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富士山日帰り登頂記 2005年8月27日(土)/登山記 8月27日(土) 登山記
綾瀬

 綾瀬駅の改札をくぐって時計を見ると、丁度0時を過ぎたところだった。改札のまわりには待ち合わせ と思しき人達が数人立っている。友人のYに到着の電話をして待っていると、酔客が駅員にろれつの 回らない口調で何事か文句を言っている。ここからの電車はあるがこの線は接続が悪いので自宅に 帰る路線の終電には間に合わないとケチをつけているようだった。こんなわけの分からない事で 絡まれる駅員も気の毒だが、当の駅員の対応はなれたもので 適当にいなしていた。ここに来る途中の山手線でも酔っ払いが座席で伸びている 横で、何事もないかのようにスーツ姿の若いサラリーマンが携帯電話のゲームに熱中していたが、 週末の東京の風景とはこんなものなのかもしれない。

 しばらく待っていると携帯電話が鳴り、Yが目の前の道路に停めた車にいるというので 乗せてもらった。

「いやあ、家は道は分かりにくいし徒歩20分かかるんですよねえ。15分ならまだ許せますけど 20分はきついですよ。」

 Yは高校時代の同級生だが、家業の自動車整備工場の跡取りで責任ある仕事をしているせいか 最近敬語で話すようになった。別に私に気を使っている訳ではなく、自然にそういう 言葉がでてくるようだ。彼とは高校卒業後山登りをするようになり、 共に行った北アルプスの槍ヶ岳〜奥穂高岳縦走登山は、 私にとって最も思い出深い登山となっている。

 彼は昨夜の台風で工場の警報装置が一晩中鳴っていた為 ほとんど寝ずに今日も仕事にいったのだという。私も昨晩は徹夜で昼間3時間ほど寝ただけだった ので似たようなものだが、Yは今日の登山準備もまだ万全ではないらしく、 途中コンビニに寄って電池を買っていた。

 Yは実家裏のマンションで一人暮らしをしているのだが、案内されたのは実家のほうだった。 玄関を入るとYの母親が待っていた。挨拶をして部屋に通されると麦茶とお菓子を出してくれた。 つきっ放しの大型TVでは80年代アイドルが昔の歌を歌っている。今回の登山の主催者の Aさんとはここで1時頃待ち合わせ、その後参加者を拾いながら高速に向かう予定なのだが、 予定時間になっても連絡がない。YがAさんに電話すると、まだ自宅でしばらくかかりそうだと いう。結局予定から1時間近く遅れてAさんから連絡が入り、Yと共に車に乗せてもらった。

 予定では9人で行くはずだったが、私達以外は

「全員ドタキャン。」

 とのことで、Aさん夫妻とY、そして私の4人で富士山に向かうことになった。Yが ”アジアン・ビューティー”と呼ぶAさんの奥さん が買い物をしたいというので途中のドンキホーテに寄った。 深夜にもかかわらず結構客がいる。 最近の放火事件で有名になったドンキホーテには初めて入ったが、日用品からキャンプ用品まで 実に何でもある。天井までうず高く積まれた 大量の商品に驚いたが、”圧縮陳列”とはよく言ったものだ。どうやらAさんの奥さんは 帽子を持ってくるのを忘れていたらしく、つば広の麦藁帽子を買っていた。

 買い物をした後首都高速から東名道に入り、御殿場インターに向かう。Aさんは中古車卸 会社を自分で立ち上げ、偶然Yと何かの講習で知り合って付き合いが始まったのだという。 もちろん私はAさんとは初対面だ。

「なんちゃって社長ですけどね。」

 と本人は謙遜するが、会話の端々には効率よく現実的処理を選択する頭の回転の良さが見えてくる。 が、残念ながらYも私も睡眠不足もあって彼の小気味良い会話の相手には全くなれなかった。彼は 以前長靴で富士登山をした経験があるというので驚いたが、さすがにきつかったと言っていた。 もっとも、 学生時代には浅草の自宅から自転車で奥多摩まで行きバーベキューをしていたというつわもの だと聞けば、長靴登山も理解できなくも無い。

富士山スカイライン

 週末とはいえ、さすがに深夜の高速道路は空いていた。途中、秦野で休憩を取ったが、御殿場 まではあっという間だ。そのまま御殿場市内から表示に従って走ると富士宮口の表示が現れてくる。 Aさんの道路地図を見るために私がザックからヘッドランプを出したのを見て、Yも自分のランプ を取り出した。しかし、コンビニで買った新しい電池を入れても点灯しない。 原因は電池切れでは無いようだ。 見せてもらうと、電池接触部分の金具が腐食している。聞けば何年も電池を入れっぱなしに していたのだという。電池の液漏れが原因のようだ。もっとも、ヘッドランプは 予定時間に登山口に着いた 場合必要なだけなので、計画より遅れている今回の登山には実質必要ないだろう。

 市内を抜けると 道は徐々に傾斜を増していき、富士山の裾野を上っているのがわかる。自衛隊駐屯地を過ぎ、 新五合目に近づくにつれ路駐している車が現れてきた。新五合目駐車場が満車の時は路駐 しなければならないと聞いていたが、これがまさにその状態のようだ。駐車場に着いて のろのろと 空きスペースを探すがやはり満車で、後続の車は駐車場を諦めて下っていく。と、Aさんが

「ここ停めちゃまずいですかねえ。」

 と障害が置いてある斜線スペースを見て言った。奥さんが、

「いいんじゃない。」

 と言うと、Aさんは車を降りて障害を脇にどかせ、そのままそこに車を停めてしまった。

富士宮口駐車場

 ここまで運転してきたAさんは、

「僕はいつ出発してもいいですよ。」

 と言うが、登山口とはいえ我々はすでに日本アルプス並みの標高2400m地点にいる 。私は富士登山は 初めてだが、参照したガイドブックやウェブサイトには例外なく登山口に到着したら 1時間休憩して高度に体を慣らせと書いてあったし、Aさんの休憩も必要だと思って、

「1時間休憩して6時になったら出発しましょう。」

 と提案した。Aさんはそれに対して異議を唱えることなく車の後ろで横になり、私とYはセーター を着て車外に出た。

 真夏とはいえ外は風が強く、寒い。丁度日の出の時刻らしくうっすらと空が白んできている。 河口湖口や須走口なら同じ5合目からでも ご来光が拝めるようだが、ここ富士宮口は新七合目以上でないと直接日の出を見ることは できない。

 Aさんは、

「ご来光を拝むのにはあんまり良くない場所ですね。」

 と言っていたが、それでも既に雲の上のここで、雲海が刻々と朝焼けに染まっていく様子 を見ているとそれなりの感動を覚える。

 正面の雲海には愛鷹山が浮かび、振り返ると山頂には傘雲がかかっている。傘雲がかかると 天気が不安定だと何かで読んだような気がするが、台風一過の今日はそれほど天気が 崩れることはあるまいと楽観的な気分で朝の風景を楽しんでいた。

 ひとしきり朝焼けを楽しんだ後、車に置いたザックから朝食セットを取り出した。 ブルドーザー置き場のコンクリート壁を風除けに、コッヘルで湯を沸かしてコーヒーを入れ、 パンとチーズをかじって朝食にした。Aさん夫妻は車内で朝食を取っている。彼らは昨年11月に 結婚したばかりの新婚さんなので、当然のことだが仲が良い。Yに言わせるとA氏は面食いで絶対 結婚などできないと思っていたのだそうだが、奥さんに出会ってからは、

「早かったっすよねえ!」

 というほどのスピードであれよあれよという間に結婚までこぎつけたのだという。

 朝食を取っている間にも下界から続々と車がやってきては駐車をあきらめて下っていく。 中には事情を良く知っているのか送迎だけの車もあり、人だけ下ろして下っていくものもあった。私とYはいわゆる登山 の装備をしているのだが、Tシャツに短パン、そしてスニーカーという ほとんど観光気分の格好をしている若者が多いのに驚かされる。そして彼らはブルドーザー置き場 で小便をすませてから出発するのだ。最悪なのは、この駐車場の警備員の老人が、

「トイレは遠いからそこでしてきな。」

 と、そういった行為を助長していることだ。ここにはまだかろうじて植物が 生えてはいるが、当然生きられる生物は限定されており、大量のヒトのし尿は分解しきれない だろう。そんな事を知らずとも、こんなところで放尿するのが非常識なことくらい わかりそうなものだ。毎朝こんな光景がここで繰り返されていることを考えるとぞっとする。

 朝食を取った後、体をほぐしていたら6時になった。車を覘くと、Aさんは再び横になって 休んでいる。深夜に運転させて疲れているのに悪いとは思ったが、

「そろそろ出発しましょう。」

 と声を掛けた。Aさんはもぞもぞと起き出したが、さすがに眠そうだ。 5分程してAさん夫妻は車外に出てきたが、奥さんが買った 麦藁帽子には紐がついておらず風で飛ばされそうになっていた。Aさんがタオルで結んであげて なんとか固定し、それから登山口に向かって歩き始めた。

 登山口の向かいには大きな売店兼休憩所がある。さっきからスピーカーでレストランや 杖の宣伝をしきりにしていたが、ここで売っているのだ。杖は買っても記念になるか とは思ったが、邪魔といえば邪魔でもあるのでそれはやめ、トイレに寄ってから

「まだ元気なうちに写真とりましょう。」

 と記念写真を撮った。

富士宮口新五合目

 登山道の入り口にはコースの概略を示した看板と「富士山表口五合目標高2400m」 の表示板がある。そこからハイマツに囲まれた道を抜けると広々とした風景が広がる。 この標高ならば当然かもしれないが、所々植物が生えているだけの礫が転がる山肌は登山口 としては異様なほど殺風景で、単独でそびえるこの山の環境の厳しさを感じさせてくれる。 それでも岩肌にタヌキランが着生し、崩れやすい火山礫にはオンタデが たくましく根を下ろしている。 強風にゆれるタヌキランの写真を撮ろうと風の止むのを待つため にAさん夫妻とYには先に行ってもらったのだが、結局風がやむことは無かった。

 先行する 3人を追って少し早いピッチで歩くと、心なしか息が苦しく感じる。傾斜がきついこともあるが 、さすがに標高2400mを越えると酸素が薄い事を体感できるのだ。暑がりのYは、まだ出発した ばかりだというのに防寒着を脱ぐため、途中で立ち止まっていた。Aさん夫妻はその先を順調に 歩いている。息を弾ませて彼らに追いつき、先を見ると山小屋が見える。もう6合目だ。 山小屋に近づくと、その先には黒いこぶのような盛り上がりが山から突き出しているのが見えた。
新六合目

 六合目の”雲海荘”のテラスで休憩しながら腕時計の高度計を見ると既に100m上ってきている。 富士山の登頂ルートは4つあるが、この富士宮口コースが最短距離で登頂できる為、今回の ような日帰り登山にはもっとも適している。しかし、最短距離で高度を稼ぐということは、 それだけ他のルートに比べてきつい登りだということでもある。Aさんの奥さんはまだ ケロッとした顔をしているが、男3人は既に息が弾んでいる。Aさんは、

「歩き始めて2分でヤバイと思いましたよ。」

 と、感想を漏らしていた。それでも少し体を休ませると息が整い、楽になるのがわかる。

「あれは何て言うんですかね。」

 Aさんが山小屋の向こうに見える黒いこぶのようなかたまりを見ながら尋ねた。

「あれは宝永山といって、江戸時代の噴火でできた山らしいですよ。」

 宝永四年(1707)におきたM8.7の”宝永地震”の49日後におきた富士山の噴火は、江戸での 目撃記録や降灰記録も残っている。富士山の火山活動としては最も新しいものだが、現在は この宝永山まで登山ルートが延びており、富士宮口と御殿場口の寄り道コースとなっている。


 牧野富太郎は、このこぶのような宝永山が富士山の美しい景観を台無しにしているので、 もし自分が大金持ちだったら、削り落として江戸時代の噴火の痕跡を 無くしたい、と言っている。

 野の花と共に生きたというイメージが強い この偉大な植物学者が自然の火山活動でできた火口を”富士の美観”の為無くしたい、 というのには驚かされる。同時代に 生き、牧野と交流もあった南方熊楠が日本で最初の環境保護運動と いわれる”神社合祀反対運動”を行ったことに比べると、この価値感の違いは対照的だといわざるを得ない。 これは、世界を放浪した 南方が、西洋で確立した近代科学的分析手法で自然を見つめたのに対し、日本を出ることの なかった牧野は、日本的情緒で 自然を見ていたという違いだと思われる。南方が東洋的視点の重要性を指摘し、牧野が若い頃 西洋かぶれだったことを考えれば、両者の根本的な姿勢の違いには皮肉なものを感じる。 この二人は、いずれも既成の学校教育から 逸脱し、独学の学者として明治から昭和にかけて 現れた天才だが、それだけに強烈な個性の持ち主であったため、相容れない部分もあった のだろう。南方は牧野を評価していたようだが、牧野は粘菌などという動物とも植物とも わからないものを研究し、学会にも属さない南方をあまり快く思っていなかったようだ。

 6合目を出発すると、男3人はすぐに元気なAさんの奥さんに引き離された。その男3人も、Yは寝不足からか既に足が動かず、私は 写真を撮りながらマイペース、Aさんは我々2人と奥さんの間を取りながら、と実にバラバラだ。それにしてもホイホイ急斜面を 登って行くAさんの奥さんは息一つ切らしていない。細くて華奢に見えるので、出発前は登山経験の無さそうな彼女のペースに 合わせなければと思っていたのだが、こちらが彼女のペースに全く付いていけない。A氏は、

「いやあ、まだ若いから。」

 と、我々に対する気遣いとも、彼女に対する負け惜しみともとれるような口調で言うが、 良く聞けば彼女は高校時代”和製ジョイナー”の 異名を持つスプリンターとして鳴らし、青梅マラソンも完走した持久力を持つバリバリの 体育会系だというので驚いた。 日頃ろくに運動もせず ぐうたらしている私が追いつけないのは当然なわけだ。

 登り始めてからすぐに4人の距離が開いてきたため、Aさんが気を使って奥さんを 立ち止まらせ、すでにグロッキーなYが追いつくのを待って休憩にしてくれた。

「こないだ”あるある(大辞典)”で疲労回復にはリコピンがいいって言ってましたよ。」

 とAさんがリュックからミニトマトのパックを出して勧めてくれた。口に含むとジューシーな実からほのかな酸味がして 旨い。リコピンが効くのかどうかはしらないが、トマトや柑橘系の果物を山で食べるととても美味しく感じるという のは、やはり何かしら疲労回復効果のある成分を含んでいるということなのだろう。

 のんびり休んでいると、後続の登山客に次々抜かれていく。まだ朝早いのに下山客も結構いる。 五合目の駐車場が満車だったので、早い時間に登頂を始めた人が結構多いのだろうとは 思ったが、かなりの人が切れ目無く下りてくる。登山客は若者、外国人、小学生くらい の子供を連れた家族連れが多く、3,000m級の山としてはTシャツ、短パン、スニーカー といったような異例の軽装をした人が目立つ。中には

「楽勝〜っ!」

 と、叫びながら登山道を外れて瓦礫をガラガラ崩し、駆け下りる若者もいて非常に危ない。

 昨年登った修験の聖山、山上ヶ岳はいまだに宗教上の伝統を理由に女人禁制をしいており、 今の時代にあえて女人禁制を続けることの必然性に疑問を感じたが、江戸時代まで同様に 修験の山として 女人禁制を敷いていた富士山のこの現状と比べると、21世紀の女人禁制もあながち無意味 ではないのではないかと思えてくる。もっとも、江戸時代も中期以降になると、 富士講という独特の富士山信仰が盛んになり、女性信者の富士参詣熱に押されて 裏道から山頂まで登らせることもあったようだ。

 もちろん、少なくとも見ている限りでは女性の方がマナーが良いことが示すとおり、 富士山の登山客のマナーの悪さは、女性が入山 することが理由ではない。夏の 二ヶ月だけで毎年20万人が登っているというデータが示すように、 五合目まで通ってしまった自動車道路のお陰で観光地化し、あまりにも簡単に登山できる ようになってしまったことが原因だ。もっとも、我々もこの道路の恩恵に あやかっているので、あまり大きな事は言えない。 しかし、文政八年(1825)の『隔掻録(かくそうろく)』には 「上へ登ると屎(くそ)だらけて穢い山でござる」とあるように、江戸時代にはすでに 登山客のし尿による環境汚染が述べられており、環境問題が叫ばれる現在でも そこかしこに転がるゴミやし尿の問題を考えると、 積極的な入山制限が必要なのではないかと思えてくる。

 エベレストや富士山の清掃登山で有名な野口健は、富士山に入山料制度を導入して レンジャーの常駐やゴミの取り締まりなどの管理をするべきだと言っている。この野口の提案 と働きかけをきっかけにして、今年(2005)から山梨県ではたった2名ではあるが、 ”富士山レンジャー”が活動 を開始している。この地方自治体の軽快なフットワークとは対照的に、 環境庁はかつて尾瀬有料化案が出た時に猛反発を受けたことを引き合いに出し、 富士山の入山料制導入には「前例が無い」 と消極的なのだという。しかし、 昨年”紀伊半島の霊場と参詣道”の一部として世界遺産登録された山上ヶ岳と比べれば、 同様に世界遺産登録を目指す富士山が現状のままで良いとはとても思えない。 少なくとも紀伊半島の世界遺産エリアを歩いた時には、 様々なところで 地元の人々が環境保全をしている誠実な努力の跡を垣間見ることができたが、富士山の現状は あまりにもひどい。過去に富士山を世界遺産に、と言う声が上がった時、あまりの汚さと 山小屋の利権丸出しの態度にあきれたユネスコに却下された、 という話を聞いたことがあるが、実際に現実を目の当たりにすると、 それも当然という気がする。

 再び急な山道を登り始めると、自動的に4人がバラバラになってくる。Yは以前空手を やっていたこともあり、私より余程体力があると思っていたのだが、足が全く動かない。 少し歩いては休み、歩いては休みしている。Aさんは途中で待っていてくれたが、Aさんの奥さんが 孤立するのはあまりよくないので、

「あまり僕らを気にしなくても良いですよ。」

 と言って先行してもらった。紺碧の空にそびえる山頂には傘雲がかかり、それが まるでUFOのように左から右へぐるぐる回転しているのが見える。Yと私は、 まるで国会中継で見た牛歩のような足取りで7合目に向かった。

新七合目

 新七合目の御来光山荘につくと、一足先に到着していたAさんが、携帯でなにやら話している。

「Yさん達が遅れてるんだから待ってなきゃ駄目でしょ。勝手に一人で先行って。」

 どうやら、我々があまりに遅かった為、Aさんも置いて先に行ってしまった奥さんに 電話をしているらしい。気を使ってもらって悪いなあと思いつつ、

「僕らに気ぃ使わんでいいですよ。こちらのペースに合わさずに先行っちゃってください。」

 と言うと、Aさんは、

「これからそっちに行くから、とにかくそこで待ってなさい。」

 と言って電話を切った。

 私はともかく、Yはここで少し長めの休憩を取らなければとても動き出せそうになかったので 、Aさんには上で待つ奥さんを追ってもらった。動き出せば少しは調子が戻るかと 思っていたYは、どうやら本当にグロッキーらしく、ぐったりしている。せめて血糖値の低下 を防ぐ為、持っていたあんぱんを勧めたが、食欲は全く無いようだ。食欲が無いというのは 既に軽い高山病なのかもしれない。ともかくチョコレートを食べさせて長い休憩を取った。 牛歩のようなスピードで歩いてきたので、予定よりかなり遅れているのだろう、と思って 計画表を見たら、意外にも移動時間はほぼ予定通りだった。山岳地図の予定タイムは通常長め にとってあることが多いが、富士山のそれもそうらしい。このペ−スで良ければ思ったほど 遅れずに山頂に到着できるかもしれない。そのことをYに話すと、 彼も少し元気が出てきたようだった。

 この御来光山荘は、富士宮口ルートで御来光が拝める最も低い位置にある。 テラスから登ってきた方を見下ろすと、雲海から顔を出している愛鷹山からさっき横に 見ていた宝永山まで富士の裾野に沿って、もこもこと隆起した小さな山が連なっているのが わかる。富士山は単独でそびえる優美な姿から、最初から単体で発生した山だと 思ってしまうが、もともと30〜40万年前に向こうに見える愛鷹火山と小御嶽火山が爆発し 2,400m級の山塊を作った後、8〜5万年前に古富士火山が爆発。そして1万年前から 新富士火山が活動をはじめ、山頂からどろどろと溶岩を流しながら 小御嶽火山と古富士火山を飲み込むようにして成長し、平安中期くらいまでかけて 現在の姿になった のだという。つまり、富士山は二つの火山を土台にして成立している。富士火山はその後も 400〜500年周期で活動を繰り返し、1,707(宝永4)年におきた最も新しい活動でできたのが 、宝永山だ。そう考えると、愛鷹山から宝永山までもこもこと連なっている山塊は、 富士山の土台になりそこなった山々で、逆に言えばこの足元にはあのような山々が埋まっている のだということがよくわかる。

 御来光山荘を出発したが、やはり歩くペースは上がらない。私も少しピッチを上げて歩くと 呼吸が苦しくなるので牛歩程度が丁度良かった。Yは単に足が動かないだけでなく、 さっきからしきりに目を気にして余計に歩くペースが遅くなっている。 空気が乾燥し、地面を覆う植物もあまり無い為、 下山客の足元から舞うほこりがコンタクトレンズを付けた目に入って痛いようだ。 コンタクトを外せないか訊くと、外すとほとんど見えないのでかえって危ないという。 ガイドブック等にもほこりや眼鏡のことは書いていなかったのでサングラスを持ってこなかった のだが、こんなことなら持ってくればよかった。Yも仕事でゴーグルを使うので、 持ってくればよかったと言っている。そんなことを話しているうちに、山小屋に着いた。

元祖七合目

 意外に短時間で八合目に付いたのかと思ったのだが、どうやらここは元祖七合目と いうらしい。

「なんだよ〜。」

 とYは言っていたが、私も同感だった。 ここに到着した登山客の多くも同じことを言っている。とりあえず ここでも休憩したのだが、Yはしきりに目をこすってつらそうだ。 コンタクトを外して洗えないかと聞いてみたが、落とす危険性があるので嫌だという。 おまけに携帯電話に仕事の電話までかかってくる始末だったのだが、 仕事の話になるとさすがにしっかりしている。跡取りは大変だ。

 元祖七合目を出発すると、山肌には赤っぽい礫が転がっている。鉄が含まれているのだろうか。 自殺の名所として有名な青木ヶ原樹海は方位磁石が利かないそうだが、やはり溶岩に含まれる 鉄が原因だという。登山口からだいぶ高度を増し、植物が減ってきたこともあって、まるで 別の星にいるような気分になる。

 さっきよりさらに遅いペースで休み休み歩いていると、遠くで雷のような音が聞こえてきた。 以前北アルプス登山中、地震が発生した時に同様の音がしたのでもしやと思ったが、 後ろから来た中年男性が、

「自衛隊の演習です。」

 と、慣れたもんだという口調で言いながら我々を抜かしていった。

 演習場ははるか雲海の下にあり、方向も違うので見えないが、 幌に包まれたブルドーザーが登山道に沿って蛇行する”ブルドーザー道”を ゆっくり登ってくるのが見えた。 この道は富士山頂に測候所を建設する時に御殿場口に造られたのが最初だそうだが、 運搬を任されたのが荷揚げで生計を立てていた強力組合と馬方組合だった為、 そのまま富士山の観光地化に伴って各山小屋にも物資を供給する道を整備 してブルドーザーを使い続けているのだそうだ。他の山では通常山小屋の荷物をペリコプターで運ぶことが多いようだが、 富士山は日本一の高さを誇ることもあり、気流がみだれやすく危険で効率が悪い為ブルドーザー を使うようになったようだ。

 元祖七合目から上の道沿いには、赤土の間に今まであまり見なかった溶岩の岩屋が 点在している。恐らく火口に近づくにつれて、噴火時の重い落下物や流れ出した 溶岩の塊が増えてくるのだろう。富士山で修行した行者の中にはこのような岩屋にこもった 人もいたのかもしれない。 岩塊もあって、遠目で見ると殺風景さが増してきたように思えるが、そうした岩から 水が滴り落ち、植物や苔が結構生えているのには驚いた。 溶け出した地表下の永久凍土が岩を伝って雫となって滴り落ち、植物を育てているのだ。

 殺風景で気分転換もできないと思っていたここで、短い夏を謳歌するように 岩にへばりついて懸命に花を咲かせている植物達を見ていると、励まされているような気分 になる。しかし、Yは目が痛いこともあってそれどころではないようだった。

 上を見ると、八合目の山小屋と、その先に鳥居が見える。これがなかなか近づいてこない。 ここら辺りになると、我々と似たり寄ったりのペースで歩いている人も結構いて、なんとなく 安心はするが、だからといって楽になるわけではなかった。

 明らかに歩いている時間より休んでいる時間の方が長かったが、それでも登った分だけ 八合目の山小屋が近づいてくる。山小屋の下はかなり急角度の斜面だが、もう少しと思うと 足取りも軽く感じる。しかし、その山小屋の足元に錆びた缶が幾つも転がっているのを 見て愕然としてしまった。

八合目

 ようやく八合目に到着すると、Yが、

「鏡なんて持ってないっすよねえ?」

 と聞いてきた。目の状態を見たいらしい。鏡はないが鍋蓋が丁度鏡代わりになるので 貸すと、ペットボトルの水で目を洗い始めた。小屋に入ってコンタクトをはずしたほうが 良いのではないかと言うと、

「いい、いい。大丈夫。」

 と強がる。しかし、目を洗っても楽になっていないように見えるので、 ここにある診療所で診て もらったほうが良くないかと提案すると、やはり遠慮する。こんなところで意地を張ってどうするのか と思ったが、言うことをきかないので仕方が無い。そのまま少し長めの休憩を取って、再び 歩き始めた。

 八合目から登りに入るところに”山頂まであと2時間”と書かれた立て札があって希望を 持たせてくれる。しかし、この八合目に到着した時点で既に予定時間を大幅に遅れている。 この調子ではこのままさらに遅れてしまいそうなので、看板の文句はあまり 当てにはできなさそうだった。

 八合目の山小屋から少し登ったところには、下からも見えた白木の鳥居が立っている。 富士山に限らず登山で有名な山は、ほぼ間違いなく修験の行者が修行しており、 富士山も江戸時代までは聖山として信仰を集めていた。東京の神社などに 今でも残る富士塚は、江戸の庶民の富士信仰が篤かった事を物語る。しかし、明治の 神道国教化政策により、神仏集合の形態をとる修験道は排斥され、二派で勢力を競っていた 富士修験もそれによりすたれていき、神道化した浅間神社としてしか残っていない。

 もともと富士山の八合目から先は、神仏の領域であるとして、山頂にある富士山本宮 浅間大社奥宮 の境内だったが、明治の廃仏毀釈で国有化されている。 しかし、神社側がおこした裁判で1957年に国が敗訴した為、登山道と測候所以外の 土地所有権は神社側に返還されている。その証がこの鳥居なのだろうか。 修験道は基本的に地域に密着した 民間信仰の色合いが強い ため、明治の弾圧以降一部の地域を除いては廃れてしまったところが多いようだ。 その修験道とは別の形に姿を変えていった富士講も現在は生きた信仰としてはほとんど 残っていない。 「江戸は広くて八百八町、八百八町に八百八講。」といわれた江戸の熱狂的な富士信仰を 思えば少しは 信仰の痕跡が残っていても良さそうなものだが、五合目からここまでこの鳥居以外に 何もそういったものを目にしなかったのは少し寂しい気がする。ただ、 享保十八年(1733)の『冨嶽乃記』には、すでに富士宮口中腹の八幡堂は崩れ、 無人の山小屋や石室が多い事が書かれている。富士山の西側に 位置するこの富士宮口は、冨士信仰の盛んだった江戸から来るには遠く、登山道も急峻な為、 当時から既にさびれ始めていたようだ。

 相変わらず少し行っては止まり、少し行っては止まりつつ進んでいたが、 休みながら空を見上げてみると、その青さに随分天空に近づいたような気になる。古の人々も きっとここは神に近い世界だと感じて、八合目以上を神域としたのだろう。実際、 白く浮かぶ月や、たまに上空を通過する旅客機は、地上で見るより大きく見える気がする。 旅客機といえば昭和三七年(1966)にはイギリスのBOAC機が富士山の引き起こす 乱気流に巻き込まれて 空中分解し、乗員乗客124名全員死亡という悲惨な事故があったのだそうだ。 当時この乱気流の存在は知られておらず、原因の特定までに1年3ヶ月かかったという。

 月が大きく見えるのは単なる目の錯覚なのだろうが、明らかに空気が少ないここは、 太陽の光 が地上より多く降り注ぎ、周囲の色をはっきり見せてくれているのがわかる。当然、紫外線も 強くなってきているため、無防備な首筋が次第にジリジリしてきた。Yは相変わらず目をこすり、 立ち止まりながら登っている為、すれ違う人々に

「きっとこの人は登るのが辛くて泣いているのに違いない。」

 と、勘違いされて、それとなく顔を覘かれていた。

 鳥居を過ぎてえっちらおっちら登っていくと、先に二本の柱だけとなった鳥居が立っていた。 近づくと、柱のひび割れに刺さった賽銭が、人が手を触れるわけでもないのに 時折、

「チャリーン、チャリーン」

 とはじけて飛んでいく。 ひび割れた白木の柱 だと乾燥により木が収縮して、挟まったコインがはじかれてしまうのだろう。 柱に賽銭を挟むのも初めて見たが、その賽銭が柱から飛んでいくのも初めて見た。 こんな不思議な現象は、恐らく富士山ならではのものだろう。

 「さあ、元気をだしてがんばろう!山頂まで90分」と人の気も知らないように書かれた 看板を目にしながら、間違ってもあと90分では山頂にたどり着けない自分達の体力の無さに 幻滅しつつ先に進む。さすがにここまでくると我々と同様バテバテの人達がかなり増えてくる が、面白いことに老若男女を問わず皆あまり不平を言わずに弱い者を助けながら 登ってくる姿が目に付く。その中には小さな子供達も結構いるのだが、彼らも不平を言わず、 けなげに親に付いて行く。中にはバテている親を懸命にリードする子供もいて、こうやって親子共々 困難に立ち向かっている姿を見ていると、すでにこれは修験道の修行と同種のものに なっていることに気付かされる。むろん我々も人の事を言っている余裕なぞからきし無かったが、 八合目から上の世界が必然的に修業の場と化しているのを見るのは面白かった。

 九合目が見えるここまでくると、ゆっくり数分歩くだけで息が上がってくる。ほとんど 進まないような歩みなのに、まるでマラソンをしているような呼吸をしなければならない。 風景も緑の全く無い世界に変わり、人が列をなして歩いていなければ本当に別の星に いるかのようだった。

九合目

 なんとか九合目に着いたのだが、すでに1時になっている。Yは目が腫れあがり、苦しそうだ。 時間も時間なので頂上を諦める事も考えなければならないが、とりあえず昼食をとった上で 判断する事にした。山小屋の横の岩を削ったくぼみが丁度良さそうな場所だったので、 そこに荷物を降ろした。Yは座り込むなり、ペットボトルの水で再び目を洗い始めた。昼食セット を出しながらしばらく様子を見ていたら、初老の下山客が我々のいる場所の奥に入り、 岩の前で立小便をし始めた。格好からすると登山慣れしていそうに見えたが、 この山に来る人は一体どうなっているのだ。山小屋ではトイレに200円払わなければならない ところがほとんどだが、それが惜しくて食事の仕度をしている目の前で放尿したのだろうか。 あっけにとられてその男性には何も言えなかったが、我慢できなかったのだろうか。 しかもここの山小屋のトイレは無料だった。

 Yの様子があまりにもつらそうだったので、山小屋のお兄ちゃんに サングラスかゴーグルが無いか訊くと、

「売ってません。」

 と、つっけんどんに答えてプイと向こうに行ってしまった。富士山の山小屋のアルバイト は態度が悪いと聞いていたが、こういうことなのだろう。まあ、バイトのお兄ちゃんの 態度を云々しても仕方の無い事なのだが、他の山の山小屋に比べると山が好きでここに来た という人の比率が明らかに低い事がわかる。きっと観光地化した山では、 経営する側も自然に商売気が先に立ってしまうのだろう。もちろん、本当に富士山の魅力に 取り付かれ、夏の間家族を置いてここに働きに来る人もいるそうだから、全員の態度が悪いと いうわけではない。

 荷物の場所に戻ると、Yはコンタクトをはずして鍋蓋に入れた水で洗っている。さっきは外すと落とす かもしれないと言っていたが、さすがにつらいのだろう。両目にコンタクトを入れなおすと、

「あ〜すっきりした〜。」

 と、大分楽になったような顔で言っていた。

 昼食を作るために湯を沸かしたいのだが、何故か私のコッヘルは着火しない。 仕方が無いのでYのそれを借りた。Yはコッヘルと ガスボンベは持ってきたのに鍋を忘れるという間抜けなことをして、 駐車場から出発する時

「Yさん、それ置いていったほうがいいんじゃないですか?重いでしょう。」

 と、Aさんに合理的な提案をされていたが、ザックから出すのが面倒だったのかそのまま 持ってきていたため結果的に役に立った。

 楽になったとはいえYは相変わらず食欲が無く、私もここに来て頭痛がしてきた。 歩く振動で頭がズキズキする。まるで二日酔いのような痛みで、 高山病の別名を”山酔い”というが、正に言い得て妙だ。

 山小屋とその周辺では丁度我々 と同じように食事をしている人が多いためか、匂いに釣られてハエやハチなどの昆虫が飛んでくる。 恐らくこの虫達は本来ここにいるはずのない生き物だが、山頂の測候所ではネズミやヤマネ、 モモンガ、イノシシ、シカにアナグマなど同様にこの高度には住めないはずの動物達が やってきたことが報告されている。一般的に山小屋周辺は、土壌が安定し、水分や有機物が多い ので植物が生育しやすい。そのため、こういった昆虫や動物も寄ってくるのだろう。 山小屋はそれ自体が環境破壊をしているとも言えるものだが、 同時に上に書いた理由から植生帯を引き上げる ポイントにもなっている。富士山でも中腹に生えるオンタデが年々その植生高度を上昇させている事 が分かっているが、 人の衣服や靴に付着した種から繁殖した、いわゆる雑草と呼ばれる下界の植物の存在も 報告されており、自生種の存在を脅かすのでは ないかと危惧されている。但し、富士山は平安時代に現在の形が成立した比較的新しい 独立峰で環境が厳しいため、他の火山に比べると植生帯の成熟が遅く、固有種と呼べるものは ないそうだ。 実際、富士山頂付近の植生は、南極のそれと極めて似ている のだそうだが、ここ数年で永久凍土の下限が100m上昇したというデータが示すように、 ここも地球温暖化とは無縁ではない。結局、人が定住しているわけでもないここでも 直接、間接を問わずヒトの影響を大きく受けているのだ。

 1時間たっぷり休憩して用を足した後、出発した。下山も考えたが、Yはコンタクトを洗って 調子が良くなったようだし、さっきYの携帯にAさんが心配して電話を かけてくれていた。Aさん夫妻は既に山頂にいるようだ。富士山でもアンテナのあるドコモなら 問題なく通話できて便利だが、他社携帯を使っているYのそれは電波が悪く、 Aさんとの会話はすぐ切れてしまって細かい打ち合わせはできなかった。 私のPHSは当然のようにアンテナすら立っていない。Aさん夫妻はそのまま山頂で我々を 待ってくれているようなので、登らないわけには行かない。それに私もYもここまで来たのなら頂上まで 行ってみたいという欲がでてきていた。しかし、大幅に予定時間を遅れているため、 すでに九合目では登山客より下山客のほうが多い。 この分だと山頂にあるピークの剣ヶ峰は、あきらめなければならないかもしれない。休憩して 少しは体が動くようになったが、酸素の薄さが変わるわけではないので相変わらずすぐに息が 上がる。

 砂礫に岩が転がる風景に次の鳥居が見えてきた。森の中を歩く登山と違い、このような 殺風景な中を歩いていると、細かい目標物を設定することができないので気分的にも疲れてくるが、 途中にこういった鳥居があるのはありがたい。人の多さに辟易しながら、結局こういった 人の痕跡がないと物足りなさを感じてしまうというのも我ながら現金なものだ。

 富士山への人のかかわりがいつ頃からなのかは、あまりはっきりとはしないが、 激しい噴火を繰り返していたこの山は、 太古から霊山として崇められていたと思われる。伝説も含めた具体的な記録は、 中国で記された『義楚六帖』(954)に 秦の始皇帝の為に不死の薬を探していた徐福が、 富士山を蓬莱山(伝説の神仙峡の山)として訪れ(B.C.210?)、定住した話が出てくる。 この徐福は 司馬遷の『史記』(B.C.91)にも”徐フツ”として登場しているが、『史記』には 「大鮫に阻まれて蓬莱にたどり着けない。」と偽ったというところまでしか書かれていない。 実際に徐福が日本に来たのかどうかはともかくとして、 日本には各地に徐福上陸伝説が残っている。しかし、徐福が日本のどこかに上陸したと いうよりは、恐らくそれらの伝説地には以前大陸から 進んだ技術や文化を持ち込んだ人々が渡来した歴史があり、彼らの代名詞として中国の正史に 残る”秦の徐福”という名が使われ、語り継がれてきたと解釈したほうが良いようだ。実際、 『義楚六帖』にはその子孫が”秦氏”を 名乗ったとあるから、朝鮮渡来系の秦氏が”秦の徐福”にそのルーツを こじつけようとした話が中国に逆輸出されたと見るのが妥当だと思われる。 ただ、昨年訪れた和歌山県新宮市にも徐福伝説が伝えられていたが、 そこにあったおむすび山の様な蓬莱山と比べれば、”富士”が”不死” につながるということも含めてこちらの方が中国から目指す目標としてはふさわしい気もする。

 日本に残る富士山の記録では、和銅六年(713)に編纂を命じられた『常陸 国風土記』の”筑波郡”の項に、神祖(みおや)の尊(イザナギ?)が各地の子供達を訪れた際、 駿河の国福慈(ふじ)の岳(やま)で日が暮れたので宿を請うたところ、新嘗の祭りなので無理だと 断られ、「お前の住む山は常に雪に覆われ、寒さで人も登らず誰もお供えをする ことがないだろう。」と呪った話が出てくる。この話は筑波山との比較の中で出てくるが、 少なくとも関東に大和朝廷が進出したころには、まだ人を拒絶する厳しい山と 見られていたことがわかる。

 延久元年(1069)の『聖徳太子絵伝』には 推古天皇六年(598)に聖徳太子が愛馬の黒駒で 雲中から富士山頂に降り立ったという伝説が描かれ、 延暦六年(787)の『日本霊異記』には讒言で文武天皇三年(699)に伊豆に流された修験道の祖 ”役優婆塞(えんのうばそく=役行者小角)”が夜間駿河の富士山で修業していた話が 書かれている。深田久弥の『日本百名山』(1964)には、これが富士山初登頂かつ世界記録だと マルセル・クルツの『世界登頂年代記』にも 記され、この記録が1523年まで保たれたと少し誇らしげに書いている。富士登山伝説に限らず、 役行者と 聖徳太子の伝説は非常に似通ったものが多い為、同一人物だったのではないかという 説まであるが、それぞれの伝説が後世に混ざったというのが実際のようだ。ただ、聖徳太子 の黒駒は、”甲斐の黒駒”だったといわれており、富士山を望む甲斐の国では古くから 朝廷に馬を寄進していたことが知られている。馬は4世紀後半に朝鮮半島からもたらされた とされており、 「駒」=「高麗」という名はその事を体現していると思われる。 実際に山梨県中道町の”車山北遺跡”と 甲府市の”塩部遺跡”からは4世紀後半の馬歯が出土しており、甲斐の国が日本に最初の 馬をもたらした人々が住んだ地域ではないかと考えられている。聖徳太子は ”厩戸皇子”という名や、甲斐の黒駒で斑鳩から飛鳥に通っていたと言われる ように馬と縁が深い。恐らく聖徳太子の富士登山譚は、愛馬の出身地と 役行者の富士登山伝説が後世混同されたものだと思われる。

 また、大同二年(807)には空海が登頂して石仏を勧進したという伝説も伝わっている。 その前年に20年の予定を2年で切り上げて唐留学から帰ってきたばかりの空海は、 九州、大宰府の観世音寺で朝廷の許しを待ちながら資料整理をしていたとされており、 山岳修業を是としていた空海であってもわざわざ九州から駿河の富士山まで来る理由も 余裕もなかったのではないかと思われる。実はこの 大同二年には朝廷から派遣された勅使により現在の富士吉田市にある新倉浅間神社で鎮火祭が 行われ、富士五湖周辺に修験系寺社が数多く建設されたことが分かっている。実際に浜名湖 畔にある館山寺(かんざんじ)は弘仁元年(810)弘法大師創建と伝えられ、お大師様お手製 の”穴大師”と呼ばれる石仏が残っている。これらの寺社の出現は、ここに当時最先端の 教義を持つ修験系密教僧達が大挙して押し寄せたことを物語っており、地元民は山岳を闊歩し、 護摩を焚きながら加持祈祷をする彼らの姿にきっと驚いたに違いない。 恐らくそういった驚きが 後に弘法大師空海という名に吸収され、伝説となったのだと思われる。実際に役行者や空海が 登頂したのかどうかはともかくとして、少なくとも貞観十二年(870)に 都良香(みやこのよしか)が書いた最初の富士山エッセー『富士山記』には行った者でなければ 分からない具体的な火口の様子が描かれている。これは当時既に富士山頂に達していた 密教系山岳修行者がいたことを示唆しており、このエッセーは彼らから聞いた話を基に書かれた のではないかといわれている。

 これら修行者しか登頂していない頃、まだ 富士山は頻繁に噴火を繰り返しており、彼らの修業はそれこそ命がけだったのではないかと 思われる。実際の古代の噴火記録としては、 『続日本紀』 天応元年(781)に噴火?の降灰で木の葉が萎れた記述があり、『日本紀略』には 延暦一九年(800)と二一年の噴火で東海道の足柄路が埋まった為、迂回路として 箱根路を造ったとある。 『日本三代実録』には貞観六年(864)の大噴火で麓の湖が埋まったと書かれている。 この貞観の噴火で 埋まって出来たのが現在の青木ヶ原樹海であり、さらに当時”せの海”と呼ばれていた湖が 分断されて現在の西湖と精進湖ができている。

 また、万葉集から西行にいたる平安後期まで、歌には山頂から 噴煙が常に上がっていることが詠まれ、それが恋する「燃えるおもい」を表現する 定型となっている。『竹取物語』(900頃)では月に帰るかぐや姫が、帝に別れの手紙と 不死の薬を届けたところ、恋に絶望した帝が天に最も近い山で手紙と薬を焼かせた為、 その山を「ふじの山とは名づけける。その煙、いまだ雲の中へ立ち上るとぞ、言い伝えたる。」 と書かれている。

 この『竹取物語』の名称由来譚はとてもロマンティックだが、”フジ”という名は、最初に 文献に出てくる8世紀から変わらない。これは、この名称がかなり古くから使われ、 一般化していたことを 示している。密教では金剛界、胎蔵界という世界の二つの原理が一体になったことを ”金胎不二”というが、その思想や名称が現れたのは9世紀であり、平安時代の密教系修行者 によって付けられたのではないことがわかる。実はこの”フジ”という名称は、この山周辺に 住んでいた縄文人が呼んでいた名称だったのではないかといわれている。というのも縄文人の 直系の子孫にあたると見られているアイヌの言葉に”フチ”という単語があり、単体では ”おばあちゃん”という意味だが、神を表す”カムイ”を付けて”カムイ・フチ” とすると、”火の山の女神”という意味に転ずるのだ。富士山と似たような地勢を持つ 活火山、北海道駒ケ岳の麓には”鷲の木5遺跡(約4000年前)”と呼ばれる縄文時代の環状列石 (ストーンサークル)が発見されており、縄文人が富士山と同様の 荒ぶる火山を信仰対象にしていたことが窺える。また、実際に富士山を望む伊豆半島中央部には ”上白岩遺跡”という環状列石を含む縄文時代の巨大集落跡が見つかっており、その目的 を考えると興味深い。 ちなみに江戸時代に浅間神社の主神となった ”木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)”は、『古事記』に 産屋に火を放って出産したというエピソードが描かれている。この神話は古モンゴロイドである インドネシア系の、つまり縄文人である隼人族の神話が変化したものだといわれており、 富士山の名前やそこに祀られる神が縄文人の文化をルーツとするのだとしたら面白い。

 登山史に話を戻すと、平安後期には火山活動が沈静化に向かい、 鎌倉時代に頂上の噴煙も無くなるにつれ 具体的な登山記録が現れてくる。現在知る事のできる確実な富士登頂記録は、 平安末期の『本朝世紀』の久安五年(1149)の項に書かれている。 「富士山人と号する駿河の国の上人、末代が富士山 に数百回登り、山頂に仏閣を建て、大日堂と名づけた。」とするものだ。末代が 密教で宇宙そのものとされる大日如来を祀っていることから、彼も密教系修行者で ある事が分かるが、それがきっかけとなって室町期に一般人の信仰登山が行われるように なり、勧進を促す”富士参詣曼荼羅”もこのころ製作されている。 ちなみに現在の登山道はこのころ整備されたものが母体となっている。 戦国時代には北条早雲や武田(信虎?)のような武将達が武運長久を祈って登り、 修験者、長谷川角行が江戸期の 富士講の先鞭をつけている。

 この長谷川角行(1541〜1646)という人物は、役行者のお告げで富士山麓の”人穴”と呼ばれる 溶岩洞窟にこもって14cm角の棒に乗り、爪先立ちでの千日修業中に衆生救済の呪文を感得した後、 元亀元年(1572) 冨士登頂を果たし、その後126回(128回説もある)富士登山を行っている。彼は 不眠の行51年半とか、断食300日を行い人穴で106歳で亡くなったというような かなり怪しい伝説を持つ人物であるが、彼は衆生救済の呪文を記した ”御身抜”と呼ばれる護符を売り、現世利益 に即した祈祷中心の教義が当時の人々に受け、冨士信仰を諸国に 広めている。当時こういった怪しい修験者の 祈祷は、何も角行だけでなく全国の修験者により行われていたようだが、 角行の場合は関東平野から見える富士山に目を付け、新興都市江戸で布教活動を行った事が 当たったようだ。そもそも江戸の都市計画には陰陽五行道の”四神相応”が応用されている ことが知られており、その”玄武(北)”に富士山を対応させていると言われる。実際、 浮世絵や『江戸名所図会』等で江戸の背景に富士山が描かれる様を見るまでも無く、 現在の東京にも ”富士見坂””富士見台””富士見野”という地名が数多く残っており、 江戸から良く見えた富士山 は人々に何かしらの力を感じさせていたのだろう。 その後、角行6代目の弟子、食行身禄(じきぎょうみろく:1671〜1733)が、その教義を 「正直、慈悲、情け、堪忍、不足、中道、柔和」を心がけ、家業にいそしめば 特別の修業や祈祷は必要ないと説き、日々の精進で「みろくの世」が実現する と唱えた。その身禄が吉田口の烏帽子磐で断食、入定すると 江戸に熱狂的な 冨士信仰が巻き起こり、「八百屋町に八百八講」といわれ、明治の登山家ウェストンに 「冨士登山クラブ」とも揶揄された富士講が組織化されている。 しかし、後に肥大化した富士講を恐れた幕府に度々弾圧され、嘉永二年(1849)には禁止 令が出されている。

 その後、幕末の万延元年(1864)にはイギリス公使オールコックが外国人として初登頂を敢行し、 攘夷志士に命を付けねらわれたという話が残っている。明治になると廃仏稀釈により 一時日本人の富士登山は衰退したようだが、欧米人により スポーツあるいはレジャーとしての登山が行われるようになる。 その外国人の多くが、横浜港に入港する際に見る富士山の美しさを記しており、 それがそのまま彼らの 登山への情熱とつながっていったようだ。例えばイザベラ・バード(1831〜1904)は、 横浜港から初めて見た富士山を「これほど荘厳で孤高の山を見たことがない。」と記し、 ブルーノ・タウト(1880〜1946)は「富士山はこの意味で山々の王である。 それがまったく特異に見えるのは 、一片の陸地もそこに考えられないような厚い雲の上に忽然としてその頂上を現す時である。 この独特の姿でそれは私達の眼前に初めて現れたのであった。」と、 この初めて見た時の衝撃から日本の造園や絵画に見られる美的価値感を分析している。 いまでも欧米では日本を紹介する時、富士山を 象徴として使う事が多いと聞くと、いまだに「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」から 抜け出せない 日本のイメージに苦笑を禁じ得ない。しかし、明治以降の日本の教育では明らかに 富士山を国体の象徴、つまり国家国民の精神的統一を象徴する教材として使われており、 現代の我々にも何となくそういう印象が残っていることを考えれば、 外国人が富士山を日本の象徴とするのもやむをえないのかもしれない。

 見上げると、ようやく近づいてきた山頂の山小屋でAさんが手を振っている。やはり 待っていてくれたのだ。悪いなあとは思ったが、2人共限界なので歩く速度は上がらない。 頂上付近の山肌は、ここが月面だと言われてもおかしくないほどグレーと赤茶色の岩が転がる 殺風景な世界だ。遠くから富士山を見ると、山頂付近のひだが頂上への求心力を 増して美しいが、実際に間近でそのひだを見ると、ただの崩れかけた溶岩の塊となっているため 、遠目とのギャップの激しさに少し驚かされる。


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