9月7日(火) 那智・新宮

 バスが新宮市内に入った所で目が覚めた。新宮で降りる人は多いらしく、車内はザワザワ している。カーテンの隙間からチラチラ見える外の様子は結構明るく、心配していた雨は 降っていないようだった。

 新宮駅で半分くらいの人が降りただろうか。降りた客は観光客と地元住民半々といったところ だろう。対して終点勝浦温泉まで行く残った客は自分も含めて全員観光客のようだった。 さすがは温泉地。

 新宮を出た後車内で用を足し、昨夜買ったおにぎりを頬張りつつ空いた席の車窓から市内を 眺めた。迫ってくるような山の反対側に海がある。町はその挟まれた狭い地域が海に向かって 開いているようだ。ここの人々は山の圧迫感と海の開放感を無意識に感じながら 暮らしているのだろう。

 海が見え隠れしている内に勝浦温泉に到着した。サイレンが鳴っている。土産物屋の おばちゃんがバスの運転手に「5分くらい前に地震があったのよ。」と話していた。ウーム まだ収まっていなかったかと思いつつそのおばちゃんに紀伊勝浦駅までの道を尋ねると親切 に教えてくれた。

 温泉地に来て温泉に入らずに他へ行く客は珍しいだろうなと思いながら駅へ歩いた。歩いた と言っても10分もかからない距離だ。

 駅前のバス待合所で大門坂までの切符を買い、少し待ってから8時50分発のバスに乗り込む。 朝早い事もあってか乗客は4組程ですいていた。駅を出ると海岸沿いの道を走り、那智駅を経由 した後、山に向かって田園風景の中坂道を上っていく。山の連なりを見ているとなんだか奥多摩 登山に行くような気分になりおかしい。そうこうするうちに大門坂に到着し、降りようとするが 切符が見当たらない。

「確かに買ったんですけど・・・。」
 と言いながら焦って探したのだが 運転手さんは、
「そうですかあ。」
 と、のんびり待ってくれた。他の客まで
「そのポケット じゃないの。」
 と心配してくれ、荷物を引っ繰り返しながら5分近く探しただろうか、途中で 覗いていたガイドブックに挟まっていたのを発見し、ほっとしながらバスを降りた。

大門坂


彼岸花  この道で良いのかなと思いながら車道裏の民家の間を抜けると、斜面に彼岸花が咲いていて 美しい。こんな何気ない風景に旅を実感したりするのだ。後ろから観光バスで来た中高年の 団体客がガイドさんに連れられて賑やかに追い抜いていった。

 「大門坂直進」の標識の先に鳥居が見える。その先の小さな橋を渡った左に元宿屋だった という民家があり、南方熊楠が3年間ここに滞在していたと説明板にあった。 彼の「履歴書」や論文等に那智に住んでいた時の事が書いてあるが、ここの事だったのだ。

 その「履歴書」に、那智は寂しい所で夜によく幻覚や幽霊を見たという話が書いてあり面白い。 どうも彼に見えたのはどちらも人の形をしたものであったようだ。幽霊は地面に対して垂直に 立っているが、幻覚は見る人に対して平行に現れると絵入りで分析しており、 幽霊に珍しい植物や微生物の自生場所を教えてもらった体験談も披露している。 具体例は挙げていないが、植物学者にはしばしばこのような事が起こるのだと言う。 「全く閑寂の地におり、心に世の煩いなきときは、いろいろの不思議な脳力がはたらき出す ものに候。」日本の修験道に限らず東西の宗教者の多くが山で邂逅を得るというのは この様な事なのだろう。

 彼はまた、那智周辺をはじめ熊野全域の森林保護の為、新聞投稿をはじめ政治家、役人、学者 への働きかけや、地元住民の説得に奔走した事でも知られている。那智にある滝に水力発電所 を造る計画もあったそうだ。まるで現代のダム開発や干潟の埋め立てのようではないか。 柳田国男が出した熊楠の書簡集「南方二書」には明治39年に出された「神社合祀令」による 森林乱伐の弊害や付随して私腹を肥やす役人、神主等に対する墳りのみならず、森を通して 育まれた自然、風物、信仰や社会が如何に貴重で素晴らしく有意義であるか が情熱的に述べられている。彼が指摘した事はそのまま世界遺産登録の理由に なっており、自然保護活動の先駆者として熊楠の”先見性”がよく話題にされるが、それは違う。 彼は豊富な知識や経験と広い視野によって物事の本質を見抜き、それを不当に曲げられたり 破壊されるのが我慢ならなかったのだ。評価するなら”先見性”ではなく”本質を見抜く 力”だろう。残念ながら明治以降現在まで続いている脱亜入欧志向と意味の無い アジアコンプレックスにより本質を見抜く事を忘れ、欧米から評価されるまで足元にある 大事なものの価値に 気付かなかったり、その反動で某東京都知事や馬鹿な国会議員のような幼稚なナショナリズムに走ったり 、目先の利益の為今だに安易に文化財破壊、自然破壊が横行する事が多いのは情けない。

手水鉢と石樋  その民家の道を挟んだ向かいに、かつてあった関所の手水鉢と石樋が残っている。 「大門坂」という名前はこの関所の先に門があったことを由来としている。ここで通行税を取っていた そうだが、それよりもその手水鉢の脇に水道の蛇口があり石樋はまだ現役で水を流している事 に驚いた。


左手が大門茶屋  そこから少し行くと先の道を覆うように並木が始まっているのが見え、その手前に 「大門茶屋」がある。ここは古の巡礼装束を貸す事が有名で、平安貴族風の衣装が飾られていた。

 熊楠先生も、自分が住んでいた目と鼻の先を仮装して歩く時代が来るとは夢にも 思わなかったに違いない。

 しかし彼の自然保護活動が無ければ、そんな商売も自分がここに 来る事も無かったと考えると、なかなか感慨深いものがある。



夫婦杉


夫婦杉  石畳の道を並木が覆う入口に樹齢800年を越す「夫婦杉」と呼ばれる1対の杉の巨木が 道を挟んで立っている。現在ではこれが大門代わりといったところだが、実際ここから 熊野古道が始まるのだという気分にさせてくれる。「夫婦」というのは木の雌雄の事 ではなく向かって右側の木の下部に女性器のような窪みがあるからその木を女として、 対する左の木を男としたものだろう。


多富気王子社跡


大樟から多富気王子社跡を望む  鬱蒼とした並木に覆われた道をしばらく行くと古そうな庚申塚に小さな地蔵が立っており、 樟の大木のふもとに「多富気(たふけ)王子社跡」の石碑と説明文があった。ここが中辺路 最後の王子社だったという。多富気とはここから那智の神(滝)に向かって「手向け」た (祈った)事が転じたらしい。社を設けた僧が多富気さんだったからという説もあるそうだが 「手向け」のほうがしっくりくる。社は明治に那智大社境内に移されて無い。今は木々に 囲まれ滝も拝めず、石が苔むしてしっとりした雰囲気を醸し出している。樟の大木には様々な 植物や苔が着生しているのが見え、熊楠がこの森で眼を輝かせながら採集に飛び回っていたのが わかるような気がした。


大樟  今回買ったばかりのデジタルカメラをテストも兼ねて持って来たのだが、どうにも上手く 写らない。値段の割りに高機能な物を買ったと思っているので、手軽に使うには良いカメラの 筈だが、まだ操作に慣れていないのが原因のようだ。色々設定をいじって多富気王子社跡を撮って いるうちに雨が降り出してきた。それほど強い雨ではないので自分が濡れるのは問題無いが、 バックパックにはザックカバーを着けた。


大門坂  カメラばかりいじっていても仕方がないので、雨の中先へ進んだ。木々の枝葉が屋根となり、あまり濡れる事はなかった。写真を撮るには少し 暗いが、雨でしっとりした苔むす石畳の道を歩くのは風情があってなかなか良いものだ。

 先程追い抜かれた団体客は歩くペースがバラバラの様で、途中何人か抜かした。石畳で整備された 1キロ足らずの道のりとは言え、それなりの坂道だ。普段から歩いていないと高齢の人には 結構きついだろう。


 並木が終わり、開けた所に出た。既に雨は上がっており、団体客を先導していたガイドさんが遅れた 人を待っている。人のペースを考えながらまとめるのは大変だろうな、と一人旅の気軽さを実感 したりした。

晴明橋跡


晴明橋跡  柵越しに小さな川が見える。この下は結構急な斜面になっているが、目の前にある のはコンクリートで固められた駐車場で、川の上という実感は無く、その横の道を歩いた。 道の中程に長方形の石が何枚か埋められており、説明文があった。この石は 江戸時代の石橋の部材で、元々ここには晴明橋という橋が架かっていたという。晴明とはあの 陰陽師こと安陪晴明の事で、花山(かざん)法皇が那智で千日修行をした際(990年頃)、この橋の近くに 庵を結んでいたのだそうだ。きっと結界を張るのに良い所だったのだろう。天狗が花山院の修行を邪魔 するので晴明を呼び寄せたのだという。


那智の滝  天狗とは要するに修験者の事で、院は修行の後大変な法力を身に付けたそうだから勝負を挑む修験者 が後を絶たなかったのだろう。「大鏡」、「古事談」などを読むと、花山院は成功と挫折、 狂気と芸術に色がこんがらがったような情熱的でドラマティックな一生を送った人だから、晴明の役は守護と お目付けの両方だったのかもしれない。今は橋というより只の駐車場になっている。


那智の山並み  晴明橋を渡り、石段を上がると車道脇の駐車場に出る。土産物屋が並び賑やかだ。古道 歩きをしない人はここで車を降り、その先の石段から参道を歩いて那智参りをする。 遠くに那智の滝を望み、周りの山々はガスに包まれ幽玄な雰囲気をかもし出している。天気が悪いというのにバスや車で 続々人が降りてくるから、晴れた休日はきっと大変な混雑だろう。


石垣に草達  一休みした後、車道を渡り、狭い参道を登り始めた。一眼レフを持った写真屋の女性が後ろから来る団体さんの写真を 撮っている。遊園地などで観覧車に乗っている間に機械で写真を撮って、降りた時に希望者に売るのと同じやり方だ。 写真を撮っていた女性は団体のおばちゃんに軽くあしらわれていたが、愛想が良いので嫌な感じはしない。 参道脇の壁は石垣のようになっており、苔、マメヅタ、多肉植物が生え、場所によっては秋の花が咲いて 道に色を添えていた。


熊野那智大社


鳥居前の狛犬  土産物屋が途切れてしばらくすると「那智山熊野権現」と書かれた扁額が架かる大鳥居があり、横の手水鉢の上に御祭神として 「熊野夫須美大神(イザナギノミコト)、御子速玉大神(イザナミノミコト)、家都御子大神(スサノオノミコト)他十神」 と書いてある。那智は神武が大和統一の第一歩をしるした場所といわれているので、 この世界を造ったイザナギ、イザナミに木の国の神(紀の国の神)であるスサノオを祭るのも 意味があるのだろう。もうひとつ先の鳥居を潜ると境内だが、その鳥居の前には急な階段が伸びており、 階段手前にいかにも神社を守っていますと言わんばかりの顔つきで狛犬が鎮座していた。


熊野那智大社境内  階段を昇ると境内は山の中にもかかわらずかなり広く開放的だ。鳥居の向かいにある宝物殿に入り、受付のおばちゃんに 声をかけ、チケットを買うと、最初に飾ってある「那智山熊野権現宮曼荼羅」と「牛王符」の解説をしてくれた。 曼荼羅は教育TVの「新日曜美術館」 にも出たのだと得意げに話していた。現代の我々はこれを美術品として見てしまうが、当時は熊野信仰の布教の道具として熊野御師や 比丘尼達が全国へ持って回ったのだという。室町時代の作品だが那智の滝から補陀洛渡海船まで修行や巡礼の活気溢れる様子を 生き生きと描いており、同時代の「洛中洛外図屏風」や「江戸名所図屏風」を彷彿とさせる。

平重盛お手植えの楠  この曼荼羅や鎌倉時代に描かれた境内の図を見ると本殿と八社殿がL字形に並ぶのは同じだが、拝殿が 無かったり、時代によって境内の様子も変わっているようだ。展示品の総数はそれ程多くなかったが、那智経塚からの出土品など 古い時代の信仰を示す興味深い展示品があり充実していた。ゆっくり展示を見て歩いたがその間観光客は誰1人入って来なかった。 受付のおばちゃんは自分が入って来た時、最初全く気付かなかったので普段でも暇なのだろう。


那智大社拝殿  宝物殿を出て、入母屋造り銅拭き屋根の立派な拝殿でお参りした。恐らく修理が終わったばかりなのだろう、朱色の柱が鮮やかだ。 八神殿と本殿は修理中で足場用の柱らしき物がたくさん立っている上、大きな拝殿に隠れて外からはよく見えない。L字形プラン を実際に見たかったので残念だが、八神殿の茅葺屋根に乗る千木(ちぎ)と堅魚木(かつおぎ)の連続は美しい。


大樟の胎内潜り  展望台で景色を眺めると山の稜線が海側に延びていき、山と山の間の谷あいを上って来たのがよくわかる。展望台横には 平重盛お手植えといわれる樟の大木があり、木のうろから胎内潜りができるようになっている。こんな体験をする機会も めったに無いだろうと、 うろ前に立っている鳥居を潜って入ってみた。中は空洞で結構広く、上部のうろから出られるように階段がついており、 外が眺められる。木の中から見る景色は上に張っている枝に守られているようで、不思議な感じがする。胎内とはよく言ったものだ。 しかも、展望台より高い位置から眺めるのでこちらの方が景色が良かった。


八神殿の前に立つ八咫烏  胎内潜りをした後、社務所で「牛王符」を買った。江戸時代は誓紙としてこの裏に証文を書いたという事で、赤穂浪士 がこの熊野牛王符の裏面に血判状をしたためた話は有名だ。 牛王符のデザインは神武をここから大和へ導いた という3本足のカラス「八咫烏(ヤタガラス)」の図案を用いて神文を書いた物で、デフォルメされた烏の形がかわいらしい。

 八咫とは長さの事だが、これは実際の長さというよりも「八」という数字に意味があり、例えば 歴代天皇が受け継ぐ3種の神器「八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)、天叢雲の剣(あめのむらくものつるぎ)、 八咫鏡(やたのかがみ)」の内2つに「八」という数字が使われており、 スサノオが退治したのが「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)」、オオクニヌシノミコト(彼自身「八千矛神(やちほこのかみ) 」という別名を持っている)の兄弟が「八十神(やそがみ)」いたり、よく知られるように八島国(やしまのくに=日本) の神は「八百万(やおよろず)」いる事から「八」は古代中国の「易経」で陰陽の「両義(2)」を「四象(4)」、「八卦(8)」 へと展開した時に 現れる神聖数とされ、「大きな」、「多い」 という意味が転じて「強い」「偉大な」、「神聖な」もの、つまり天皇を象徴する意味が付いたのだろう。 那智大社に「八神殿」があるのも象徴的だ。


展望台から海の方を望む  八咫烏の3本足は土着の熊野 地方の有力者であった「熊野三党」を指しているとも言われる。榎木、宇井、鈴木の姓がそれに当たり、鈴木氏は八咫烏を家紋 としている。ちなみに東京西新宿の高層ビル群の裏に「新宿中央公園」という今ではホームレスの溜まり場 として有名な所があるが、その公園内にある十二社熊野神社は、中野長者「鈴木九朗某」が建てた云々といったことが 「江戸名所図絵」 に載っている。その挿絵を見ると広大な池に滝まであり、池を熊野灘、滝は那智の滝に見立て、まるで「那智山熊野権現宮曼荼羅」 をそのままテーマパークにした所だったようだ。実際公園の周りを歩くと小高い丘に神社があるのが体感でき、ビル群のある 場所は元々東京都の浄水場で、つまりその前は池だった事からそのスケールを想像する事ができる。

 ちなみに熊野では神の使いであるカラスも東京都は完全に害鳥扱いで、毎年12000羽 以上捕獲、つまり殺していると誇らしげに報告している。東京でカラスが増えたのは人の出す生ゴミをエサとして繁殖したもの であり、そもそもの原因は人にあるにもかかわらず、結果でしかないカラスを駆除するのは明らかに本末転倒だ。東京都はそのHPで 捕獲の正当性を主張しているが、あまり説得力のあるものではなく、ゴミ対策が面倒なだけなのではないかと思わせる。


拝殿の奥に見える本殿の千木と鰹木  我が家では 昨年導入した生ゴミ処理機のお陰で生ゴミを出す事は無く、できた肥料でハーブなど育てているが化成肥料に比べると明らかに 丈夫に育つので驚いている上、生ゴミとして処理したはずの土からピーマンが生えてきたりしてなかなか楽しい。自治体によっては 住民ぐるみで生ゴミの再資源化、つまり堆肥化を進め成功しているところもあると聞く。 こういった人の努力で解決できる問題は、烏のせいなどにせず人が解決すべきではないだろうか。

 熊楠は「牛王の名義と烏の俗信」の中で、古代では神聖視された烏が田園開発が始まってから嫌われだし、欧米では絶滅した地域 もある事を揚げ「本邦もご多分に洩れない始末となるだろうが、飛鳥尽きて良弓蔵まる気の毒の至りなり。」と現在の状況を 予測している。


青岸渡寺


青岸渡寺  牛王符を買った後、神社境内から一段下がった場所にある「青岸渡寺(せいがんとじ)」の本堂をお参りした。 ピカピカの那智大社に比べると入母屋造 、桧皮葺の巨大な屋根を持つ古びたお堂は風格が漂っており対照的だ。ここは花山法皇が那智で修行した事を由来として、 西国三十三所巡礼の第一番札所 となっている。本堂は戦国時代、信長に焼き払われた後、巨大建築好きだった秀吉が再建したもので、 桐紋の付いた屋根の頂点から一間向拝に向かう勾配の威圧感は、秀吉の譜請道楽の片鱗を伺わせてくれる。

 桐紋はなんとなく豊臣家のものと思っていたが、本来は天皇家のもので、 後醍醐天皇がこの紋を足利尊氏に下賜した事から将軍家が臣下に与える伝統が生まれ、 足利最後の将軍義昭→信長→秀吉と回ってきたのだと言う。つまり屋根に付いている桐紋はこの寺を焼き払った 信長のものでもあった訳で何とも皮肉だ。

 本堂の中は吹き抜けの広い外陣まで土足で入れるようになっており、巡礼の寺である事を実感させてくれる。その外陣天井には 秀吉の願文が刻まれているという巨大な鰐口が掛けられていた。


如法堂  本堂を出て裏の階段を上ってみた。本堂の裏では若いお坊さんが何か作業をしていた。上にある小さな「如法堂」を覗いてみると、 大黒様が祭ってあり、堂内の天井一面に信者の名が入った赤い提灯が吊るされていて、不思議な世界を作っていた。


 そこから階段を降り、三重塔へ向かう途中の駐車場で人懐こそうなおじちゃんに
「にいちゃん下から歩いてきたんかいな?元気やなあ。 頑張ってや。」
 と声を掛けられた。帽子にポロシャツ、短パン、サンダル履きに蛍光オレンジのカバーをつけた大きな バックパック姿を見て、歩いて上ってきたのだと思ったのだろう。厳密にいえば大門坂から上ってきたので「下から」ではなく 「途中から」なの だが、歩いてきた事に代わりは無いのでまあいいやと思いながら、
「ありがとうございます。」
 と礼を言った。


三重塔と那智の瀧  三重塔の背後に那智の滝が見える。強風で滝の水が吹き流されている。ここらが定番の撮影スポットだが、実際絵になる。 三重塔は先に見た曼荼羅にも描かれているので元々あったものだが、現在の建物は鉄筋コンクリート製でエレベーターまで 付いており、近くで見るとなんだか興ざめしてしまって拝観せずに滝へ向かった。


飛瀧神社 


飛瀧神社  車道と交差した向かいに鳥居があり、その先の石段の坂道を下る。滝へ向かう道は一部に自然石を巧みに配した鎌倉積の舗装も 残っていた。 滝からの水蒸気もあるのだろうか、石についている苔も今までの道にあったものより元気が良い。

 坂を下りきったところが境内で、 平らに舗装された左手に土産物屋が並んでいた。境内にはイーゼルにキャンバスを置き、絵を描いている人がいた。

 瀧に向かった正面に香炉、鳥居があるが、その先に建物が無い事から、眼前に落ちる滝そのものを御神体としている事がわかる。 この滝を 「大巳貴神(オオクニヌシノミコト)」として祭っているのだという。オオクニヌシは「根の堅州国(ねのかたすくに、 地の底の国= 紀伊国)」でスサノオに試練を受けてそれを克服し、刀、弓、琴ついでにスサノオの娘も奪って出雲で国をつくると言う話があり、 これは 神武が那智から紀伊半島を北上して大和に上り、アマテラスから3種の神器を授けられ建国したと言う話を重ねることができる。


那智大瀧  滝の上には注連縄が張られており、3筋の流れが1つにからまって133mを落ちていく。中段あたりから水が崖の岩に 激しく当たっており、下にゴロゴロ転がっている岩は滝が崖を削ってできた事がわかる。



文覚上人が瀧行をした所  熊楠の「南方二書」にはこれらの岩は上流の樹木乱伐の為崩れたもので、これにより滝の3分の1強が埋まってしまったと 書かれている。滝のさらに上流には二の滝、三の滝があり、花山法皇が修行したのは二の滝だったそうだ。 少し下流には転がっている岩が重なってまた小さな滝ができている。普段の滝行 ではここを使うらしい。曼荼羅にも滝行で凍えた文覚上人を制多伽(せいたか)童子と矜羯羅(こんがら)童子が助け出すところが 描いてあった。



滝壺脇の森  せっかくなので、有料だが売店の先から入る御滝壺拝所へ上がった。途中滝の水を飲めるところがあり、白い杯を百円で売っていた。 杯そのものは別に大した物ではないのだが、お猪口やショットグラスが好きなので、記念に貰った。拝所は滝が間近に望め、降りかかる 水しぶきや滝壺の音も含めて迫力がある。

 滝つぼの周囲は巨大な岩だらけだが、滝の脇の岩山は鬱蒼とした森になっていて何とも神秘的だ。土もろくに無いような所によく こんなに木が生えるものだと感心した。ここは那智原始林として国の天然記念物になっており、今夏も珍しい菌類が発見されたと 報道されていた。


 滝を拝んだ後、花の写真など撮りながらバス停まで出たが、まだ時間があるので少し歩いて「滝見寺」に行ってみた。 車道から中国風 のエキゾチックな建物が垣間見えるが門は閉まっており、まるで廃墟のようだ。ガイドブックには無休と書いてあったが 人気が無く、本当に潰れたのだろうかと思わせる。

 もと来た道を戻るのも癪なので、そのまま進んで大門坂から出た駐車場まで行った。腹が減ってきたが、食事をするには時間が無い ので土産物屋でソフトクリームを買い、ついでにバス停の場所を尋ねた。バス停は駐車場から少し先だ。バス停にある熊野交通 の土産物屋で小さく平らな黒石を買った。ミニ盆栽を置くのに丁度よさそうだ。酒にも気が行ったが重く、かさばるので諦めた。 これが旅の終わりだったら遠慮なく買うところなのだが残念だ。


補陀洛山寺


補陀洛山寺の樟  バスでもと来た山すその道を戻った。道沿いの田んぼはもう黄金色になりつつある。

 那智駅でバスを降り、車道を渡ったすぐ裏の「補陀洛山寺(ふだらくせんじ)」に行く。鳥居の脇に「浜の宮王子社跡」の説明 があり、由来や現在の神社と寺が一体であった事が書かれてある。鳥居のすぐ右には根元から2本に分かれて立つ立派な楠があり、 昔は森に囲まれていた事を偲ばせてくれる。


玉石  境内には「神武天皇頓宮跡」の碑の前に玉石が3個置いてあり、補陀洛信仰以前に 海神に関る玉石信仰のあった神域であった事を伺わせる。
 海と玉石に関る話としては、古事記の「火遠理命(ホオリノミコト)」 (海幸彦、山幸彦の話)が有名だ。その話では海神の娘豊玉毘売命(トヨタマビメノミコト)が夫となる山幸に出会った きっかけは、彼が器に入れた「玉」であった 事が言われ、海神が山幸に与えた神通力を持つ物は「潮満珠(しおみつたま)、潮干珠(しおふるたま)」で、 山幸と別れた豊玉毘売が山彦を慕い詠った歌に「赤玉、白玉」の言葉が見える等、要所要所に「玉」を巡る物語が挿入されている。

 古びた連棟造の神社にお参りした後、並びの寺に行った。寺は宝形造りの新しい建物で、本尊の千手観音 は秘仏の為見る事はできないが、護摩壇やその奥に千手観音、不動明王、役行者(えんのぎょうじゃ)のお供である 前鬼、後鬼が飾ってある事から密教や修験道とも深い関りがある事がわかる。

補陀洛渡海船  この寺は、出口を 塞がれた船に乗り、観音浄土を目指して那智海岸から漕ぎ出した捨身行「補陀洛渡海」が有名で、復元された渡海船も実際に海に 浮かべた写真付きで飾ってある。境内には渡海した人々の記録が石碑になって残っているが、この中には僧だけではなく平維盛 の名もある。平家は清盛が後白河法皇と供に度々熊野詣でにきており、一族の信仰が厚かった事を思わせる。

 渡海したのは戦国時代がもっとも多く、つらい時代だったのだろうと思わせるが、太平の江戸時代半ばまで続いており、 恐ろしい事に、いつの間にかこの寺の住職は渡海する事が義務づけられてしまったのだそうだ。それも渡海船から逃げ出した僧を 海に突き落として殺してしまうという事件をきっかけに廃止されたのだという。

 昔は寺から海が見えたのだろうが、今は駅や人工物で全く見えない。

 補陀洛山寺を後にして駅に戻った。さっきは気付かなかったが、なんとこの駅は温泉付きだ。 時間があれば一風呂浴びたいところだが電車の時間がある。 車なら融通が利くが、電車は本数が限られているので諦めて切符を買い、新宮行きの電車を待った。

 海岸沿いを走る電車は開放的で気持ちよく、対岸が見えない海は広がりを感じさせてくれる。前の席では野球帽を斜め に被ってダブッとした服を着た中学生くらいの男の子達がはしゃいでいる。きっと新宮に遊びに行くのだろう。

 車窓から砂浜沿いの堤防の上で若い白人のカップルがのんびりくつろいでいるのが見え、一瞬「ここはイタリアか?」と 錯覚してしまう。何故イタリアなのかは自分でも不明だが、直感的にイメージが出てくるのが可笑しかった。

新宮


 新宮は朝バスから眺めて「小さな町だな」と思ったが、勝浦や那智に比べると随分「都会」だ。 子供達が遊べる場所がそんなにあるとは 思えないが、電車に乗っていた男の子達がはしゃいでいたのがなんとなくわかる気がする。もっとも、あの年頃の子供達は、 友達同士でちょっと出かけて騒いでいるだけでも背伸びした気分で十分楽しいだろう。

 雨は降っていないが雲行きが怪しく、風も出てきた。一先ず予約したホテルへ向かう。当初は速玉大社近くのユースホステルに 泊まる計画だったが、予約の電話を入れたら満室だと断られてしまった。 台風や1昨日からの地震があるので直接行けば、あるいはキャンセルがあったかもしれないと思った が、既にホテルを予約してしまっているので諦めた。

 駅から5分程歩いた所にあるビジネスホテルでチェックインしたが、フロントの対応がなんだかおかしい。どうも 予約が入っていなかったらしい。直接予約が入っていないとは言われなかったが、予約時に対応したスタッフの名を何度も確認された。 いずれにせよ、平日で台風に地震付きだから観光客はほとんどいないだろう。間違っても満室と言う事はあり得ない。結局、 何事も無かったかのように部屋の鍵を受け取ったが、エレベーターに向かう背後で

「予約表に載ってなかったわよ。」
 とスタッフが話す小声が聞こえた。 せめて客に聞こえない様に言ってくれよ、と思いながら部屋に行き、 一息入れた。

 泊まるのに問題がある訳では無いが、部屋の壁は煙草のヤニで黄ばんだクロスが目地から剥がれかかり、掛けられた額入りの プリントの絵は曲がっている。どうせボロなら気楽で値段も安いユースに直接行くべきだったかなと少し後悔したが、 宿目当てのゴージャスな旅をしている 訳ではないし、そもそもそんな旅は自分には退屈だ、と気を取り直してこれから回れそうな所をガイドブックで探した。

 当初は山沿いの道を行く事を考えていたが、時間と天候を考えて逆の海側に向かうコースを歩く事にした。 荷物は部屋に置き、帽子にカメラ、ガイドブックを持ってホテルを出た。

徐福公園


徐福公園  駅からホテルに行く途中にも見えた中国風の色鮮やかな門が目立つ「徐福公園」に行ってみた。徐福とは秦の始皇帝に仕えた高官で、 不老長寿の薬を求めてこの地にたどり着き、そのまま永住したという伝説の人物だ。同様の徐福伝説は日本各地に あるそうで、ここに本当に徐福がたどり着いたかどうかはわからないが、少なくとも海の向こうから進んだ技術を持った 人物が現れて、その地の発展に貢献したという事実はあったのだろう。


徐福公園の門  紀伊半島には黒潮に流されて漂流、漂着、遭難したという 話が古代から現代に至るまで非常に多く、「補陀洛山寺」もインド(=浄土)から漂着した裸形上人が開いたという謂れがあり、 元は望郷の想いから 建てた寺だったのか、とも思う。

 また、熊野の「熊」とは朝鮮建国の王「檀君(だんくん)」の母が元々「熊」だった 事から朝鮮半島から流れてきた人々がいた可能性もあるだろう。現に古代に朝鮮半島からの移住者が多い九州に「熊」 の付く地名が多い。ちなみに高天原(朝鮮?)から降りてきたニニギノミコトが最初に上陸したのは九州であり、その後、神武の代に 紀伊半島南端から 北上して王権を樹立している。その「古事記」の神武東遷譚は徐福伝説と共通項が多い事から徐福=神武説もあるという。

 関係ないかもしれないが、神武が大和攻略の為、一度大阪湾から上陸して失敗し、 その後迂回して紀伊半島南端から山岳地帯を乗り越え敵地に進入する話は、 アフリカ北部からイベリア半島経由で地中海沿いを迂回し、アルプス越えをしてイタリア半島に入り、 ローマ帝国を苦しめたカルタゴの英雄、名将ハンニバルの戦術を想起させ面白い。


徐福と家来の墓  公園は最近 整備されたようで整然としており、江戸時代に建てられたという徐福と7人の家来の墓を中心に不老長寿の薬となる「天台烏薬」 の木が植えられ、 池や説明文、自動説明機などが中国風の建物や塀に囲まれている。

 池の周りでは若いお母さんが小さな子供達を遊ばせていた。


猫のお散歩  徐福公園を出て地図を見ながら熊野川の方へ歩いた。小さな家並みが続く路地を猫がのんびり散歩している。 家並みの多くは老朽化した、恐らく昭和初期から戦後にかけて建てられた長屋割りそのままの建物だ。長屋に並んで、 連続した格子にむしこ窓、低い屋根の典型的な町屋造りの家屋があったりして昔は活気があった事を伺わせる。


阿須賀神社


阿須賀神社鳥居と背後の蓬莱山  路地から路地へ抜けて、もしかして迷ったかなと思っていると、出た道の向かい側に鳥居が立っており、その隣に「阿須賀神社」 と彫られている石柱があった。鳥居の奥にはもう一つ鳥居があり、社殿の裏にお椀を引っ繰り返したような、 いわゆる「神奈備型」のこんもり茂った森が ポコっと落ちている。その形状から「古墳では?」と思ったが違うようだ。「蓬莱山」というらしい。蓬莱山とは中国東方の海上に あるといわれる 神仙郷で、「徐福が蓬莱山に渡る為出航したきり戻ってこなかった」という話が「史記」に出てくる。つまり山の名の由来は徐福が ここを目指して中国から渡ってきた事による。

 神社だけ見ているとわからないのだが、この小山の裏はすぐ熊野川で河口も近く、徐福が上陸した所と 言われても不思議ではないが、このおにぎりのような小山を目指して危険な航海をしてきたかと思うとなんだか可笑しい。 そもそも川沿いの平地に突然小山が出現するのは 不自然な気もするが、それゆえ神が降りる不思議な山として信仰があったのだろう。そこに徐福伝説がからんだのが実際のようで、 神社のすぐ 脇には3回建て替えられた形跡のある弥生時代の竪穴式住居跡があり、祭祀遺跡も出土している。これらの事からこの山は 徐福以前には既に神域とされていた事がわかる。


阿須賀神社拝殿  ただ、新宮の地形は背後に山、右手に川、左手に街道、前方に海となっており、方角は多少 ずれているが、これは陰陽五行道の「北の山に玄武、東の川に青龍、西の道に白虎、南の池に朱雀が棲む」という「四神相応」 に一致する。陰陽五行とは即ち神仙思想の理論的体系化であり、蓬莱山を目指した神仙(陰陽)道の使い手「方士」である徐福が その理論に基づき、この地を選び開拓したとしても不思議ではない。


本殿と稲荷社  徐福は残念ながら伝説の粋を出ないが、実在の人物が似たような場所を切り開いた例として、神奈川の大磯周辺を開拓した 高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)がいる。

 「日本書紀」によると彼は天智天皇四年(665)に高句麗使節として来日した事が記されているが、滞在中に故国が滅亡した為 日本に帰化し、大磯を開拓した。ここは北に丹沢大山、東に相模川、西に東海道、南に相模湾という正に「四神相応」 の地であり、明らかに 陰陽五行道 に基づき選んだ事がわかる。さらに若光が居を構えたのは相模川から少し 西に行った花見川河口付近の、これもおむすび山のような形の高麗山麓だったといわれ、これは阿須賀神社の立地との相似が 認められる。また両山とも古くから神森として保護されていた為貴重な自然が残され、天然記念物に指定されているのも 共通点だ。

徐福之宮  時代は下るが、高麗山は江戸時代に広重の「東海道五十三次」「平塚」にランドマークとして描かれている。 この浮世絵では、高麗山の丸みを帯びた特徴的なフォルムが川沿いから海坊主のようにぬめっと現れ、右の 男性的な岩山である大山と対象を成しており、高麗山右脇から「俺も入れろ」とひょこっと覗く端正な富士山がアクセントとして 描かれている。

 現在高麗山麓には「高来(たかく)神社」があり、その祭りの祝歌では若光の事が 歌われている。土地のスケールは違うが、新宮と大磯が共に大陸から渡ってきた人物により、同じ理論に基づき同様の開発をしていたのだ としたら面白い。

 実際、若光の大磯開拓と同時代に築かれた奈良の都、平城京造営に関しては「続日本紀」の元明天皇、 和銅元年(708)二月十五日の項に、 天皇自ら「平城(なら)の地」が四神相応に合致する事を動機として遷都すると詔下した事が記されており、それに続く長岡京、 平安京そして江戸も陰陽道に基づく都市計画により建設された事が知られている。 都市開発のミクロコスモスとも考えられる住宅庭園に関しても、日本書紀には蘇我馬子の庭の 池中に島(須弥山)を築いた事から「嶋大臣(しまのおおおみ)」と呼ばれたことが書かれ、日本最古の造園書である平安時代の 秘伝書「作庭記」から 江戸時代の一般書「築山庭造伝」にいたるまで「四神相応」を基本とした作庭理論が展開されている。 これらの事から新宮や大磯はその後 実務的な都市開発、造園理論として日本に広まった、陰陽道に基づく開発の初期の例と見る事ができるだろう。


扁額  社殿は切妻屋根の正面に千鳥破風を載せた拝殿の奥に、春日造の本殿、それに流造の稲荷神社、 石造の小さな徐福之宮が並んで建っている。建物は新しい様で、石造の徐福之宮以外はいずれも銅葺屋根に朱塗りの柱が鮮やかだ。


竪穴式住居  神社でお参りした後、隣の竪穴式住居跡を見にいった。住居跡には地面に円が重なるようにレンガが埋めてあり、時代と共に 立て替えられた形跡を残している。その奥 には復元された竪穴式住居が建っており、その生活を想像できた。ここは川辺なので稲作をしていたのだろうか。山も海も近いので 自然に恵まれ、きっと豊かな生活をしていた事だろう。

ビカクシダ  竪穴式住居跡の脇に「蓬莱山の社叢」の説明板があり、熱帯原産の植物が混ざった貴重な樹林である事が書いてある。 森には入れないので、周りの木を 眺めてみると、広葉樹の幹に巨大なビカクシダがちょっと間の抜けた妖怪のように着生している。ビカクシダのような熱帯の着生シダ が元気良く生えているのは、ここが温暖湿潤である事を示しており、蓬莱山が貴重な植物を守っている事も納得できる。


新宮市立歴史民族資料館


 同じ敷地にある「新宮市立歴史民族資料館」の受付で事務所のおじさんに声をかけたが、本を読んでいて気付かない。 もう一度呼ぶがやはり気付いてくれないので、3回目に

「すみません!」
 と大声で怒鳴ると
「ああ。」
 と驚いたようにこちらを向き、急いで眼鏡をかけなおして出てきた。、

 おじさんが チケットを渡してくれた後、あたふたと事務所を出てきて、館内のエアコンを入れて回っていたのが可笑しかった。平日で天気も 悪く、客が来るとは思ってもみなかったようだ。きっと那智大社の宝物殿のように普段から暇なのだろう。

 展示内容はのんびりしたおじさんの態度とは対照的に、阿須賀神社裏の出土品から林業や捕鯨で栄えた昭和期までを辿れる様に なっており充実していた。1階に展示してある神社裏出土品は牛に乗った大威徳明王の懸仏が多く、 神社境内にあった「阿須賀王子」の 説明板に、懸仏を使った平安時代の祭礼の記録が「中右記」にあるという説明と一致する。考えてみれば懸仏は神を表す鏡の裏面に 仏像を刻んでおり、神仏混合、本地垂迹(ほんちすいじゃく:日本の神は仏が変化して現れたのだという説) を実体化した典型的な物だ。この事から、この地(あるいは日本人と言っても良いかも知れない)の信仰の対象が山、神(徐福)、 神仏と時代により変化していった事がわかり面白い。

 2階展示室には熊野信仰や新宮城など平安から江戸時代までの資料、捕鯨や林業といった産業や祭りなどの展示があった。 中でも興味深かった のは熊野川沿いに多くあった「川原家」という釘を使わない折りたたみ式木造家屋で、 川が氾濫すると分解して家ごと避難したのだという。現在では 一軒も残っていないそうだが、現代の家とは全く違う発想で環境に対しており面白い。

祖元禅師徐福祠顕香詩  資料館を出て、神社の参道を戻る途中に「祖元禅師徐福祠顕香詩」という石碑が立っていた。祖元禅師とは北条時宗に招かれて 宋から来た禅僧「無学祖元」の事で、中国から来て日本に骨を埋めるであろう自分と徐福の生涯を重ね合わせて詠んだ詩が書いてある。 無学祖元と言えば、臨済宗仏光派の祖で、ファンである夢窓疎石に繋がる人物が訪れていた事に感慨を覚えた。


徐福上陸の碑


徐福上陸之地より熊野川河口を望む  神社の鳥居を出て川沿いにあるという徐福上陸の碑を見に行こうと神社脇をまっすぐ行ったが、道を間違えたようだ。おまけに雨も 降ってきたので引き返すと神社脇にひょろっとしたおじいちゃんが立っていた。

「徐福はそっちやないで。あんなもんたいしたもんや ないけどな。それよりおにいちゃん、傘貸したろか。写真機濡れてしまうで。」
 と声を掛けられた。傘はともかく徐福の碑はどこか聞くと、
「ああ、そこ曲がってすぐや。ちょっと 待っとって、傘とって来るけ。」
 と言って神社前の道をひょこひょこ戻って行った。

 待っていようか迷ったが、碑はすぐ近くのようなので、 教えられた 道から川沿いの堤防に出た。風が強く、雨もひどくなってきた。熊野川は結構広く、空と川面は不機嫌そうな灰色をしている。 対岸の河口付近には大きな工場があり、海と山に挟まれた平地には蓬莱山のような小山が所々ポコポコ落ちているのが見えた。

 堤防上の歩道を海側に少し行った所に、上部が小さな燈篭になっている「秦徐福上陸之地」と書かれた碑が立っていた。 さっき言われた通り 碑は新しく大した物ではなかったが、写真を撮り、急いで来た道を引き返した。

 さっきの場所におじいちゃんが傘を持って待っていた。
「これもう捨ててもええ傘やけやるわ。駅とか適当なとこで捨ててや。」
 と黄土色のワンタッチ傘を差し出した。

 東京では有り得ない暖かい親切に感動しながら礼を言い傘を受け取ると、おじいちゃんは 神社鳥居の道を挟んだ斜向かいの家に戻り、バルコニーに置いてある椅子に腰掛けた。きっと日がな一日のんびりこうやって 外を眺めているのだろう。


コウホネ  神社から新宮城祉方面へ歩く町並みは、やはり長屋、町屋住まいが並んでおり、家の前に鉢物が雑然と置いてあったりする。 プラスチックの味噌桶水鉢からコウホネの花が首をだしていて美しい。

 新宮城麓の、昔は武家屋敷が並んでいたであろう道を下り、商店街に出た。 商店街は海の町らしく大きな水槽に魚を泳がせている魚屋があったりして、人通りも多く活気があった。


西村記念館


西村伊作邸  「西村記念館」に行きたいのだが地図を見ながら何か変だなと思ったら、既に通り過ぎていたようで、通ってきた途中に 古びた赤い屋根の洋館があったのを思い出した。急いで戻るとやはりその建物が記念館で、白い壁に窓枠やドアが赤く塗られ、 さっき赤い屋根だと思っていたのは、切妻屋根の妻部分全面から庇までグルっと垂れ下がっている赤い板だった。これは「がんぎ」 と呼ばれる紀伊半島の 民家に見られる意匠なのだそうで、屋根や壁の保護に役立つのだろうか、実際の役割はともかく、建物の外観を特徴付ける強い アクセントとなっている。

玄関  半円形の石段を上がり、赤いドアを開け玄関に入るとフローリングの 廊下が伸び、向こう側は庭に続いた扉が開いている。その廊下中央左に階段が奥に向かって2階に続き、その手前の玄関天井に 照明が一つ 下がっている。いきなり玄関から廊下、外と続くプランに「へえ」と思いながら玄関を上がり、脇にある机のノートに記帳して 資料代100円を箱に入れ、パンフレットを取った。右手の扉を開けて中に入ると、そこは応接間になっており、洒落たデザインの 椅子とテーブルが置いてある。壁の下側は青く塗ってあり、壁上部と天井は白く明るさを強調するようになっている。壁や天井 に埋め込まれた 木製の細い桟が幾何学的なリズムを生み出しており、シンメトリックな構成と共にF.L.ライトの影響があったのではないか と思わせるが、そのモダンさにも関らず温かみを感じさせるのは、実際に家族が住んでいた温もりがこの建物に残っているからだろう。 床は板をジグザグに組み合わせた凝った造りの寄木造だ。


応接間  正面の窓から緑が見える。玄関から見えた庭ではなく、ここから見えるのがメインの庭である事に気付いた。応接間の右横は 少し狭い方形の空間になっており、 そこにソファと暖炉がある。応接間の左手には両開きのガラスの入った折戸が開いており、食堂に続いている。戸にガラスが 入っている為 応接間と食堂は戸が閉まっていたとしても実質つながっており、開放的な印象を受ける。実際、来た客は食堂で家族と共に賑やかに もてなされたのだろう。 玄関からの動線が自然だ。食堂は応接間より広く、応接間の暖炉と対象を成す位置に八角柱を縦半分に割った 小さなベイウィンドウが 飛び出していて、ここが単なる食事所ではなく明るく洒落た雰囲気で家族団欒の場所 だった事を思わせる。 きっと子供達は食後この周りで遊んでいたりしたのだろう。 食堂には 直接庭に出られるように戸があり、応接間同様庭に面した窓からの採光で明るい雰囲気を作っている。ここの椅子やテーブル、 ソファーなども洒落たデザインだ。壁には油絵が掛かり、棚には焼き物や資料が飾られている。


応接間より暖炉  この建物を自らの家族の為に設計し、住んでいた西村伊作は、建築家としての顔よりも東京駿河台の文化学院の創立者として 知られている。 部屋に飾られてあったのは 彼の手になる作品やその周辺の資料で、ここが創造の場、そして当時一流の文化人が訪れたサロンであった事がわかる。

ベイウィンドウ  この交流と当時の学校教育に対する疑問から文化学院を創立するのだが、彼の教育に対する考え方の基本は、個人の存在を 肯定し、その能力を伸ばそうとするもので、サラリーマン製造機として歯車に合わせる型にはまった人間を作ろうと機能する 現在の学校教育を考えると、今だに見習わなければならない点が多い気がする。もちろん教育は理想だけでできるもの ではないが、 理想を実現、発展させた西村の気骨と行動力は賞賛されるべきものだ。彼の教育活動は大正デモクラシーという時代の後押しも あった 上での成功だと思うが、戦時中彼の思想や自由な校風を敵視され、学校は閉鎖、彼自身戦争反対と不敬罪の罪で逮捕、収監された時も、 自分の思想を一切曲げず、戦後文化学院を再開したことから、彼の教育活動は時代に乗っただけの表面的なものでなく 信念に基づくもの だったことがわかる。

食堂から応接間  パンフレット裏に晩年の西村の写真があるが、 くわえ煙草で焼き物をつくる姿はスラッとした気品漂う中に、妥協しない厳しさも感じさせる一枚で、きっと魅力ある男だったのだろう と思わせる。


 廊下を挟んだ反対側を覗くと、地下室の入り口の先に管理事務所だろうか、一段上がった所に畳敷きの小さな部屋があり、 TVや書類などがおいてあるが、 きっと昔は女中部屋だったのだろう。 その奥は土間のようで、洗濯機などが置いてあったが、以前は炊事場だったようだ。

書斎兼寝室  廊下から階段を上がる。踊り場に窓があり階段から廊下と2階を明るくしている。階段上にはまた広い踊り場があり、 古民家を思わせる。踊り場の左の部屋はフローリングの床に ベッドやロッキングチェアーが置いてあり、書斎兼寝室だった事を物語る。ここも大きな窓が特徴的だ。この部屋にはキッチンで使っていた のだろうか、天板が緑のタイル張りの食器棚のような家具が置いてあった。ベッドの脇には伊作が設計したという日本で最初の バンガローの模型が飾ってある。階段正面の部屋は客間だったのだろうか、床の間付きの典型的な和室で、その隣がなんと 白いタイル張りの浴室 だった。この時代に住宅の2階に浴室を造るというのはかなり大胆なことだろう。廊下をはさんだ向かい側には和室が2部屋並んで いる。奥の和室には畳にビニールシートが敷いてあった。廊下の突き当たりから屋根裏に続く階段があったが、上らないでください と表示があったので1階に下りた。


階段踊り場窓から  1階で管理人さんに話を聞いたが、この土地は高台にあって水道が引けなかったので地下に井戸を掘り、地下室から 屋根裏にあるタンクに1日分の水を揚げて使っていたと言う事だ。なんとこの家は大正時代にマンションやビルなどの高層建築と 同様の給水システムを使っていたのだ。和室にあったビニールシートは屋根裏から漏水したから敷いてあるのだろう。 これで2階に浴室があった事も納得できた。浴室にはユニットバス用の小さなガス風呂が置かれていたが、元々は昔のホテルに あったような洒落た浴槽が置いてあったという。1階にあったトイレも最初から水洗で、地下室にはボイラーが置かれ、温水で 給湯や暖房の熱源にしていたそうだ。それにしても大正4(1915)年という時代に大胆かつゴージャスな事をしたものだ。 伊作の父は林業家でかなりの 富豪だったようで、アメリカで開発された洗濯機なども出たとたん購入したという。また、この家の木材は自分の 山で採れる杉や檜でなく、より硬い欅を使っている。つまりそれだけ頑丈なのだが、大工にとってはそれだけ手間が 掛かる訳で、そうでなくてもその当時このような家は日本に存在していなかった事を考えると、大工の技量も大したものだと思う。 事実、伊作はお気に入りのお抱え大工を擁しており、文化学院設立を期に東京に移った時もわざわざ東京に連れて行ったのだという。 よく 見ると柱も面取りした上で表に化粧板を張っているという懲りようだが、柱と面材が90年たっても経年変化によるずれが全く 無く、余程腕の良い大工だったのだろうと思わせる。

庭から正面を見る  管理人さんは、老朽化が進んでいるのでどのような保全方法が一番良いのか頭が痛い、と言っていた。建築物の保存に関しては、 この建物に限らず全ての文化財建築について言える事だが、とにかく金がかかる。これが江戸時代の民家だったりすれば役所も 金を出しやすいのだろうが、時代が現代に近づくにつれ、その歴史的価値が認められなくなるのだ。そのもっとも悲惨な例として この数年で破壊されてしまった東京の同潤会アパートメントや交詢社ビルジングが挙げられよう。いずれも多くの人々が破壊に 反対し運動したが、行政は全く保護せずバブル時代そのままの経済の論理だけで破壊され、その後につまらない建物がたつのだ。 1発小説を当てた事があり、都公認の大道芸人制度をつくり、絵画展などをする事で文化人気取りの某東京都知事は、 同潤会アパートについて「それほどの価値がある物とは 思えんね。」と非文化人ぶりをアピールしていた始末で、馬小屋にされていた近代建築の巨匠ル・コルビュジェのサヴォア邸を 文化財として保存したアンドレ・マルローの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいくらいだ。そのサヴォア邸が今、現代建築巡礼の メッカとなっている事を知らないのかと思う。破壊後の建築設計を安藤忠雄にまかせれば良いという問題ではない。

ベイウィンドウ側  西村記念館は幸い文化財として保存は決まっているが、基礎が痛んでいる場合、建物を全て壊して、 改めて新築する方法がとられそうだと 言っていた。管理人さんは、
「使われてきた古い物の風合いは新品じゃ出せないんだよねえ。」
 と心配していたが、全く同感だ。 ましてやこの建物を作った大工達に匹敵する腕を持った人が現在いるのだろうか。

 一般的に日本の大工の腕は昭和初期がピークだったと言われ、 その時期はそのまま紀州林業の最盛期と重なる。つまり伊作が使っていた大工達は本当に日本でもっとも優れた腕を持った 職人達だったかもしれないのだ。

西村記念館入口  この建物は同じ西洋風建築でも貴族や金持ちが、装飾を目的として建てた明治の洋館とは大いに異なり、 一般人が実際の生活をする上での実験的な試みが数多く 見られる、日本の住宅建築の転換点となる建物で、現在の住宅に直接つながる大変貴重な物だ。適切な保存をしてほしいと 願わずにはいられない。

 管理人さんと色々話をした後、最後に庭をぐるっと回らせてもらい、 礼を言うと、
「さて、じゃあ私も終わりにしようかな。」
 と言って奥に入っていった。

 腕時計を見ると、 閉館時間をかなり過ぎていた事に 気付いたが、彼は文句を言う事も無く付き合ってくれていたのだ。


新宮城址

新宮城址から熊野川上流を望む  西村記念館を出た後、裏の道から新宮城祉へ上った。熊野川沿いの小高い丘陵地に石垣が残り、桜が植えられ公園として よく整備された城跡に立つと、熊野灘から 新宮市内、そして山の岩肌に張り付いているような神倉神社まであたりを一望できる。

 天主跡には与謝野寛(鉄幹)の歌碑と丹鶴(たんかく)姫の碑があった。 与謝野夫妻 は西村伊作の友人で、文化学院創立メンバーでもあり、度々新宮を訪れていたようだ。 ここは西村の家のほとんど裏山といっても良い所にあるので、散歩がてら、あるいはピクニック気分で訪れた のだろう。

 もう一方の碑にある丹鶴姫とは源為義の娘で、その弟新宮十郎行家は以仁王の綸旨を携え源氏のほう起を即し、 源平合戦後は義経に味方して頼朝に殺された人物として知られている。その姉の丹鶴姫は、熊野別当行範に嫁いだ後、この場所に東仙寺を開いた ことから、ここは丹鶴城とも呼ばれている。地元には、子供好きだった丹鶴姫が黒い兎を使いにして夕方一人で 遊んでいる子供を招き、翌朝になるとその子は死んでいる、という怖い話が伝わっているそうだ。実際の丹鶴姫は夫が不在中に 急襲してきた軍勢を見事な指揮で退けたといったような武勇談の残る人物で、とても子供をさらうような姫ではなかったように思える。

 ただ、この丹鶴姫伝説は、三島由紀夫が書いた新歌舞伎「鰯賣戀曳網(いわしうりこいのひきあみ)」のヒントになっているようだ。 これは 丹鶴城のお姫様が城下町の鰯売りの 声に釣られて城を抜け出し、道に迷ったところを誘拐され遊女にされてしまうが、最後にその鰯売りの猿源氏とめでたく結ばれる、 というハッピーエンドの明るい狂言で、作家が新宮を訪れたのかどうかは定かではないが、丹鶴城の姫と誘拐、そして主人公に源氏 の名が付くという要素から、 丹鶴姫伝説を容易に連想できる。

 天主跡は高台だけあって風が強い。傘は折れそうだったのでたたんだのだが、帽子は何度も飛ばされそうになった。 雨はほとんど降っていないにもかかわらず、重く湿った空気が台風の接近を教えてくれる。天主跡で写真を撮っていたら カメラのバッテリーが切れたので 川のほうへ降りた。

 城から降りる川の麓には炭の貯蔵庫跡が残っており、炭を船に積む管理を藩が直接していた事実から 紀州備長炭が江戸時代にはここの主要な輸出品だったことがわかる。現在は紀州備長炭といっても、焼き鳥や焼魚に使うと旨いとか、 脱臭効果があるといった程度の認識しかされていないが、当時の炭は現在の石油と同様の主要なエネルギーだったと考えると、その重要性 を理解できる。この城で炭の輸出管理をしていたという事は、当然価格操作もできたわけで、おそらく現代のOPEC のようなこともしていたのだろう。そう考えると、徳川家が紀州に御三家を配していた意味が分かる気がする。

 川沿いで湿気が多く、蚊がまとわりついてくるので貯蔵庫跡はゆっくり見ずに通り過ぎ、 堤防の上に出てから再び市内に戻った。

 堤防を降りた所で地元のおばあちゃんに挨拶され、
「風が強いねえ。」
 と 話しかけられた。

 新宮の人はのんびりしていて人懐こいのだ。温暖な気候がそうさせるのだろうか、同じ関西訛りでも 大阪のように攻撃的ではなく、京都のような柔らかさを感じさせ、皆親切で暖かい。

 ホテルに帰る途中にあったスーパーで秋刀魚寿司とコロッケを買い、駅近くの酒屋で500ml缶の発泡酒を買った。 この酒屋も「すみません。」と何度呼んでも奥から出てこないのんびりさで、商売は大丈夫なのかと人事ながら心配になるが、 きっとこの町はこうして回っているのだろう。なんとなく、こうゆう時間の流れが心地よくて、なんだか嬉しくなってしまった。

 ホテルに戻り、テレビのニュースを見ながらさっき買った秋刀魚寿司とコロッケを肴に酒を飲んで夕食にした。台風は 神戸に上陸した後、日本海側 に抜けそうだが、紀伊半島でも十津川村では住民が自主避難したと伝えている。窓を開けると、湿った強い風が入り込み、 外では殴りつけるような激しい雨が降っている。 それでもとりあえず明日以降は晴れそうなのでほっとして シャワーを浴び、翌日の用意をして寝た。夜半地震があり、一度目が覚めたがそのままベッドから出る事も無く朝まで寝てしまった。




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