブルドッグのようなコミカルな顔をした狛犬の脇を通り、酒樽が積まれた門を潜ると 社が横に並んでいる様子が見える。右手には 大きなオガタマノキがあり、上の枝にボウランが大量に付着していた。オガタマとは神の霊を招く招霊(おぎたま)からきている のだという。

熊野速玉大社の社殿  社は全部で16並んでいる。主殿の結宮と速玉宮のみ春日造で独立しており、第三殿以下は連棟の流造だ。屋根はいずれも 銅葺で、千木のハートマーク形猪眼や蛙股の装飾に八咫烏や三つ巴、 ナギの小枝が図案化されているのが可愛らしい。

熊野速玉大社社殿  拝殿には烏帽子に赤いチョッキを着た白猿が、背負った小猿と共にナギの枝を持って太陽に祈っているコミカル な絵馬が飾ってあった。

ナギの髪飾り  拝殿でお参りし、社務所を覗くとナギの子苗が売っている。これも可愛らしいので買おうか迷ったが, あと5日一緒に旅をさせるのは ナギにとって酷なので止め、牛王符を買った。売り子の巫女さんにあなたの写真を撮らせてほしいと言うと、 OKしてくれたが滅茶苦茶恥ずかしがって真っ赤になってしまい、こちらまで照れてしまった。正面の写真を撮った後、 本当は髪に付けているナギの小枝 を撮りたかったので後ろを向いてもらい、もう一度シャッターを押した。写真の目的はナギの小枝だったが、この神社の巫女さん は皆さんなかなか可愛らしい人が多く、巫女フェチにはたまらないだろう。実際、インターネットで「巫女」と検索すると、 危ないサイトばかり出てくるのには驚かされる。

八咫烏、ナギ、三巴のデザイン  個人的な印象だが、この神社は天気が良いせいか、新宮の街中にあるからなのか、それとも新宮の人達の気風 からなのか、はたまた巫女さんが可愛らしいからか、あまり肩肘張った感じは無く、庶民的で明るい印象を受けた。

千木の猪目はハート形  再び門を潜り、神宝館で展示を見た。那智と違い街中にある神社だからだろうか、 熊野詣の貴族達はきっと長居したに違いない。室町時代の物ではあったが 貴族達の雅な持ち物が多かった。面白かったのは神宝を阿須賀神社に貸したら戻ってこないとか、終戦後刀を米兵に盗られたとか 近所で喧嘩しているような事を説明に書いている事だ。熊楠も熊野三山の神官達は馬鹿ばっかりで貴重な宝物がどんどん流出し、 今はろくな物が残っていないと言っている。もちろん米兵に盗られたのは許しがたい事で、イラク戦争後バグダッドの博物館から 文化財が 盗まれたり、捕虜を虐待しているように、民主化の悪い例を地でいく軍隊なのは今でも変わらないのだろうが、熊楠の言うように 保護する側の姿勢にも問題があるのではないのだろうか。実際、神宝館は国宝級の宝物を保管する施設としては、ほこりだらけで 外気が直接宝物に当たるなど、お世辞にも最適とは思えない。


佐藤春夫記念館


佐藤春夫記念館  展示をゆっくり見た後、境内の一角にある佐藤春夫記念館に行ったがあいにく休館だった。佐藤は昨日訪れた西村家と親しく 交流していた新宮出身の作家で、文化学院で教鞭を執っていた事もあったそうだ。建物は東京文京区にあった佐藤邸を移築したもので、 ピンク色の外観が 目を惹き、建物から突き出た八角形の塔に避雷針が伸びているのが印象的だった。これは西村記念館のベイウィンドウを彷彿とさせる。 実際の設計は西村の実弟大石七分だそうだが、外観からも明らかに西村の影響が伺える。


寺の後ろは崖  神社境内をぐるっと回って鳥居脇から車道を渡り、山沿いの道を進んだ。山裾には熊野別当をはじめとする、時代ごと の熊野支配者ゆかりの寺や屋敷跡が並んでいる。山裾は斜面というよりほとんど崖で、 寺によっては転落した岩で屋根が破損していた所もあった。寺は通常戦略拠点としての機能も考えて作られるので、背後に崖という のは防御する上で有効なのだろう。

 今はそんな権力者の威勢を感じさせる事もなく、速玉大社と神倉神社を結ぶのんびりした散歩コースとなっている。


堀内氏屋敷跡の門にいる眠り猫  神倉神社に向かう道の途中、小学校の脇を通ると子供達の歌声が聞こえてくる。暑いので窓を開けて音楽の授業をしているのだろう。 何だか変わった曲を歌っているなと思ったら、琉球旋法だ。今時の小学校の音楽教材に沖縄物があるとは知らなかったが、 今日の天気にピッタリで心地よかった。


 麓から神倉神社を望む  小学校の脇を抜けしばらく行くと、山にへばりついている神社が見えた。神社がへばりついている巨岩が御神体だが、朱色の社 の方が下から見上げると良く目立つ。


出雲大社新宮教会


熊野の出雲大社  参道の麓には何故か出雲大社新宮教会という小さな神社があった。今日では一般的に熊野といえば紀伊半島南部を指すが、熊野という名 が最初に書物に出てくるのは実は出雲の地名としてであり、「出雲国風土記」には「杵築(きずき)の大社(出雲大社)」 と並び大社と称される 「熊野の大社」が熊野山(現在は天狗山)に坐す事が書かれている。同書の駅・神戸の項には、祭神をイザナギの子 「熊野加武呂乃命(クマノカムロノミコト)」と「大穴持命(オホナモチノミコト)」の2神とする神戸として 「出雲の神戸」が記されている。熊野加武呂乃命は 「出雲国造神賀詞」には「加夫呂枝(カブロキ)熊野大神櫛御気野命(クシミケノミコト)」と書かれており、クシミケとは奇御食 の事で食物を表す。実際に 今でも出雲大社の新嘗祭での神饌の調理には、出雲の熊野大社の火鑽臼、火鑽杵でおこされた火を使い、出雲大社の宮司が熊野大社 を訪れて神饌を捧げ、火鑽臼、火鑽杵を借りる「鑽火祭」という神事が行われており、熊野の神が食物と火にかかわり、 出雲の神とのつながりもある事がわかる。


権現山入り口  どうもここ紀伊半島の熊野とは、この出雲の熊野から移住した人々がいた事から付いた名のようだ。今日これから向かう 本宮は「牟婁(むろ)郡」にあり、主神は「家津美御子(ケツミミコ)大神」という。牟婁とは「日本書紀」の継体天皇六年(512) に百済が割譲を要求した朝鮮半島南部、任那の地名として出てきており、この朝鮮語の”ムロ”が日本で集落の単位である ”ムラ”に転じたのではないかともいわれている。この時この話にかかわった人物が、穂積臣押山という。 穂積とは熊野 三党、鈴木氏につながる血統だ。一方、日本海に面した出雲の地は、古くから朝鮮半島と深くかかわっていることが知られており、 朝鮮半島の牟婁→出雲の熊野→紀の国の熊野 と人が動いた可能性がある。この押山が、具体的に任那の民の移住にかかわったかどうかはわからないし、移住はそれよりはるか前だと も考えられるが、少なくとも紀伊半島の熊野にかかわる穂積氏が、任那の一県の国主として派遣されているのは歴史的事実であり、 欽明天皇二年(541)の任那復興の項には 百済の使者として穂積氏と朝鮮人の混血とみられる紀臣奈率弥麻沙(きのおみなそつみまさ)が登場する事をみると、 例えば任那滅亡に際して日本に移民が行われ、それになんらかの形で穂積氏やその混血の子孫達も かかわっていたのではないだろうか。つまり、任那からの移民は長い期間を通じて数次に渡って行われ、 一度出雲に定住した後、紀伊半島にやってきた人々と、任那滅亡の前後に紀伊半島の氏族穂積氏に連れられて朝鮮から直接紀の国熊野に 移住した人々がいるのではないだろうか。その時、紀伊半島の地勢を故郷、ルーツである朝鮮半島と見立てて移住したのかもしれない。 紀の国の熊野の主神「ケツミミコ」は、移住した初期の人々が出雲の熊野から連れてきた神「クシミケ」が訛り、 あるいは変化したと解釈できるだろう。


神倉神社


参道入り口の清水  参道に入る手前に小川があり、「下馬」と書かれた橋を渡るとひんやりした風がスーッと吹いてきて気持ちがいい。 橋の向かいの岩肌から水が流れ落ちており 、森の木々を抜ける風がさらに冷やされて吹いてくるのだ。橋を渡る前とは明らかに違う空気に神域に入ったという 気分になった。

猿田彦神社、三宝荒神社  その流れおちる水の手前に、猿田彦神社と火産霊神(ほむすびのかみ)、誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭った 神倉三宝荒神社という小さな祠があった。

 猿田彦はニニギノミコトの天孫降臨の際道案内をした神で、 伊勢海人系の太陽神だったとされている。また、神倉神社の御神体であるゴトビキ岩はニニギの子孫である神武が紀伊半島に上陸した際登った「天磐盾」とされている。 これは天孫降臨 が山頂で果たされる事を象徴していると考えられるが、その麓に猿田彦を祀っているのは神話との一致を図ったのだろうか。 あるいは、猿田彦が伊勢海人の信仰対象だった という事から 伊勢と熊野の海上交流があった事を物語っているとも言えよう。

 実際、神倉神社の御神体であるゴトビキ岩は熊野灘から良く見え、岩の周りでは銅鐸が見つかっている。 恐らくこの岩は神武以前に海からの目印として灯台の役割も果たしていた信仰対象だった のだろう。

 また猿田彦は鼻の長い巨人であったとされ、天狗を彷彿とさせる。 天狗は山伏を連想させ、山の岩場は絶好の修行場であった事から、古代信仰と修験道が混ざり、ここに猿田彦が現れたとする伝説を 生んだのかも知れない。そもそも権現山というこの山の名前自体が修験道とかかわりが深い事を示している。

 猿田彦と言えば、手塚治虫の傑作「火の鳥 黎明篇」に、自らの容貌と猿田彦を重ね合わせたキャラクターが出てくる。 作品で猿田彦は悲憤の死を遂げるが、「火の鳥」シリーズではその後も子孫が「猿田」として度々現れ重要な役割を担っている。

参道のキノコ  猿田彦と共に祀られる三宝荒神社は高野山から勧請されたとあり、祭られている二神のうち一方の ”火産霊神”は、古事記や日本書紀の「火之夜芸速男神(ひのたぎはやをのかみ)」あるいは「軻遇突智神(かぐつちのかみ)」 として、その誕生の際、母イザナミを焼き殺しイザナギに斬首され る話に出てくる神の別名で、その名の通り火の神の事だ。昔は各家庭の台所に竈の神として祭られていたが、鬼門を封じる神として も知られ、京都の西の鎮守、 愛宕神社に火防せ(ひぶせ)の神として祭られている。その愛宕神社は中世修験道のメッカでもあり、猿田彦とのつながり を感じさせる。

木々に覆われた参道を登る  もう一方の誉田別命とは応神天皇の事で、神功皇后こと息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)が新羅征討後、 九州で応神を生み、海路難波上陸を試みて失敗した後、紀伊半島から北上して異母兄を 討ち果たし天皇となった話が記紀に記されている。この話はルートが全く同じである事から神武東征譚を彷彿とさせる。

 また、応神は宇佐神であるとされ、大分県 宇佐の宇佐神宮に祭られているが、別宮として八幡宮が建てられ、渡来系金属加工技術の守護神として祭られた。後の奈良の大仏鋳造 に宇佐神宮司である大神氏が力を発揮した事や、武器の鋳造からの発想だろうか、京都の南西、裏鬼門の守護には宇佐八幡を 勧請した岩清水八幡宮が 置かれ、その後清和源氏が武神として八幡信仰を持った事から、鎌倉の鶴岡八幡宮をはじめとして全国に八幡宮が建てられている。

 話はそれるが、エジソンが白熱電球を発明した後、木綿に代わるフィラメント素材耐久実験で最長時間記録を出したのは 岩清水八幡宮境内の真竹だったそうだ。

苔から生える杉の子や笹達  また、宇佐という地名は、記紀に神武とのつながりも記されており、神武が宇佐に到着した時宇沙都比古、宇沙都比売が川の畔に 「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」を造営し、歓待したという記述がある。神武と応神の数々の共通項はこの二人が 同一人物だった可能性を示唆するが、あるいは逆に応神の出自が怪しかった為、強引にその正当性を主張する目的で作られた 話と考える事もできる。

 宇佐と繋がる誉田別命が象徴する金属加工は、当然火の制御が重要である事から、火産霊神とセットで祭られるようになったのだろう。 火と金属加工を一体で捉えている話としては、記紀にイザナミが火の神カグツチを生む時嘔吐し、 それが金山彦という神になった話が載っている。嘔吐は金属中毒、金山彦は その名の通り金山あるいは金属加工を表していると考えられ、古くから火と金属が関連付けられていることがわかる。

 これらの神々が高野山からやってきた三宝荒神社としてまとめて祭られているのは、単純に密教、あるいは修験道の 影響なのかもしれないが、 空海自身高野山を開いた目的の一つは 鉱山資源の開発でもあったといわれている事を考えると、これは権現山で実際に金属加工をしていた可能性がある事を示唆している。

 実際に神話、渡来人、初期仏教、修験道に関わる山に鉱物資源がある事は非常に多く、 鉱山開発が大和朝廷の発展に重要視されていた事を伺わせる。


鎌倉積の石段  神倉神社に向かう参道は見上げるような急な石段になっており、先行して上っている夫婦連れが、降りてきた人にあとどれ位この石段 が続くのかと訊いている。この石段は源平の戦いに功績のあった熊野水軍を賞して源頼朝が寄進した鎌倉積だそうだが、 戦下手だった頼朝は、以仁王の平氏討伐の令旨を受けて挙兵した最初の合戦、相模の石橋山の戦いで負け、房総半島に 逃れ板東武士をまとめながら北上し、鎌倉で幕府成立の礎を築いた事を神武東征譚に重ね合わせたのかもしれない。それとも、度々 熊野詣を行ったライバル、後白河法皇に対する力の誇示の意味もあったのだろうか。

岩を這う杉の根  頼朝が落ち延びた房総半島の形状は紀伊半島と似通っており、白浜、勝浦と共通の地名や熊野神社がやたらとある事が物語るように、 古くから紀伊半島の移民が多かったようだ。「常陸国風土記」の「筑波郡」の項には房総半島の上部にあたるこの地を 「筑波の県(あがた)は、古、紀の国と謂ひき。」とあり、紀伊半島からきた人々がいた事を示唆している。 熊野灘から黒潮に乗って北上すれば自然と房総半島にたどり着き、地形や気候が似通っている事 からきっと熊野人には住みやすかったのだろう。頼朝が房総半島の熊野系海人のコネクションから熊野水軍を味方 に付けたのだとしたら面白いが、そもそも頼朝の挙兵にここ新宮ゆかりの新宮十郎行家がかかわっていることから見ても、それよりは熊野水軍と源氏を結ぶより直接的なネットワークが存在していた、と考えるほうが自然かもしれない。


火神社、中地蔵  急な石段は上り始めてからしばらくして少しゆるやかな勾配に変わり、先ほどの夫婦を追い抜いた。 石段の周りをみると苔むした岩盤が露出しており、 杉の根が地面に入れず横に伸びている。この山は固い岩でできている為、根を張る土がないのだ。 こんな所によく自然石の階段を作ったなと感心した。

 途中に「火神社」と「中地蔵堂」の小さな祠が仲良く並んでおり、ちょっとした休憩場所になっていた。神倉神社 境内手前の木々の隙間 から新宮市内と熊野灘が望める場所があり、結構な高さを上ったのだなと実感した。

中央の小山が蓬莱山  そこから少し上った先の鳥居を潜り、境内に入ると右手に立派な手水鉢があった。江戸時代新宮二代目城主水野重良が寄進した一枚岩の手水鉢 だという。その手水鉢で手と口を漱ぎ、巨大な岩塊の縁を回って神倉神社の方へ行くと、視界が開け、さっき見たよりさらに広く 市内や海が見渡せた。昨日行った新宮城跡や蓬莱山も見える。吹いてくる風が心地よく、短時間で これだけ高度を稼いだかと思うとそれなりの達成感があった。

ゴトビキ岩には顔のような模様がある  神社は岩に引っ付いているのかと思っていたが、岩とは別に石垣を組み、その上にゴトビキ岩と並んで建っていた。 春日造銅葺きで1間四方の小さな社だが、これも速玉大社と同様最近整備されたのだろうか、柱周りの装飾が鮮やかだ。 社の小さな門の前に聖護院の 木札が置かれ、梵字の下に「世界遺産登録記念奥駈世界平和如意祈願」と書かれていた。 

 この神社の祭神は「天照大神」と「高倉下命(たかくらじのみこと)」でアマテラスはこの岩が海に向かって東向きである事から 猿田彦と同様太陽信仰の象徴として祭られたと理解できる。

ゴトビキ岩から新宮、熊野灘を望む  タカクラジは神武軍が熊野に入り苦戦した時、神託により神剣をさずかり 神武軍を助けた功労者だ。古事記ではその戦いで大熊が出たり入ったりした後消え、神武軍が気を失って倒れたとあり、 日本書紀には丹敷戸畔 (たしきとべ)が毒を吐いて神武軍が戦意を喪失した時タカクラジが救った話が載っている。丹敷戸畔の戸畔とは女首長を表し、 丹は水銀のことだ。この二つの話は、神武軍が女系部族のゲリラ戦で水銀中毒に陥り苦戦した時、剣に象徴される、 やはり金属 加工技術を持った一族に解毒法を教えてもらい助けられ活路を見出したとも解釈できる。水銀は金の精製に必要な事から古代より 重要視され、丹の付く地名 の多くは古来水銀の産地として開発されている。

 例えば昨日の項に書いた高麗王若光が開発した大磯の背後には沢山系があり、弘法大師空海 が開いた高野山の土地神に生姫(にゅうひめ)がいるし、四国八十八箇所は鉱山を結んだ開発ルートでもある。水銀は金属精製 の他に高貴の色、防腐剤でもある朱の製造にも必要であり、不老長寿の薬、あるいは毒薬としても 砒素と共に古今東西の権力闘争に用いられている。

 現在知られている熊野の鉱山跡は那智勝浦と、熊野川を遡った三重県紀和町にあり、新宮とは少し離れているが、 この山に祭られている神々をみるとやはり権現山あるいはその周辺にあった鉱物資源を加工していた一族がいたのではないかと思う。

 ゴトビキ岩の隙間  お参りして注連縄がかけられたゴトビキ岩の麓に上がると岩と岩の間に人が入れるような隙間がある。山伏はきっとここで修行 するのだろう。ゴトビキとはヒキガエルの事で岩のゴツイ形状を指しているのだろうが、いわゆるガマの油である蟾酥(センソ) を強心、鎮痛、解毒剤あるいは覚醒剤として古くから山伏が服用していた事とも関係があるのかもしれない。


ゴトビキ岩に咲く花  気持ちが良いのでゴトビキ岩の周りでのんびり花の写真など撮っていたら、かなり時間がたってしまった。もう少し ゆっくりしていたかったが境内を出た。そこからさらに山頂に向かう道を見ると、「満山社」と書かれた小さな祠があった。満山とは 宇佐八幡から国東半島に広まった神仏習合の寺院群六郷満山の事ではないだろうか。もし宇佐系の直接の影響があるなら ほぼ間違いなくここで金属精錬をしていたと言えるだろう。

ゴトビキ岩  神倉神社は中上健次 の小説、映画「火祭り」の舞台にもなった、松明を持った白装束の男達が神社から急な石段を駆け下りる 「お燈祭り」が有名だが、 六郷満山の寺でも旧正月に松明を持った鬼が寺から町へ降りていく 「修正鬼会(しゅうじょうおにえ)」という祭りがあり、火に関する信仰や応仁天皇譚などつながりを感じさせる。


苔に覆われる杉の切り株  写真で見たお燈祭りはもっと広い参道を下りているのかと思ったが、こんな狭くて急な石段を殺気立った男達が我先と争って 駆け下りるのは結構危険だろう。現にバスの時間の事もあり急いで階段を下りたのだが、とても走れるものではなかった。もっとも、その危険ゆえ男たちがアドレナリンを分泌させ、祭りのボルテージを押し上げるのだろう。

 石段の脇に、行きには気付かなかった杉の切り株に生えた苔から杉の子が顔を出している。 この山はほとんど杉のようなので、 人の手は入っているのだろうが、それでもこうやって自然は循環 していくのだなと妙に感動した。それにしても切り株の苔から顔を出す杉の子はとても可愛らしい。


 弾むように石段を降り、アスファルトの道に戻るとやはり暑く、下界に戻った感じがした。 神倉神社から駅へ向かう道沿いには小さな店が並んでおり、 種苗専門店の「たね」とだけ書かれた看板が面白かった。

浮島の森


浮島の森  駅へ向かう道を少し左に逸れた住宅地に緑に囲まれた一角がある。浮島の森という天然記念物に指定された公園だった。 入り口になっている事務所に入ると、受付のおばちゃんが客の中年男性と話し込んでいた。 園内の植物の話を熱心にしている。入園料100円を払うと、

「蚊がいるからうちわ持ってって。帰りに返してね。」
 と、 うちわを渡された。

 浮島の森は沼に生えた植物が堆積してできたその名の通り浮島で、山伏の修行の場でもあったという。沼はコンクリートで囲われ、 島には浮橋が渡されて直接島に下りる事はできない。この島には箸になる枝を取りに行った「おいの」という娘が蛇に呑まれ、 底なし沼に引きずり込まれたという伝説があり、実際にそのような事故は多かったのだろう。

沼にいたトンボ  緑に濁った沼の上にはトンボが飛び交い、 沼の中には魚に蛙や巨大なオタマジャクシがうじゃうじゃいた。水質が良いとは見えなかったが、イトトンボも飛んでいた。

 なんでこんな所に底なし沼があるのかと思ったが、温暖な縄文時代まで新宮市内は海の底だったのだそうで、海面が下がった後、 ここが沼沢地になった名残らしい。権現山の急な岩肌や蓬莱山や明神山のような丸みを帯びた小山ができたのは、 新宮が海だった時代に波に侵食されて今の形になったのだと納得できた。

森の中にいたカエル  コンクリートの沼沿いの道から浮橋を歩き、島の中に入ると鬱蒼としたジャングルにいるようだった。もっとも生えている植物 はアマゾンのようではなかったが、南方系、北方系の植物が入り混じった珍しい植物群落らしい。中には徐福公園で見た天台烏薬 や杉、イヌマキ、ハゼ、地面にはシダやラン、苔、水中からショウブなどが生え、 杉の様な高木性の木は腐食質の不安定な土の為、根が半分浮いて傾いている ものもあった。植物を見ているのも面白いのでゆっくりしていたかったが、時間がないので駆け足でザッと見て回った。 おばちゃんが言っていた蚊は寄って来ず、うちわはもっぱら自分を扇ぐのに使った。

鬱蒼とした森  浮橋を渡り沼の周りを歩いて受付に戻るとおばちゃんがさっきの男性とまだ話していた。

「よかったらお茶飲んでって。」
 とカウンター横にあるポットを指した。

 丁度喉が渇いていたので、良く冷えた お茶は旨かった。そのお茶のパックを売っていたが荷物になるので買わずにおばちゃんに礼を言い、うちわを返して駅方面 に向かった。


熊野川


 踏み切りを渡り、駅の横からバス停をかすめてホテルに戻り、預けていた荷物を受け取った。 預かってもらったと言っても ロビーのソファ脇に自分が置いたままの状態で放置されていただけだったのだが・・・。ともかく礼を言い、ホテルを出て さっき横をかすめたバス停に戻った。

 昼時だったので腹が減ったが出発まで10分しかないので諦め、1万円札を事務所で崩して自動販売機で スポーツドリンクを買った。

熊野交通バスのエンブレム  しばらく待っていると、本宮大社行きのバスが来た。バスの正面には熊野交通バスの エンブレムになっている八咫烏のマークがついており、地元ゆかりのデザインに熊野人の誇りを感じることができる。

 客は地元のおばあちゃん達が数人と、観光客が4、5人ですいていた。発車した後、バスは昨日間違えて出た新宮城下の商店街 を抜け、早玉大社から神倉神社の脇を通り、 岩を露出した権現山の横から山を貫通しているトンネルを抜け、熊野川に出た。

熊野川沿いの崖  川沿いの道は大きく蛇行する川の流れと、その向こうに見える急な山から覗く奇岩や、岩肌から落ちる滝が続き、時たま 川沿いの狭い平地に民家や横長の学校が建っており、 眺ていても飽きる事がなかった。

バスから見た滝  車窓から見える景色を撮っていると、バスが停留所でもない所で突然止まり、運転手さんがバックミラー越しにこちらを見て左側を 指差している。何かと思って見ると車道すぐ脇の岩肌から滝が流れ落ちているのだ。自分が写真を撮っているのを見て、 わざわざ止まってくれたらしい。滝の写真を撮り、運転手さんに礼を言った。

 途中の停留所でおばあちゃん達は降り、熊野川から支流の諸川沿いをしばらく行った後、川湯温泉で観光客も全て降りた。 温泉が近づいてきたあたりから川の水がコバルトブルーになっている所があり、綺麗だなあと思っていると運転手さんが 話しかけてきた。

「この路線、3日に一遍のローテーションで運転すんのやけど、お客さんおらへんでしょう。かといって (停留所の)時間があるからすっ飛ばして行くわけにもいかへんしね。暇でしゃあないんですわあ。 こうゆう運転が一番疲れる。」

 そう言われてみれば新宮から熊野川に出るトンネルを抜けた後、乗ってきた客は一人もいなかった。そんな話をしているうちに湯の峰温泉で客が一人 乗り、何となく話が途切れてしまった。

豊かな水が熊野川に注ぐ  湯の峰温泉から本宮大社までの道は車道でも結構な急坂を下りていく。 本宮詣での後、湯の峰まで大日越えと呼ばれる古道を歩くつもりだが、この急勾配だと結構大変そうだ。地図を見た感じだと 50分くらいと踏んでいたが、もう少し余裕を見た方がよさそうだ。

 坂を下ると熊野本宮という停留所がある。そこで間違えて降りそうになったが、運転手さんに、

「本宮大社まで行くんやったら 終点まで乗っとって。」
 と言われ、間違わずに済んだ。

 そこからすぐに川沿いの道になり、川原に巨大な鳥居が立っているのが 見えた。終点は本宮大社の目の前で、運転手さんが

「本宮大社はそのすぐ前やけど、川の方に行くと大きな鳥居があるのが 大斎原(おおゆのはら)ゆうて本宮大社が元あったとこや。」
 と教えてくれた。礼を言うと
「ありがとう、気いつけてや。」
 と返された。


大斎原


大鳥居  やはり新宮の人は人懐こくて親切だなあと思いながら、まずは大斎原に行ってみた。大鳥居に向かう道は田んぼに囲まれ、 黄金色の穂を付けた稲が残っていてのんびりした風情があった。

 田んぼ脇の道を大鳥居に近づいて行くと鳥居がズームアップされるようにせまってくる。間近で見ると、 田んぼの中のこのデカイ鳥居は威厳を 通り越してほとんど間抜けだ。確かにランドマークとしての機能は果たしているが、観光名所としての 他に意味はあるのだろうか。脇にあった説明板の気張った文章を読むと、鳥居がさらに滑稽な物に見えてきた。高さ34m、幅 42mは日本一大きいのだそうだ。

 もっとも、創建当時の出雲大社本殿は3本の大丸太を一つにまとめた柱群に支えられ高さ48mを誇ったというから、同様に 由緒ある熊野本宮の巨大鳥居を古代の人は喜ぶかもしれない。その出雲大社本殿はよく風もないのに突然倒れ、祟りだと 恐れられたそうだ。そんな建物で仕事をしていた宮司も命がけだったことだろう。

 古代の人に限らず奈良の大仏から 横浜のランドマークタワーに日本一を奪われたにも拘らず東京都内で それ以上の高さのビル建設を絶対許可しない東京都庁まで、権力に関る人々は今だに高さにこだわっている。

 ちなみに今 は地震や火災で消失した為ほとんど知られていないが、譜請道楽で有名な秀吉は、現在の三十三間堂の北、 方広寺に奈良東大寺より大きな 京都の大仏を造っており、「洛中洛外図」にも描かれている。現在の方広寺には豊臣家滅亡のきっかけになった「国家安康君臣豊楽」の 銘が入った鐘があり、往時を偲ばせてくれている。


大斎原  鳥居から旧境内に向かう短い道は、杉木立に囲まれ落ち着いた雰囲気だ。歩いてすぐの開けた場所が旧社地で、 少し高くなった広い敷地の中央には大木に挟まれて小さな石の祠が二つ並んでいた。敷地の広さから旧本宮大社の規模が類推できる が、さすが本宮というだけあって広い。往時はさぞ立派だった事だろう。

 旧本宮大社は明治以降の急激な森林伐採を原因とする洪水で、明治22年に倒壊したのだという。そういえば新宮の速玉大社 から神倉神社に向かう道の途中に、その時の熊野川の氾濫でここまで水が来たのだという標識があったのを思い出した。頭上2m をはるかに超える所まで水がきたようで、恐らく新宮市が水没するような状態になったのではないだろうか。 この時の洪水で上流の十津川村では土砂による天然ダムで村が水没し、村民が村を捨てて北海道に移民する事態にまでなったのだそうだ。昨夜のニュースで十津川村の住民が台風を警戒して自主的に避難したことを伝えていたが、これは恐らく明治の大洪水の記憶が今に語られ続け、村民に生きているという証なのだろう。

 現在の旧社地は杉林の間からとうとうと流れる川が見え、広い敷地は日当たり良く、桜の木があったりして花見や ピクニックにもってこいの場所だ。当然花見なぞしたら怒られるのだろうが、本宮大社の祭りはここで行われるのだそうで、 広い旧社地は祭りの舞台には丁度良さそうだ。

大斎原の彼岸花  杉林から川原に向かう道端に彼岸花が咲いている。川原にでると広い川面の向こうに蒼々した山が連なり、 開放的で気持ちが良かった。


大斎原から十津川と対岸を望む  なぜこのような川の中州に立派な神社ができたのか疑問だが、明らかに古代より信仰があった那智や速玉(神倉)と違い、 信仰の対象となるような巨大な自然物も見当たらず、古事記や日本書紀にもこの中州の事 は全く触れられていない。この事は皇族とその周辺を神と繋がらせる必要があった両記紀編纂時には、 まだこの中州に神が存在しなかったか、いたとしても重要視されなかった事を物語る。

 初めて文献に出てくるのが平安時代の「扶桑略記」で、 崇神天皇65年(B.C.33)、この中州のイチイガシの樹上に月が3つに別れた「三体月」が出現した事が神社建立の由来とされている。 崇神には木国造、荒河戸畔の女、つまり紀州豪族の娘「遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)」 という、親の名に「荒河」、娘の名には「年魚(あゆ)」と熊野川を連想させなくもない紀州出身の后がいた事から その時代に建立された可能性はあるだろう。

大斎原の稲田  しかし、由来となる三体月は森と川の発する 水蒸気が起こす自然現象として現れた可能性はあるが、それ よりも、平安期に起こった熱烈な浄土信仰における西方極楽、東方浄瑠璃、南方補陀洛の各浄土仏である阿弥陀、薬師、千手 の三観音の象徴として 根の国(死後の国=浄土世界)である紀州に現れたと見るべきで、そう見ると神社の成立、少なくとも現在のような大規模な社殿 の成立は古代から信仰があった那智や新宮 に比べるとかなり遅いと考えられる。

 では、何故寺ではなく神社なのかと言えば、やはりこの地に熊野の神を祀る人々がいたからだろう。しかしそれは三体月が現れた からというよりは、恐らくより現実的な理由であろうと思われる。何故なら この中州は熊野川、音無川、岩田川の合流地点にあたり、船を使って新宮に物資を運ぶ物流の中継地点として 古くから利用された可能性があるからだ。 現にこの川のルートは中世には川の熊野古道として、それ以降明治までは 材木の輸送ルートとして新宮に人や物資即ち富を運び、特に江戸時代には材木や炭を外貨獲得源と して新宮からさらに船で江戸へ輸出しており、 常に紀伊半島の物流、経済の動脈として重要な役割を担っている。

 また、本宮大社に残る数少ない神宝には古墳時代から江戸時代にかけて奉納された鏡が16面あり、 それらに中国、朝鮮からの舶来鏡 が多い。この事はこの山奥の本宮にも大陸と繋がる人々がいた事を示唆しており、恐らく当初海岸線近くにいた大陸系移民 あるいはその子孫達が鉱山開発等の目的で河を遡り、この辺りをベースに入植した可能性があるのではないだろうか。平安期 の「長寛寛文」(1163〜65)と呼ばれる文書に「熊野権現垂迹縁起」という熊野の神々の由来を語る部分があるが、その中で熊野 の神は中国から九州、四国の霊山を経て新宮、本宮へ移動しており、本宮の中洲の樹上に現れる月としてこの神を発見したのは 犬飼、つまり猟師と記されている。この山深き地に猟師がいるのは当然かもしれないが、神を発見する犬飼という図式は 空海を高野山へ案内した 犬を連れた猟師、狩場明神を想起させる。この狩場明神と犬というのは、世界中に伝わるヴォータン信仰の ”製鉄神と狼”というパターンと酷似しており、実際に高野山では金属加工をしていたのではないかと言われている。 同様に犬飼つまり、犬を連れた猟師が本宮で神を発見するという話は、この地が製鉄に関係していたことを示唆している。 「垂迹縁起」でいうように神が新宮からやってきたというのは、中国、朝鮮をルーツとするたたら製鉄の技術を持つ出雲の熊野人が、 食物と火おこしの神「クシミケ」と共に新宮に入植し、その後熊野川をさかのぼり本宮にたどり着いたと考えることができる。 実際、新宮では船に乗った男達が熊野川をさかのぼった先にある御船島を目指す「御船祭り」が毎秋行われており、 これは正に新宮の熊野人が、本宮の大斎原 にたどり着いた時の模様を再現しているようにも見える。この「熊野権現垂迹縁起」 の話は、新宮から鉱山開発に来た大陸にルーツを持つ人々がこの中州に熊野の神々を祀った可能性がある事を物語るものといえよう。

 つまり、本宮から出る利益を最終的に被る新宮の熊野の神を祀る人々、即ち出雲や大陸(任那か?)からの移民達が、 物流の中継地点、あるいは山中の鉱物資源の開発基地としてこの中州周辺を開拓し、 富をもたらす大本として「本宮」と名付け、敬ったのではないだろうか。そう考えると本宮の主神に貨幣流通以前の富を象徴する 食物、あるいは食物を調理する火を司る神である家津美御子 (ケツミミコ)を祀っているのも納得できる。そこに大和から吉野、高野あるいは田辺経由で新宮、那智に参拝するルートが生まれ、 本来物流の中継地点だった中州に存在した熊野の神々の神社に極楽浄土を体現する仏達を統合して 祭ったと考えるほうが自然な気がする。


熊野本宮大社


本宮大社参道の石段  旧社地から田んぼ沿いの道を戻り、車道を渡って現在の本宮大社へ向かった。杉林の中にある古そうな木造の 鳥居の脇に八咫烏をあしらった大きな幟(のぼり)があり、さらに鳥居をくぐった砂利道からその先の石段が尽きるまで の参道両脇にも奉納された幟がびっしり並んでいた。

 石段の途中に、社殿が並んでいた頃の大斎原を描いた絵があったが、周囲を堀に囲まれた天然の城の様だった。 もしかしたら元々戦略的な 意味もあった土地だったのかもしれない。かつては旧社地へ渡る橋をあえて作らず、足を濡らして渡るのが禊の役目を果たしていた と言う事だが、城としての用途であれば橋を架ける必要はなく、その名残が残ったのだとしたら面白い。


御本社  石段を登りきった先に檜皮葺の門が見え、黒光りした柱が風格を漂わせている。庇の下には、 猿の絵馬と太い注連縄が架かり、白地に黒い菊紋を 大きく染め抜いた垂れ幕が下がっている。せっかくの立派な八脚門だが、両脇に垂れ下がる 「人生を癒す・・・熊野本宮」、 「蘇る日本!!」と太字で書かれた無粋なキャッチコピーが、残念ながら門の威厳を壊していた。

 門を潜ると、蒼々した森を背後に檜皮葺屋根の古色蒼然とした社が立ち並ぶ様は、 境内の白い砂利に対して重量感があり圧倒される。

 向かって左から連棟入母屋造平入りの西御前、春日造の御本社、東御前が並び、西御前にイザナギ、イザナミに那智、速玉の主神 をまとめ、御本社に主神のケツミミコ(スサノオ)、東御前にアマテラスを祭っている。神社の説明にはいずれの建物も熊野権現造と書いてあった が、入母屋造、春日造と何が違うのかはよくわからなかった。


屋根の妻側頂点  これらの建物は明治22年の洪水で流出を免れた江戸時代の社をここに移築したのだそうだが、装飾の少ない質実剛健で 凛とした社殿は気品があり、禅寺のような厳しさすら漂っている。

 譜請した紀伊和歌山十代藩主徳川治宝(はるとみ)は、文化、文政の後期江戸文化絶頂時の 和歌山に、本居宣長など当時の文化人を集め、「紀伊続風土記」の編纂をした「数寄の殿様」として知られた人物で、本人も書画や 茶の湯の造詣が深く、雅楽の古楽器、古楽譜コレクションが高じて舞楽会で自ら舞を舞い、和琴を弾いたというから、 この美しい建物ができたのも頷ける。

 創建当時は恐らく朱が塗られ、もっと煌びやかだったのではないかと思われるが、千木や勝男木等の神社建築の基本スタイルや 菊、巴紋以外の無駄 が一切省かれている建物は、きっと今と同様の気品があった事だろう。

 よく見ると御本社、東御前の妻部分の頂点、左右の破風が到達する檜皮にも巴紋が彫出されているこだわりに 、この建物を造った職人の誇りを感じた。


本宮大社の社殿  建物が美しいので参拝し、しばらく眺めていると、団体客が波のように現れてはお参りをして帰っていく。 この社は今までどれ位の人達を受け入れてきたのだろうか。以前フランスの古いゴシック大聖堂で 来る者を拒まないおおらかな空間 に古い物の寛容さを感じた事がある。石造りの大聖堂は優しく人を包み込み、胎内回帰をしている気がした。 古さから来る寛容さは神社でも同様だが、拝殿はあるものの、祈りの場が基本的に屋外に設定されている神社はより開放的で、 御神体を擁する建物ばかりでなく その周りの木々や生き物達も祈りを受け止めてくれるおおらかさを持っている。 この祈りの場を見ても神林が神社の存在理由そのものであり、 神社建築は人々の想いを受け止めてきた森の信仰の証であるのがよくわかる。


蟻の熊野詣  飽きるまで神社を眺めた後、社務所で牛王譜を買った。ここの牛王譜は大小2種類あり、値段も違う。 パンパンのザックに入れるとしわくちゃになってしまうので、当然のように小さくて安いほうを買った。

 その後、宝物館に行ってみたがあいにく 休みだったので、上って来た石段脇の熊野古道と表示してある古そうな狭い石段を降りた。

 石段の上を蟻が連なってせっせと移動している。これこそまさに「蟻の熊野詣」だ。平安貴族の生まれ変わりがこの蟻達だった ら面白いと思って写真を撮った。この狭い古道脇にも彼岸花が咲いて情緒があった。彼岸花などどこにでもある花 だが、かつて浄土と思われた世界を旅する道々でこの鮮やかな赤い花を見かけると、何かメッセージ でも送られているような気がするから不思議だった。


道から見た大斎原  時計を見るともう少しでバスが来る時間だ。バスで直接今日泊まる川湯温泉に行こうか、急な上り坂が待っているであろう 熊野古道の大日越を歩くか迷ったが、やはり歩ける古道はできるだけ歩きたい気持ちの方が上回った。湯の峰で 乗るバスがなくなったら、その時はまた考えればよい。

 行きにバスで来た車道を川沿いに歩き、途中の交番で大日越の入り口への道と湯の峰までの所要時間を尋ねたら、 親切に教えてくれた。 所要時間は予想通り1時間程だと言っていた。おまわりさんに礼を言い、また車道に戻った。途中、車道から大斎原へ渡れる道が あり、ここには古い鳥居とその脇に「禁殺生穢悪」と書かれた石碑が立っていた。殺生を嫌うのは仏教の影響で、「日本書紀」には 持統天皇が初めて禁猟区を定めた事が書いてある。その後、日本人は明治になるまで魚以外の動物性たんぱく質を口にすることは ほとんど無かったようだ。江戸時代には鶏や兎を食用にしていたと聞くが、実際にはそれらを食べる習慣自体が 根付かなかったようで、 例えば明治はじめに日本を旅したイザベラ・バードは、 食料としてようやく手に入れた老鶏を、 殺すのは可哀そうだからやっぱり返してくれ、と言って来た農民のことを書いている。 神社の旧境内 入り口に仏教の影響を示すこの石碑が立っているのは神仏集合時代の名残なのだろうが、 自然とのバランスを保って生活していた人々はごく自然 に信仰で自然を守る知恵として「禁殺生穢悪」という制度を受け入れたのではないだろうか。明治以前はもしかしたら、 人に対する「自然」という概念自体も現在と比べると希薄だったのかも知れない。


大日越え


大日越えから大斎原を望む  おまわりさんに教えてもらった目印のガソリンスタンドから右へ回り、しばらくすると「熊野古道大日越登山口」と書かれた 看板に簡単なルート図が載っていた。登山口の向かいにあった自動販売機でお茶を買い、血糖値の低下を防ぐ為飴とキャラメルを ポケットに詰め込んでから民家脇の急な石段を登り始めた。

 途中、道から川沿いの大斎原が見えた。確かに川の中州が森のようになっているのは非常に目立ち、 特別な場所にみえる。そこに神が降りてきてもおかしくはない気がした。但しこの森の木々は一度本宮の神官の自邸建設の為、 伐採されており、現在見えるのはその後植えられた杉林だ。熊楠もこの神林を守るべき立場の人間による愚行を嘆いているが、 かつては老樹林が生い茂り、きっと今よりも神々しかったに違いない。

大日越え  道はすぐに杉林に飲み込まれ、周囲の景色は見えなくなった。時折涼しい風が吹いてくるが、重いザックを担いで歩く急坂に 汗が噴出して止まらない。石段はよく整備され、昨日の雨の影響もなく サンダルで十分歩ける。キャラメルと飴を交互に舐めながら急坂を登っていくと月見丘神社に着いた。神社といっても 小屋が2棟建ち、湧き水のそばに小さな石の祠があるだけだ。小屋には注連縄がしてあったが、左側の小屋は 山伏の簡易宿泊施設としても使えそうだった。正面の方形造の建物が大日堂で、 祭りの時のみ本尊の石仏が見られるという。小さな石祠が神社で、 月見丘というくらいだから三体月伝説と関係があるのだろうか。今は木々に囲まれ 月をみるのは難しいだろう。

木漏れ日の古道  そこで汗がひくまで休憩し、再び急な坂道を登り始めた。いつの間にか石段は終わり、 杉の根がむき出しのなだらかな山道になった。木漏れ日が美しい。

 その先の道沿いの木の根が絡みついた自然石に「鼻欠け地蔵」が彫られている。 欠けているのは鼻でなく顔だったが、 素朴なお地蔵さんは何とも微笑ましかった。

古道にキノコ達  湯の峰に向かう下りは、緑のシダや苔、ポコポコ顔を出している色とりどりのキノコ達に歓迎されているようで なかなか楽しい。そういえば平日のせいもあるのかもしれないが人に会わない。もうすぐ夕方だが、 湯の峰から本宮に行く人は歩くとしても午前中に通ってしまうのだろうか。

湯の峰王子から温泉街を望む  のんびり歩いていると人里の気配がしてきた。昔は田んぼか畑だったような開けた場所に出て、右に行くと湯の峰王子だが左に道 がある。行ってみると道が終わったところに小川があり、湧き水が岩の間を通って流れていた。

 先程の開けた場所に戻り、右手のちょっとした丘を登ると、その頂に湯峰王子社と書かれた鳥居と小さな祠があった。丁度 ここから山と山に挟まれた細長い温泉街が見下ろせる。細い川沿いに並んだ温泉街のひなびた感じがとても良い。


湯の峰温泉


つぼ湯の小屋  王子社でお参りして、下の道に降り、公衆浴場の受付で入湯料を払った。世界遺産登録記念の「キャンペーン中」だと 受付のおじさんに記念手ぬぐいを 貰い、荷物がロッカーに入らないので 預かってくれるかと聞くと、蓮向かいの倉庫のような場所を案内してくれた。タオルを荷物から取り出し、日本最古の温泉だという つぼ湯に向かう。つぼ湯は川原の粗末な小屋に石とコンクリートを固めて作った小さな温泉で、一度に2人くらいしか入れない 為、入浴時間制限がある。一人20分という事だったが、まだ4時前だったせいか、誰も入っていなかった。お湯は源泉100% で白濁しており、硫黄臭はそれ程しなかった。置いてあった桶で湯を汲み体にかけると熱い!ここの源泉は90度のお湯が 湧き出しているそうで、湯もみでもしなければそのままでは入れない。もったいないと思ったが、水を足して温度を下げ、 石造りの湯船に浸かった。これがなんともいいお湯で、体にジンジン染み渡るのがよくわかる。このお湯の良さといい、 街の適度にひなびた感じといい、昨年行った新潟の松之山温泉によく似ている。


つぼ湯  のぼせる度に水を被っては浸かり、被っては浸かりするうちに時間がきたので湯から上がった。すっかりのぼせ上がっていたが、 全身脱力したようにリラックスして気持ちがいい。

 ここの公衆浴場は、このつぼ湯と源泉を冷まして入れている内湯があり、つぼ湯の料金で内湯にも入れる。当然両方入る方が料金 も高いが、お湯の質が良い為むしろ得をしたような気がする。受付のおじさんによると、世界遺産に指定されている温泉は世界でもここだけなのだそうだ。

 まだバスには時間もあるし、せっかくなので内湯にも入ってみた。内湯には何人か先客がのんびり浸かっており、浴槽も大きい。 お湯はつぼ湯と違って白濁していなかったが、白い小さな湯の花のような物が漂っている。つぼ湯に比べるとお湯が柔らかいように 感じた。

湯の峰温泉街  先客の若いおにいちゃんと中年のおじさんが湯船に浸かりながらここの温泉水を使って料理をしたら如何に 旨くなるかという話をしている。おにいちゃんは新宮の人だそうで、やはり人懐こそうだ。
「たまにここの水貰って いくんですけど、この水でおかゆさん炊いたらめっちゃ旨いんですわあ。」
 対するおじさんは大阪の人らしい。
「せやろ。けどな、この水で いっぺん湯豆腐してみ、普通の水でずっと煮とると巣になってまうやろ。この水はちゃうで。絶対巣になんぞならへん。 それよりな、木綿でやっても絹みたいにツヤツヤになるんや。一度やってみ。旨いで。」
 おにいちゃんは心から感心したようで、 あくまでお人よしオーラを放ちつつ、
「はあ、そらええ事聞かせてもらいましたあ。今度やってみよ。」
 おじさんは得意げで絶好調である。
「入り口んとこで水売っとんやろ。あんなん金出して買う事あらへん。ちょっとやったらただで分けてくれるで。ただで。 受け付けのおっちゃんに言うてみ、なんやったら言うてやろか。」

 この公衆浴場の入り口手前に井戸があり、有料で温泉水が汲めるようになっていたが、さすが世界に通用する大阪人は したたかである。 おにいちゃんは頼むとも頼まないとも明確な返事をせずに、しきりにおじさんの話に感心しつつ絶妙に話題を変えていき、 おじさんは話題が変わっている事に気付いていないかのようにますます饒舌になっていく。それが 意図的に会話をコントロールしているのではなく自然に会話が転がっていくのだ。聞いていると、可笑しくて噴出しそうになった。

 内湯から上がり、体を少し冷ました後服を着て、受付のおじさんに荷物を預かってもらった礼を言い、
「いやあ、滅茶苦茶いいお湯でした。」
 と感想を言うと、
「ありがとう。」
 とうれしそうに顔を崩して笑っていた。

東光寺


東光寺  公衆浴場の手前、川のすぐそばに寺がある。東光寺と言い、元はこの寺に源泉があったのだという。由来を見ると、昨日行った 補陀洛山寺 の開祖でもある裸形上人が薬師如来の形をした湯の花の周りに庵を結び、それがこの寺になったのだそうで、 本尊の薬師如来の胸から温泉が湧き出していた事から「湯胸」と呼んだのが転じて「湯の峰」という地名になったとある。

 ここは元々熊野古道のメインルートから外れていたらしいが、いつの頃からか湯の峰で温泉に入る事が「湯垢離(ゆごり)」 という禊とされ、ここで心身共に清めた後大日越をして本宮参りをする習慣になったそうだ。今でも本宮大社の例大祭はここで 身を清め、温泉粥を食べてから湯峰王子で神事を行い本宮に向かう「湯昇行事」としてその習慣が残っている。


小栗判官蘇生の地


小栗判官蘇生の地  東光寺の脇に「小栗判官蘇生の地」という立て札と小栗判官の伝説が書いてある説明があった。 この温泉は猿之助のスーパー歌舞伎「オグリ」で有名な小栗判官がこのお湯で病を治したと伝えられ、 小栗はハンセン病の症状をしていた事からハンセン病患者や皮膚病患者がよく湯治に訪れていたそうだ。説明板は 猿之助らが立てたものだが、歴史的資料を基に誠実に調べている姿勢は伝説とはいえ説得力があった。

 小栗判官話は虚実入り混じりどこまで実話なのかわからないが、ハンセン病を患った有名な歴史的人物としては 関が原の戦いで討ち死にした武将、大谷吉継が挙げられるだろう。

 吉継は同郷の石田三成と共に秀吉に取り立てられ出世するが、ハンセン病を患い、病の進行に悩み度々辞任を申し出ている。 しかし、「大谷刑部に百万の兵を与えて戦をさせてみたい。」とまで評価されていた秀吉に逆に励まされ奉行として 豊臣政権の中枢部を担い島津征伐、朝鮮征伐で活躍する。秀吉亡き後 は豊臣家の為、盟友三成に味方して関が原で壮絶な最後を遂げたという。吉継は三成と共に事務方として相当頭の切れた人物だった ようだが、いくら優秀な人物でも病に対する科学的知識が乏しかった時代に、差別することなくその人を評価した秀吉や 三成には敬意を感じる。関が原に挑む時、吉継は崩れた顔を隠す為失明した眼のみ出した緋色の絹袋を頭から被り、 鎧模様を墨で描いた白布をまとい、すでに歩行さえ困難で馬にも乗れない為、家来に担がせた板輿に乗り鬼神のように 戦を指揮したという。

 ハンセン病といえば、つい最近も患者がホテルで宿泊拒否されたニュ−スが流れるなど今だに 誤解や差別が多く腹が立つが、湯の峰では昔からそういった差別もなく受け入れていたようで、宿代に困った患者が作った飴を 同情した村人が買って食べたといった話も残っており、 そんな話に熊野人の温かさを見る思いがする。


夕暮れの温泉街  橋を渡り、バス停で涼みながらバスを待った。橋からは整備された川原に降りられるようになっている。そこには地元の人が 野菜をゆでたり観光客が自分で温泉卵を作る為の湯筒があり、道路向かいの小さな店で生卵を売っていた。

 少しずつ 日が暮れてきた。小さな宿が並ぶ温泉街は人影もまばらで風情がある。アンドレ・マルローが熊野路を旅した時に湯の峰の旅館 「あずま屋」をして「日本の旅館はこうでなければならない。」と言った雰囲気が町全体に漂っている。 こんなに良い所ならば贅沢をしてここに泊まればよかった、 とすでに宿を予約している事を少し後悔した。


川湯温泉


川湯温泉  本宮行きのバスが2本通過した後、予定時間から5分以上遅れてバスが到着した。本宮行きのバスは乗客が多かったが、こちらは まばらだ。行きに通り過ぎた川湯温泉でバスを降りた。宿はバス停の向かいにあり、 受付で声を掛けると宿の人が出てきた。宿泊手続きをして料金を払うと、

「丁度うち今食堂工事中だから食事できないんですよ。もし食事するんならそこ出て右の喫茶店行ってみて。」
 と受付隣の工事 途中の食堂を指差した。
「丁度オフシーズンですからね。(ここの宿を)始めてから古いんですか。」
 と聞くと
「そうなんですよ。結構になってきてね。あちこち直しながらやってるんだけど、そろそろ建替えも考えんといかんな。」
と言っていた。

 泊まる部屋を教えてもらい行ってみると、2人分の先客の荷物が置いてあったが人はいない。 窓から川と、川に架かる橋が見える。自分の荷物を置き、中身を広げて 整理していると一人が戻ってきた。ビールとめはり寿司を持っている。挨拶してどこで買ったのか聞くと、 喫茶店とは別の道沿いの店で買ったと言った。彼と話をしているうちにもう1人も戻ってきた。 こちらは喫茶店で食事をしてきたという。最初の彼は大学院生で新宮からバスでここまで来て、明日は熊野古道中辺路 を歩いて大阪で 一泊した後神奈川の平塚に帰るのだという。後から来た男性は横浜の社会人で休みが取れたので2日かけて 中辺路を歩いて今日本宮参りをしてからここに泊まり、明日は船で瀞峡をまわってから新宮に行く予定だと言った。自分 の事を話すと

「へえ、3人とも関東というのも奇遇ですね。」
 という話から明日自分も歩く予定の中辺路の情報を教えて 貰ったりした。

 食事をどうしようか迷ったが、荷物を軽くする意味もあり、川原で自炊する事にした。 旅館の自動販売機で発泡酒の500ml缶を買い、外はすっかり暗くなっていたので、頭に ヘッドランプをつけて橋を渡り、川原に下りた。

 川原には露天風呂があり、若い男性数人が酒を手にしながら入っていた。川湯温泉は川原を掘るとお湯が湧き出てそのまま温泉 になってしまう所から付けられた地名で、鎌倉時代からの古い温泉地なのだそうだ。湯の峰に比べると温泉街の雰囲気はより 庶民的な感じでひなびた風情とは言い難かったが、かといって豪奢なホテルが立ち並んでいる訳でもないので自分のような バックパッカーには丁度良い。

 露天風呂のそばで自炊する訳にもいかないので川原の端の方まで行き、適当な石に腰を下ろした。対岸の宿から見れば川原で バーベキューでもなく自炊しているのは奇妙な風景だろうなとは思ったが、暗いのでそれ程目立たないだろうとのんびり食事をした。

 食後にコーヒーを飲みながら夜空を見上げると、星が見える。 天の川にたまに流れ星が落ち、よく目を凝らしていると人工衛星が描く軌道まで見えた。

 部屋に戻ると大学院生に
「露天風呂に行ってみませんか。」
 と誘われ、3人でビール片手にさっきの川原に行ってみた。 丁度風呂には誰もおらず、貸切状態で夜空を眺めながらそれぞれの旅話などをした。大学院生は以前練馬のすぐ近所に 住んでいた事が判明し熊野に来て地元話で盛り上がってしまった。

 彼は自分と同様新宮の人達に親切にされ、すっかり気に入った様子で、
「来年はお燈祭りに参加してみようかな。」
 と言っていた。

 風呂とアルコールですっかりのぼせた後、部屋に戻り荷物を整理しながらひとしきり話をして、明朝起きる順に入り口から 布団を敷いて寝た。





Copyright (C) 2005 Namekohouse all rights riserved.